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    <title>インテリジェンス</title>
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    <description>当ブログは、あまり有名ではないが、読んで非常に面白く・為になる書籍をジャンル別にご紹介し、さらにニュース批評をお届けしております。ご紹介には、アフィリエイト商品リンクを使用しておりますが、ご心配の場合は、お近くの書店等でご確認下さい。こちらからご購入して頂かなくとも、お読み頂ければお気に召す書籍は必ずあると思っております。書籍は例え時が経過しても、読む事によって息を吹き返し、様々な説を知る事によって、人生を知的に楽しく過ごす最高の道具だと思っております。是非に真面目な方のみ、当ブログをお使い下さい。</description>
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    <itunes:author>管理人</itunes:author>
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      <title>日本海軍の爆弾～大西瀧治郎の合理主義精神　著者／兵頭 二十八</title>
      <pubDate>Tue, 03 Jan 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>《大正３年、一隻の水上機母艦から発進した貧弱な水上機が中国・山東省の青島にあるドイツ軍の艦艇に爆弾を投じた。</description>
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《大正３年、一隻の水上機母艦から発進した貧弱な水上機が中国・山東省の青島にあるドイツ軍の艦艇に爆弾を投じた。<a name="more"></a>我が日本国が初めて行った航空作戦であり、空襲である。しかし、数多の名機やエース・パイロットが華々しく活躍し、散華する大規模な消耗戦を展開していた欧州大陸の空での戦いに比べれば、それはあまりにもささやかな出来事に過ぎなかった。大国ロシアに勝利し、世界の強国に仲間入りしたとはいっても、当時の日本は後発の近代国家であり、工業力と技術力は欧米に遥かに及ばないのが現実だった。しかし、それから僅か２７年後の昭和１６(１９４１)年１２月８日。六隻の航空母艦を中心とする日本海軍の航空部隊は、ハワイのオアフ島を拠点とするアメリカ太平洋艦隊の戦艦群を潰滅させ、さらにマレー半島沖にてイギリス東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスという二隻の戦艦を、航空機の攻撃だけで撃沈し、かつて遥かに仰ぎ見るほど強大な存在だった米英二大海軍に戦いを挑み、約３年８ヶ月の死闘を展開することになった。特に空母対空母の戦いという、互いに相手の艦隊の姿を直接視認することができないほどの広大な空間で、互いの艦隊を攻撃し合うような大海戦は、第二次大戦における日本海軍ＶＳ米英海軍の戦いが初めてであり、以後も発生していない。米英より遥かにささやかな出発をした日本の航空戦力が、僅か３０年足らずの年月で、いかにして米英両国に戦いを挑むまでに急成長を遂げ、しかしそれでも最終的には米英に追いつき追い越すことかなわず、敗戦することになったのか。軍学者・兵頭二十八氏が、日本海軍が開発・製造した爆弾とアメリカ軍の爆弾を比較し、さらに日本海軍とアメリカ海軍の戦術・用兵思想も比較し、なぜ日本が敗北し、アメリカが勝利したかを考察し、第二次大戦の敗北から我々日本人が何を学ぶべきかを問う一冊です》<br /><br /><br />◎内容抜粋<br /><br />『「第一次上海事変」以前の旧式爆弾』<br /><br />ノースカロライナ州キティホークの砂丘を蹴って、ライト兄弟の「フライヤー」号が史上初めてエンジンの動力により浮揚、群衆の眼の前をパタパタ……と横切ってみせたのは、日本では明治３６年にあたっていた。だがもちろん、日本の軍人たちがこの地球の裏側の新発明「飛行機械」の可能性を落ち着いて調査できるようになったのは、翌年より１年半続いた日露戦争を決着させてから、なお暫く後でなくてはならなかった。日本海での死闘の末に、ロシアの軍艦は影も形も見えなくなりはした。が、代わりに日本海軍は、ハワイからフィリピン、中国、そして満州へと、商船隊を伴って延びてきたアメリカの太平洋艦隊の槍先に、一人立ちはだかっている自分らを発見した。かくて、日本海軍が発達途上の航空機を将来の海上戦力として認め始めた時期は、日米両国が互いを敵国として意識する時期と一致する。遅くとも明治４５年には、絶対優勢のアメリカ海軍に貧乏な日本が対抗を図るには、軍艦での競争は避けて、飛行機に資源を傾注すべきだとの意見が、海軍内の公論の一つになっていた。日本海軍が貧弱な水上機を飛ばせてその最初の航空爆弾を青島のドイツ艦艇めがけて投ずることになるのは、それから２年後(山口注：大正３年に日本は第一次世界大戦に連合国側として対独参戦。中国山東省の青島にドイツが構えた要塞を攻撃した)。性能優れた艦攻、艦爆、陸攻を多数揃え、各種爆弾、魚雷を準備して、英米二大海軍に戦いを挑めるのは、まだ２７年先のことであった。(Ｐ３３・Ｐ３４)<br /><br /><br />『陸用爆弾』<br /><br />旧日本陸軍の航空隊にとっては、地面に落として人馬を殺傷する爆弾こそが「普通爆弾」であった。だが、所変われば品変わる。日本海軍の航空隊にとっては、主たる破壊標的は終始、アメリカの戦艦(途中から空母)に他ならない。だから海軍では、対艦艇攻撃用の爆弾こそが「通常爆弾」と呼ばれ、それ以外は、通常ではない、というニュアンスの分類名が付けられた。地上破壊に用いる爆弾は「陸用爆弾」であった。では、日本海軍のお手本であった英国では、いつ頃から爆弾に「陸用」という区別を立てていたのだろうか。東京都新橋の「航空図書館」にあった二、三の洋書資料から推測を試みるに、どうもイギリスの爆弾は、初めから専ら地上の歩兵を制圧することが目的で造られており、改良の努力は、いかに爆弾を地面にめり込ませずに、破片をたくさん飛び散らせるか(クーパー爆弾)、あるいは、鋳造等によって安く大量生産するかに置かれていたようだ。第一次大戦の末期になって、工場攻撃用の薄殻(ライトケース)中型爆弾、または厚殻(ヘヴィケース)大型爆弾を開発したが、英国空軍が対艦攻撃を念頭した厚殻中型爆弾、または徹甲爆弾を造ったのは、第二次大戦直前のようである。これはアメリカも同様で、つまるところ、優勢な戦艦によって仮想敵海軍を封鎖あるいは圧倒できる立場であるから、海軍航空隊が魚雷に加えて徹甲爆弾などを好んで準備する動機も生まれないのであろう。それでも無理に類似性を強調すれば、中型の薄殻爆弾は日本海軍の「陸用爆弾」に相当すると言えなくもない。この「陸用」という分類が、日本海軍の爆弾について記され出したのは、昭和７年の第一次上海事変からのようだ。(Ｐ４９・Ｐ５０)<br /><br /><br />『ミッドウェー海戦の日米爆撃兵装比較』<br /><br />(冒頭略)ミッドウェー海戦で沈没した日米計５空母の喪失の模様を概略比較すると、次のようになる。『加賀』…エンタープライズのＳＢＤ×２５機(山口注：ＳＢＤ＝第二次大戦中のアメリカ海軍の艦上爆撃機)が投弾した１０００ポンドＧＰ爆弾または５００ポンドＧＰ爆弾のうち４発直撃。(中略)他に数発の至近弾。飛行甲板と格納甲板から直ちに大火災を生じた。鎮火できず、艦の前後にあるガソリン庫が過熱して大爆発が起き、ゆっくりと沈没。『赤城』…エンタープライズのＳＢＤ×５機が投弾した１０００ポンドＧＰ爆弾または５００ポンドＧＰ爆弾のうち２～３発直撃。他に数発の至近弾。飛行甲板と格納甲板から直ちに大火災を起こし、鎮火できず、全艦火災となり機関室の機能停止、漂流。総員退艦が命じられた、味方駆逐艦が９３式魚雷で処分。『蒼龍』…ヨークタウンのＳＢＤ×９機が投弾した１０００ポンドＧＰ爆弾のうち３発直撃。他に数発の至近弾で浸水あり。飛行甲板と格納甲板から直ちに大火災を起こし、鎮火できず。全艦火災となり、最後は艦尾ガソリン庫の爆発で船体後半部から沈没。『飛龍』…ヨークタウン所属のＳＢＤ×１機から投下された１０００ポンドＧＰ爆弾のうち４発直撃。格納甲板から直ちに大火災を起こし、鎮火できず、全艦火災となり機関室の機能停止、漂流。総員退艦が命じられた、味方駆逐艦が９３式魚雷×１本を命中させたが、沈没までにはさらに長い時間がかかった。『ヨークタウン』…飛龍の「９９式艦上爆撃機」×７機から投弾された２５番爆弾(山口注：２５０キロ爆弾)×４～５発が直撃。爆弾による艦内火災は直ちに鎮火。通常爆弾の１発が煙路を破壊したために機関機能低下、漂流。さらに「９７式艦攻」から投下された「９１式魚雷改３」(炸薬２３５㎏)×２が命中。浸水、傾斜。さらに「伊１６８潜」が発射した「８９式空気魚雷」(炸薬２９５㎏)×２本が傾斜の反対舷に命中。艦を放棄後、２日以上経って沈没。一見して、アメリカ空母の「撃たれ強さ」と日本空母の「撃たれ弱さ」が目につく。ちなみに『ヨークタウン』は、『サラトガ』や『レキシントン』と違い、戦艦を改造した空母ではない。しかしこうなった原因は、日本海軍の「防御」「ダメージコントロール」への取り組み姿勢の不徹底さだけでは、もちろんない。ミッドウェー海戦における日本空母の喪失原因について、本論では、「急降下爆撃機が投下する爆弾の基本性能と信管選択」「艦載機の燃料タンクの配置」「投下器と魚雷運搬車」「魚雷の炸薬と爆発尖」に注意してみたい。まず、アメリカ空母搭載の急降下爆撃機が投下した１０００ポンドＧＰ爆弾の優秀性を確認しよう。ＧＰとは、ジェネラル・パーパス、つまり汎用の意味だ。その名のとおり米軍は、このＧＰ爆弾をＢ２９から工場地帯へバラ撒きもすれば、Ｂ２４により軍艦や輸送船の上にも降らせるのみならず、Ｂ２５のスキップボミング(山口注：反跳爆撃戦法。低空飛行する航空機から海面に爆弾を投下し、海面に反発した爆弾が「水切り」の要領で目標の艦船に命中するもの)にも流用し、さらに、艦攻や艦爆によって空母や重巡洋艦のような重要目標に対して投下した。日本海軍が、目標に応じて、陸用爆弾、通常爆弾、５号爆弾(徹甲爆弾)、８号爆弾(反跳爆弾)……等と使い分けていたのとは大違いなのだが、それが可能であったのには、以下の二つの条件が存在したと想像する。一つ。アメリカは稀少金属資源、特にカナダ産のニッケルを混入して造る特殊圧延鋼の生産に努力を集中し、それでＧＰ爆弾の弾体も造っていたのではないか。二つ。アメリカ海軍は、艦載機の爆弾による軍艦の撃沈を真剣に考えたことがなかったのではないか。もし爆弾の弾体をニッケル含有スチールで圧延していたとすれば、陸軍と海軍とで同じＧＰ爆弾を共用し、対艦船だけでなく、陸地の攻撃にも惜しげもなく投下できるのである。合衆国には、大量生産の余裕は、多分あっただろう。戦略爆撃調査団の一員であったＢ・コーヘンが『戦時戦後の日本経済』に記しているところによれば、第二次大戦中のアメリカの航空爆弾の生産高は、日本の１６７倍だという。日本への投弾量は１６万１４２５トンであり、ドイツへの投弾量は１３５万６８０８トン(一桁違う)であった。対して日本の軍需工業は僅かに工面したニッケルを、航空機のエンジン、機関砲、脚、耐熱タービンブレード等に、是非とも優先使用しなければならなかった。日本では、ニッケルはおろか、屑鉄(それは銑鉄よりも高級である)の使用先すら厳選する必要があった。だから日本では、アメリカの０・６％の爆弾しか造らなかったというのに、稀少金属・高級金属を少しでも節用するために、陸用爆弾、通常爆弾、特殊徹甲爆弾(５号爆弾)と、設計を違える必要があったのである。(Ｐ６３～Ｐ６７)<br />ところで、アメリカ海軍が、レイテ海戦まではＧＰ爆弾一本でやっていけたことの背景には、もう一つ、彼らの艦載機や航空爆弾に対する期待の特異性があったと考えられる。それは、このＧＰ爆弾の弾頭と弾底に、アメリカ海軍は、最も瞬発に近い秒時の短延期信管のみを装着していたことから窺われるのである。ＧＰ爆弾の信管秒時については、ＳＢＤ「ドントレス」の活躍をまとめた本(Ｐ．Ｃ．Ｓｍｉｔｈ著　“Ｄｏｕｇｌａｓ　ＳＢＤ　Ｄａｕｎｔｌｅｓｓ“１９９７　英国刊)にヒントがあった。残念ながらそれは珊瑚海海戦の記述なのであるが、米空母所属のＳＢＤが、０・０１秒の遅働信管を取り付けた１０００ポンドＧＰ爆弾を兵装としたと書かれてある。ちなみに日本軍の爆弾用機械式信管で、最も遅延秒時の短いものは０・０３秒(甲信管)であった。０・０１秒の遅働信管が作れるということだけでも、アメリカの精密工業の水準の程はしのばれよう。ミッドウェー海戦で日本の空母に命中した爆弾は、すべてこのＳＢＤ(型は、最新のものでＳＢＤ３型)が、急降下爆撃で投下した１０００ポンドＧＰ爆弾であった可能性が高い。(中略)それを艦載のＳＢＤは、５００ｍまで降下して投弾する。爆弾の自由落下距離が５００ｍ以下しかないわけだから、終速は水平爆撃に比べると甚だ小さい。それでありながら、敢えて最も短い０・０１秒の延期信管をつけている。その効果は、しかし、空母に打撃を与えるには最も好都合なのであった。戦艦や重巡洋艦の弱点は、下甲板の弾火薬庫に砲弾や徹甲爆弾が飛び込んで、誘爆を引き起こすことである。あるいは、魚雷や徹甲爆弾で艦底に穴を開けられ、浸水することであった。だから日本海軍の通常爆弾は、この艦底攻撃を強く意識して弾体を厚くこしらえ、しかも０・２秒という長い遅働信管(丙信管)が付けられるようになっていた。米軍にも、無延期、０・０１秒、０・１秒、０・２５秒の４種類の信管バリエーションがあった(Ｂ２９が落としたＧＰ爆弾に関する報告による)。しかるに米海軍は、至近弾の爆発景況からして、マリアナ沖海戦までは、航空用爆弾の弾頭に、いちばん短い延時信管以外は取り付けていなかったと観察されている。(弾底信管に別な秒時のものを取り付けることは有り得るが、これは不完爆防止の目的であって小論では無視できる。)アメリカ海軍の艦爆隊は、航空爆弾で戦艦や空母を撃沈しようという使命感は持っていなかった。これは、ミッドウェ海戦で『蒼龍』が３発の命中弾で炎上したのを見届けるや、直ちに続行していた４機のＳＢＤが攻撃目標を他の無傷な水上艦に変更したことからも、よほど徹底した戦術思想だったと思われる。アメリカ海軍の航空隊は、何が必要なことで、何が無駄なことかを、しっかり割り切っていた。(Ｐ６８～Ｐ７１)<br />急降下爆撃によって低空からリリースする爆弾には、命中率の高さと引き換えに、撃速の小ささという、どうしようもないハンデがある。たとえ信管秒時をもっと長くしてみたところで、ポストジュットランド型戦艦の上面アーマーを突き破ることはできないのである。しかし、日本の重巡洋艦の砲塔天井装甲や、空母の飛行甲板に対しては、短い延期信管のＧＰ爆弾は、十分な貫徹力と破壊力とを発揮した。しかも、命中率は水平爆撃とは比較にならぬほど高い。戦果は「中破」で満足せよと、彼らは教育されていたに違いない。太平洋での日米海戦が生起するとすれば、どちらの海軍も、敵情偵察の役割を受け持つ空母と巡洋艦とが前衛になって出てくるのは、戦前からすでに常識であった。最初の海戦は、必ず空母と空母の遭遇戦となる。この確信は、むしろ米海軍の方がはっきりと持っていた。アメリカ海軍は、よく言われるように、決して空母を軽視などしていない　事実は逆で、その対策を日本海軍以上に徹底して立てていたのだ。端的にそれが表れているのが、空母の搭載機の機種配合だ。アメリカの正規空母では、常に艦爆が艦攻(ミッドウェー海戦ではＴＤＢ「デバステイター」が主)よりも多く積まれていた。そして爆弾の信管は０・０１秒であった。爆弾による大艦の撃沈などは、初めから考えていないのである。これに対して日本の機動部隊では、艦爆を１８機積む空母に、艦攻を１５機しか積まない、などということは絶対に有り得なかった。日本海軍の意識の上では、艦載機の主役は、明らかに艦攻であった。なぜか？　艦攻だけが、魚雷によって米英の戦艦を撃沈できたからである。日本の空母の搭載機編成と爆弾は、どうみても対戦艦用にできていて、対空母用にはなっていなかった。またその対艦用爆弾の信管に０・２秒の長い遅働のものを好んで付けたことは、空母や巡洋艦を狙う場合でも「中破」させるだけでは満足せず、「撃沈」にこだわっていたことを示している　対するアメリカの空母機に託された使命は、相手の前衛である空母と巡洋艦の戦闘力を奪えば良いのであって、撃沈までは求められていない。軍艦を撃沈するのは、あくまでも戦艦の仕事だからである。(Ｐ７１・Ｐ７２)<br />蓋を開けてみれば、実際に生起した海戦は、やはり空母対空母のものであった。ミッドウェー海戦で「９９式艦上爆撃機」が米空母『ホーネット』に投下した２５番通常爆弾には、弾頭信管として０・２秒という長めの延時の「丙信管」を取り付け、機関室へのダメージを狙い、さらに、できれば艦底爆発による浸水沈没を期したと思われる。そのような信管を通常爆弾に付けること、それを空母に対して投下することは、ともにアメリカ軍にとっては予想の外であった。フランクとハリントン共著『ミッドウェイ　空母「ヨークタウン」の最期』(邦訳１９７６年)によれば、珊瑚海でヨークタウンが「９９式艦爆」から食らった１発の通常爆弾が、デッキ４層を貫いて爆発しているので、専門家すら、これは真珠湾で投下された戦艦の徹甲弾改造の爆弾だと結論したのであった。これに対し、米軍のＧＰ爆弾のパフォーマンスはどうだったか。０・０１秒信管と、急降下爆撃による低い撃速の結果、その爆弾は、日本の空母の飛行甲板を貫いてすぐ爆発した。そこは、格納甲板であった。格納甲板は、飛行甲板のすぐ下にある。爆弾や魚雷などの兵装を取り付け、交換は、この格納甲板までリフトで弾薬を上げてきて行う。ミッドウェー海戦では、アメリカ機が投下した爆弾により格納甲板に火災が起こり、さらにそこで魚雷や爆弾が誘爆したことが消火を不可能にさせたといわれる。　　しかし、これにも原因があったはずである。格納甲板で爆弾が炸裂したのは、アメリカ海軍の兵装選択が正しかったからだが、その爆発によってただちに格納甲板が大火災となってしまった主たる原因は、日本海軍の飛行機の構造そのものに求められるべきなのだ。日本海軍の飛行機は翼の大部分はガソリンタンクで占められていた。この中にギッシリとガソリンが入っていれば、破片１つの貫通で火がつくことはない(機銃弾が連続して貫通した場合、一発目で液中に生じたキャビテーションの泡に、二発目で着火する危険はあったろう)。しかし、ほんの少しでもタンク上部に空隙があれば、そこは可燃性ガスの溜まり場だから、破片が主翼を貫通する時の火花で、簡単に爆発的燃焼が起こる。比島沖海戦での『大和』の戦闘詳報を見ると、艦内で米艦上機の投下爆弾が炸裂すると、飛び散る弾片が艦内の金属に衝突し、そのときにもの凄い火花を発するため、一瞬思わず大火災と錯覚するくらいであったという。ミッドウェーの４空母の場合、このような高速弾片が、まず搭載機の主翼の燃料タンクを襲ったのである。「９９式艦爆」が、２７０㎏爆弾を２発も抱えられたノースロップの「ガンマ」機を昭和八年に参考輸入したずっと後からの設計であるにもかかわらず、兵装として２５０㎏爆弾を１発しか積めないのは、アウトレンジ戦法のために、米国の艦爆よりも余計にガソリンを持たせる必要からであった。「零戦」も「９７式艦攻」も、大面積の主翼は過半が大容量のガソリンタンクとなっていた。これが高速弾片で貫通され、その火花で火災となった場合、もはや消火のしようはなかった。ガソリンエンジンの飛行機を火災に強い構造にしようと思ったなら、可燃ガスが溜まる部分の投影面積を最小にすればよい。だからドイツでもアメリカでも、この原則を守って飛行機を設計した。「メッサーシュミットＭｅ１０９」が、航続力があんなに短いのも、主翼に燃料を入れなかったからであった。アメリカ海軍機が日本機よりもズングリしていたり、やたらに胴体が前後に間延びしているのも、主翼内には絶対にガソリンを入れず、すべて胴体内燃料タンクにしたためであった。(Ｐ７２～Ｐ７４)<br />もし日本機の構造も、米軍機のように胴体内タンクだけであったなら、数発の爆弾の破片で一瞬にして格納甲板の大火災を招くようなことはなかったであろう。たとえばミッドウェーにおける『ヨークタウン』は、被弾時に艦爆×１０機、艦戦×７～８機が格納庫内にあった。最初に食らった、たぶん瞬発信管付きの２５番陸用爆弾の爆発で、格納庫内の飛行機の翼に燐のように燃える物質が張りついたが、整備兵が翼を切断して火災になるのを食い止めたという。これも、翼の中にガソリンタンクが無いからこそできる措置であった。(中略)日本機の構造が他国のようになっていたなら、簡単に大火災は生じず、少なくとも爆弾が爆発することはなかった。９８式爆薬は、たとえ機銃弾が貫通しても誘爆しないからである。摩擦や熱で直ぐ爆発してしまう爆薬の代表はカーリット(８８式爆薬)だが、すでに内地用の機雷以外にはその爆薬は使われていなかった。また、火災の炎によって焙られても爆弾はすぐに爆発するものではない。『ミッドウェー戦記　豊田穣戦記文学集(３)』にも、２５０キロ爆弾が真っ赤に灼けて半透明ぬなりかかっているのに爆発せず、海に転げ落とせる描写がある。昭和１８年７月９日に海軍で作製した『不発弾処理実施要領書類』に、陸上の不発弾に対しては「焼夷筒」(テルミット)を信管から３０センチ離れた弾壁に密接させて着火すれば数分(昭和２０年の鹿屋基地の戦訓では、地上火災機の爆弾は８～９分で誘爆したという)で弾体が溶け内部の炸薬に着火して部分的な不完爆が起きるので安全に処理できるという方法が示されている。ただし弾底信管があるものはダメだとしているから、装着済みの信管が過熱されると爆発することは有り得たようだ。逆に云うと、弾庫の爆弾は火災には相当程度安全だが、信管装着済みのものは火事に遭うとたちまち危険な状態となる。急降下爆撃用の２５番爆弾は、艦爆に取り付けた段階で、絶対確実を期すために、風車安全装置をやや緩めていたのかもしれない。しかし、誘爆の主役は、やはり爆弾ではなく、魚雷であったろう。(中略)航空魚雷は酸素式ではないから、それでも自爆する原因としては２つしか考えられない。１つは実用頭部の炸薬として９８式爆薬(ＴＮＡ＋ヘキシル)や９７式爆薬(ＴＮＴ＋ヘキシル)以外のものが充填されていた可能性だ。たとえば下瀬火薬だったなら機銃弾を受けても自爆してしまったろうし、９４式爆薬(ＴＮＡ＋ヘキソーゲン)でも、被弾感度がやや高かった。日米開戦までは魚雷の需要はほとんど無かったことを考えると、このような旧い魚雷用炸薬がまだ入れられたままだったということも、考えられなくもない。(Ｐ７４～Ｐ７６)<br />しかし、より可能性が大きいのは、爆発尖(爆弾の信管に相当する部品)の構造が、被弾に対してあまりに安全性の低い構造だったことだろう。これは断言するものではないが、ある本で、魚雷に取り付ける前の「爆発尖」が、敵の攻撃による衝撃に敏感に反応し、小型爆弾のように爆発して破片を飛び散らせたという記述を読んだ覚えがある。とすれば、この爆発尖を装着した魚雷は、『大和』戦闘詳報のようなスプリンターを浴びれば、ひとたまりもなく誘爆したであろう。最後に、そもそも艦攻の雷爆転換に何故２時間も３時間もかかっていたのかだが、これは多分に、海軍航空本部の主流派、たとえば大西瀧治郎らのせいなのである。昭和７年に第一次上海事変に出動した『鳳翔』(山口注：日本海軍初の空母であると同時に、最初から空母として設計された世界初の艦)から、「１３式艦攻」が、魚雷、爆弾、増槽の「任務転換」にあまりにも時間がかかるため、海戦になったらどうなるのか、というクレームが航空本部に届いている。そのへんの事情について、航本で水雷の主務者であった愛甲文雄氏が、昭和２９年に『水中兵器について』という資料を残している。それによると、兵装を機体から懸吊するための「投下器」が、爆弾と魚雷とで共通になっていないため、投下器も交換する必要があった。また、「爆弾運搬車」が魚雷の運搬やリフトアップには対応していなかったという。魚雷は、航空用といっても、艦政本部の助けなしには開発不可能な兵器であった。だから、戦艦無用論をぶちあげ、少しでも飛行機のために海軍予算を取りたい航空本部の主流派としては、どうしても自主開発ができる爆弾を中心に考える。いきおい爆弾の主務者側は、投下器や運搬車を敢えて魚雷と共通化することを考慮しなかったらしい。また、今日の話題社版『太平洋戦争ドキュメンタリー第五巻』(昭和４３)の「英空母撃沈記」には、「９７式艦攻」の投下器の螺の規格と孔の位置が各機ごとにバラバラで、別の機のものを持ってきても絶対に合わなかった、という貴重な証言が載っている。昭和１７年２月１２日には、海軍航空技術廠で「飛行機雷撃兵装急速転換対策研究会」が開催されている。これは、雷爆転装で非常に危ない目に遭ったインド洋作戦の前であるから、ウェーク島攻撃の戦訓なのかもしれない。しかし、インド洋作戦は無論のこと、ミッドウェー海戦までにも、何も改善はされなかった。つまりは昭和７年の『鳳翔』のクレームは、その後１０年間、航本によって放っておかれたのである。(Ｐ７６～Ｐ７８)<br /><br /><br />『通常爆弾』<br /><br />日本海軍の「通常爆弾」(略して「通爆」)とは、艦船一般に対して使用できる品質・性能の爆弾を意味する。前章でも少し触れたが、イギリス軍はナチス・ドイツが相当に強大化するまで「対艦用爆弾」が必要だとは考えていなかった。だから、戦前のイギリス製爆弾とは基本的に「陸用爆弾」であり、その中に「厚殻」(ヘヴィケース、鋳造量産品)と「薄殻」(ライトケース、特別製の工場破壊用大型爆弾)の別があったにすぎないのである。アメリカ陸海軍も、まさか日本の戦艦を航空爆弾で攻撃する時が来るとは想定していなかった。対戦艦用の徹甲爆弾が昭和１９年まで登場せず、その高高度投下は終戦まで見られなかったことが何よりの証左だが、日本海軍の通常爆弾と陸用爆弾を一つで兼ねるＧＰ(汎用)爆弾の基本性能が非常に優れていたために、珊瑚海、ミッドウェー、ビスマルク海戦、およびマリアナ海戦を、この爆弾だけで勝利したのである。対艦攻撃用爆弾を「通常爆弾」と位置づけて深く研究したのは、世界の中でも日本海軍だけであった。それは、軍艦の数では明白に劣勢でありながら海戦には完勝せねばならないというユニークな使命感の反映であるとともに、日本海軍が早くからアメリカ海軍の『航空母艦』を強く意識していた証しでもあろうかと思う。ワシントン条約により日本の『赤城』『加賀』と同じく巡戦を改造し、昭和２年に竣工した米空母『レキシントン』と『サラトガ』は、前衛の水上艦による水雷襲撃を大いに頼みにしてきた旧来の日本海軍の漸減作戦構想を、根本から改めさせるに十分な脅威だったのだ。日本海軍の通爆の機能は、ちょうど陸軍の「破甲爆弾」(コンクリート構造を貫徹できる堅い弾殻と遅延弾底信管を有する爆弾)に近いといえる。しかし、海軍の想定する標的は、コンクリートよりも硬さも粘りもある軍艦の甲板であるから、その弾体の素材、熱処理、寸法、信管などには、陸軍の爆弾よりも厳しい要求をするのは当然であった。たとえば陸軍の破甲爆弾は、鋳鋼を熱処理して堅くしたものでもよかったが、海軍の場合は陸用爆弾以外だとそうはいかず、比較的高価な鍛鋼でなくては弾体が割れてしまう。しかし幸いにも、通爆の整備所要量は、陸用爆弾ほどあるものではなかった。弾体の弱い陸用爆弾を艦船に対して使用すると、投下高度によっては、完爆する前に弾体が潰れて爆薬が飛散してしまうが、逆に通爆は、必要ならば陸上の目標に対しても使用しても強度上は何の問題もなかった。この点では汎用爆弾ともいえるのだが、弾体が強固になっている分、充填炸薬量は陸用爆弾に比して少ないのと、単価が高い点とが、泣き所であった。(Ｐ７９～Ｐ８０)<br /><br /><br />『戦艦を撃沈できる徹甲爆弾』<br /><br />陸上基地から発進する双発の爆撃機から、ＴＮＴ爆薬１０００ポンド入りの２０００ポンド爆弾を投下すれば、至近弾の浸水だけでも戦艦が沈められるという可能性は、１９２１年７月２１日のＷ・ミッチェルの実験で立証された(和田穎太著『真珠湾攻撃～その予言者と実行者』)。この衝撃的なイベントが世界に報道された大正１０年当時の、日本の最新最強戦艦『長門』の４０糎主砲から発射できた弾丸の重量は、ちょうど１トンであった。２０００ポンド(９０７㎏)の航空爆弾が登場したことは、戦艦にとって真の脅威の兆しといえた。２年後、ミッチェルは、今度は廃戦艦『アラバマ』を、１１００ポンド(５００㎏)爆弾の水平爆撃だけで撃沈してみせた。ちょうどその年、日本海軍は、英人スミス技師の設計になる「１３式艦上攻撃機」を完成している。爆装は２４０㎏×２発(計４８０㎏)まで可能。(魚雷なら約８００㎏×１本可能。雷撃は低空飛行だけでも構わないので。)しかし『オストフリースラント』(山口注：第一次世界大戦時のドイツ海軍の戦艦。ドイツ敗戦後、賠償としてアメリカに引き渡された。)も『アラバマ』も、第一次大戦前に設計された戦艦であった。第一次大戦のユトランド半島沖海戦では、大落角の徹甲弾が弾火薬庫を上面から直撃することで戦艦すら轟沈してしまう実例を見、爾後、重巡以上の軍艦は、側面だけでなく上面にも、少なくとも自艦の主砲弾を防げるだけのアーマーを張るようになったのである。「ポスト・ジュットランド型」と英語で言い表されるそのような新鋭戦艦(日本では『長門』以後)に対して、艦上攻撃機や艦上爆撃機が投下するせいぜい数百㎏の爆弾で上面アーマーを貫徹し、弾火薬庫を爆破することができるかどうかについては、日本以外の各国海軍は現実的、つまり相当に懐疑的であった。日本海軍の仮想敵、アメリカ海軍では、艦載機で無理をして戦艦を撃沈しようなどと真剣に考えたことは、大戦後半までは無かったように見える。米空母機が日本の戦艦に徹甲爆弾を初めて投下したのは、昭和１９年１０月の比島沖海戦からであった。航空魚雷の実用頭部は、大口径であったが、軽量で、空母搭載の艦攻の数も少なく、その訓練は艦爆隊に比べて明らかに重視されてはいなかった。これはアメリカの軍人が、日本はアメリカに戦争は仕掛けてこないと高をくくっていたからではない。戦艦の戦力比で日本に対して優位を失う恐れがまるでない以上、その必要性が認められなかっただけである。(中略)しかし、日本海軍の立場は逆だった。戦艦の戦力比では到底アメリカに勝ち目は無かったので、空母(と潜水艦)に、戦艦の撃沈が期待された。だが、艦載機の搭載兵装は艦攻でも８００㎏が限度で、最新鋭戦艦の主砲弾より初めから軽量である。その軽量爆弾の衝突威力を戦艦の主砲弾並みに増やそうとして投下高度を上げれば、命中率は極端に下がってしまう。かといって、命中率の最も高い爆撃法である急降下爆撃は、艦攻よりもさらに軽量の爆弾を、最小に近い撃速で戦艦の上面アーマーにぶつけることしかできない。その限界を百も承知で、それでも艦載機で戦艦の撃沈を狙おうとしたのが、『空威研究会報告』で大西瀧治郎らにより開発方針が定められた、艦攻用の「５号爆弾」と、艦爆用の「４号爆弾」であった。(Ｐ１０３～Ｐ１０５)<br /><br /><br />『防空用の空対空炸裂爆弾』<br /><br />日本の軍部が「対飛行機爆弾」の必要に目覚めたのは早い。満州事変～第一次上海事変頃から、アイディアが出てきている。たとえば昭和７年３月７日の海軍の訓令に「垂下曳航爆弾」の実験のことが見える。これは、２～５㎏の爆弾を、太さ１０～１８ミリ、長さ２５～３０ｍの柔軟鋼索で下げ、そのまま敵爆撃機にぶつけようとするものであった。しかし実験の結果、この方式では、母機が１５０ノット以上を出すと索が横になびいてしまって、所期の目的は達せられないということが判明した。これは「良い失敗データ」になるはずであろう。しかし困ったことに、昭和１９年頃に、陸軍がほとんど同じ内容の実験を復行している。「ト四」弾がそれで、３０キロまたは５０キロ爆弾を２００ｍの鋼索の端に吊し、在空敵機を攻撃できないかとの計画であった。昭和１９年の飛行機の速度は、昭和７年の３倍はあろう。結局、とても実用にならぬことが確かめられたのみで、貴重な時間資源と実験資材の空費に終わっている。戦前の日本がアメリカに勝てなかった理由のひとつに、新兵器開発のために国家の予算で得たはずの貴重な情報が、いたずらに部外者に秘匿され死蔵された結果、遂に１億人の頭脳動員に失敗したことを、どうしても挙げなければならない。そのためただでさえ敵より一桁少ない技術者と実験資源を、ますます非効率的に働かせることとなった次第だが、それでも昭和１１～１３年時点で、「対飛行機」の自由落下爆弾は、３０㎏以下では効果がなさそうだという知見だけは得られていた。昭和１６年８月１３日の文書には、「敵ノ編隊ニ対スル攻撃用落下傘附時限爆弾」を、２㎏で時限と着発の２タイプ作ってみたが、安全度不良で多量生産向きでもなく、再考を要す、とある。いろいろなものを試していたようだ。ところで、これは陸軍の「トニ弾」に非常に近いように思われる。「ト」は対空用「特殊爆弾」の含意(ひらがなの「と」だと特攻の符号)だが、陸軍側の史料によれば、１・８㎏の「トニ弾」を１０発収容し落下傘を有した「トニ器」が、おそらくソロモン航空戦が始まった後で、実用されていたのである。(Ｐ１４３・Ｐ１４４)<br /><br /><br />『２９号爆弾』<br /><br />「２９号爆弾」は、対Ｂ２９専用の空中炸裂爆弾として試作されたが、実際には使用されずに終わっている。日本がＢ２９を落としあぐねた遠因を探っていくと、１９２６（大正１５年＝昭和元年）に遡る。この年、三菱重工業の前身である三菱内燃機製造会社は、英国よりアームストロング＝シドレーの航空用星型空冷エンジンの製作権を取得した。これは、その前年に陸軍航空隊が飛行機の採用にあたって競争試作方式を採用することを決定したことから、三菱が技術習得に努めてきたイスパノ系液冷エンジンでは、中島飛行機と川崎造船所が占めていた陸軍機の納入シェアは切り崩せないと判断されたためであった。液冷エンジンは気筒数に比例して曲軸が長くなってゆくが、星型エンジンならそのようなことはなく、高度な精密加工技術なしに大馬力を狙うことができた。短期的には、この路線転換によって、三菱重工は中島を追い越し、日本最大の航空機メーカーになったのである。しかし敢えて春秋の筆法を用いれば、最大の資本力と人材プールを持つ三菱がこの早い時期に液冷エンジンを見限りだし、最終的には手を引いてしまったがために、日本は昭和１９年以後、Ｂ２９やＰ５１を迎撃できる本土防空戦闘機を持つことが、不可能になってしまったといえよう。高高度を高速で飛ばすためにレシプロ・エンジンのブースト圧を高め、回転数を上げるためには、小直径の星型空冷ではどうしても冷却に限界があった。Ｂ２９から本土を守る迎撃機は、極限に高性能の液冷エンジンを積まなくてはならなかったのだ。日本国内に、高性能の液冷エンジン技術を育んでいた体力のあるメーカーが無かったため、せっかくドイツからＢＭＷの最新式エンジンを輸入しても、それを満足にコピーすることすらできなかった。もちろん、日本の本土防空は陸軍の担当であり、海軍は空母での運用の必要からも空冷路線になるのは当然だった。(「彗星」の採用は相当に異常な決定といえる)が、以上の経緯は、軍が民間メーカーを養成することに失敗した例として、もっと注目されてよいように思われる。さて、昭和１９年末、日本陸海軍の非力な空冷エンジン戦闘機がＢ２９を確実に撃墜する方法としては、体当たり戦法しかない有様であった。しかし、日米の生産力の差に思いを馳せると、仮に本土上空において大々的な対Ｂ２９体当たり戦法をとっても、１：１の損耗率だと最終的に米国が勝ってしまうだろうと、海軍内では考えた。おそろしく弱気になったものだが、ともかくも、迎撃機１機でＢ２９×３機は落とせるような武器が必要だ、との要求が出されたのである。そこで爆発威力を追求し、「２５番３号」を上回る炸薬を詰めた空対空爆弾が作られることになった。これが「仮称３号爆弾」であった。しかし投下実験１発まで実施した段階で、終戦となったという。別な史料では、「２９号爆弾」用に大戦末期に「三式電気爆弾信管２型」が作られ、使用されたと記しているが、確認はできない。ドイツは戦前から電気信管を整備していたが、日本海軍は最後までそれを実用化する余裕はなかったと考えられる。電気信管が造れないために、照準器と連動して自動的に空対空爆弾のタイマーを機内から変えるという方式が、容易にできないのであった。(以下略：Ｐ１６１～Ｐ１６３)<br /><br /><br />本書で紹介している爆弾は、火薬の爆発力での対人・対物破壊用の爆弾の他に、催涙ガスや嘔吐作用ガス、くしゃみガス、皮膚を爛れさせる糜爛剤のイペリット(マスタード・ガス)や、青酸ガス等の毒ガスを装填した「化兵爆弾」(旧海軍は化学兵器のこと“化兵“と呼んだ)。　細菌を充填した生物兵器「７号爆弾」。さらに人が乗り込み操縦しながら、そのまま目標に体当たりする有人爆弾(特攻兵器)などや、巻末の附録として、日本陸軍の爆弾についての簡単な紹介があります。〔光人社ＮＦ文庫〕<br /><br /><br />兵頭　二十八<br />昭和３５(１９６０)年、長野市生まれ。　二等陸士として自衛隊に入隊し、その後、神奈川大学英語英文科を経て、東工大の大学院で江藤淳研究室の最後の院生となった。既著の『たんたんたたた　機関銃と近代日本』では、日本で重工業製品の海外輸出戦略を最初に組み立てたのは、軍人設計家の南部麒次郎中将その人であったという、経済史家が誰も指摘しない事実を紹介した。『有坂銃　日露戦争の本当の勝因』では有坂成章の、『イッテイ　１３年式村田歩兵銃の創製』では村田経芳の、『日本海軍の爆弾』では大西瀧治郎の、それぞれ人物像の見直しを試みている。『武侠都市宣言！』は、日本に「市民」などいたことはないという歴史の真相を詳らかにした。他に『属国の防衛革命』(太田述正氏との共著)、『東京裁判の謎を解く』(別宮暖朗氏との共著)など多数の仕事がある。

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            <category>日本史</category>
      <author>管理人</author>
                </item>
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      <link>http://tig.seesaa.net/article/248310034.html</link>
      <title>面白すぎる釣りの本　著者／博学こだわり倶楽部</title>
      <pubDate>Mon, 02 Jan 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>《アマゾン川に棲み、釣竿ではとても釣り上げることができない世界最大のナマズ、ピライバーに挑んだ日本人の釣果や如何に？。</description>
            <content:encoded><![CDATA[
《アマゾン川に棲み、釣竿ではとても釣り上げることができない世界最大のナマズ、ピライバーに挑んだ日本人の釣果や如何に？。<a name="more"></a>日本独特の釣法、「アユの友釣り」を発案したのは江戸時代の虚無僧という説の真偽や如何に？。ある日本人がスペインの釣具店で出逢い、見惚れてしまった傑作の毛鉤とは何か？。平安時代の猛将、源為朝が流刑先の伊豆大島で島民たちに教えた擬餌鉤とは何か？。グラス・ロッドの釣竿が誕生したのは、平賀源内の功績？。罪人として沖永良部島へ流罪となった西郷隆盛が、牢獄の中にいながらにしてイカを釣り上げた、そのカラクリとは何か？。世界の怪魚や珍しい漁法。釣りにまつわる伝説や、釣りの技術や道具の進歩の歴史や、釣り好きな著名人たちのエピソード、魚の習性や、魚の味わい方まで、釣りの魅力や魚の雑学が満載。釣りをしたことのない人でも知的好奇心を誘われる一冊です》(※本書は、当インテリジェンスの初期にエントリーした一冊ですが、当時は現在のような内容抜粋をしていなかったため、今回、内容抜粋して改めて紹介させていただくことにいたしました。)<br /><br /><br />◎内容抜粋<br /><br />『何百キロの怪力を持つ、巨大ナマズ釣りにエキサイト！』<br /><br />釣り上げるときの力の強さで定評のあるカジキだが、世界には、そのカジキ用の竿でも無理という大物もある。世界最大のナマズ、アマゾンのピライバーだ。松坂寛さんの『ナマズ博士赤道をゆく』に、このピライバー釣りに挑戦したときの模様が紹介されている。それによると、カジキ用の竿を持っていったところ、「こんな竿では赤ん坊クラスしか釣り上げられない」と言われたとか。ピライバーは、体長４メートルで、２５０キロという現地情報もあり、そこまでいかなくても２メートルはザラ。巨体のうえに、普通のナマズと違って、流れの速い川の中を、かなり高速で泳ぎながら生活する魚で、餌をくわえると、体を反転させて猛スピードで突っ走る。そのため、２メートル以上のクラスだと、何百キロもの力が竿にかかるのだというのである。それで、ピライバー釣りには、竿ではなくロープを用いる。巨大なウキから、先に巨大な針をつけたロープを川に流す。針につける餌は、なんと、猛魚と名高いピラニアだ。かかったピライバーが大物のときは、２、３人がかりで引き上げるのだが、それでも危ないときもあるという。そんな大物のときは、ロープの先をボートのフックに結んで弱ってくるのを待つのだが、ボルトで締め上げていたフックが吹き飛ばされたり、ボートが水中に引きずり込まれることすらあるらしい。松坂寛さんは、現地の人の指導で２メートルのピライバーを釣り上げのだが、ボートで何十分もロープと格闘しても、ピライバーは水中に潜ったまま。ボートを岸につけて、岸から３人がかりで引き、やっと砂浜に引き上げたそうである。(Ｐ１４・Ｐ１５)<br /><br /><br />『チャレンジ精神をくすぐる凧釣りの上手なやり方』<br /><br />凧を使った釣りといったら、どんなものを想像するだろうか。何だかひどく珍しいもののように思えるかもしれないが、欧米では密かなブームを呼んだこともある。そう簡単にいかないところが、チャレンジ精神をくすぐるらしい。そもそも、この釣りを編み出したのは、南太平洋諸島の人々。浅いところを泳いでいるのに、あまり接岸しないシイラを釣るために、凧を使って仕掛けを遠くにまで運ばせようと考えたのだ。最大のメリットは、餌を傷めないという点にある。シイラは体長２メートルにもなる大物で、釣り上げたときに光を受けて輝く姿は英語名のドルフィン・フィッシュに相応しい。では、日本の凧釣りは欧米から入って来たものかというと、そうでもないらしい。あまり知られていないが、土佐では大正時代から行われている。では、一般的な凧釣りのやり方を見ていこう。用意するのは、２本のリール竿と仕掛け、それに凧。１本の竿は凧を上げるためのもので、もう１本に仕掛けをセットする。２本のラインは、予め途中で連結させておくのだが、これにはクリップが使われることが多い。凧を上げ始めたときには、クリップの位置から仕掛けラインがぶら下がった状態になるということだ。そして、ポイントの上空に達したら、仕掛け竿を引っ張って、それぞれのラインを分離させる。こうして、仕掛けはクリップごと海に落ちることになる。仕掛けを上手く脱落させるためには、ラインの連結が大切なことがおわかりだろう。凧が目的の場所に上がる前に外れてしまったらやり直しになるし、凧が上手く上がっても仕掛けが落ちなければ失敗だ。竿で凧を上げることについては、さほど難しくはない。ナイロン糸のリール凧を上げた経験がある人なら、難なくこなせるだろう。竿を使うと案外簡単に凧をあおることができるし、巻き戻しもスムーズだ。(Ｐ９５～Ｐ９７)<br /><br /><br />『釣り竿をまったく使わずに獲物をとる方法とは』<br /><br />魚をはじめとする海の生き物を捕獲するのに釣り竿は必需品かというと、意外とそうでもない。たとえば、タコを釣り上げるのに竿も針さえも使わない方法だってある。用意するのは凧糸だけ。あとは海辺を探して巻き貝を１０個くらい見つけてくればいい。それらを凧糸に等間隔で縛りつければ、道具の出来上がりだ。ポイントは、干潮時の潮だまりで、投げ込んでは手繰り寄せる動作を繰り返し、タコの好奇心をくすぐること。「何だろう」とばかりに吸いついてきたところを慎重に引き寄せれば、みごと凧糸でタコが釣れるというわけだ。また、漁師の伝統的な漁法のなかには、銛を使って魚に一対一の勝負を挑むといったものもある。なかでも豪快なのが、突きん棒漁法。先を尖らせた銛にロープを結びつけて狙ったカジキに投げつける。船首のさらに前方にせり出すように専用の台がしつらえてあって、漁師はそこに陣取って銛を突く。成功したところで、カジキは簡単には降参しない。疾走するか、深いところに潜ってしまう。漁師は銛に繋がったロープを伸ばしながら追って行き、カジキが疲れて抵抗が和らいだところを見計らって、引き寄せて釣り上げる。この漁法では、海面近くに上がってきているカジキを１５～３０トン級の船で追いかけ、その回遊経路を辿って、房総や伊豆を拠点としながら北海道から東シナ海まで行くのだという。また、銛を使う漁法にはサワラ突き漁法と呼ばれる一風変わったものもある。囮の模型を使ってサワラを誘き寄せ、銛で刺して仕留めるのだ。模型というのはサワラか餌の魚をかたどったもので、海中に入れて竿で動かして生きているように見せかける。サワラの目を欺いて仲間か餌だと思わせ、近づいてくるのを待って捕まえるということだ。このように古くからおこなわれてきた漁法を見ると、現代人より昔の人の方が柔軟な発想をしていたように思われて、面白いものだ。(Ｐ１０４～Ｐ１０６)<br /><br /><br />『「アユの友釣り」は、修行中の虚無僧が発案した？！』<br /><br />日本独特の釣りの方法「アユの友釣り」。アユの縄張りを守る習性を利用した釣り方である。アユは、成長期に、川底の石に着いた藻類を食べるようになる。そのため、縄張りを作って自分の餌場を確保するようになる。縄張りの中に別のアユが入り込むと、その縄張りの持ち主は、たとえ自分より体の大きな相手でも、相手が出ていくまで懸命に戦う。その時、相手の肛門をめがけて攻撃する。この習性を利用して、囮のアユの尻鰭近くに掛け針を仕掛け、アユが縄張りを作っていそうなところに放し、攻撃してきたアユが掛け針に引っ掛かるのを待つという方法だ。「友釣り」とはいっても、実際には「友」ではなく「ライバル釣り」になるわけだが、その発祥の地は、伝えられているところでは、アユ釣りのメッカといわれる伊豆の狩野川。江戸中期の法山志定という虚無僧のアイデアだという。志定がある時、狩野川の川辺りで尺八の練習をしていると、２匹のアユがケンカをしているところが目に入った。見ると、川のあちこちでアユがケンカをしており、みんな申し合わせたように、相手の尻鰭めがけて攻撃している。そこで「友釣り」を思いつき、近隣の漁師たちに教えたのがルーツだという。ただしこれには異説がある。水戸の加藤寛斎という武士の残した『加藤寛斎随筆』に、友釣りについて記述が見られるのだが、それが書かれたのは宝山志定より１世紀も早い江戸初期のことと、思われる、というのである。水が綺麗で、どの川にもアユがたくさんいた時代なら、アユのケンカはどの川でも見られるはず。あちこちの川で、それぞれ、独自に友釣りが考案され、伊豆の場合は法山志定が発案したということなのかも知れない。(Ｐ１０６～Ｐ１０７)<br /><br /><br />『日本伝統の「てんから釣り」は、武士の楽しみだった』<br /><br />最近はフライフィッシングという言葉が一般的になっているので、外国から伝わった釣り技術のように思われているが、日本の釣り界にも立派な伝統があるということは、忘れられがちだ。アユ釣りの毛鉤など、世界一成功で立派な芸術品ともいえるもの。一朝一夕の技術で作れるものではないのだ。フライとは昆虫のハエのこと。つまり、元々は小さな虫を餌に魚を釣ることを意味するわけだが、この昆虫にあたる疑似餌を針につけた擬餌鉤を使うのがフライフィッシング。そこで外国では、魚に合わせて餌とする昆虫や小魚を研究し、季節や水温、さらには昆虫の生態まで、科学の光をあてて擬餌鉤を考案した。いわば科学的釣り技術というわけだ。日本でも偽の餌で魚釣りをするというのは、江戸時代頃から行われていた。海に落ちた馬の爪に魚が集まったところからはじまった相模の角ダマシ針とか、壱岐の海岸にあったカボチャが海に落ちて、そのワタをメジナが食べたことにヒントを得たというカボチャのフカセ釣りなど、偶然の発見による漁法があった。職業としてでなく、武士たちの楽しみの釣りにも擬餌鉤は使われていた。幕末に流行した「てんから釣り」である。アユの毛鉤に対抗してヤマメに用いられていたようだ。これは、川のすぐ上を蚊を模した針を飛ばし、ヤマメが針をくわえた瞬間に合わせるという技術。普通にアタリがあってから竿を合わせたのでは間に合わない。ヤマメの姿を見たら蚊を飛ばし、瞬間を狙って竿を立てるという高等テクニックが必要だった。ヤマメが獲物をとる瞬間を見極め、その獲物になる蚊鉤を飛ばすという方法は、海外と同じ手法だったのである。(Ｐ１０８・Ｐ１０９)<br /><br /><br />『手製毛鉤の傑作は、まるで生きているチョウ』<br /><br />世に凝った毛鉤はたくさんあるが、これだけの傑作は滅多にないのではないだろうか、というほどの毛鉤の傑作が、木村榮一さんの、『スペインの鱒釣り』に紹介されている。木村さんは、スペインで、リールを買い替えるためにある釣り具店に入ったとき、エスラ川の鱒釣りに使う毛鉤はどんなものが良いか、釣り具店の主人らしい人物に相談した。店のガラスケースに陳列されていたのは普通の既製品だったが、木村さんが自分の手製の毛鉤を見せると、店の主人は、陳列してあったのとは全く違う手製の毛鉤を見せてくれた。何十個もあったその毛鉤は、どれもたいへん精妙で、思わず見惚れるほどだったという。何個か譲ってもらった木村さんが、その出来を褒め讃えると、店の主人は、とっておきの非売品の毛鉤を見せてくれた。一見しただけでも見事なモンシロチョウの毛鉤だが、なんと、水に浮かぶと羽が開くように作られていたのである。本物そっくりのモンシロチョウの胴の材料は、なんと鶏の腸。川に飛ばして水に濡れると、腸の胴が水を吸って膨らみ、羽がだんだん開いていく仕掛けだという。世に知られざる毛鉤の傑作に、木村さんはすっかり感心したそうだ。(Ｐ１１９・Ｐ１２０)<br /><br /><br />『昔、日本独自のルアーに用いられた材料は？』<br /><br />土佐の一本釣りの名で知られるカツオ漁は、イワシなどの生き餌を撒いた後、寄ってきた魚群に竿を入れて、餌をつつくのに夢中になっているカツオを擬餌鉤で釣り上げる。今では漁船を仕立てて遠洋漁業にまで出かけるが、かつては沿海でこうした釣りが行われていたのだ。つまりルアーフイッシングが、趣味としてではなく漁法として昔から行われていたことがわかる。これらの擬餌鉤はオバケ、コンペイトウ、シャビキなどと呼ばれ、土佐、紀伊、伊勢などでかなり古くから使われていた形を図版にした記録も残っている。鷺や朱鷺といった文字も見られるから、贅沢な羽毛も使われていたようだ。そんな中で、いちばん古いと思われる擬餌鉤の作り方を書いた物語がある。江戸時代に書かれた『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』だ。書かれたのは江戸時代だけれど、舞台は平安時代末期、鎮西八郎といわれた源為朝が主人公の物語だ。この物語で、崇徳上皇と戦って敗れた保元の乱後に伊豆大島に流された彼が、島の人々に擬餌鉤の作り方と利用法を教えるシーンが出てくるのだ。これが「ツノ」と呼ばれたルアーである。実際のところ、この擬餌鉤は西の方で使われはじめて、次第に関東に伝わったといわれているから、若き日に九州を平定していた彼なら、ありそうな話だ。なぜルアーが「ツノ」かというと、その素材が牛の角だったから。為朝も、大島の在来種の牛の角の他にも、蹄や骨、鳥の骨や嘴なども材料にしたのが、日本独自のルアーである。(Ｐ１２６・Ｐ１２７)<br /><br /><br />『グラス・ロッドは、実は平賀源内の発明の応用だ』<br /><br />浦島太郎は釣り竿を担いで浜辺を通りかかったとき、子供にいじめられている亀を助ける。おとぎ話に添えられた挿絵でおなじみの、腰蓑を着けて魚籠をぶら下げているスタイル。竿は当然ながら竹である。しかし２０世紀の釣り竿は、名人の手になる銘の入った竹製のものを除けば、新素材が主流。竿師という言葉も、いずれ死語になることだろう。その新素材のなかで、いちばんポピュラーなのがグラス・ロッド。これはアメリカ空軍の釣り好きパイロットのアイデアが、誕生のきっかけとなったものだ。日本と戦争中のこと。　日本の優れた竹が輸入できなくなって、良い釣り竿にめぐまれなくなった彼は、自分の乗る飛行機に防火耐熱布として使っているガラス繊維を、鉄パイプに巻き付けることを思いつく。竿にする竹もガラスもケイ素を含んでいて、このケイ素が弾力を生むという、科学的事実を知ったからだ。早速パイプに繊維を巻いて接着剤で固めてみると、しなり具合もちょうど良かった。ここにグラス・ロッドの原型が完成したのである。しかし、グラス・ロッドの材料の防火用布のアイデアは、日本人の平賀源内が最初に思いついたものだ。彼は最初、中国に生息する、火の中も平気で歩く火ネズミの毛から布を紡ぐことを考えたがうまくいかず、結局出来たのは蛇紋石の繊維から作った火浣布、つまり石綿だった。この源内の研究が、２０世紀のアメリカ空軍に引き継がれていった。ガソリンとエンジンで動く飛行機には、万一の火災のときの用心に、防火耐熱布は欠かせないからだ。その研究の延長線上に誕生したのが、ガラス繊維だったのである。源内の火浣布研究の執念に、現在の釣り人は大きな恩恵を受けているわけだ。(Ｐ１３１・Ｐ１３２)<br /><br /><br />『アマゾンの肉食魚、ピラニアってどんな味？』<br /><br />ピラニアといえば、獰猛な肉食魚。　下手をすれば人間でも襲われるというイメージばかりが強く、人間がピラニアを食べるということは、思いもよらないという人が多いのではないだろうか。だがピラニアは、現地のアマゾンでは、れっきとした食用魚。魚屋でごく普通に売られて、人々の食卓に上っている。しかも、開高健さんの『小説家のメニュー』によると、このピラニアは結構美味しいらしい。開高さんは、アマゾンを旅したとき、ピラニアが食べられると知って、同行のカメラマンと共にピラニア料理に挑戦した。日本から持参した出刃包丁とカッターで薄造りにして、ブラジル産の醤油と練った粉わさびにつけて、食べてみた。意外なことにも、ピラニアの肉は透き通ってるような白身で、ほどよい脂がのり、なかなかの味。それは、さながら旬のヒラメの味のようだったという。そのあとも、ピラニアを、焼き魚、煮魚、フライ、ブイヤベースなど、様々な料理法で何度か食べたが、どれも美味しかったそうだ。また、現地の人が作ってくれたピラニアの頭のスープも食べてみたとか。あの鋭い歯のピラニアの頭が入っていて、凄絶なスープだったそうである。(Ｐ１４２)<br /><br /><br />『最古の釣り針が物語る、日本の釣りの始まりとは』<br /><br />『日本書紀』に登場する「海幸彦・山幸彦」の物語は、いつもは山で仕事をしている弟の山幸彦が、兄と道具を取り替えてお互いに相手の仕事に挑んだとき、過って釣り針をなくす物語が発端になっている。兄にどうしても探してこいと言われて、彼は海底の国まで訪ねていって妻となる女性に巡り会うという話だ。そのきっかけとなった釣り針は、この時代すでに鉄製だったことがわかり、釣りの歴史を知るには重要な手がかりとなる物語といえる。これは神話の時代の話だが、実際には３世紀には日本で鉄製の釣り針が存在したことが証明されている。福岡県京都(みやこ)郡にある「川の上遺跡」から、５本の鉄製の釣り針が墓の副葬品として出土しているのだ。５本のうち４本が完全な形で、そのうち１本は、針の太さ５・５ミリ、長さ１１・６センチ、幅３・４センチという大きなもの。それまで最大のものは、同じ福岡の遺跡から出た７・４センチのものだから、一気に４センチも記録を更新したことになる。墓の副葬品になっていたということは、それだけ鉄製の釣り針が貴重品だったということ。まして当時、副葬品つきの墓を持ったのはかなりの有力者だったはずだから、この辺りに漁業を仕切る豪族か何かがいたということになる。玄界灘を控えて、豊かな漁場に恵まれていたこの辺りの古代の人々が、こんな大きな針で何を釣り上げていたのか、興味は尽きない。おそらくマグロだったのではないかと思われるのだが……。(Ｐ１６２・Ｐ１６３)<br /><br /><br />『釣った魚の証拠を残す「魚拓」は歴史ある庶民の芸術』<br /><br />釣り人たちの自慢話は、その日の釣果を誇る数やキロ数がほとんどだが、時間が経つほどに、自分が釣った魚がいかに大物だったかと話が大きくなるようだ。翌日には「このくらい」と示す幅が３０センチだったクロダイが、一ヵ月もすると５０センチになり、一年も過ぎれば８０センチになるといった、まるで出世魚みたいに育って。そんな大げさな話に釘を刺すために考案されたのだろうか、それとも本当に大物を誇りたい人が思いついたのか、魚に墨を塗って和紙に型を録るのが魚拓である。これがいつ頃始まった習慣なのかはっきりしないが、現存する最古の魚拓は、天保１０年(１８３９)年、庄内藩主・酒井忠発の釣ったフナのものといわれている。江戸の錦糸堀での獲物で、作成したのは藩士・林正中。今も鶴岡市郷土美術館で保存されている。酒井家は魚拓に熱心だったのか、安政２(１８５５)年、４年、６年のものなどが、知られているが、これが直接法による魚拓の始まりだったようだ。その後、糊を塗った魚の上に和紙を置き、その紙の上から墨をのせる間接法も考案されたが、これも文久２(１８６２)年に始められている。近代に入って魚拓作りが盛んになるのは、昭和初期。ようやく東京に釣りのグループが誕生し、系統だてた作成方法の研究が発表されるようになってからだ。今では海外にも紹介され、「ゴ」(碁)、「ボンサイ」(盆栽)などと並んで、趣味の分野で世界に通用する言葉になりつつある。(Ｐ１６６・Ｐ１６７)<br /><br /><br />『西郷隆盛は牢からイカを釣ることができた？！』<br /><br />西郷隆盛は、勝海舟との直談判で江戸城無血開城の功績など、明治維新の立て役者として名高いが、それ以前に薩摩藩主島津斉彬の急逝などで不遇をかこったことがある。それどころか、奄美大島に変名で隠れ住んだり、罪人として徳之島や沖永良部島に流されて数年を過ごしたこともある。その沖永良部島時代の、釣りに関するエピソードが綴られているのが、『南洲翁テキ書逸話』(山口注：「テキ」の漢字表記は、「滴」のサンズイの部分が、言偏になる字)。南洲とは、西郷の号である。この島で、牢に幽閉されていた隆盛は、手持ち無沙汰ですることが無かった。「読書習字作詞の外、漁具を製作して以て一つの楽しみとなし、頗る其技に長ず」と書かれているのだが、この漁具というのが、鹿児島独特の「イカ餌木」といわれる擬餌鉤だった。たまたま夜釣りの松明が海面に落ちた時、その燃えさしにイカが巻きついたという習性に気づいたことから、江戸中期から鹿児島で普及していたものだ。西郷は、牢番に木を切ってこさせて、それを削ってはエビのような形の餌木を作った。見咎めた牢役人に、「これでイカを釣って役人宅へ届ける」と答え、翌日まさか牢から釣りはできまいと思っていた役人宅に、本当にイカを届けて驚かせるのである。「座して魚を釣る方法を案出し、昨夜その秘伝を応用した」とからかっているが、なんのことはない、西郷の作った餌木があまりに見事なので、漁師がそれを欲しがり、貰った御礼に牢へイカを届けたというだけのことだ。あの武骨な体で、思いがけず手先は器用だったのか、擬餌鉤作りは名人だったようである。(Ｐ１９３・Ｐ１９４)<br /><br /><br />この他の本書の内容は、魚が釣り人の存在を察知する「第３の目」の秘密や、ジャズやロックを聴かせてアジを釣る珍しい漁法をがある島や、スイカや酒粕を餌に釣り上げられる魚の話や。生きた化石として名高い古代魚のシーラカンスを食べてみた日本の学者たちの感想や、文豪アーネスト・ヘミングウェイの名作『老人と海』が最初に日本語に翻訳されたときの、思わず「？」と首を傾げたくなる誤訳などなど。『オーパ』という釣りをテーマにした世界紀行の作品で有名な、作家の開高健氏(故人)が、「三日間幸せに暮らすなら豚を殺して食べなさい。七日間幸せに暮らすなら結婚しなあさい。一生幸せに暮らすなら釣りを覚えなさい」という中国の古い諺を著書で紹介していますが、さて本書は皆さんに「一生幸せに暮らす」ための案内書となれるでしょうか？〔河出書房新社〕<br /><br /><br />博学こだわり倶楽部<br /><br />互いの知識を競いあう、驚くほどの博学集団。メンバーは、常人が気にもとめない世の森羅万象にこだわり、その解明のために東奔西走して追究する。著書には、『退屈しのぎの博学知識塾Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』『ネコに遊んでもらう本①②③』『イヌに遊んでもらう本①②③』『元祖！ラーメン本』『新鮮！寿司本』『時刻表の楽しみ方』『聖書の楽しい読み方』博学知識シリーズの『犯罪捜査』『ワイン』(河出書房新社)などがある。

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            <category>趣味</category>
      <author>管理人</author>
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      <link>http://tig.seesaa.net/article/248305403.html</link>
      <title>「馬と黄河と長城」の中国史　著者／西野 広祥</title>
      <pubDate>Sun, 01 Jan 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>《チベット高原の北部、青海省にその水源を発し、大きく蛇行しながら、中国の大地を西から東へ５４６４キロメートルもの旅路を経て、渤海湾へと至る黄河。</description>
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《チベット高原の北部、青海省にその水源を発し、大きく蛇行しながら、中国の大地を西から東へ５４６４キロメートルもの旅路を経て、渤海湾へと至る黄河。<a name="more"></a>黄河は、その巨大な流れの中に黄土という肥沃な土壌を抱いて、その流域に豊穣をもたらして、四大河文明の一つである黄河文明、そして中国周辺の東アジア文明の原型までをも生み出した、偉大な母なる河ともいえよう。その黄河も時には荒れ狂う巨大な龍のごとく洪水という災厄をもたらしもするが、それ以上に肥沃で柔らかな黄土の恵みは流域の農耕民に恩恵を与えて、中華文明を繁栄させる富を生み出し、蓄積させてきた。その黄河文明の富を狙い、襲いかかるものたちがいた。黄河の北方にあるゴビ砂漠のさらに北、漠北ともいわれるモンゴル高原を馬を巧みに操りながら、風のように駆け、鳥の群れのように離合集散し、神技のごとき弓術と馬の機動力で、農耕民を翻弄し、恐怖させた剽悍な騎馬民族。匈奴、突厥、鮮卑、契丹、女真、蒙古と呼ばれたそれら騎馬民族は、馬に跨がり、羊を追いながらユーラシア大陸の広大な草原や砂漠を長征して、数多の農耕民族の国々を恐怖のどん底に陥らせ、文明や国家の興亡を左右してきた。その騎馬民族に最も悩まされ、苦しめられ続けた黄河の民である漢民族。野戦において兵の数こそ勝れど、騎馬軍団による神速とも思える機動力を相手には手も足も出せずに、奪われ、侵され、蹂躙され続けた。しかし恐怖と屈辱と逼塞の日々を虚しく過ごし続けるほど漢民族は軟弱ではなかった。母なる大河・黄河の恵みがもたらしてくれる富と生命をいたずらに、異民族に奪われたり、貢がされ続けたりしてなるものか。その富の生産力を国土防衛のために、死力を尽くして投じたのだった。その結晶が、万里の長城だった。秦の始皇帝によって完成され、その後も歴代王朝によって補強され続けた、東アジア大陸を南北に分断する未曾有の大防壁。漢民族の生存に懸ける執念が創り出した地上最大の建築物だった。古代から近世まで気の遠くなる年月の間に数多繰り広げられてきた騎馬民族と農耕民族の死闘と興亡を、騎馬民族の武器である「馬」、農耕民族の武器たる「防壁」(万里の長城)に力点を置き、さらに、あるときは豊穣をもたらす偉大な母として、あるときは災いをもたらす荒れ狂う巨大な龍としての黄河が漢民族と匈奴や蒙古などの北方騎馬民族に与えた影響を交えて、ユーラシア大陸東半部で展開されてきた悠久の興亡史の秘密を語る一冊です》<br /><br /><br />◎内容抜粋<br /><br /><br />『南に移された長城』<br /><br />万里の長城は馬を来させないためのものだった。北方の異民族は必ず馬に乗って攻めてくるので、馬をくい止めるのが目的であった。だから、秦の始皇帝時代の長城は、高さがせいぜい２メートルから３メートルぐらいしかなかったが、それで用が足りた。現在我々が眼にする長城は、ほとんどが遥か後の明代(１３６８～１６６２年)、それも１６世紀になって造り変えられたものであり、時代とともに攻める方も守る方も進歩したので、高さもだいたい７、８メートルぐらいになった。明代の長城は馬をよせつけもしないほど立派なので、長城をめぐる熾烈なせめぎあいが行われたのは、むしろ明代以前の長城の方である。それらは、明代の長城よりかなり北の方に位置していた。明代に長城を北から南に移した距離は、平均すると１００キロぐらいと言われる。が、距離よりも降水量でみたほうがわかりやすい。平均年間降水量が２００ミリ台のところからだいたい５００ミリのラインのところに移されている。日本の平均年間降水量が約１８００ミリとされるから、どっちにしろ少ないが、少ないからこそ、その差は大きい。明代の長城は、山の稜線を辿っているところが多いように、地形的により険しいところを選んだ。が、南に移して造り変えたもう一つの理由は、降水量や地質のうえで少しでも屯田がしやすい場所を選ぶためだった。屯田とは、駐屯軍が自給自足できるように畑を耕して作物を作ることであり、明は平地で「屯八守二」を駐屯軍の方針とした。言い換えれば、屯田を第一条件とした　農作には平均年間降水量がぎりぎり５００ミリは必要と言われるので、自然に５００ミリの線になったわけだ。中国では、万里の長城のことを普通は略して単に長城という。長城は、北方異民族の騎馬を防ぐためのものだが、長城を造りさえすれば、それで防げるというものではない。それを守備する駐屯軍がいて、駐屯軍が長城と一体となってはじめて機能する性質のものだ。したがって、軍隊のいないときの長城は、長城のはたらきをしない。それは長城ではなく、単なる物体にすぎず、騎馬は簡単に侵入できた。歴史の中で長城が異民族に越えられたのは、中国側が政治的に混乱したり、その他の理由で守備兵が手薄になったときだ。平均年間降水量が２００ミリ台の明代以前の長城付近は、海抜も高ければ気温も低く、しかも岩場や小石の多い地面であり、耕作に適さなかった。中国のどの時代も、どの王朝も、長城を守れるだけの駐屯軍を補給によってのみまかなう余裕は無かったので、どうしても屯田が必要だったのだ。そのため、明は、敢えて地理的に後退しても長城を南に移したのである(ただし、後述するように黄河の大湾曲部オルドス内の陝西省靖辺以西では明の長城が北、秦の長城が南に入れ替わる)。(Ｐ１５～Ｐ１７)<br /><br /><br />『天高く馬肥ゆる秋』<br /><br />歴史家の司馬遷も『史記』の中で言うように、北方の遊牧民族は、幼少のときから馬に慣れ親しみ、馬に乗って狩りを覚えた。　馬の上から弓でタルバガン(草原リス)や野ウサギなどの小動物を狙い、大きくなるとともに、狙う獲物も大きくなっていった。その日常的な騎馬と騎射が、そのまま軍事訓練になり、成人した男子の総てが戦士として戦えるようになった。だから、数こそ少ないが、移動が速く、手薄な処を選んで襲撃しては、巧みな弓術で攻めかかる。略奪したものは自分自身のものになるので、いつもやる気満々だったという。数で反撃されそうになると、逃げ脚が速く、さっと退却する。それはちょうど「鳥の群れ」のようだと、中国側の歴代の高官は地団駄を踏んだ。これに対し、中国の農耕民族は、鋤と鍬で生活をしてきた。軍隊といっても歩兵が中心であり、しかも普段は農耕をしている農民兵がほとんどだ。騎馬民族の襲撃を防ぐ手立てが無いのが実情だった。馬は最大の武器であり、相手だけがそれを使えるようなものだったから、中国側からみると、凶器を持った相手に素手で立ち向かうに等しかった。馬の機動力を使って敏速に遊撃戦、運動戦を展開されると、対抗のしようがなかったのである。ここに数千年におよぶ遊牧民族と農耕民族の戦いの構図が生まれた。それは農耕民族に対する遊牧民族の襲撃である。農耕民族が耕作して収穫した物を食糧の乏しい遊牧民族が襲って略奪する。いや、収穫した物にとどまらず、生命、財産までも脅かす。こうして、中国は、ほとんど有史以来、北方や西方からの異民族の侵攻に悩まされた。そのためにたとえば都を渭水のほとりから洛水のほとりに移したのは、前７７０年のことである。それまでの都を鎬京(今の西安付近)といい、後の方を洛邑(今の洛陽付近)といった。いかに早くから侵攻が始まっていたかである。遊牧民族が中国に向かって南下するとき、オルドス北辺の黄河を渡ることが多かった。これは、時期的には、短い秋が過ぎ、黄河が凍結して、騎馬が氷の上を自由に渡れるようになってからが適していた。春にも襲撃は行われたが、氷が解けるときだし、春から夏にかけては集中的に雨が降って増水する時期である。しかも春、夏は収穫したものが少なく、襲撃しても危険なわりに成果に乏しい。また、春、夏は、北のゴビ砂漠の彼方、すなわち「漠北」の草原にも種類豊かな草が生え、馬がこの草を糧に繁殖期をむかえる。いちばん襲撃に適するのは冬である。この時期が中国で言う「天高く馬肥ゆる秋」なのである。(Ｐ１７～Ｐ１９)<br /><br /><br />『ハミとアブミ』<br /><br />遊牧民が国家的な規模で歴史に登場し、中国を脅かすのは前三世紀頃の匈奴の時代からである。匈奴が急成長したのは、たんに頭曼単于(単于は匈奴の王の意)、冒頓単于のような優れた指導者が出現したからだけではない。この頃、漠北にハミ(馬銜)が伝来したという事情がある。　ハミとは手綱をつけるために馬にくわえさせる金具のことだが、この伝来によって騎馬の技術が飛躍的に発展した。西方の遊牧騎馬民族スキタイから伝わったといわれる。人間が馬に乗るには、現在でも手綱とアブミ（鐙）が必要である。この２つで馬を御す。馬に乗るときに足をかけるアブミはまだ開発されていなかったが、馬に慣れ親しんだ遊牧民にとっては、ハミさえあれば手綱が使え、自由に馬を御すことができた。秦の統一前、北方の諸侯国である趙の武霊王(在位前３２５～前２９９年)が異民族に対抗するため、「胡服騎射」を唱えたことは、よく知られている。つまり、騎馬に適さない中国の服をかなぐり捨て、異民族と同じ騎馬に適した服を着て馬上から弓を射る軍隊を組織しなければならないとした。そうしなければ異民族に対抗できないとした。どれだけの実績があげられたか。少なくとも本質的に対抗できるまでには到らなかった。子供のとくら覚えた騎乗と後に訓練で得たそれとは全然違うからだ。農耕民族が馬に乗るにはハミだけでは足りない。アブミも必要だった。が、たとえアブミが開発された後でも、農耕民族が騎馬軍を創設して、異民族の騎馬軍に対抗できるまでになるのは現実には不可能であった。遊牧民の方は、ハミさえあれば騎馬隊を創って手練の武器を手に中国に攻め込むことができた。攻められる方は、ただの定住農耕民族であるから、簡単に家を焼かれ、財を奪われ、人間も殺されたり、連れ去られたりした。国境線も長いが、騎馬軍団は馬による移動という機動性を活かし、場所と時期を選ぶことができた。(Ｐ２１～Ｐ２３)<br /><br /><br />『夷をもって夷を制す』<br /><br />そこで、中国側としては、異民族の捕虜や離反者を優遇して国境近くに住まわせ、その騎兵としての能力を利用して、攻めてくる異民族を防ごうとする方法をかんがえついた。これが「夷をもって夷を制す」政策だ。宋の王安石の言葉であるが、実際は春秋戦国時代から諸侯国でも採用されてきた。騎馬に苦しんだ中国側の苦肉の策だ。長城を造ろうと、騎馬はある程度、騎馬で防がなければならない。そのためには、この策を採るしかなく、以来、中国の各時代を通じて伝統的に採用されてきた。(中略)しかし、異民族を利用して異民族を抑えるという政策は、極めて危険なことだ。彼らの力を強くしなければ意味をなさないし、強くし過ぎれば両刃の剣となって、いつ中国に向かってくるか、わからない。例えば、後漢末から五胡十六国時代にかけての混乱がそうだ。異民族国家が多数出現した。唐の安禄山の乱もそうだ。(中略)そこで「夷をもって夷を制す」政策と並行させて長城を重要視した。軍隊と長城の併用である。明代以前の長城は、土で造った長城がいちばん多いが、時代や場所によって、いろいろある。東の方や山区では調達しやすい石を積み重ねて造ったところもあれば、石と土の両方を使ったところもある。土といっても、黄土である。黄土は、水と一緒にしてタコ(杵の類)で突き固めたあと乾燥させると、非常に固くなる性質がある。そこで寸法を決めた板の囲いの中に黄土と水を入れて捏ね、タコで突き固める。日を経て囲いをはずすと土手のような長城ができる。いわゆる版築という製法であるが、さらに西のシルクロードの方に行くと、黄土の粘土の中に補強のために葦やタマリスクの枝を混ぜているところもあり、これが漢代の遺跡の中では意外に生々しく残っている。日本の昔の家の壁土に切り藁を混ぜたのと同じ原理だ。また表面に日干しレンガを積み重ねたところもある。日干しレンガとは、版築の長城と同じようにレンガ大の寸法で板の囲いを造り、そこに黄土と水を捏ねて入れ日干しにして造ったレンガだ。現在の長城のように焼いたレンガが使われるようになったのは明代も後半になってからである。そして、これはオルドス内の長城の途中から東方に限られる。これらのレンガが中国でいう「磚」(せん)である。秦時代の長城は、ところによってまちまちだが、高さが平均して２・５メートルぐらいであり、幅は平均３・５メートル、上部で２・５メートルぐらい。現在、我々が眼にする長城と比べると、ずいぶんと低い。中国各地に点在する遺跡を見ると、その多くがかなり崩れ、単なる土手の跡ぐらいに見える。だが、当時はその前に溝を掘ったり、さらにその手前に城壁のような土塀を設けたりしていた。これでかなり馬を防ぐことができた。馬を防げないことがあっても、長城を使って戦えば有利に戦えた。つまり、長城を単に異民族の騎馬に越えさせないためのものではなく、これと戦うための武器の一つと考えたわけだ。(Ｐ２３～Ｐ２６)<br /><br /><br />『袋のネズミ』<br /><br />北方異民族が南下して中国に侵入する場合は、まずオルドスを狙う。オルドスが狙えないときは、それより東の部分である今の山西省の大同方面を中心に狙う。　オルドスとは、黄河が上流部分で大きく北の方にコブ状、あるいは乳首状に曲がっている部分で、かつ長城の北側をいう。明末、モンゴルのタタール部の傘下がオルドス部として一時占領したことで慣用的にこの地方をオルドスと呼ぶようになったが、中国では「河套」(三方が河の意)と呼ぶことが多い。なぜ異民族は南下する場合、オルドスを狙ったか。オルドスには砂漠もあって牧草地があって、騎馬軍団には戦略的に適していたからである。砂漠は彼らが最も得意とする遊撃戦、運動戦を展開するのに有利だし、牧草地があれば馬の飼料が確保できるからである。しかもここを攻略すれば、すぐ南に中国の都を睨むことができる。黄河を渡ることができないときは東側の大同方面を狙う。長城を越えさえすれば、その辺りには中国有数の牧草地があり、オルドスと同じような条件になる。だから、この付近の長城は何重にも造ってある。ところによっては、なんと二十何重にもなっているという。長城を何重にもしておけば、迂闊に長城を越えた騎馬を本体から引き離し、袋のネズミにすることができる。長城を武器の一つと考えるゆえんである。異民族が南下して中国に侵入する季節は、前述のように冬が多い。漠北の秋は短く、一気に冬が来る。夏の間、ステップ(北方の草原地帯)で青草を充分に食した馬は、秋を迎えて体ができている。だが、体ができても、あくまでも生き物のことだ。その後も草を食さなければならないことにはかわりはない。元々、ステップにおける遊牧民は、春から夏にかけ、草と水を求めつつ、平原から涼しい山腹に移動して家畜を放牧する。これを夏営地(ジュラサン)という。平時ならば、冬は平原に戻り、北風が吹けば家畜を南向きの谷間に導く。ここを冬営地(エブルジャ)という。馬は比較的雪の浅いところを脚で掘って枯れ草を食す。家畜の乳、多くは馬乳であるが、その出は悪くなる。遊牧民の食料は白(乳製品)と赤(肉)といわれる。野菜は無い。野菜が無くとも、彼らは生きてきた。ビタミンは主に動物の内臓を通じてとる。冬の時期、彼らは乳製品を切り詰めなければならなくなる。家畜は痩せ、これを殺して食べるときは、文字通り財産を食い潰す思いだという。遊牧民にとって冬は家畜とともにひたすら耐える最も苦しい時期である。遊牧民の生活の良し悪しは冬次第だといわれる。昔の北方異民族は、この冬の時期に略奪を仕事として集団で南下したのであるから、現代の遊牧民族とは生活の内容が全然違ったわけだ。そして、リーダーが優れていれば、略奪したものを糧としながら強力な軍団になった。(Ｐ２９～Ｐ３１)<br /><br /><br />『黄河の凍結期に渡る』<br /><br />冬が南下に適している理由の一つは黄河の凍結にある。オルドスは乳首状の先端部分がいちばん北に位置しており、北緯４０度以北となる。現在は内蒙古自治区のいちばん南の部分になるが、海抜が１０００メートルぐらい。今でも、いちばん早い地域ではだいたい１１月初旬になると氷塊が流れ出し、早ければ一週間もたたずに凍結する。が、人馬がその上を渡れるようになるには、なお時間がかかることがある。氷の厚さは平均約１メートル弱、その上に黄土が積もって平地と同じようになり、車馬の通行ができるようになる。騎馬も難なくその上を渡河できるようになるわけだが、１年のうち数ヵ月がこの状態になる。ただし、これらの氷の厚さ、凍結期間は、人民共和国成立後のものである。それ以前は水温がもっと低かった。人民共和国成立後に支流だけでも、２００近いダムができ、もちろん本流でも青銅峡、三盛公(渡口堂)、劉家峡、塩鍋峡、さらに八盤峡、天橋、龍羊峡などに多目的ダムができ、全体として水温がかなり上がっている。この上がりかたは正確にはわからないが、氷の厚さでいえば、戦前の日本側の資料ではオルドスの先端部分で氷の厚さが１メートル５０センチと記されている。さらに、たとえば１５２７年「八月庚戌」には数万のモンゴル軍が黄河の氷を渡って寧夏(今の銀川)を襲ってきたという記録がある。新暦に直すと、現在より二ヵ月近くも早く凍結していたことになる。たかだか４００年あまりでもこうも違うのは、自然条件の変化ばかりでないことがわかるだろう。したがって、ダム建設以前は、現在よりも氷が厚く、凍結期間も長かった。少なくとも、古代から中世にかけての黄河の凍結期間は、現代より遥かに長かった。西から異民族も黄河を渡ってオルドスに侵入してきた。その場合は、今の青銅峡あたりからである。黄河は上流から銀川を過ぎると、川幅が狭い峡谷になって渡り難くなる。そしてオルドスの先端部分よりはやや南になるため、凍結も遅く、解氷が早い。しかし、凍結が一原因となって銀川は水陸交通のうえからも政治のうえからも古来要衝の地になっていた。無論、凍結前の氷塊が流れている間は馬では渡河などできない。土地の人は、かつて氷塊を舟がわりにしていたが、危険このうえなかった。自分の乗っている氷塊より大きな氷塊とぶつかるときは、衝突寸前にそちらに素早く跳び移らなければならない。跳び移るタイミングが遅れると衝突のショックで河にとばされ、命を失うことになる。　滑ったりして河に落ちればやはり同じ運命になる。そして、騎馬軍団にとって、凍結しさえすれば渡河できるというものでもなかった。(Ｐ３２～Ｐ３４)<br /><br /><br />『冬の洪水』<br /><br />凍結が原因となって冬の洪水になることがある。上流から流れてくる水とか氷が、凍結した巨大な氷塊(中国では「氷の堤」と言っている)に邪魔されて溢れるときだ。こういう大きな河川の酷寒地方の解氷の仕方には二通りがある。中国ではこれを「武開」と「文開」という(開は氷がとける意)。武開がおこるのは、上流の方が温度が高く、解氷が上流からおこなわれるときだ。文開は反対に下流の方が温度が高く、下流から解氷するときだ。文開の方は静かに異常がなくすむが、武開のときは上流で溶けた水が小さな氷塊と一緒になって流れ、下流の氷塊にぶつかる。これを繰り返しながら、下流の巨大な「氷の堤」な邪魔されて行き場を失うと冬の洪水になる。これを「凌ジン」という（山口注：ジンの漢字は、“迅“のシンニュウ部分がサンズイとなる字）。凌ジンが起こる方に武の字が使われ、静かで異常が無い方に文の字が使われている。オルドスの北緯４０度以北の黄河は、それまでの北流から東流に変わるが、統計によれば、約６０パーセントが武開になり、約４０パーセントが文開になる。武開になるか、文開になるかは、風向、風速、気温による。　このあたりの冬は北西の風の影響が強く、記録的なものまでいれれば最低気温は零下３５度に下がる。が、普通は零下１５度から零下２０度ぐらいである。凌ジンが起こるのは、上流では蘭州付近、それに銀川から内蒙古自治区にかけての北緯３８・３度から４１度ぐらいまで、下流では北緯３４・８度から３８度ぐらいまで、すなわち鄭州付近から渤海までとなる。中流は勾配が急で流れが速く、あまり凍結しない。匈奴以来、漠北の異民族の南下は冬に集中しており、必ずしもオルドスだけを狙っていないのは、黄河の氷の具合によった場合が多いとみられる。遊牧民の騎馬は凍結していない時期の濁った河川を極端に恐れた。それにはそれだけの理由があることだ。時代が下り、人民共和国成立後は、多数のダムで水量をコントロールすることにより、凌ジンの防止を行っている。が、これだけでは完全には防止できず、空軍による爆撃や、その他の爆薬使用によって氷を人為的に破壊する作業を行い、大きな災害になることはほとんどなくなった。要するに、黄河の洪水は大きく分けると、冬の洪水と夏の洪水の二種類になる。冬の洪水は、後述するように、１８５５年から１００間でみると、下流だけで堤防が決壊したケースが２９年ある。匈奴の時代は、水利事業があまりなかっただけ、その頻度はもっと多かった。したがって、異民族は毎冬オルドスを狙うわけにはいかなかったのだ。(Ｐ３４～Ｐ３６)<br /><br /><br />『ヨーロッパとは対照的』<br /><br />モンゴル馬、およびこの系統の馬はみな小さい。我々が、いま目にしやすいサラブレッドに比べると、二まわり、いや三まわりぐらい小さい。漠北(山口注：ゴビ砂漠の北、モンゴル高原)に住む異民族は、紀元前の匈奴時代より遥か以前の時代から、こうした小さい馬を飼い、これに乗り、生活の糧を得てきた。その頃、すでに牝の馬に牡のロバを掛け合わせてラバを産ませたり、牝のロバに牡の馬を掛け合わせてケッティを作り出そうと試行錯誤を繰り返していた。そういう知識や試みを持っていながら、彼らは馬を交配によって大きくしようとはしなかった。それから１０００年経っても、２０００年経っても、漠北の民族は、馬の大型化をはかろうとはしなかった。周知のように、１３世紀のチンギス汗の時代には、西方に遠征し、次々に征服をし続け、ヨーロッパにまで軍を進めて史上最大の帝国を造り出した。これにより、ヨーロッパや中央アジアにいた大きい、均整のとれた、脚も速い馬を自由に手に入れる機会を得たわけだが、根本的にこれに乗り替えるとか、この血統で馬種を改良するとかなどは、考えなかった。ヨーロッパでは、こうした方針とは対照的だった。だいたい前１７世紀前後のヒッタイトやアッシリアの時代から、ひたすら馬の大型化をはかってきた。有史以来とも言われる。軍事、運搬、乗用、競馬など様々な面から馬の大型化を必要としてきた。このため、モンゴル軍がヨーロッパに攻めていったときは、ヨーロッパの人間の眼には「ネズミのような馬に乗った未開人」の群れと移った。「ネズミのような馬」とは馬をこきおろすときの常套句である。なぜ、漠北の民族は、頑なに小さな馬にこだわったのか。むろん進化や進歩に無関心だったからではない。また、先祖の遺産を尊ぶとか、信仰的とか、他の理由によるものでもない。遊牧という意味からも、軍事的な意味からも、小さなモンゴル馬がすぐれているとみていたからである。(Ｐ４９・Ｐ５０)<br /><br /><br />『ナポレオンの敗北』<br /><br />ユーラシア大陸を股にかけるような規模の遠征には、馬が克服すべき条件として、少なくとも３つあった。まず粗食に耐える。次に悪路をこなせる。そして厳しい気象にも屈しない。この３つは、互いに関連しあい、その一つが悪化すれば、途端に後の２つの悪条件も増幅される。例えば、飢えが続いた後ならば、悪路、気象条件が一段とこたえる。悪路ならば、餌もとりにくく、暑さであろうと寒さであろうと、疲労を増す。炎暑なら、飢えと悪路がそれだけ響く。これらのことは容易に想像ができよう。こうした粗食、悪路、厳しい気象に耐えられる馬となると、小さな馬しかいないのだ。大きな馬は、この一つにさえ、耐えられない。漠北の遊牧民族は、匈奴の時代、あるいはそれ以前から、経験的にこのことを熟知していた。だからこそ、１０００年も２０００年も、小さな馬にこだわり続けて、決してヨーロッパ各国のように馬の大型化をはからなかったのだ。これにより、広大なユーラシア大陸を自宅の庭のように駆け回ることを可能としたのだ。馬は小さい馬ほど性格的に扱い難いところがある。自己主張が強く、頑固で、気も荒く、人を乗せたがらない。だが、巧みに調教すれば、これらの気性のために逆に我慢強く、勇敢で、恐怖におののいたりしないようになる。遊牧民は、優れた馬の扱いと騎乗技術によって、まずこうした気性の馬を征服してしまい、軍事においても運搬においても、自由に使いこなせるように調教してしまう。しかし、彼らの技量をもってしても、牡馬は去勢する。　牡馬はごく少数の種馬用を除いて軍用に使ったが、軍用の牡馬は去勢しなければならない。去勢しておいたほうがおとなしく、扱いやすいばかりではない。去勢しなければ、いかに行き届いた調教をほどこしていようと。作戦実行中に敵馬や牝馬の匂いを嗅ぎ付けて、いななきやすいのだ。これは本能的なものであり、調教ではどうにもならないものだ。もし、作戦実行中にいなないたりすれば、作戦が失敗するばかりではなく、命取りにもなりかねない。去勢をしても、一年間ぐらいはだいたい性欲があるので、子馬のうちに行ってしまう。馬の去勢は、中国でも変わらない。おそらく騎馬民族との戦いの歴史によって去勢が常識になっていったのだろう。したがって、近代において、日本軍が日本から去勢されていない牡馬を中国に持ち込むのを見て、彼らは失笑を禁じ得なかったという。馬の大型化をはかり続けたヨーロッパの国や民族には、モンゴル軍が行ったような遠距離遠征は不可能だった。皮肉にも改良のはずの大型化が進めば進むほど出来なくなった。歴史上、東から西へ攻めていったことはあっても、西から東へ攻めたことはない。東から西へ攻めたのは、フンの時代もあれば、モンゴルの時代もあったが、西から東に大規模に遠征したことはない。前四世紀、アレキサンダー大王のときは、難儀をしながらも、カイバル峠、ヒンズークシ山脈を越えることはできたが、危険を冒してインダス川の支流を渡ったところで、疲れはてた傭兵たちの拒絶にあい、インド攻略を前に挫折した。馬の大型化が進んだ時代のナポレオンが試みたのはロシア遠征だったが、これまた成功はおぼつかなかった。大きな馬は長距離の遠征にはむかないのだ。(Ｐ７１～Ｐ７４)<br /><br /><br />『小さな馬の利点』<br /><br />日本の農村には、昔、馬の飼料について、「一寸倍」という言葉があった。モンゴル馬ぐらいの大きさの日本馬を基準にして、これより馬の体高が一寸高ければ、飼料が二倍は要るという意味である。モンゴル馬とヨーロッパの軍用馬とを比べると、体高は四寸以上の差がある。かりに三寸だとしても、この伝でいけば、ヨーロッパの軍用馬一頭が、モンゴル馬一頭の飼料の八倍も要ることになる。まさか、そんな差があるわけはない、とは思うが、重種(山口注：ペルシュロン種、ブルトン種、シャイヤー種等の重輓馬、北海道で重い丸太を曳いて競争する輓曳競馬の馬もこれにあたる)とポニーだったら、わからなくなる。ともかく、小さい馬と大きい馬とでは、そんな言葉が出てくるぐらい、餌の量がちがうということだ。とくに餌の乏しい条件のもとでは、その差は決定的だ。日本でも、貧しかっただけに餌をたくさん食する馬は嫌っていたのだ。ステップや砂漠では、飼料の条件が極めて限られている。小さい馬と大きい馬とでは、生死を分けるほどの差があった。漢から大宛への道程は(山口注：漢の武帝が遊牧民族・匈奴の侵攻に対抗するため、中央アジアの大宛国に産する名馬・汗血馬を獲得すべく行った遠征のこと)、どこまでも続くような砂漠やゴビ灘(山口注：砂ではなく豆粒ほどの小石で形成されている)だったり、岩の多い丘陵だったり、岩と岩の間で馬一頭がやっと通れるような隘路だったり、よく滑る岩の難路もあった。敵軍を避けた山中の行軍では、一歩間違えば谷に落ちる険路もあれば、山間の奔流で丸太の橋を渡らねばならないこともある。実際、フビライが経験した遠征は、こうした難路の連続だった。小さなモンゴル馬は、このようなとき、怯えることなく、驚くほどの器用さと粘り強さで、難路を克服する。その点、大きな馬は、不器用でもあれば臆病でもあり、事故を起こしやすい。そもそも、馬が危険を察知すると、巨体で抵抗して前へ進もうとしない。周知のように、万里の長城は多くのところで峻険な尾根を伝わっている。非常に険しい尾根には「単辺牆」といわれるように塀一枚だけのところもあるが、それでも長城である。これはモンゴル馬ならばそんな尾根でも越えられる可能性があるということを中国側が知っていたからだ。２０００年以上も敢えて改良しようとしなかったモンゴル馬は、小さいばかりでなく、見映えもしない。頭が不格好に大きく、首も太い。たてがみが多く、眼が小さい。耳は短く、厚い。全体が毛むくじゃらで、背も低い。脚は体に比べて太く、どこにもスマートさは無いし、走って速そうな感じもしない。中国には、古く漢の時代に既に「相馬経」というのがあった。相馬経とは、馬の将来性を占うため馬体の各所を見てその良し悪しを鑑別する方法を説いた本である。こうした相馬経に照らしても、モンゴル馬は高く買える要素がまりでない。だから、漢の武帝が汗血馬を見て狂喜したのが、実によくわかるのだ。(Ｐ７４～Ｐ７６)<br /><br /><br />『モンゴル人にとっての馬とは』<br /><br />馬は用途によって優劣が異なる。楕円形の小さい競馬場では、モンゴル馬はサラブレッドには歯がたたない。が、ユーラシア大陸を股にかけるような遠征では、モンゴル馬のように小さい馬が、断然優れている。実際、今でも中国の競馬場ではモンゴル馬が走っているが、競馬場でのレースのタイムを比較すると、２０００メートルで１ハロン以上ちがう。つまり、一緒に２０００メートルのレースをすれば、モンゴル馬は、サラブレッドに２００メートル以上も離されてしまう計算になる。チンギス汗の軍隊を眼にした当時のヨーロッパで「ネズミのような馬」といわれたのも、単に見かけだけではない。だが、モンゴル馬は、胸が厚く、後躯も発達しており、骨太の脚は頑健である。サラブレッドの「ガラスの脚」といわれるひ弱さは全くない。太い脚を使い、地面が凍って枯れ草が地面に埋まったときでも、遊牧だけで生きながらえることができる。モンゴル馬は、水や草にありつけなくとも、持ち前の精神力でなかなかへこたれない。草のあるステップといっても、高山帯あり、森林帯あり、砂漠帯あり、草や水にありつけないことも珍しくない。サラブレッドのような大きい馬をステップで遊牧させるとしたら、一頭あたり、どれだけの面積が必要だろう。飼料が充分でなかったら、天性の走る力も発揮できない。しっかり走らせるためには穀物も与えなければならない。サラブレッドだったら、どんな穀物にしろ、１日に四升から五升は食べる。サラブレッドの祖先にあたるアラブ種がアラビア半島で育ったのはアラブのオアシスで穫れた大麦を与えたからだ。穀物を食さなければ走れないような馬はステップの遠征には向かないのだ。そして充分な餌を与えられても、レースといえば、競馬でいう「馬なり」の時間、つまり馬の気分のまま走らせる全力疾走とは限らない時間が長い、せいぜい３０００メートルぐらいの距離だ。漠北で行われるモンゴル馬のレースは、伝統的に２０キロ、３０キロが普通だ。いちばん人気のあるレースは３０キロだ。冬のレースでも１５キロある。死ぬまで我慢して走り続ける精神力を持っているので、レースでは死ぬ馬が続出する。ユーラシアの遊牧民族と西方の馬愛好民族とでは、考えていること、やることが全く違うのだ。かつてアラブ種は、アラビア半島で、砂漠の中をより速く、より長く走れるようにするため、穀物を与えられ、栄養をつけられて育った。もともと砂漠の戦闘に備えるとか、商用のキャラバン等を襲って略奪行為をするなどの目的をもって創られたから、距離といっても、ユーラシア大陸の遠征に比べると、たかがしれている。せいぜい数キロももてばいい。したがって、こういう馬とモンゴル馬と、どっちの馬が優れているか、という設問はあまり意味をなさない。モンゴル民族は、漠北の遊牧やユーラシア大陸の遠征には。モンゴル馬がいちばん優れていると信じていた。経験に富んだ生粋の遊牧民がそう判断してきたのだ。『馬と進化』のシンプソンはこう記している。「モンゴル人は、馬によって軍事的成功を得たばかりか、その全文化の本質を馬に求めた典型的民族であった。モンゴル人にとって、馬の無い生活はあり得ず、馬は武器であり、そして防御物であり、さらに食料、飲物、友人、神であった。馬の乳は日常の飲物として新鮮なまま、または軽く発酵させクミスにして飲んだ。このクミスからはまた、度が強くてモンゴル人の酒宴の席でひどく人を酔わせるアラック酒を作った。食料を持たないで旅をする兵士は、時々自分の馬を切り開いて血を飲み、傷口を閉じると再びその馬に乗ったものである」(原田俊治訳)ここで言う馬とは、無論、身体の小さなモンゴル馬のことである。もし、身体がサラブレッドぐらいに大きな馬だったら、どうだったか。１３世紀のモンゴル軍が、同じ数の馬を連れていたら、餌の量からして餓死させねばならない馬が多かったろう。餓死させないために数を減らしていたら、遠征は成功しなかったろう。机上の空論ではなく、モンゴル軍が李広利(山口注：漢の武帝が汗血馬を獲得するために中央アジアの大宛国に遠征軍を出したときの将軍)の遠征のように馬をたくさん餓死させたという記録は残していない。現実に疲れていたはずの馬を使って戦勝し続けた記録が残っている。小さなモンゴル馬だからできたことである。　(Ｐ７８～Ｐ８１)<br /><br /><br />『最初の万里の長城』<br /><br />万里の長城は、あくまでも馬をくい止めるためのものであった。このことを忘れると、犠牲が大きかった事実、長城が何度も越えられたという事実だけで長城を見てしまう恐れがある。だが、長城の効用については、もうひとつの事実を考えてみるべきである。すなわち、長城のおかげで黄河流域の民の営みが続けられたという事実である。　秦が天下を統一した後、万里の長城を造り始めてから、明の大規模な工事により今日我々が眼にする万里の長城になるまで、実に１８００年間を経ている。この間、幾つかの例外を除けば、ほとんどの王朝が万里の長城を造り変えたり、なおしたりしている。これら多数の王朝の皇帝たちは、大きな犠牲を払いながら、役にも立たない長城の補修や増築をそれぞれに国力をかたむけて行うほど、おめでたい権力者たちだったのだろうか。中国が秦の始皇帝によって統一される前の戦国時代、各諸侯国はそれぞれに自国の周囲に長城と同じような城壁を造っていた。むろん版築によるものがほとんどである。それはちょうど黄河の洪水を防ぐとき、堤防を造るのではなく自分の領土を囲むように城壁を造ったのと同じ発想である。この城壁は他の諸侯国の軍、とりわけその主力をなす戦車をくい止めるのに大きな役割を果たした。(中略)北方の諸侯国の城壁は、他の諸侯国の軍だけではなく、北の異民族を防ぐ目的があった。異民族の騎馬軍団は極めて戦闘力が強く、その防御には頭を痛めた。確かに城壁で全面的に防ぐことはできないが、それが全く無くて戦うのと、それを防壁にしつつ戦うのとでは、全く違う。秦の始皇帝による統一前、漠北の東方、すなわち今の東北南部、河北省の一部にまたがる地方に燕の国があった。燕の西側、今の河北省、山西省、内蒙古自治区にわたる地方に趙の国があった。さらに趙の西方、オルドスの大半、今の寧夏回族自治区、甘粛省、青海省におよぶ広大な地域に秦があった。これらの城壁を活かして、それをなおしたり、繋いだりしながら、完成させたものである。始皇帝によって造られた長城は、今の甘粛省の臨トウ(山口注：トウの字は、サンズイに兆)から遼東まで一万余里だったと『史記』には記してある。秦は、万里の長城として活かした北の城壁以外のそれまでの城壁は、すべて支配した土地の民を動員して取り壊した。中国が統一された以上、それは不要になったばかりか、統一を妨げるはたらきを持つからである。取り壊す労力もまたたいへんなものであったろうが、わりに短期間で行っている。(Ｐ２１９～Ｐ２２１)<br /><br /><br />『本格的長城の建設』<br /><br />長城が完成しても、それは頻繁に越えられる。だが、越えられても、越えられても明(山口注：朱元璋がモンゴル民族の元帝国を滅ぼして建国した漢民族の王朝。１３６８～１６６２年)は長城を補修するばかりか、１６世紀後半にはいると、高さで約三倍、費用と労力はおそらく何十倍にものぼる長城の増改築にとりかかる。過去、多くの王朝が長城にこだわってきたが、明は特別である。我々の見る明の長城は、北京近くの居庸関から山海関までの表面をレンガで覆った堅牢なものだが、こういう形になるのはその１６世紀後半になってからのものである。それまではほとんどが版築だったり、石を積んだ長城だった。ここのところが日本人にはわからない。何故、どうせ越えられるのに大きな犠牲を払って長城を造り続けるのか。だが、これはおそらく他国に本質的に侵されることの無かった人間だけが覚えられる疑問である。その根本はオール・オア・ナッシングである。まったく越えさせないか、玉砕かである。だが、大陸ではそうはいかない。人間は生きなければならない。生きるために食わなければならない。食うためには生産(農作)か商いをしなければならない。農作を守るには大きな犠牲をともなう。犠牲の無い生き残り策は無い。長城をめぐるせめぎあいには、島国の人間には想像も理解もできない厳しさがある。たとえ襲撃され略奪されようと、それが日常的でなく、たとえば一年に一度、三年か四年に一度ならば、農作は続けられる。貧しくとも、生き残ることができる。つまり、長城によって襲撃の回数を減らすことができれば農作ができる。王朝が倒され、家族が殺され、混血となり、ついには人種がすっかり変わろうと、農作ができる限りは生きられる可能性がある。もし、長城を造らなければ、日常的に襲撃されると覚悟しなければならず、それでは農作どころか、おちおち眠ることさえできないのだ。だから、長城を造り続ける長城を越えられ、襲撃され略奪されると「没法子(しかたない)」で、諦めるしかないが、実はこれは本当に諦めるのではなく、生き続けるためのしたたかな知恵なのだ。後述するが長城は、異民族にある程度越えられることを覚悟して、或いはそれを前提して造ってある。越えられたら、その時点で諦めるのではなく。次の手立てを考える。戦術的に相手を袋のネズミにすべくわざと越えさせたことだってある。長城はそういうものであり、そのように造られている。強力な敵に対して日本流に玉砕戦法を選ぶなら、農耕も亡くなれば文明も滅びたであろう。「生きて虜囚の辱しめを受けず」などという思想はとんでもない。これはユーラシア大陸では滅びの哲学だ。たとえ一兵なりとも生き延び、反撃のチャンスを待つ。これが大陸で生き残った民族の現実的な思想である。だから、長城は造り続けられた。これにより、農耕生活は続けられ、黄土文明は守られてきた。ならば長城は人類が血と土にまみれながらもしぶとく生き続ける尊い努力とエネルギーの証しと言えないだろうか。(Ｐ２９７～Ｐ２９９)<br /><br /><br />『越えられたら明の長城』<br /><br />我々は、長城を見るとき、これを攻めようとした敵軍があって、その敵軍を首尾よく撃退できれば、なるほど長城は役に立ったと納得しがちだ。たとえば、長城に登ってくる敵を弓や鉄砲で追い返す、あるいは矛や刀で叩き落として退ける。こういう記録があるなら長城は建設の努力の甲斐があったと認めたい。が、そんな子供向きのような撃退劇は現実には少ない。だから明の長城は結局無駄だったと思われがちになる。しかし、長城は、攻めてきた敵を退けるという状態では、まだ最上とはいえない。最も優れた長城とは、敵をよせつけもしないほど堅牢であることなのだ。(中略)だが、始末が悪いことに、敵をよせつけもしなかったということは歴史に残り難い。歴史に残るのは、つねに突破されたときばかりだ。明の長城も、山海関を清軍(山口注：清＝現在の中国東北部を発祥の地とする女真族が、明を倒して建てた王朝)に突破された。結局役に立たなかったではないか、と、こうなってしまう。だが、実状を見てみよう。清は初代の太祖ヌルハチ、二代目太宗ホンタイジとも、長城攻略には成功しなかった。ホンタイジは何回も長城突破を企てて失敗している。三代目の世祖フリンは即位したとき六歳だったので、叔父のドルゴンが摂政を務めた。このドルゴンの軍が山海関に迫っていた頃、すでに明の側に大きな政治的異変が起こっていた。明の上層部の腐敗が進み、経済は破綻し、農民暴動が多発して、その一つ李自成の反乱軍が北京を占領して、国全体が崩壊寸前となっていた。１６４４年３月１９日、反乱軍は遂に宮城に攻め込んだ。時の明の皇帝は崇禎帝であったが、すでに完全にハダカの王様になっていた。急を知った崇禎帝が自ら緊急の鐘を鳴らしたが、誰一人として駆けつける者はいなかったという。これが明末の状態を象徴している。こういう明の状態で、山海関は突破された。それまで山海関を守っていた明の守将は呉三桂という。何度も清軍を退けてきたが、明が滅ぼされ主を失ったため、新たな支配者の李自成に従うべきかどうか、迷った。一方、李自成は、当然、呉三桂が自分に従うものと読んでいて、宮中で女性と享楽に耽っていた時、呉三桂が李自成の軍に矛先を向けたという報に接して仰天したという。呉三桂は、父が李自成の軍に投獄され拷問を受けていること、婚約者であった美貌の陳円円という女性が李自成の部下の劉宗敏という将軍に奪い取られたことを知って、李自成に同調しないばかりか、これと戦う決心をしたという。李自成はこれを聞くと、呉三桂を討つべく２０万の兵を発して山海関に向かった。単独では李自成にかなわない、とみた呉三桂は、なんとそれまで敵だった清軍に救援を求めた。清は渡りに船とばかりに、これに応え大軍を差し向けた。呉三桂は清軍を長城内に招き入れ、先導役を務めて北京に向かった。大軍に攻められた李自成は退き、遂には北京を支えきれず、宮殿に火を放って逃れた。が、結局戦死する。こうして長城は清軍に越えられたらのだ。これは堅牢な長城も役に立たなかったから越えられたのではない。どんな長城だって兵と一体になっていなければ機能しないのだ。明の長城が本当にその機能を発揮したのは、中国が清の領土になってからだ。(Ｐ３１７～Ｐ３２１)<br /><br /><br />『清朝がうけた恩恵』<br /><br />まがりなりにも長城を越え中国を征服した清は、康煕帝(聖祖)、雍正帝(世宗)、乾隆帝(高宗)の時代となる。この三皇帝は名君とされ、とくに長命でもあった康煕帝(在位１６６１～１７２２)、乾隆帝(在位１７３５～９５)は、並べられて康煕乾隆時代と呼ばれる。　三代の合計は１３４年間におよぶが、善政をしいたため、社会は安定して生産が空前の高まりをみせ、この経済的繁栄によって人口が回復し、さらに大きく増加し、国力の充実を成し遂げる。のみならず強大にして賢明なる対外政策によって版図も漢、唐の時代を凌ぐ史上最大なものとなった。漠北には親征も含めてたびたび遠征し、モンゴルの残存勢力を討って以後、それらしきものは僅かにガルダンに率いられたジュンガル部ぐらいであった。それも康煕帝の軍によって衰勢の一途を辿らされた。文化的にも深い関心をよせ、『康煕字典』『古今図書集成』『四庫全書』他を生み、文運盛大な時代を築く。しかも、康煕帝の使った宮中費用が明代のそれに比べ著しく少なかったと、その節倹ぶりが称賛される。清の前半は良いことずくめだ。長城は必要がなくなった時代と言われる。本当にそうだろうか。これら清の善政の治積の全ては、明の長城ができていたことを条件とし背景として、初めて行えたことではないだろうか。明時代の堅牢な長城が無ければ、やはり北の異民族は全く別の強力な異民族となっていたかもしれない。したがって清も別な清になったかもしれない。明の長城があればこそ、北の異民族の勢力は強くならず、来襲が無くなり、あたかも長城の役割が終わったようにみえるだけなのだ。まもなく脅威になってくるロシアとて、騎馬の強さだった。日本はロシアに勝ったが、前述のように騎馬戦では、コザック部隊に圧倒された。ロシアに対して清が強く出られたのも明の長城があったからだ。(中略)逆に言えば、明の長城が無ければ、清王朝も北の脅威をうけて短命に終わったかもしれない。清の長命王朝は明の長城の賜物だったと言えるかもしれない。このことに触れることなしに、万里の長城は無駄なことのようにみなされてきたのではなかったか。単に長城が歴史の上で異民族に何回も越えられたらという事実だけで判断されてきたきらいがある。あるいは、日本人の心理的背景には、間接的にしろ、火器が発達した時代に日本軍が簡単に長城を越えたということもあるのかもしれない。無用の長物と解釈することは、長城の果たした役割を正当に評価することにはなるまい。少なくとも、そこからは何の歴史的理解も生まれないし、そんな解釈によって長城に眠る万骨の霊が浮かばれるとも思われない。反対に、長城の果たした役割を単なる無用の長物などとみるのでなければ、アジアの歴史の読み方もかなり変わってくるのではなかろうか。より複雑、豊富になって、多くの真実が読み取れるようになるだろう。長城のひとつひとつの土塊にすら熱い感情が湧いてくる気がする。(Ｐ３２１～Ｐ３２４)<br /><br /><br />本書の内容はこの他に、モンゴル騎馬軍団による中央アジアや、さらに遠くロシアやヨーロッパへの征服の進軍と、数々の凄絶な戦いについて。その兇猛剽悍さで行く先々の国や民を震撼させながら、ユーラシア大陸に空前絶後の大帝国を築き上げたモンゴル軍団が、唯一恐怖した大自然の猛威、黄河の洪水について。漢の武帝が宿敵の匈奴を撃滅するために、中央アジアの伝説の名馬「汗血馬」を獲得するべく国力を傾けるほどの大規模な遠征とその結末。　東アジアの歴史書の元祖にして、長年にわたり手本とされてきた『史記』に記された、秦・漢と匈奴との間で繰り広げられた、死闘と遺恨と恥辱と雪辱の史劇や、万里の長城の長城が漢民族どころか、異民族の征服王朝さえも、それを重んじ、それに頼り、補強を続けてきた例などなど。万里の長城が「無用の長物」という論の、我が国での主唱者が誰であるかを私は浅学のため知りませんが、もしもそれが第二次大戦後に出てきた論だとしたならば、いかにもマッカーサーの呪いである憲法第９条に毒された戦後日本の歴史観らしいなと思います。敗戦・被占領という、その時その時の好ましからざる結果だけを取り上げて、それを防ぎ、抗うための組織や道具の存在を、安易に無価値と決めつけ、それが作られたり、実行されるに至るまでの経緯、努力、必然性を考えない。過去の様々な事情や先人たちの苦労も、未来への大目標や子孫たちへの思いも頭の中には無い刹那主義者の歴史観に思えます。私が尊敬する小室直樹氏(故人)は、「万里の長城は無用の長物」という論を次のように斬り捨てていました。「これだけの膨大な努力をして造り上げたものが、無用の長物だったというなら、世界最高峰の中華文明を築いた人々が何千年にもわたって発狂し続けていたとでも言うのか？」(記憶を頼りに再現したので一字一句まで正確な再現ではありません、念のため）と。そして在日華僑で歴史作家の陳舜臣氏も、その著書で、「遊牧民は、羊を追って移動するから、羊が進むのを阻止できれば、それでよかった」と、長城の有効性を認めています。もちろん何度も長城は越えられ、遊牧民に蹂躙され、支配されたことがあるのも事実ですが、この世に万能の道具も、完璧な方法も存在しない以上、そういう結果になることもあるでしょう。しかし、たとえ万里の長城は突破されようとも、万里の長城を造り上げた中国人の強靭な生命力は、現代まで中国を存続させ続け、１０数億の巨大な人口を擁し、核武装までした大国として世界に大きな影響力を示しております。そして我が日本国をはじめ、近隣のアジア諸国の大きな脅威となっているのが現実です。私はこの現代における中国の恐るべきパワーは、数えきれないほどの北方騎馬民族の侵攻や支配という危難と屈辱にもしぶとく耐え抜き、万里の長城を建設し、補強し続けた漢民族の血と汗と涙の遺産だと思います。万里の長城についての言及ではありませんが、国際ジャーナリストの落合信彦氏は「生存への執念が無い国民は滅びて当然」と語りました。まさに万里の長城こそは、漢民族の生存への執念の凄まじさの象徴と言えるのではないかと思います。そしてこの漢民族に負けないくらい強い「生存への執念」が、私たち日本国民にも必要なのではないでしょうか。〔ＰＨＰ文庫〕<br /><br /><br />西野　広祥<br />昭和１０年、東京生まれ。東京都立大学中国文学科博士課程修了。慶應義塾大学教授を経て、東北公益文化大学教授。昭和４３年日本中央競馬会月刊『優駿』３００号記念懸賞論文に一等当選。昭和５９年より１０年間日本中央競馬会運営審議委員。主な著訳書に、『韓非子』『史記』『十八史略』(以上共訳、徳間書店)、『中国見たもの、聞いたこと』(新潮社)、『中国古典百言百話(２)韓非子』『新釈荘子』『人物中国五千年(共編著)』(以上、ＰＨＰ研究所)などがある。

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            <category>世界史</category>
      <author>管理人</author>
                </item>
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      <link>http://tig.seesaa.net/article/234131559.html</link>
      <title>銃に恋して～武装するアメリカ市民　著者／半沢 隆実</title>
      <pubDate>Tue, 01 Nov 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>《その黎明期、彼らは自身の生存を「銃」に託した。</description>
            <content:encoded><![CDATA[
《その黎明期、彼らは自身の生存を「銃」に託した。<a name="more"></a>まだその地理や風土が定かならぬ新天地。そこには治安機構も存在せず、自らに襲いかかる暴力的危難は自力で解決しなくてはならなかった。また文明が存在せず、未開の荒野で生計を立てねばならぬ条件下において、銃による狩猟は生命維持に必要不可欠だった。だから彼らの社会において銃の所持と使用は、神から与えられた不可侵の権利と誰もが考え、その思想と権利が継承されてきた。その「彼ら」の名は「アメリカ人」。対英国独立戦争、先住民との抗争、バッファロー等の狩猟による食糧確保や、家畜を襲う狼の排除、そして広大な大地ゆえに生じる治安機構の限界を補う護身のために、アメリカ人は銃を最良のパートナーとし、頼り、誇り、愛した。一方で、大量無差別殺人や、強盗、暗殺等を実行するための手軽な凶器として、多くの人々を傷つけ、悲しませ、脅かし、社会を悩ますものでありながら、しかしそれでも我と我が共同体の平和と安全にとって最も頼りになる強い守護神として信仰にも近い思いを多くのアメリカ人たちが抱いている「銃」。アメリカ人の自衛に関する倫理観と、銃無き日本社会からは異質とも思える市民感覚について、情緒やイデオロギーによらず、歴史的・風土的な考察を行って、まとめあげられたアメリカ文化論です》<br /><br /><br />◎内容抜粋<br /><br />【銃がつくった国家】<br /><br />『政府を倒す道具』<br /><br />１９９４年バージニア州で結成された「ブルーリッジ・ハントクラブ」は、狩猟同好会を隠れ蓑にした民兵組織であった。　創設者のジェームズ・ロイ・マリンズ(その後服役)は、政府が銃規制を強化しようとしていることを「人民への抑圧だ」として反発、一斉蜂起を計画した。「友人諸君。まだこの国にも骨のあるやつ、ガッツをもったやつらがいることがわかって嬉しい」。武器弾薬の備蓄を仲間に呼びかける演説を第一回集会に向け用意していたことも、自宅から押収されたコンピューターのデータなど証拠品から明らかになった。逮捕後の裁判で五年間の禁固刑を受けたマリンズ被告は、会員の元兵士や元警官らに対し、「作戦の重要な一部となる」として狙撃手養成訓練への参加を求めた。Ｍ１６アサルトライフル奪取のため、州軍基地の襲撃も計画していた。こうした暴力主義の武装集団とは一線を画すものの、“銃による革命権“の存在を主張する人々や団体は数多い。「個人の身を守る銃は、個人の権利を政府から守る道具でもある」という考えからだ。全米ライフル協会(ＮＲＡ)と並ぶ強力な銃の権利推進派ロビー、米銃所有者協会(ＧＯＡ)の関連組織で、カリフォルニアを本拠とするカリフォルニア銃所有者協会(ＧＯＣ)のサム・パレデス代表が、その論理を解説してくれた。それは、銃と民主主義の不思議な共生関係であった。「支配階級は、他の階級が武装するのを快く思わない。だがアメリカ建国の父たちは、政府が圧政を布くときには革命を起こすべきだと考えた。そのためには銃が必要で、必要なら武力で政府を倒す力を持っているのが、民主主義のあるべき姿だ」とパレデス氏。ジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソン以来続く伝統でもあると言う。政府や支配者層が、自分たちだけのために権力を乱用する可能性は政体にかかわらず常にある。銃の力でそうした圧政を許さなかったのが「アメリカが専制国家にならなかった理由の一つだ」、とパレデス氏は考えているのだ。だが、まさにそうした圧政や暴力と流血を避けるために政治プロセス、つまり選挙を基盤とした民主主義制度が存在するのではないか。この点を質問すると、「選挙が機能する限り暴力には訴えるべきではない。それでも選挙が機能するとは必ずしも保証されていない」という答えが返ってきた。興味深いのは、「為政者が人民を恐れることは、民主主義にとって悪いことではない」という主張だ。民衆が銃を持つことは、普段から民衆を怒らせてはいけないという圧力を政府にかけ、良い政治を引き出す手段にもなるからだという。許容できる武装の範囲については、「戦車やバズーカは無理だろうが、ライフルや拳銃を所持するのは、人民の権利の範囲内だ」とパレデス氏は語った。アメリカが独立戦争を戦った当時は、ケンタッキー銃が歩兵用の最新兵器だった。これを現代に当て嵌めれば、「Ｍ１６が個人の武装としては適当だろう」という見解である。Ｍ１６は現在でも米軍が制式採用する、主力の自動小銃だ。銃の力による究極の民主主義の在り方を説くパレデス氏だが、狂信的な銃信奉者のイメージには当て嵌まらない。敬虔なクリスチャンで、休日には子供とハンティングを含むアウトドアやバーベキューを楽しむ日常を柔和な表情で語る、典型的なアメリカの良き父親といった雰囲気だ。これもまた良き父のしるしでもある少々大きめのお腹を気にしながらも、銃規制に反対するロビイストとして忙しい毎日を送っている。インタビューの場所は、政治家を相手に銃規制法の成立阻止活動などをする“主戦場“である、カリフォルニア州議会。重厚な議会ビルのカフェテリアでパレデス氏は、私のどんな質問にも笑顔で丁寧に答えてくれた。銃を所持する権力を侵害すべきではないとしながらも、「アメリカには銃の数が多すぎる」と、野放図な現状を批判するバランス感覚も持った人物であった。それでも武装権については非常に頑なであった。パレデス氏は「そもそも武装の権利は憲法解釈論を超えた基本的人権であり、アメリカ国民だけでなく日本人も含めすべての人類が武装の権利を保有する」と考えているのだ。銃なき国家日本から見ると、銃が溢れるアメリカ社会が奇異に映ることを伝えると、「アメリカ人は、５、６人ぐらいの家族で、牛を飼いながら数千キロを旅し開拓する生活を送り、国家の歴史を築いてきた。(日本と比べて)どちらが良いという問題ではなく、拠って立つ歴史と文化が違うのだ」と力説する。(後半略：Ｐ３０～Ｐ３４)<br /><br /><br />『政府への不信』<br /><br />ニューヨークで核テロが起きたとする。炭疽菌が主要都市でばら撒かれたとする。でもそれは政府の仕業かもしれない。ナチス・ドイツが１９３３年の国会議事堂放火事件を共産党の犯行と主張したように。保守系の米ジャーナリスト、リチャード・ポエ氏は、著書『銃規制、七つの神話(Ｔｈｅ　Ｓｅｖｅｎ　Ｍｙｔｈｓ　ｏｆ　Ｇｕｎ　Ｃｏｎｔｒｏｌ)』(Ｐｒｉｍａ　Ｐｕｂｌｉｓｈｉｎｇ，２００１)で銃規制を許してはならない主な理由に、強烈な政府不信を挙げる。「議事堂放火事件は他国の出来事と思い込みがちだが、歴史は教えている。政府が圧政の口実をつくるために攻撃をでっち上げることがあり得ると」ポエ氏は、選挙結果が無効となったり、人々が令状もなしに逮捕されるような事態は他国では日常茶飯事であり、アメリカでも起こり得ると主張する。銃を規制することは、「いかなる事態でも黙って政府の言うことを聞くしかない」と考えるような市民を仕向ける。　政府に抵抗し得る武器を持つのを禁じようとしているからだ。「そもそも銃を持ったところで、戦車や戦闘機、核兵器まで持つ政府に勝てるはずがない」とする規制派には、国民皆兵のスイスにナチスのヒトラーが侵攻しなかった例を挙げて、強く反論している。「戦車と急降下爆撃機などによる電撃作戦を駆使するヒトラーが、総合的軍事力に劣るスイスを本気で攻略しようと思えば１週間でできたはずだ」と指摘。そうしなかった理由は「国民皆兵制だ」と分析できるのだと言う。「スイス人のゲリラ戦による抵抗をコスト計算したヒトラーは、スイス侵攻を断念せざるを得なかった」として、圧倒的に武力に不利でも、抵抗手段を持っていれば、国民が圧政を思い止まらせることが可能となると説く。こうした抑止理論は、対ソビエト冷戦に勝利したアメリカの政策にも通じるという。「左派は核戦争が起きれば人類は滅びるのだから、核を廃絶せよと言う。だが、レーガン大統領は常に核ミサイルの発射ボタンに指を置いておくことによって、核戦争の無い時代を築いた。我々も常に銃の引き金に指を置いておくことによって、圧政を予防し、平和を維持できる」。また、圧政や暴君との戦いは常に続いている、と言うのはＮＲＡの政治ロビー部門、ＮＲＡ立法活動研究所(ＮＲＡ―ＩＬＡ)のクリス・コックス代表だ。「アメリカ独立時の指導者らが明確に理解していたように、善良な市民は自衛の手段を奪おうとする暴君と戦わねばならない」。そして、自衛の手段を奪おうとする試みは、歴史が証明するだけではなく、現在もあり、また将来も続くと主張している。コックス氏は、ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグ氏ら全米の銃規制派市長の連合や、国際社会でアメリカの銃政策を批判する国々を「アンチ銃のギャングたち」と呼ぶ。　銃を持つことは、国家が誕生した時点から認められた権利であり、「自由な市民として生き続けるための糧であると同時に、我々をアメリカ人たらしめている」と考えている。パレデス、ポエ、コックス各氏に共通するのは、銃の力への揺るぎない信頼だ。先住民族を倒し、牛を襲う狼を撃ち、英国からの独立を勝ち取り、ソビエトを崩壊させた力。力(銃)を信じることで弱肉強食の社会を生き抜いてきた国民としての誇りが、必要とあれば現代でも政府を武力で倒すことができるという主張を生んでいるのだ。特にポエ氏の指摘は、アメリカの核武装論と銃の権利擁護論の２つが底流で繋がっていることを浮き彫りにしている。(Ｐ３４～Ｐ３７)<br /><br /><br />『憲法に生きる民兵精神』<br /><br />１４９２年のコロンブスによるアメリカ発見後、１６世紀から１７世紀初め新大陸への植民活動が本格化した。当時の植民地では当然、警察などの治安機構は、存在すらしていない。家族や共同体を守るのは住民自身、という意識が生まれたのは自然なことだ。その後、先住民との戦争を経て、自ら武器を調達し共同体を守る民兵となるのは、健常な成人男子の義務とみなされるようになる。その力が発揮されたのが、１７７５年４月に始まる対英独立戦争だ。英国の財政難を救うための過大な課税に反発した植民地の人々は、７３年１２月のボストン茶会事件を経て、本国と本格的に対立。７５年４月、マサチューセッツ植民地のレキシントンとコンコードで戦闘の火蓋が切られた。強力な兵装と数で勝る英国軍に対し、植民地側はそれぞれが持ち寄った銃で武装した民兵によるゲリラ戦で抵抗、非正規軍との戦いには不慣れであった英国軍に多大な被害を与えた。このとき、アメリカの銃所有権擁護派にとって今日でも極めて重要である、武装した「民兵」という存在が確立された。彼らは、ミニットマン(Ｍｉｎｕｔｅｍａｎ)とも呼ばれた。普段はそれぞれの仕事や生活を営むが、臨戦の召集があれば一分(ｏｎｅ　ｍｉｎｕｔｅ)以内に参集できるとの意味で、日本でいえば武士の「いざ鎌倉」に通じる精神は、大陸間弾道ミサイル(ＩＣＢＭ)の名称や国境監視グループの名称に使われるなど、アメリカ人の誇りとして今も生き続けている。合衆国憲法は１７８７年９月１７日、フィラデルフィアでの制憲会議で制定された。間もなく中央政府の権力強大化により個人や州の権利が侵害されることを懸念する声が高まり、８９年９月２５日、第一条から第十条までの修正が発議され、９１年１２月１５日成立した。その第二条(武器を所有し携帯する権利)は、「規律ある民兵は、自由な国の安全にとって必要であるから、国民が武器を所有し携帯する権利は、これを侵害してはならない」と謳っている。(後半略：Ｐ３７～Ｐ３９)<br /><br /><br />『現代に生きる民兵』<br /><br />憲法に謳われた民兵の精神は、現代にも生きている。メキシコ国境の警備に、費用面などから及び腰の政府に代わって立ち上がった市民たちだ。「空港のセキュリティーで乗客に靴を脱がせてテロ対策ができていると思っている連中に、この光景を見せたいね」。カリフォルニア州の「ミニットマン・プロジェクト」に参加するためフロリダ州から大陸を横断して駆けつけた男性、ブリット・クレイグさんは、皮肉と怒りが交じった表情でメキシコ国境線を指さした。全長約３０００キロに及ぶアメリカとメキシコ国境は、１２００万人に上るとみられる不法移民の主要な玄関口だ。ミニットマンは、国境を民間人の手で守るため２００４年に組織された。クレイグさんが陣取っていたのは、カリフォルニア州南部サンディエゴ郊外の国境線。低木が疎らに生える乾燥した丘陵地帯に、メキシコ側からの不法移民を止めるために設置された高さ約３メートルの鉄製フェンスが、地平線の果てまで続く。だが近づいて見ると、老朽化したフェンスはあちこちが隙間だらけで、体の大きな大人でも容易に擦り抜けられる。メディアが「壊れた国境」と呼ぶ両国の間を、推定で年間５０万人が不法越境する。フェンス周辺のすぐメキシコ側では、ペットボトルやスナック菓子の袋、新聞紙が散らばっており、不法移民が自由に行き来している実態を物語っていた。酒の空瓶やトイレの用を済ませた跡もあちこちにあり、国境というよりマナーの悪いキャンプ場といった風景だ。不法移民はメキシコのほかグアテマラ、ホンデュラスなど中南米諸国の出身者がほとんどで、昼間は国境近くの窪地に隠れ、夜中になると米側の国境警備隊員による巡回の合間を縫って、フェンスを擦り抜けるという。クレイグさんらミニットマンの監視員は、２４時間態勢で主要な越境ポイントを見張り、発見すれば国境警備隊などに通報する。基本的に不法移民のグループとの接触は避けるが、怪我人や病人に対しては、医薬品の提供なども行う。不法移民の越境ガイドをビジネスとして手引きする組織は、夜間に活動するため「コヨーテ」と呼ばれ、一部には麻薬組織の構成員も含まれる。軍用ライフルなどで武装しているため、監視員側も護身用に拳銃などで武装している。ベトナム戦争への従軍経験を持つ退役軍人でもあるクレイグさんは、他の数十人のボランティアと交替で歩哨を担当。週に一回程度、シャワーや買い物などのために町に出掛ける以外は、国境フェンス沿いにある仮設テントで暮らす。テント入口に置かれた無線機からは、時折、本部基地からの状況報告連絡が雑音混じりに入った。常時携帯する拳銃を使ったことはまだない。だが、クレイグさんは「アメリカには憲法で保障された自衛の権利がある」と、修正第２条を引き合いに、必要な場合の発砲は正当であることを強調する。　そして憲法が武装を保障するミリシア(民兵)の一員であることに、強い誇りを持っていた。（Ｐ４４～Ｐ４６）<br /><br /><br />【アメリカ銃社会の実情】<br /><br />『開拓時代からのＤＮＡ』<br /><br />「女房の射撃がなかなか上手くならんのだ。困ったもんだ……」。被災地に近いファーストフードのレストランで、地元の中年男性がこんな会話を友人と交わすのを耳にした。何かと物騒なので銃を持たせたが、女には無理かも」という嘆きだった。２００５年夏、超大型ハリケーン「カトリーナ」の直撃で、米南部、ルイジアナ州のニューオーリンズは、市中心部の約八割が水没するという壊滅的な被害を受けた。死者数は約千人、百万人以上が避難民となり、周辺地域や他州に逃れた。警察を含めた行政機関はほぼ機能を停止。道路が寸断され、他州からの救援部隊は被災地入りを阻まれた。逃げ遅れて食料や医療品、飲料水にも窮した市民らは、市内のあちこちの商店やスーパーマーケットで略奪、一部はこの機に乗じて、銃砲店から銃器を盗むなどしていた。ルイジアナ州は、もともと薬物絡みのギャング抗争や、警察官の汚職の深刻さが指摘される全米で有数の犯罪地帯だ。ジャズやブルースの演奏で知られる歓楽街、バーボンストリートのあるフレンチクオーターを抱える同市内を、昼間から銃を抱えた犯罪者が跋扈する事態となった。このため大繁盛したのが、周辺地域の銃砲店で、護身用に拳銃や散弾銃などを買い求める市民が殺到した。一部の店では品切となり、アーチェリーやパチンコ玉などを強力なゴムで飛ばすスリングショットですら飛ぶように売れた。市中心部や周辺部などの家々や商店には、自衛のため「Ｌｏｏｔｅｒｓ！　Ｉ　Ｈａｖｅ　ａ　Ｇｕｎ(略奪者へ告げる、私は銃を持っている)」との警告文が、ペンキやマジックで壁面一杯に書かれた。「警察はあてにできない」。何度も地元の住民に聞かされた。自分の身は自分で守るしかないと確信する、武装市民が甦ったのだ。危機において武器が売れる現象は、０１年９月１１日の米中枢同時テロの後にも起きている。初めての米本土本格攻撃によって、約三千人が死亡するという未曾有のテロに対する恐怖が、全米各地で市民を銃砲店へと駆り立てたのだ。二機の旅客機がワールド・トレードセンターに突っ込んだニューヨークから４０００キロ近く離れた、西海岸北部のワシントン州でも、テロ発生間もなくシアトルなど主要都市で各地の銃砲店の売り上げが約１・５～２倍となり、その傾向は事件から約半年間続いた。公共の場所で衣服の下などに隠して外見上は分からないように拳銃を持つこと(秘匿拳銃携帯)には許可が必要だが、シアトルを含むキング郡で、この許可を申請した人の数は２０００年の９、１０月が約２００件であったものが、０１年の９、１０月には約３５０件とこれも急増した。「シアトル・ポスト・インテリジェンサー」紙によれば、地元警察に提出された秘匿拳銃の携帯許可申請も倍増した。地元警察関係者によると「(航空機まで使う)テロ組織の攻撃に、どうやって拳銃で立ち向かうというのか理解できない」というのが冷静な見方だが、次の攻撃への不安が高まる中、「人々は少しでも安全だと感じることができるよう、何かの対策を取ろうと必死」だったようだ。この傾向は、銃規制に関する意識変化にも現れた。ギャラップ社の世論調査(０７年４月)によると、「銃の販売に関する規制はもっと厳しくあるべきと思うか」という問いに対し「はい」と答えた割合は、１９９０年で７８％で、その後２０００年に入る頃には、６０％前後で推移していた。しかし、中枢同時テロが起きた後の０１年１０月には５３％に急落、その後２、３年間この水準を保った。イスラム過激派によるテロの脅威を身近に感じ、「銃はいつでも入手できるべき」との考えが広がったためだ。これに対応して、「規制は緩和されるべきか」という問いに対する「はい」の答えは、やはり同時テロの後に急増している。この調査から、個人か国家かを問わず、危機においては銃が必要だと考えるアメリカ人が多数派であることがわかる。これもワシントン州の例だが、１９９９年にシアトルで世界貿易機関(ＷＴＯ)の閣僚会議に反対する非政府組織(ＮＧＯ)の一部が暴徒化し、非常事態宣言が布告された際や、西暦２０００年にコンピューターが誤作動するＹ２Ｋ問題が騒がれた時期にも、“銃の買いだめ“ブームが起きた。こうした事例を振り返ると、危険を感じるとすぐに銃に手を伸ばす習性は、先住民の襲撃に怯えながら粗末な小屋暮らしを送った開拓時代からの「アメリカ人の心を形成したＤＮＡ」との指摘が理解できる。(Ｐ５８～Ｐ６２)<br /><br /><br />『銃なくば死を』<br /><br />クリントン政権下の２０００年３月１７日、全米で最大の銃器メーカー、スミス＆ウェッソン(Ｓ＆Ｗ)は、銃の安定協定で同政権と歴史的な合意に達した。①安全ロックなど子供が銃を操作できない装置の開発、②購入希望者のバックグラウンド・チェックを販売店に義務づける措置を取る、③保有者以外が操作できない工夫を銃に施す、などの規制を定めたもので、主要な銃器メーカーとしては初めての試みだった。　これは、強硬な銃の権利推進派には“惨めな敗北“と受けとめられた。同社はこの協定が原因で、「武装の権利を脅かす」と、失望した長年のＳ＆Ｗ愛好家や銃の権利推進派などによる脅迫や製品ボイコットに晒された。しかし当時の最高経営責任者(ＣＥＯ)、エド・シュルツ氏は、決してただの弱腰でそうしたのではない。会社と武装の権利を守るため、宿敵クリントン政権との妥協という苦渋の選択をしたのだ。繰り返される銃犯罪に銃メーカーの責任を問う集団訴訟が相次ぎ、たばこメーカーのように巨額の和解金や賠償金を支払うことになれば、製造者として存在できなくなる、との判断だった。シュルツ氏は武装権への思いを後にこう語った。「銃を所持する権利は私にとって絶対の権利なのだ。もし、政府がそれを取り上げようとしたら、喜んで命を投げ出し抵抗するだろう。なぜなら、銃を所有できない世の中など、生きている価値がないからだ」。政権との妥協は、ビジネス上の算盤勘定だけでなく、銃を世に送り出し続けることを使命と自任するがゆえの決断だった。命を賭して武装権利を守ろうとしたもう一人の人物として忘れてはならないのが、故チャールトン・ヘストン氏(０８年４月５日死去)だ。ヘストン氏は、武装権利擁護の覚悟を示す言葉として、「Ｆｒｏｍ　Ｍｙ　Ｃｏｌｄ　Ｄｅａｄ　Ｈａｎｄ」を後世に残した。ＮＲＡ集会で壇上に立ち、アメリカの銃と独立の歴史を象徴するケンタッキー銃を高々と掲げ、そう叫んだのだ。市民から銃を取り上げようとする政府に対し、「Ｆｒｏｍ～」という言葉で、死んで冷たくなった私の手から銃をもぎ取れ、つまり「私と戦って殺す覚悟をもて」と、挑戦状を叩きつけたのである。代表作の「十戒」(１９５６年)のほか、「大いなる西部」(５８年)や「大いなる決闘」(７６年)など、西部劇でも活躍したヘストン氏は、世界の映画界を代表する名優でありながら、政治的には超保守派のイメージが強い。「Ｆｒｏｍ～」のような発言や、１９９８年から２００３年まで異例の長期にわたってＮＲＡ会長を務めたことで極端な保守派としての印象を強めたが、実際のヘストン氏は、本来はリベラルに近い考えの持ち主であった。黒人<br />がまだバスで白人と同じ席に座ることが許されなかった１９６３年、黒人公民権運動指導者、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師とともに、数少ない白人の著名人としてワシントン大行進に参加したことなどは、人々の記憶から消えつつある。こうした経緯を考慮すれば、多くの人々の記憶に“最後の出演作“として残る映画が、コロンバイン高校乱射事件と銃規制問題を鋭く批評したドキュメンタリー「ボウリング・フォー・コロンバイン」(２００２年、マイケル・ムーア監督)であったのは皮肉な話だ。ムーア監督はこの映画の中で、ヘストン氏を頑迷な銃マニアの象徴として描いた。そのヘストン氏は、ＮＲＡ会長に就任間もない１９９９年２月１６日、ハーバード大で行われたＮＲＡの集会で、銃規制派が勢いを増していることについて、「我々は再び南北戦争に突入しようとしている。それは文化の戦争であり、生まれながらに与えられた我々の権利を奪おうとする戦いである」と警鐘を鳴らした。演説でヘストン氏は、武装の是非をめぐる議論を超えたアメリカの価値への挑戦が起きていると主張。リベラル派が生み出した幾つかの事例を挙げ、文化侵略の行き着く先に、銃所有権利の侵害があると強張した。例えば、「オハイオの大学では同級生との交際で、キスから性交渉に至るまでの行為についてどこまで許すかの合意文書を事前に作るよう大学が指導している」、「サンフランシスコでは、性の中間にいる市民が性転換手術を受けるまでの間、使用する特別なトイレを設置する条例が導入された」など。リベラル勢力が一切の差別を排除するため推進したポリティカル・コレクトネス(政治的公正性)の潮流は、性別、身体的特徴、宗教などを指摘した表現や行為、法規などを否定したため、逆に軋轢を生んでいる。ポリスマンの呼称はポリス・オフィサーとらなり、近年では年末の「メリー・クリスマス」をクリスチャンだけを重視しており不当であるとの観点から、宗教的意味合いの薄い「ハッピー・ホリデー」と言い換える表現も一般化。ヘストン氏はこうした空虚な人権主義、教条主義的なリベラリズムの潮流こそが伝統的な権利である武装権に対する最大の脅威だ、との考えだった。これは、彼らが、銃規制問題の議論を通して守ろうとしているものが、銃を所持する権利を取り巻く伝統的な価値観であることも示している。(Ｐ１００～Ｐ１０５)<br /><br /><br />『武装市民』<br /><br />アリゾナ州に住む５９歳の女性、サンドラ・フロマンさんが生まれたのは、カリフォルニア州サンフランシスコ。全米一のリベラルな気風で知られ、ベトナム戦争時代には反戦運動の中心地でもあり、現在も銃規制が最も厳しい都市の一つだ。ユダヤ系の家庭で育ち、名門のスタンフォード大を卒業したフロマンさんが、銃の権利推進派に転じたのは３２歳、カリフォルニア州で弁護士として働いていた頃だ。ある夜、自宅玄関先の物音に気づいたフロマンさんが見たのは、外側からドライバーで玄関を抉じ開けようとする男の影だった。時刻は午前３時で隣人を電話で呼んでも応答はなく、やむなく警察に電話し、助けを待った。「もし警察が到着する前に侵入されたらどうなる」。自宅には銃は無い。実際に銃には触れたこともないフロマンさんは、警察の到着をただ震えながら待った。幸いその男は途中でドアを抉じ開けるのを諦めて立ち去ったが、「最後は銃しか自分を守るものはない」と実感した。翌日、銃砲店に駆け込んだ際、希望する銃のタイプを聞かれて「何でもいいから銃を下さい」と叫んでしまったという。その事件後、フロマンさんは射撃教室の生徒となり、さらに銃のコレクターへ転身。ＮＲＡにも入会し、幹部へと昇進する。遂にはチャールトン・ヘストン氏の後継者として、２００７年までＮＲＡ会長を務めた。在任中のスピーチでは「銃の必要性を教えてくれたあの時の侵入犯に感謝している」と冗談を飛ばして聴衆を沸かせるのが常で、銃の権利に目覚めた元銃規制派の代表格になった。銃で身を守ったという体験を持つ人は多く、ＮＲＡ広報誌「アメリカズ・ファースト・フリーダム」は、毎号そうした銃犯罪絡みのニュースを報告している。そのコラムは「武装市民(Ａｒｍｅｄ　Ｃｉｔｉｚｅｎ)」と名付けられ、各地の各地のＮＲＡメンバーが、地元の新聞やテレビが伝えた銃による護身の成功例を同誌編集部に投稿するという、手作りの銃権利擁護キャンペーンだ。全国紙や海外からでは知る機会の無い程度の小さな事件の数々だが、犯罪社会に生きるアメリカ市民が銃に頼る姿が垣間見える。ペンシルベニア州カーライルに住む７５歳の退役軍人、ユージーン・ジョンソンさんが寝室前で怪しい音がするのに気づいたのは、０８年５月３０日の午前２時頃。見知らぬ男の影が窓越しに見えたため、侵入犯と確信したジョンソンさんは枕元にいつも置いておいた拳銃を握った。男はジョンソンさんが目を覚ましたことに気づき「俺は銃を持っている」と脅したが、ジョンソンさんは男がいる暗がりに向かって、「ああ、俺も銃を持っている。それはあんたに向いている」と叫んだ。男は間もなく逃走、地元の司法当局者は、「窃盗などが目的の侵入犯は、常に撃たれる可能性に怯えている。銃で脅したジョンソンさんの行動は正しいものだった」としている。別の事例では、テキサス州サンアントニオで、空き巣の被害を受けた３９歳の男性が、犯人が再び自分の家を狙う可能性があると考えて銃を購入し、待ち構えた。案の定、深夜になって１８歳の男が侵入、男性はこの男を射殺した。犯人は身体的な特徴から空き巣犯と同一人物とみられ、地元警察は男性の発砲を正当防衛と断定した。ＮＲＡによれば、これらのエピソードは年間２００万件に及ぶ銃による人命保護実績のほんの一部に過ぎないという。(Ｐ１１６～Ｐ１１９)<br /><br /><br />『コルトの功績と神話』<br /><br />「エイブラハム・リンカーンは人間を自由にした。サム・コルトが人間を平等にした」アメリカの名門銃器メーカー「コルト」は、この言葉を創設者であるサム・コルトへの敬愛を込めて、会社のモットーとして長年使っている。奴隷解放で黒人を白人と平等な立場にしたのは、第１６代大統領のリンカーンだが、優れた銃の能力によって体力や人種、肩書などの差を埋め、人間に真のビョウドを与えたのはコルト銃だ、というのがそのメッセージのようだ。コルト銃が登場する１９世紀前半まで、拳銃といえば一発か二発しか装填できず、発射のたびに弾を詰め替える必要がある、フリントロック式が主流だった。この時代にサム・コルトは、５ないし６発の弾を装填しシリンダーを回転させることで次々に発射できる回転式拳銃を発明、銃器の歴史に名を刻んだ。従来の拳銃に比べて発射、装填速度などで圧倒的に優れた回転式拳銃は、１８４５年まだ揺籃期にあったアメリカ軍に採用され、先住民との戦闘で威力を発揮する。その後の改良型を含め、コルト拳銃は「西部を平定したピースメーカー(平和の創設者)」との異名を取るようになった。西部開拓時代には、土地を白人によって不当に奪われたことに憤慨し、弓矢で立ち上がった先住民族の部族戦士を、高性能のコルト銃が倒した。また職人の手作業によるところが大きかった当時の銃器製造を、工場での大量生産システムに切り替え、庶民が買えるような価格で提供し、耐久消費財化したのもサム・コルトだ。一方で、銃が西部開拓地に平和をもたらした、という歴史観には誤解もある。コルトのピースメーカーをホルスターにおさめ、保安官が「俺の銃こそが法律だ」と嘯く無法地帯、西部の町。こうした情景は、ハリウッド映画が作り上げた虚構であるというのだ。ニューヨーク州立大のロバート・スピッツアー教授(政治学)は、著書『銃規制の政治(Ｔｈｅ　Ｐｏｌｉｔｉｃｓ　ｏｆ　Ｇｕｎ　Ｃｏｎｔｒｏｌ)』の中で、カウボーイが集まる交易地点であり治安の悪さで知られたダッジ・シティ(カンザス州)などを分析している。同書によれば、開拓時代の殺人件数が、年に５件に過ぎず、ダッジ・シティと同じく危険な町とされたサウスダコタ州のデッドウッドでも、年間に４人が殺されたのが最悪の年として記録されているだけである。西部劇で最も名高い決闘の一つである「ＯＫ牧場の決闘」の舞台となったアリゾナ州のトゥームストーンでも、多い年で５人の殺人が起きた程度であり、勇ましい西部劇のヒントになった逸話は、殆どが噂話の域を出ていないことが明らかになったという。また１８７０～８５年の資料では、ダッジ・シティを含む西部の治安ワースト５都市で発生した殺人事件は計４５件で、そのうち１６件は警察や保安官による発砲だった。町の郊外に住んでいたカウボーイたちも銃を使うことは極めて稀で、カウボーイの生活や歴史に詳しい専門家も、「決闘の物語は、殆どが新聞記者や小説家の創作だった」ようだとしている。保安官らの仕事も「酔っ払いの世話や捨て犬の始末などが主要な業務」で、やはり「西部で起きた殺人の大部分は、騎兵隊と先住民族の戦いだった」としている。スピッツアー教授によれば、真に西部を開拓したのは、移住した牧畜業、交易やビジネスに従事する人々であり、彼らは町ができると、まずは治安安定のために市民の武装規制を要求したという。(Ｐ１２９～Ｐ１３２)<br /><br /><br />【おわりに】<br /><br />『彼らが銃を捨てられない理由』<br /><br />日々銃の脅威に曝されながら、銃とともに生きる。一見、不可解なアメリカ人の銃への執着には、２つの明確な理由がある。１つには、第二章でテーマとした国家の生い立ちに由来する理念であり、それは「敵を倒さなければ自分は生き残れない」という生死観と一緒にアメリカ人の意識に深く沈殿している。１７世紀初頭、ヨーロッパの宗教的な迫害を逃れ、新大陸へ自由を求めたアメリカ人の祖先たちは、過酷な環境の中、ハンティングで動物を狩り、貴重な食物を得て生き延びた。やがて英国の植民地搾取が、入植者らの忍耐の限界を超え、独立戦争が発生。圧倒的に劣勢にありながら、ゲリラ戦を展開することで勝利した。それを可能にしたのが、歩兵レベルでの当時の最新兵器、ケンタッキー・ライフル銃であった。銃全般の権利推進・保護を旗印にしながらも、ＮＲＡが、“ライフル“協会であって、“銃“協会でないのは、本来ライフルこそがアメリカ人の心の拠り所であった歴史に基づいている。ＮＲＡの会長であったチャールトン・へストン氏が、死んで冷たくなった私の手から銃を奪えと叫んだ際、高々と掲げたのはケンタッキー・ライフル銃であった。こうした独立の歴史から彼らが学んだのが、「自由と民主主義は、時として武力によって勝ち取るべき」、ということであった。もし圧政を布く政府が出現しても、人民が武装し抵抗力を持つ限りは、為政者の意のままにはならない。抵抗し、勝利することで、自らの尊厳と自由が維持できるのだと経験的に会得したのだ。独立戦争を勝ち抜いたアメリカ建国の父たちは、憲法という国のバックボーンに、武装の権利をＤＮＡのごとく埋め込んだ。その遺伝子を民兵精神として受け継いだ銃の権利推進派は、武装の権利を「神が人間に与えた不可侵の権利」とみなしており、一部は「銃を持つ自由のない社会には、生きる価値はない」とすら考えている。こうした理念と並ぶもう一つの柱が、より現実的治安の問題で、銃による護身目的だ。ＮＲＡが名づけた「武装市民」たちが紹介するように、銃が一般市民の命を守った例は数多い。日本など他の先進国のように比較的治安の安定している国で、都市生活を送る人間には想像しにくい部分もあるが、隣家まで２０キロ、最寄りの町まで５０キロなどという居住環境も珍しくないアメリカの地方では、異常事態が発生した場合、警察官の到着をただ待つわけにはいかないのが実情だ。史上最悪の犠牲者を生んだバージニア工科大の乱射事件は、大学キャンパスに「銃には銃を」の武装論を巻き起こした。「乱射の現場に必ず立ち会うことができるのは、犯人と被害者だ」という図式は、単純だが的を射た主張だ。ガンショーの話の中で紹介したように(山口注：全米各地で行われている銃の展示即売会)、１分間に８００発もの銃弾を連射できる改造小銃を民間人が手にできる現状では、数分間(場合によっては数秒)の対処の違いが、ただの発砲事件と虐殺事件の差を生むからだ。こうした特殊性を考慮すれば、「銃の無い社会を」という理想を、そのまま今のアメリカに受け入れろというのは、酷な要求であることが分かる。既に２億丁を超える途方もない数の銃火器が存在しており、意図的な横流しや過失を含め、所在や所持者が不明となる銃だけで、年間に５０万丁に上る。そうした社会で、市民の武装解除を強行すればどうなるか。本当に安全な社会が出来上がる可能性も長期的にはあるだろうが、結局「犯罪者だけが密かに無数の銃を持ち続け、丸腰の市民に狙いをつける」という悪夢のシナリオが実現してしまやないだろうか。それはあまりにもリスクの高い実験となる。(後半略：Ｐ１９３～Ｐ１９７)<br /><br /><br />これまで紹介いたしました内容抜粋は、銃所有権擁護論、市民の銃による武装肯定論のものでしたが、著者の半沢隆実氏ご自身は、銃があまりにも数多く流通し、容易に入手可能なアメリカの社会が、たとえ「正当防衛」のためとはいえ、「健全」であると言えるかどうかに極めて懐疑的であり、銃の蔓延するアメリカ社会の被害の大きさについても深く憂い、さらに政治において強力な圧力団体と化し、ロビー活動で、アメリカ政界を左右するＮＲＡの強引な実態等についても本書にてかなりのページを費やして紹介しており、結論としては半沢氏は「危険な銃を社会から排除すべき」という銃規制支持派です。しかし、同時にアメリカ社会が「銃」によって誕生し、維持・発展してきた歴史的経緯や風土的な必要性も熟知しており、独立戦争や西部開拓を銃の力で行ってきたアメリカの先人たちや、その後継者たるＮＲＡや他の銃権利擁護者、銃の愛好者や信奉者を、感情的、イデオロギー的に批判・否定せず、銃規制支持派としての自身の意見や信条よりも、銃を愛し、銃を頼り、それに強くこだわる人々の姿や考え、事情や経験を多く記すことで、武装市民国家を創りあげたアメリカ人の本質に迫ろうとしました。　だから本書は、銃によってもたらされるアメリカ社会への悲劇や弊害にもしっかり触れながらも、全体の印象としては「銃あってのアメリカ」、「銃による武装がアメリカの自由・正義・平和を守ってきた」、「銃は多くのアメリカ人の精神支柱」という印象を受ける内容となっております。銃所有権を肯定する論と、銃規制推進を唱える論と、どちらに軍配を挙げるかは、皆様が各々実際に本書をお読みになって考えてみてください。　ちなみに私自身は、銃所有権肯定派の論に好意的になりがちです。　より正確には自衛のための武装と武力行使の肯定・推進論と言えましょうか。現在の日本が、マッカーサーが押しつけた憲法前文および第９条に起因する非戦・非武装精神が社会全体に無制限・無分別に拡散・浸透し続けたために、国防や、自衛隊の必要性や役割を蔑するにとどまらず、警察官が暴漢・無法者に対して職務遂行のために発砲することにまで過剰で理不尽な批判や論難が巻き起こる風潮に、子供の頃から反感や苛立ちを感じ続けている私としては、どうしても銃による武装、自衛反撃の必要性を謳う人々に好意的な心情を持ってしまう傾向になりがちです。ただし、そうはいっても私もまた、銃とはほとんど無縁な日本社会で生まれ育った人間には違いなく、銃に対する専門的な知識や経験は無いので、そんな私が、いくら心情的に同意できても、論理的にアメリカのような銃社会を肯定する論を展開する自信はさすがに無いのも事実です。いま唱えられるのは、せいぜい警察や自衛隊、海上保安庁のような安全保障や治安維持の役職にある方々が職務遂行や自衛反撃のために武器使用することへの法的な規制や、社会の心理的な抵抗や狭量がもっと緩和され、然るべき理由があるならば躊躇せず発砲できるような、法整備や国民的合意がなされることを願うにとどめ、個人の護身のための銃器による武装の是非については、今後もいろいろな書籍を読んで、無学非才の身ではありますが、私なりに慎重さも忘れずに、考え続けていきたいと思っています。〔集英社新書〕<br /><br /><br />半沢 隆実<br />１９６２（昭和３７)年、福島県会津若松市生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、８８年共同通信社に入社。大阪支社、浦和支局、本社社会部などを経て、外信部へ配属。カイロ支局特派員、ロサンゼルス支局長としてパレスチナ紛争、アフガン、イラク戦争、ハリケーン「カトリーナ」被害などを取材。２００７年から外信部デスク。

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            <category>政治</category>
      <author>管理人</author>
                </item>
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      <link>http://tig.seesaa.net/article/234128536.html</link>
      <title>そんなバカな！～遺伝子と神について　著者／竹内久美子</title>
      <pubDate>Sat, 01 Oct 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>《肉体的な特徴を血縁ある次世代に伝達するのが「遺伝子(ジーン)」なら、知恵や行動様式を血縁を越えて次世代へ伝達するもの、その名は「ミーム」。</description>
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《肉体的な特徴を血縁ある次世代に伝達するのが「遺伝子(ジーン)」なら、知恵や行動様式を血縁を越えて次世代へ伝達するもの、その名は「ミーム」。<a name="more"></a>動物学者のＲ・ドーキンスが、模倣するというギリシャ語の(ｍｉｍｅｍｅ）をベースに記憶(ｍｅｍｏｒｙ)をひっかけて作成した言葉。自身の複製を存続させ続けることに極めて利己的である遺伝子(セルフィッシュジーン)が、その乗り物(ヴィークル)であるそれぞれの生物を繁殖させるためのプログラム。ミームによって生物は、「文化」という、血縁を超えた繁殖戦略を進化させた。　そしてその血縁を越えた繁殖戦略は、遂には無謬にして不可侵、不死身のリーダーである「神」を生み出した。深遠なる人間行動の謎を動物行動学者・竹内久美子女史があなたにお贈りする一冊です》<br /><br />さて今回は、動物行動学者の竹内久美子女史の代表作ともいえる『そんなバカな！～遺伝子と神について』です。“利己的遺伝子(セルフィッシュジーン)“という考え方から、動物の行動を支配するメカニズムを探り、さらに“ミーム“という名の、文化を伝播・継承させる無形の存在から、人間の意識や行動の謎を追究していく一冊です。ところでこの本は、実は当インテリジェンスの初期の頃に一度紹介済みのものなのです。それを何故再び紹介いたしますかというと、実は、この記事を作成している時期の数ヵ月前から、諸々の事情で大変忙しく、新しく本を購入するために書店めぐりをする時間もない状態が続いているため、未紹介の本は底を尽きかけている状態なためです。当インテリジェンスは現在でこそ内容を一部抜粋しておりますが、初期の頃に紹介した本は、内容抜粋はしておらず、この『そんなバカな！～遺伝子と神について』もそのひとつであるため、それなら今回は内容も紹介して、更新の繋ぎにしようと思った次第であります。f(^_^;もっとも内容は、前回紹介しなかったことが惜しまれるくらいに面白いものですので、こういう機会ができたことで、新しい本を購入できないほどの多忙も、案外悪くはないかな……なんてね。(＾◇＾)それでは竹内久美子女史の語る、利己的遺伝子（セルフィッシュジーン）と、血縁を越えた自己複製子(ミーム)の世界をご覧ください。<br /><br />◎内容抜粋<br /><br /><br />『ミームという名の曲者～ニホンザルのイモ洗い文化』<br /><br />宮崎県串間市の石波海岸から沖へ２００メートルほどのところに一つの小さな島がある。周囲は３キロメートル、最高点の標高は１１４メートルである。亜熱帯性の植物に被われた美しい島なのだが、あまり人が住んでいる気配はない。住んでいるのはニホンザルで、ここがあの有名な幸島である。幸島の名が有名になった理由の一つは、この島が日本のサル学の発祥の地だということである。戦後間もない頃、京大の今西錦司氏は伊谷純一郎氏、川村俊蔵氏、河合雅雄氏ら多くの若手研究者を率いて未開拓の分野に乗り出した。サルの研究地は今では、北は下北半島から南は屋久島まで全国至るところに分散しているが、ここは一番早い時期から研究が行われている。サル研究のルーツの地である。もう一つの理由は、かつてここで大変画期的な発見がなされたことである。研究を始めるにあたり、当然のことながらサルの頭数が数えられた。ところが、どう数えてみても僅か２０頭ほどしかいない。サルの群れと言えば５０～６０頭はいるのが普通で、ときには１００頭を越えることもある。おそらく島の食糧事情が良くないのだろう。それに研究を進めるためには、サルたちにもっと接近することが必要だ。そこで海岸などにサツマイモを撒いて餌付けが始まった。１９５１年のことである。だが、これがなかなかうまくいかない。サルたちは極度に警戒しており、研究者が現れるとサッと森へ隠れてしまうのだ。サツマイモは手付かずのまま放置されることもしばしばだった。結局、こういう状態が半年以上も続き、餌付けが一応成功したと言えるようになったのは翌年だった。サルたちはこの予期せぬ贈り物に無論、文句のあろう筈はなかったが、それでもやや不満に思えることがあった。海岸の砂がイモの切り口にくっついてしまい、ジャリジャリとして食べにくいのである。手で払うとか腕の毛でブラッシングするという程度の工夫は誰しも思いつき実行したが、どうも今一つであった。次の年(１９５３年)になっても、彼らは相変わらず砂つきのイモをかじっていた。ところが、ある秋の日、前の年に生まれた一歳半になるメスの子ザルがサルとしては異例の行動を開始した。彼女はイモを川へ持って行き、切り口を川の水で洗って食べたのである。それは片方の手でイモを持って水に浸し、もう一方の手でゴシゴシ擦るというやり方で、我々がイモを洗う動作と何ら変わりがない。ニホンザルで一歳半といえば、やっと離乳し、少しは固い物も食べられるようになったばかりの時期である。彼女は随分前にこのとっておきの方法を思いついており、それを実行に移す機会を狙っていたねかもしれない。ともかくこの噂は研究者やサル愛好家たちの間にたちまちのうちに広がった。彼女は「天才だ」、「神童だ」と騒がれることになった。が、ここでようやく彼女にまだ名前が無いことに気がついた研究者たちは、彼女の偉業を讃え、その才能に敬意を表して、「イモ」と名付けたのだった。イモのイモ洗い行動も画期的だが、興味深いのはその文化の伝わり方である。彼女がイモを洗い始めた頃、他のメンバーたちはただ怪訝そうな顔をして眺めているだけだった。ところが、間もなくイモの母親であるエバとイモの遊び友達のセムシ(♂、２～２・５歳)がイモ洗いを真似するようになった。そして翌年(１９５４年)にはウニ(♂、１～１・５歳)が、二年後にはエイ(イモの弟、１～１・５歳)、ノミ(♂、２～２・５歳)、コン(♂、３歳)の三者が、三年後にはササ(♀、１～１・５歳)、ジュゴ(♂、２～２・５歳)、サンゴ(イモの姉、５歳)、アオメ(♀、５歳)の四者がそれぞれイモ洗いをするようになったのである。この新文化を取り入れたのは殆どがイモの同輩か年下の子ザルたちでリーダーのカミナリを始めとする大人たちはいつまでたっても流儀を変えようとはしなかった。結局、大人でイモ洗いをするようになったのは、イモの母親のエバとジュゴの母親のナミに留まった。イモ洗い文化はまず子ザルたちを中心に定着したのである。この文化についてもう一つ興味深いのは、文化の伝播の次なる展開である。イモ洗いをする子供らが成長し、メスが子を持つようになると(ニホンザルのメスは５～６歳で最初の出産を経験する)、今度は母から子へのルートで急速に伝わり始めたのである。人間でも子は母親のすることなら何でも真似をする。乱婚的で父親のハッキリしないニホンザル社会では、子はなおさら母親の影響を受けてしまう。こうしてイモによるイモ洗いの発明から十年が過ぎたとき、幸島にすむ２～１１歳のサルの大半はイモ洗い派に転じていたという。幸島のサルのイモ洗いは、今では海水につけて塩味を楽しむという食文化の変化の話として有名である。これは、川の水でイモを洗っていた誰かが、あるとき海の水でやってみたら美味しかった(目撃はされていないが、イモの可能性もある)、そこでそれを誰かが真似しはじめた、という経緯によるものらしい。しかし、イモ洗いは本来イモについた砂を落とすことが目的だったのである。また、天才イモは４歳のときにもう一つの大発明を成し遂げている。「小麦選別法」と名付けられたその方法は、海岸に撒かれた砂まみれの小麦を両手で掬い、海の浅いところへ持っていって撒くというものである。砂が沈んだ後、浮いている小麦を摘まんで食べるのである。これもイモ洗いとほぼ同様の経過で伝播している。さて、このようにニホンザルのような高等なサル類、類人猿、そしてもちろん人間には「文化」と呼べるものがある。ただし、動物行動学で言う「文化」とは、通常使われる意味とは少し違い、「遺伝」によらず伝達される行動や行動様式、技術などのことである。人間で言えば、言語や宗教、芸術に始まり、習慣やしきたり、家風、校風のようなもの、建築や輸送の技術、それに服装や歌などに見られる一時的な流行に至るまで、とにかくありとあらゆる無形の所産を指すのである。「文化」は個体の脳から脳へ主に模倣によってコピーされて伝わり、ときにはコピーミスが起きる。これが新しい「文化」を産むこともある。役に立つ「文化」はよくコピーされるが、どうでもいい「文化」はあまりコピーされないので、「文化」の複製の頻度には差がある。だから「文化」は“進化“すると考えることもできる。実際、文化は遺伝とのアナロジーが考えられており、遺伝的伝達の単位を遺伝子と呼ぶのに対し、文化的伝達の単位をどう呼ぼうかという論議がある。幾人かの人が様々な案を出しているようだが、この本ではＲ・ドーキンス(山口注：オックスフォード大学出身の動物行動学者。『Ｔｈｅ　Ｓｅｌｆｉｓｈ　Ｇｅｎｅ』、邦題『利己的な遺伝子』の著者)の提出した「ミーム」を用いることにする。「ミーム」は模倣するという意味のギリシャ語(ｍｉｍｅｍｅ)をベースに記憶(ｍｅｍｏｒｙ)などをひっかけて彼が作成した言葉である。遺伝子と比較したミームの特徴は、伝達の速度が極めて速いこと(これはあまりにも当然)、それにコピーミスが大変頻繁に起こること(噂話の伝達を考えよ)などである。イモ洗い文化にしたところで、もしイモを洗うという行動が遺伝によってのみ伝達されるとしたら、集団内に広まり、定着するのに恐ろしく長い時間が必要だ。ところが、一頭の子ザルの脳に生じた“イモ洗いミーム”は次々と他者の脳にコピーされ、たった十年かそこらで血縁、非血縁を問わずに広まっていった(尤も、血縁者の間の方がいろいろな意味で伝わりやすいが)。途中、イモを洗う水が川の水から海水に変化するという“突然変異“も起きた。遺伝子ではあり得ない子から母への“逆流“もあった。遺伝子はなかなか融通の利かない代物だが、ミームは変幻自在で素早い。してみるとミームは案外、曲者であるかもしれない。ミームは、特に人間において遺伝子と互角か、もしかするとそれ以上の力を持っている可能性があるのである。(後略：Ｐ１０６～Ｐ１１３)<br /><br /><br />『ゲームの理論～タカ派とハト派』<br /><br />ジョン・メイナード＝スミスは、ちょっと異色の動物行動学者である。１９２０年生まれの彼は、まずケンブリッジ大学で工学を学び、第二次世界大戦中は航空機関係のエンジニアとして働いていた。しかし大戦後、何を思ったのか彼はロンドン大学ユニバーシティ・カレッジの大学院へ入り直し、動物学を専攻する。(中略)エンジニア出身の彼が、なぜまた動物学を志したのかということについては定かではない。しかし、その結果開拓された分野は画期的なものだった。動物行動の進化については、血縁という観点から説明されるのがまず基本である。例えば親が子を保護する行動、キョウダイやイトコがときには助け合い、ときには裏切るという行動。そしてその際、行動を決める重要なカギは遺伝子をどれくらい共有しているか(血縁度)ということである。しかし、この理屈を押し進めて行くと、共有する遺伝子の無いアカの他人同士は相手のことなど顧みず、徹底して利己的に振る舞うということになってしまう。メスをめぐってオス同士は血みどろの争いをし、どちらも相手の息の根を止めるまでは攻撃の手を緩めないだろう。寝場所をめぐって争う二羽のメンドリは互いに頑として譲らず、結局は夜が明けてしまうのかもしれない。もちろん現実にはそうはなっていない。アカの他人同士も案外協力や協調の関係をよく結ぶ。そして、そういう態度や精神に対しては、「紳士的態度」とか「譲り合いの心」、「友情」などの言葉が当て嵌められている。なぜ、そのようなことが起こるのか？この問題も実はチャールズ・ダーウィンが当時既に提起しており、解決の糸口も若干掴みかけていたのである。しかし、彼はまたしても生まれるのが早すぎたようだ。この問題の解決には、メイナード＝スミスという元エンジニアの頭脳と１９６０年代のコンピューターの飛躍的進歩とがどうしても必要だったのである。メイナード＝スミスが非血縁者間の争いに適用した考えは、「ゲームの理論」と呼ばれるものである。元々は国家や人間同士の利害の衝突の解析のために、コンピューターの発明者であるジョン・フォン・ノイマンなどが考案している。メイナード＝スミスはその考えを発展させ、何かをめぐって争っている動物(もちろん人間も含まれる)を一定のルールのもとで得点を競いあっているゲームのプレイヤーとみなした。そして、連綿と続く対戦の結果、どういう戦略をとるものが最終的に高得点を稼ぐのか、あるいはどういう戦略をとっていれば間違いが少ないかということなどを探ったのである。動物の種類は何であっても良いし、争いの対象は配偶者の所有権や営巣場所、寝場所や餌などいろいろと考えられる。　但し、動物の行動の進化については今や個体ではなく(ましてや集団や種でもなく)、遺伝子に着目して考えるべきで、得点や失点も遺伝子のコピーの増減に対応させるのが本当なのだが、大まかには個体の利益で近似すればいいだろう。ゲームの理論のごくさわりの部分を紹介しよう。同種の動物が何かをめぐって争う場合、二つの極端な戦略を考えてみる。一つはどんな相手とでも必ず戦い、余程の大怪我を負わない限り退却しないという強気の戦略(タカ派戦略)、もう一つは威嚇や睨み合いくらいはするがあくまで直接の争いは回避しようとする穏やかな戦略(ハト派戦略)である。まず、タカ派同士がぶつかったとする。互いに戦おうとするから、少なくとも戦いのために浪費される時間とエネルギーに関しては相方とも等しく点を失う。勝者は食物なりメスとの交尾権なり、とにかく大きな得点を得るが、このように一方でかなりの大打撃を受け、非常に多くの点を失う。次に、タカ派とハト派が出会ったとする。タカ派は戦おうとするが、ハト派はすぐに退却してしまうので、タカ派は労せずして大きな得点を手に入れる。ハト派には得点はないが、すぐに退却するので怪我をすることはないし、時間やエネルギーの損失も少ない。従って若干の損をするだけである。では、ハト派とハト派の場合はどうか。相方とも攻撃を仕掛けないので勝負は持久戦になるだろう。勝った方は無論得点を得るが、威嚇や睨み合いのために相当な時間とエネルギーを費やしており、その分についてある程度の点を失う。負けた方もそれと同じだけの点を失うが、これは戦って負傷した場合に比べれば遥かに少ないものである。こうしてみると、タカ派はハト派をいとも簡単にカモにしているわけである。何しろ相手は何の文句もなしに譲ってくれるのである。タカ派はハト派を踏み台にして得点を荒稼ぎし、その結果繁殖も有利になるので、急速に数を増していくだろう。ところが、タカ派が増えてくると今度はタカ派同士の対戦が増える。彼らは互いに潰し合いを始めることになる。すると、その間隙を縫ってハト派という非暴力主義者たちが着々と得点を重ね、勢力を盛り返して来る。そうするとまたタカ派がハト派をカモにし……というサイクルが繰り返されるのである。タカ対ハトの比は最終的にはどちらの戦略をとろうが損得勘定は同じであるという点で釣り合い、事態は落ち着くのである。尤も、実際の野性動物たちはこういう安定した状態にあることは稀で、戦略の比は振り子のように揺れ動いていることの方が多い。それに、それぞれの個体が一生同じ戦略をとり続けるのではなく、あるときはタカ派として振る舞い、またあるときはハト派として振る舞うという方がより現実に近い。話はやや逸れるが、こういったことについて若干考えを押し進めてみると、個体が「紳士的態度」を取ったり、「譲り合いの心」を発揮したりすることが必ずしも立派なことではないということがわかる。そういう行為は、その場合の彼(彼女)にとって他の強引な戦略をとるよりもましだというだけである。戦略モデルについては今や百花撩乱で、解析はコンピューターを駆使して進められている。ところで、ここで紹介した最も単純なタカ・ハトゲームの中には、我々が是非とも注目しておいた方が良い教訓が含まれている。それは、得点、失点の設定の仕方によって安定状態におけるタカ・ハト比が簡単に変わってしまうということである。特に、負傷した場合の失点を大きく設定すると、平衡がハト派優勢の方にぐっと傾くということだ。これは強い殺傷能力を持った動物の方がむしろハト派的で、行動が紳士的であるというパラドックスを見事に説明している。こういう動物は自分が負傷した場合の大打撃を恐れ、互いに敢えて“武器“の使用を控えているのである。かつてＫ・ローレンツ(山口注：オーストリアの動物学者)はオオカミの騎士道精神を賛美した。争いで分が悪くなった方が急所である首筋を差し出すと相手の攻撃行動が抑制されるというあの話だ。ローレンツは、これぞ種の繁栄、これぞ種の利益のための行動だと絶賛した。彼はオオカミの一頭一頭が種が滅んでしまうことを懸念して武器の使用を控えるのだと考えたのである。しかし、ゲームの理論が示すところによれば、オオカミは自分が傷つくのを恐れて武器の使用を控えるということになる。儀式化された攻撃行動も、ひたすら自分が負傷したくないという、最初から最後まで利己的な理由によって引き起こされているのである。このことも追究すれば遺伝子の利己性に帰着するだろう。ニワトリなどはしょっちゅう揉め事を引き起こして激しいつつき合いを演じているが、そんなことができるのも彼らが大した武器を持っていないからだ。メイナード＝スミスはある論文の中で、動物の殺傷能力の大小と争いの儀式化の程度との相関を論じているが、その際、人間における通常兵器と核兵器の問題に言及することを忘れていない。「核」による武装がかえって争いを回避させるという論には確かに一理あるのである。　(Ｐ１３６～Ｐ１４４)<br /><br /><br />『遺伝子が神をつくった～血縁を越えたリーダー』<br /><br />大学と縁を切って言いたい放題言うという人は(どこかの誰かも含めて)多いが、デズモンド・モリスほど傑作な人物を私は他に知らない。１９２８年、イギリス生まれ。バーミンガム大学を卒業後、オックスフォード大学のＮ・ティンバーゲンのもとで研究生活を送った彼は…(中略)…『裸のサル』(日高敏隆訳、河出書房新社。これは角川文庫にも収録されている)、『人間動物園』(矢島剛一訳、新潮選書。これは元々「プレイボーイ」誌に連載された)などの傑作が次々生み出されたのである。彼の評価はこれで決定的なものとなったと言えるだろう。即ち、学問でエンターテイメントをする男……。けれども、モリスについて私が真に素晴らしいと思うのは、『裸のサル』に見られるように、人間という動物にズバリ行動学的アプローチを試みたことである。『裸のサル』は普通(特に日本では)、単なる面白い本としか思われていないが、この本の真価は別のところにある。それはキリスト教思想の根強い西洋にありながら、人間についてここまで暴いてしまったということである。(中略)この本の中で彼は、宗教についてこう言い切っている。「宗教活動とは人間の大きな集団が集まってきて、ある優位な個体を宥めるために服従の誇示を何度も、しかも長々と行うことであると結論せざるをえない。この優位個体は文化が違えば様々な形を取るが、常に無限の力を持つというのが共通する要素である。ある場合にはそれは他の種の動物の形態、あるいは架空の動物の形態をとる。ときにそれは、我々の種の賢明な祖先として描かれる。また、ときにはより抽象化されたものとなり、単に“ある状態“ないしそのような言葉で示されることもある。こうしたものに対する服従反応は、目を瞑るとか、頭を下げる、施しを請う姿勢で両手の指を組み合わす、ひざまずく、地面に口づける、さらには極端になって平伏す、といったことで構成されることが多く、しばしば悲しげなあるいは単調な発声が伴う。もしこれらの服従行動がうまくいけば、優位個体は宥められる。けれど、この優位個体の力は極めて強いので、その怒りがまた燃え出してくるのを防ぐには、このような宥めの儀式を規則的な間隔でしばしば行う必要がある。この優位個体はいつもそうとは限らないが、普通『神』と呼ばれている。」共通のリーダーに服従することで仲間と認め合うというシステムは、ニワトリ、イグアナ、サルなど一応社会と呼ばれるものを作る動物にはよく見られる。彼らはその原理によって無駄な争いを避けることができる。モリスによれば、これと同じ現象が人間においては宗教という形をとって現れているというわけである。なるほど、考えてみれば、どの宗教の信者も礼拝(お祈り、読経)するときは、まるで優位のサルに対する劣位のサルの如き振る舞い方をする。頭を垂れたり、身を屈めたり、平伏したり……。讃美歌やお経は確かに優位のサルに向けられた宥めの音声に似ている。しかし、サルの場合とハッキリ違うのは、彼らがそのような行動を向けている対象は現実に存在するリーダーではなく、神という架空のスーパーリーダーだということだ。この点で人間は多くのサル類や類人猿と一線を画している。ドーキンス流に言えば、人間は神というミームを初めて乗せた乗り物(ヴィークル)なのである。これは逆に、遺伝子は人間においてとうとう神という概念を創るまでに至ったと言うことができるかもしれない。(中略)　神は現実のリーダーとは違い、絶対的な権力を持っている。しかも不死身である。共通の神を崇拝する集団は、血縁や現実のリーダーによってのみ連合する集団よりも、遥かに強固で安定した関係を保つことができるだろう。もちろん集団の規模も数段大きくすることができる。死んだら神のもとで幸せに暮らせると教えられている兵士たちは、死を恐れない。だから、神のミームを乗せた乗り物(ヴィークル)の集団とそうでない乗り物(ヴィークル)の集団とが戦ったのなら、前者の方が勝つに決まっているのである。それに、負けた方の集団はその時点で往々にして神のミームに“感染“させられるから、そこでまた神のミームのコピーが増えるのである。神のミームは、まず血縁を越えた非常に多数の人々の連合を可能にした。このミームは普通のミームとは少し違い、戦争という人間の生死に直結する淘汰の場を通じてコピーを増やしてきた。だからこそ神のミームは、我々の心を捕らえる力、捕らえたら離さない力が破格であり、乗せれば我々には大きな安堵感が訪れる。我々は精神的に打ちのめされたときなど、思わず信仰の世界に救いを求めたりするわけだが、それは何のことはない、宗教によって安らかな気持ちになれるよう、利己的遺伝子(セルフィッシュジーン)が既に我々の心をプログラムしているからである。利己的遺伝子にとって乗り物の周囲の乗り物は既に神のミームを乗せている確率が高く、さらに彼(彼女)が乗せるとなれば、その集団はますます戦争に勝ちやすくなる。となればそれは、その乗り物自身はもちろんのこと、彼(彼女)の血縁乗り物の生存確率をも高める形で返ってくるからである。(中略)神のミームはもはやほとんど総ての人間に何らかの形で乗り込んでしまっている。　無神論者だという人にしたところで神のミームがおさまるべき所はちゃんと持っている(これを神のミーム座と呼んでもいいかもしれない。遺伝子に遺伝子座があるように、ミームにはミーム座があると考えてもよいだろう)。それは今は空席になっているかもしれないが、いずれは神のミームが乗ることを期待されている、あるいは現在のところはロックスター、映画スターのような神の類似物(アナログ)によってふさがれているといったところだろうか。かつて人間の祖先たちが、神のミームを乗せるかどうかの選択に迫られたとき、淘汰は「乗せる」を選んだ人々の方に微笑んだ。乗せている方がどうしても戦争に勝ってしまうからである。(後半略：Ｐ２１６～Ｐ２２４)<br /><br /><br /> 『知らないあいだに武闘訓練～「鬼畜」のミーム』<br /><br />防火訓練というのは、はたしてどれほどの効果があるのだろう。学校や会社で行われる防火訓練には大抵予告がなされている。「明日、午前十時半より防火訓練を行います。皆さん気を引き締めて取り組んで下さい」私にも覚えがあるが、こういう形の防火訓練には全然身が入らないのである。小学校の頃のことだ。いつ始まるか、いつ始まるかとドキドキしていると突然けたたましいサイレンの音が鳴り響く。すかさず先生が、「みんな、落ち着いて」と言う。先生の指示に従い、机の上の物をさっとしまってランドセルを背負うと、また先生が言う。「みんな、落ち着いて！」落ち着いてはいるのだが、みんな嬉しくてたまらないのである。こんな調子なものだから、どこをどう通って“避難“したのかなんてほとんど覚えていないし、せっかく教えてもらった消火器の使い方も、いざ実際に火事が起こった場合に役に立つのかどうかは疑問である。では、抜き打ちで訓練するというのはどうだろう。本当に火事が発生したかのように発煙筒を焚き、数名のサクラが「火事だ、火事だ」と知らせるのである。そのサクラが、「皆さん、落ち着いて」と避難誘導をする。尤も、この方法はそうたびたび使うわけにもいかないし、第一、本当の家事のときに“オオカミ少年現象“が起きてしまう危険がある。防火訓練を効果的にやるのは本当に難しい。それもそのはずである。人間の基本的な行動や心理は、我々の祖先がまだ部族を単位として生活していた頃に形成されたと言われる。その頃人間は、どんな住居に暮らしていたのだろう。おそらく草葺きか何かの屋根で、中の広さは差し渡しで数メートルかそこら。学校も会社も無いから、大きな建物は存在しない。そんな住宅事情の中でなら、火事に対する心構えはどうしても必要というわけではなかった。火事に気がついたなら、とにかくパッと外へ飛び出しさえすれば助かったのである。火事は、本来それほど大きな脅威ではなかったのである。　ところが人間には、そういう部族集団で暮らしていた頃から火事とはまるで比較にならないほどの大きな脅威が存在し続けている。そしてそれに対抗するためには１日たりとて気を緩めたり、訓練を怠るわけにはいかなかった。何だろう？近隣の好戦的な部族、小国家、異教徒などである。集団内では、絶えず団結の意志を固め、士気を高め、危機感を持って武闘訓練をする必要があったのだろう。利己的遺伝子(セルフィッシュジーン)は、火事とは違い、この件については絶対に手抜かりなく我々をプログラムしてきているはずである。「神」のミームは、それを共有する者たちの団結を固めるために抜群の威力を発揮する。しかし、それだけでは士気を高めて武闘訓練を行うまでには至らない。そういうことのためには、神の場合とは全く逆に、憎しみや憤り、軽蔑や差別の対象となるようなものが必要だろう。ここではそれを、「鬼畜」のミームと呼ぶことにする。「鬼畜」のミームには、元々は近隣の部族そのものが当て嵌められることが多かっただろう。その場合、その部族の身体的特徴や言語の訛り、一風変わった習慣などが具体的な差別や軽蔑の項目となったはずである(それらの情報は実際よりかなり大袈裟に、しかも悪い方にデフォルメされていただろう)。但し、利己的遺伝子はそういう細かい情報までプログラムすることができないし、またしない方が得策と思われるので(なぜなら、「鬼畜」の対象はいつ変化するかわからない)、していない。利己的遺伝子が乗り物(ヴィークル)にプログラムしているのは、例えばこんな内容である。「物心ついたとき、周囲の大人たちが罵り、皆で寄って集って悪口を言い合っているものを覚えよ。それが鬼畜である。大人になったら鬼畜のミームを共有する者たちと共に戦うのだ！」大人になったときに現れる現実の敵は、彼らが子供時代に鬼畜であると認識したものとは違っているかもしれない。だが、それでもかまわない。とにかく鬼畜のミームを共有していることが重要なのである。彼らはそのことで士気が高まっており、知らず知らずのうちに武闘訓練を済ませてしまっているのである。人間の集団が拡大し、大きな国家が形成されるようになった今でも、似たようなことは繰り返されている。新聞、雑誌、テレビ、クチコミなどを通して鬼畜のミームの共有を感じとった人々が集結し、“擬似部族“を形成するのである。原発反対運動、暴力団追放運動、宇宙船地球号を守る運動、差別をなくす運動、フェミニズム運動、皮肉なことだが、日本の軍国主義化を阻止する運動……。様々な“部族“が、それぞれに設定した鬼畜のもとで“武闘訓練“に励んでいるのだ。ターゲットになるものは何でもいいが、乗り物が直接被害を被る可能性があるものは、どうも避けられている。なぜなら、それらはあくまで訓練だからである。またそのターゲットは、日頃から物事を深く突っ込んで考えたり、分析したりする習慣のない、ごく普通の人々から見て、「絶対に悪い！」と思えるものっあることが重要のようだ。そうであってこそ、より多くの乗り物が賛同し、より大きな規模での武闘訓練が可能になるからである。(中略）こういう運動に熱心な人々を見てつくづく感ずるのは、どの人も実に生き生きとしており、毎晩ぐっすり眠れていそうで、ごはんが美味しくて美味しくてたまらないといった様子をしていることである。それは何といっても利己的遺伝子の言いなりになっているからに他ならないからである。人から聞いた話だが、市役所か県庁かの前に何かの住民運動をしている人々が盛んにシュプレヒコールを繰り返しながら集まっていた。そこを偶然自転車で通りかかった第三者が派手に転んでしまったところ、その人は彼らに思いっきり嘲笑されたとのことである。「大丈夫ですか」と声をかけてくれたのは役所の守衛さんであった。彼らはそれほどまでに団結の喜びに舞い上がり、自分を見失っているというわけである。もちろん、“武闘訓練“ではない本物の市民運動も存在する。それとこれとを見分けるには 、参加者一人一人がどれだけ運動の内容を理解しているか、自分を見失っていないかどうか、運動のためにある程度の自己犠牲はやむを得ないと考えているか、などをチェックすればいいだろう。（後半略：Ｐ２１６～Ｐ２３０）<br /><br /><br />本書には、まだまだ紹介したい内容が多々ありますが、あまりに長くなるので、それはまたいつかの機会として、とりあえず今回は此処まで。この他に末尾に、漫画家の柴門ふみ女史が御自身の妊娠と出産、親子の外見や嗜好や行動、自身の作品のキャラクターを例に挙げて、竹内女史の論に賛同する解説も収録されております。〔文春文庫〕<br /><br />竹内 久美子<br />１９５６（昭和３１)年生まれ。７９年、京都大学理学部卒業後、同大学院に進み、博士課程を経て著述業に。専攻は動物行動学。　９２年、『そんなバカな！』(文藝春秋)で講談社出版文化賞を受賞。他、著書に『浮気人類進化論』(昌文社)、『男と女の進化論』(新潮文庫)、『小さな悪魔の背中の窪み』(新潮社)、『パラサイト日本人論』(文藝春秋)、共著に、『ワニはいかにして愛を語り合うか』(新潮文庫)などがある。

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            <category>理学</category>
      <author>管理人</author>
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      <link>http://tig.seesaa.net/article/225723158.html</link>
      <title>パンツの面目　ふんどしの沽券 著者／米原万里</title>
      <pubDate>Thu, 01 Sep 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>《幼い頃に通っていたミッション系幼稚園で目にした十字架の上のキリスト像。</description>
            <content:encoded><![CDATA[
《幼い頃に通っていたミッション系幼稚園で目にした十字架の上のキリスト像。<a name="more"></a>まだキリストが何者であるかも知らぬ幼女が、そのキリスト像を見て思ったのは、裸体の男性像の腰を覆っている布は、パンツなのか、フンドシなのかという疑問だった。その疑問はその場では知ることができぬまま、親の仕事で東欧に渡り、そこで日本にいては体験できない、「パンツ」に関する衝撃的な体験をする。日本と外国との文化の違いを直に体験した少女は、長じて作家となり、パンツとフンドシ、スカートとズボンをめぐる世界史の謎に挑み出した。彼女の名は米原万里。自身の幼年期の思い出や、海外滞在で知った異文化を巧みに織り混ぜて語る下半身の服飾についての世界史です》<br /><br /><br />さて、今回紹介いたさます本は、作家の米原万里女史(故人)のエッセイ『パンツの面目　ふんどしの沽券』です。変わったタイトルですので、どういう本なのかな？と思われるることでしょう。内容は、パンツ、ふんどし等の下着や、スカート、ズボン等の下半身を被う衣類の歴史と異文化比較を自身の幼年期や父親の仕事で海外に滞在した時の体験を例を交えて書かれたものです。　そもそも著者の米原女史は、明治生まれの父親が越中ふんどしの愛用者で、その越中ふんどしを母親が手作りしていたことから、ふんどしというものに、幼時よりひとかたならぬ愛着を抱いていたそうです。そして、ミッション系の幼稚園に入園した際に、その幼稚園の礼拝堂にあった十字架の上のキリスト像に興味をひかれたそうです。そして、同じ園児で、親友の女の子であるリエコちゃんと、そのキリスト像について議論したのですが、その議論の内容は何と、「この裸のオジサン（彼女たちはまだイエス・キリストが何者か知らない）が穿いているモノはパンツなのか、フンドシなのか」だったそうです(笑)。その疑問は、その時には答えが出なかったそうですが、その時に感じた疑問から、米原女史の下着の、そして服飾に関する歴史と各民族文化への探求心は芽生えたようです。　そして米原女史は９歳から１４歳までの５年間、チェコスロバキア（現在は、チェコとスロバキアの２国に別れている）プラハでソビエト連邦（現在のロシア）の外務省が管轄する学校に通い、そこで家庭科の裁縫の授業で下着のパンツを作るという、日本の学校では考えられない体験をしたそうで、それがさらに米原女史の下半身の服飾に関する歴史や異文化比較への知的好奇心を増進させたようです。そしてその知的好奇心の集大成が本書というわけです。下着やズボン、スカートを通して知る歴史と異文化比較の物語をどうぞお楽しみ下さい。<br /><br /><br /><br />内容抜粋<br /><br />『４０年来の謎』<br /><br />仲のいい女の子たちは、会う度に先輩面して、あんたはそろそろ女になるべき頃合いだと、急き立てる。あたしだって、すでに身も心も十分に熟れているという自覚はあった。でも何かが、すんでのところであたしを引き止めていた。ある夏の週末、モスクワ郊外の親類の別荘に泊まる予定が、つまらないことで伯母と喧嘩になり飛び出てきてしまった。親友のララのアパートに押し掛けて一晩泊めてくれと頼み込んだ。ララは呆れ返った。「一人なの？　彼は？」「自宅。両親はバカンスでクリミヤだって」「馬鹿だねえ、こんなチャンスはまたとないじゃないか！さあ、彼のところへ押し掛けるんだよ」「イヤー！！」自分でもビックリするような大声で叫んでいた。親類のところに泊まるつもりでいたあたしが穿いていたのは、《黒っぽい継ぎ接ぎだらけのみっともないパンツ》だった。「絶対イヤ！　死んだ方がマシ」「死ぬの、ちょっと待ちな」ララは立ち上がると隣室へ行った。ララは外国語大学ドイツ語科の学生で、ついこのあいだ実習で《ドイツ民主共和国》に三ヵ月ほど滞在している。そのとき支給された《僅かなお小遣いの全額を投じて、ララはレースに縁取られた明るい色の薄手のパンツを目一杯買い込んでいた》。その一枚をあたしに差し出しながらララは厳かに告げた。「これであんたは一歩も後へ引けなくなった。覚悟するのね」《繊細な美しいパンツを身につけると心を縛りつけていた諸々のものから急に自由になった。難攻不落の巨大な壁が突然消えたかのようだった》。その夜、あたしは処女膜を喪失した。《ドイツ製のパンツ》があの瞬間登場してくれなかったならば、永遠にあの壁は乗り越えられなかったのではないか、と今でも思っている。１９５０～６０年代のソビエトを舞台にした小説やエッセイ、回想記では、右のような記述に時々巡り会える。なお、私が右の文章を見かけたのは、２０００年の暮れ、サンクトペテルブルグ市を訪れ、ペトロパブロフスクの要塞監獄跡を見学したときにそこで催されていた傑作な展覧会場でのことだった。展覧会のタイトルは、「身体の記憶～ソビエト時代の下着」というもので、２０００年１１月７日(ソビエト社会主義革命８３周年！！)から翌２００１年２月末までサンクトペテルブルグ国立歴史博物館とドイツのゲーテ・インスティテュートの共催、下着メーカーとして有名なＴｒｉｕｍｐｈの後援のもとで行われ、評判を読んだ。展覧会場出口には、展示品のカタログが販売されていて、評判を呼んだ。展覧会場出口には、展示品のカタログが販売されていて、もちろん、私は飛びついた。そして、件の文章を探し当てて、思わず傍線を引きまくった（山口注：著者・米原女史が傍線を引いた箇所は、当ブログでは《》でくくってあります）。　展覧会場でも、カタログにも文章の主の名は記されておらず、展覧会の制作者であり、キューレーターでもある、エカテリーナ・デーゴチとユリヤ・デミデンゴが無名の女性たちから集めたインタビューのひとつと思われる。(中略)サタンの化身ヘビに唆されて性愛と知恵を授かった人類の祖アダムとイヴは、途端に生殖器を晒しているのがお互いひどく恥ずかしくなって隠すようになる。イチジクの葉が、「人類最初のパンツ」と呼ばれる所以。ところが、いま引用した２つのテキスト(山口注：もうひとつのテキストは略しました、内容は１８歳のソビエト女性が、彼氏の部屋に入る前に、分厚い不格好な毛糸の股引きを脱ぎ、ポーランド製のナイロン生地、レース縁取りのパンツに穿き替えるというもの）によると、年頃の娘さんが大切な人に見られるのを死ぬほど恥ずかしく思っているのは、生殖器ではなくて、それを覆い隠すパンツ(の醜さ、格好の悪さ)の方みたいなのだ。ああ、しかし、そんな陳腐な真実を確認するために、傍線を引いているわけではない。実は長年の謎を解きほぐしてくれそうな気がして、つい引いてしまうのだ。１０歳のときに芽生えた謎だから、もうかれこれ４０年以上も抱えていることになる。謎の発端となった現象には、９歳から１４歳までの五年間通った在プラハ・ソビエト学校で遭遇した。ソ連外務省が管轄する学校で、教科書もソ連製、教師もソ連人、生徒も大半はソ連人。四年生になると、女の子は家庭科を履修するのだが、その裁縫の授業で、最初に教わったのが、スカートでもエプロンでもなく、下着のパンツの作り方だった。裁縫の心得のある人にこの話をすると、十人中十人が、「冗談でしょう！　嘘に決まってる」と真面目に取り合ってくれない。「本当だってば。そんなこと嘘ついても何の得にもなりゃしない」といくら言い張っても、信じてもらえないのだ。無理もない。二次元の布で複雑に入り組んだ三次元体(しかも動くから四次元体)を包まなくてはならない。型紙作りも、そのための採寸も、やる前に気が萎えてしまうほど面倒なんである(ちなみに日本の学校で最初に習うのは、立体とは無縁の雑巾の作り方)。とにかく裁縫の達人にとってでさえパンツは難題中の難題。ましてや、初心者には無理を通り越して無謀というもの。越中フンドシを製作するのとは、わけが違う。といやに自信満々に述べるのは、明治４２年生まれの父が愛用していて、時々母がまとめて製作していたのを見慣れているからだ。(中略)１９６０年代当時、私が住んでいたチェコスロバキアでも、計画経済のもと、始終あれこれの商品が長期間店頭から姿を消したものだが、パンツは、サイズやデザインさえうるさいことを言わないならば、基本的にはいつも店にはあった。値段も安く、従って生徒がパンツ製作法を習得する必然性、少なくとも実用的目的は思い浮かばないのだった。人体の複雑さを認識させ、立体に対する理解を深める。きっと、そういう崇高な教育的目的があるのね、と宿題のパンツ作りに付き合わされて辟易していた母は、おそらく費やした時間と労力に何とか意味を持たせたかったのだろう、そう解釈した。ところが二ヵ月後の６月、母の解釈が必ずしも当たっていないのではないか、と思わせることを目の当たりにした。夏休みの林間学校で、二年先輩のダーシャというソ連人の女の子が、雨続きで洗ったパンツがなかなか乾かず、スペアが足りなくなったと、あれよあれよという間に目の前でパンツを縫い上げたのである。母が父の越中フンドシを製作するときよりも素早い気がした。手慣れた手つきに見とれていた。「すごい！！」感動する私を、ダーシャは理解しかねるという面持ちで見やりながら、手の方は一時も休むことなく、ウェストの部分と腿まわりにゴムを通していた。おそらく、パンツ作りは、彼女にとって、ボタンを付けたり、綻びを繕うような、ひどく日常的で当たり前の営みだったのだろう、と今にして思う。ただ、林間学校に参加していた同じソ連人の女の子たちで、ダーシャのように手作りのパンツを穿いている子は、ましてや自分でパンツを縫い上げる子は、他には一人も見当たらなかった。みな、トリコット製の既製品を身に着けていた。ダーシャは例外だった。ダーシャとは学年も違ったし、親しくていたわけでもない。彼女が林間学校でたまたま私の親友と相部屋だったので、親友を訪ねたときに、彼女がパンツを縫い上げる現場に立ち会っただけである。彼女に関する記憶は、この一点に限られている。しかも、その後すっかりこのことを忘れていた。新学期が始まった９月、パンツがらみで、もうひとつ不思議なことがあった。デンマーク人のクラスメイト、フランツが衝撃的な写真を見せてくれたのだ。それは西独のグラビア誌に掲載されたもので、ネグリジェやシュミーズ姿で街中を闊歩する女たちのスナップだった。中には、レースのパンツとブラジャーを着けただけの女もいる。「東ベルリンに駐屯するソ連軍人の妻たちの呆れた行状」というキャプションの意味をフランツが教えてくれた。クラス中が色めき立って、始業のベルが鳴ったのも気づかずにワイワイ騒いでいたら担任教師が背後からやって来て雑誌を取り上げた。先生は写真を一目見るなり顔を赤らめ、消え入るような声で、「まあ、何て恥知らずなこと。悪質な反共宣伝ですね」と言った。何だか、信じがたい写真だったので、先生の説明が腑に落ちた。それでまた、このこともすっかり忘れていた。その後、日本に帰国してから、ソ連の小説雑誌を読んでいて、ダーシャのパンツ作りのことを思い出した。“久しぶりにレニングラードから帰ってきた兄さんと僕は、その日、二人きりで過ごした。ママも姉さんも朝っぱらから出払っていた。町の百貨店に《チェコスロバキア製のブラジャーやらパンツやらが入荷したとかで、町中の女たちが、いや近隣の村々の女たちまでが、百貨店の前に列をなして並んでいた。》“　（Ｓ・セミョーノフ『わがアンガラ河』／山口注：《》内は、米原女史が引用にあたり、傍線を引いた箇所）もしかしてソ連では、既製品のパンツが、恐ろしく入手しにくかったのではないかと、このとき初めて気づいたのである。だからこそ、ダーシャのように手作りパンツを身に着けている女もずいぶんいたのかもしれない、と。その後、幾つかの小説やエッセイを通して、ソ連の女たちにとってポーランド製やドイツ製やチェコスロバキア製の下着が、大変な貴重品だったらしいことも確認できた。さらには、彼女らが、東欧製パンツの、色の明るさ、生地の薄さと軽さ、それにレースの縁取りに心奪われていることにも気づかされた。ここ一番という勝負のときに、貴重品の東欧製を着用し、普段は、黒っぽい手作りか手編みのパンツを穿いていたらしいことにも。もしかして、ソ連ではレースの縁取りがついた明るい色の薄手のパンツを工業生産していなかったのかもしれない、とそのときハタと思った。流行に左右されない質実剛健なパンツこそ、社会主義に相応しいと考えられていたのではないか。第二次大戦後、東欧諸国がソ連の傘下に組み込まれた事は、政治的、社会的、イデオロギー的側面から語られることが多いが、それが経済、わけても庶民の女たちの私生活にも何と画期的な変化をもたらしたことだろう、と感慨にも耽った。ところが、事実ははるかに上手だった。「身体の記憶―ソビエト時代の下着」という展覧会で入手したカタログに記された簡略ソ連邦下着史によると、第二次大戦が終了するまで、ソ連では下着のパンツが一切工業生産されていなかった、とのことである。下着工場で女性用に生産されていたのは、ネグリジェとコルセットだけだった。薄手のシルクの明るい色をしたレースの縁取りの付いたパンツは、仕立屋が注文を受けて縫う、ということはあった。尤も、レニングラードとモスクワにしか、そういう仕立屋はいなかったし、そんな贅沢を出来る女性も幹部の妻女やトップ女優、スター・バレリーナなどに限られていた。いずれにせよ、パンツは手作りが基本だった。戦後パンツの工業生産が始まったが、到底需要を満たすものではなく、圧倒的多数の女たちのパンツは手作りであり続けた。プラハ時代の家庭科の必須科目がパンツ作りだったのも、その延長線上にあったのだ、ダーシャではなく在プラハソ連人が例外だったのだと、４０年来の謎が解けて感無量な私は、次の文章に卒倒せんばかりになった。“　戦後のドイツで、モロ下着のまま街中を大威張りで歩いたソ連人将校の妻たちは、よそ行きの装いのつもりだったのである。庶民出身の彼女たちは、綺麗なレースの縁取りが付いたシルクのパンツやブラジャーが、まさか下着だろうとは夢にも思わなかったのである。　”フランツが見せてくれた写真の謎も、これで解けた。（Ｐ９～Ｐ２０）<br /><br /><br />『ＮＫＶＤの制服からハーレム・パンツまで』<br /><br />ＫＧＢ(国家保安委員会、１９５４～９１)の前身は、ＮＫＶＤ(内務人民委員部、１９１７～１９５４)といって、スターリンによる大量粛清の執行役を果たした弾圧機関(山口注：現在はＦＳＢ＝ロシア連邦保安庁となっている)。「泣く子も黙る」なんて生やさしいものではない、恐怖政治の総元締みたいなものだった。そのＮＫＶＤ傘下の政治警察ＧＰＵ(国家政治保安部、１９２２年創設、翌年ＯＧＰＵと改名)の制服に関する資料を読んでいて、いやに頻繁に登場する或る単語にちょっとした違和感を抱いた。“１９２０年９月１７日、労働と防衛評議会が採択した制令によって、チェーカー(非常事態委員会＝ＧＰＵの前身)スタッフ全員を赤軍の軍人に等しいステータスを有するものと定めた。しかし、ＧＰＵスタッフの制服が初めて制定されるのは、１９２２年から１９２３年にかけてのことである。(中略)ＧＰＵの司令部スタッフおよび監獄勤務スタッフの制服は、１９２２年８月３０日付け制令第１９２号に基づいて定められた。前者のそれは、上着の詰め襟と《シャロワール》が濃紺、襟章が赤、濃紺地の制帽に赤いキャップバンド、襟にＫＧＰＵ(Ｋ＝司令部の略)のロゴ、後者のそれは、晴れ着は前者と同じ、日常着は、上着の詰め襟と《シャロワール》が黒、蓋無しポケット、襟と前合わせ部分、袖ぐりに赤い縁取り、黒地の制帽に赤い縁取りと赤いキャップバンド。１９２３年５月２１日付け制令第２０７号により、ＧＰＵ管轄下の北部ラーゲリ(山口注：政治犯や戦争捕虜等の収容所)に勤務するスタッフのための特別な制服が制定された。濃紺の外套、襟章と襟の縁取りは赤。濃紺の詰め襟上着と《シャロワール》、赤い縁取り付き。濃紺の制帽に赤い縁取りと赤いキャップバンド。外套の詰め襟の襟にＵＳＬＧＰＵのロゴ。(Ｖ・クリコフ『ＧＰＵ－ＯＧＰＵ、１９２２―１９３４』１９９１年)“　もしや、と閃いて、赤軍の制服、民警の制服に関する資料を調べると、果たして、いずれも下半身はズボンではなくシャロワールを穿いていたことが判明した。(中略)なぜ違和感を抱いたかというと、コザックダンスの時にルパシカ(山口注：ロシアの民族衣装の上着)の下に着用する衣装として、学生時代に民族舞踊研究会の座長をしていた私は一晩に１１着も縫ったことがあるほどに、馴染みの代物で、ひどく締まらない間抜けな形状をしているからだ。赤軍や政治警察の厳めしいイメージとどうもそぐわない。泣く子も笑い出してしまいそう。膝まで届くブーツを着用しているので、からくも威厳を保っていたのではないか。ご存じのように、コザックダンスは下半身の動きがむやみやたらに激しい踊りである。それを可能にするべく、生地をたっぷり使うのだが、作り方は、一晩に１１着縫うのが可能なぐらいに極めて単純なのだ。(中略)コザックダンスだけでなく、バレエ『バフチサライの泉』に出てくる「韃靼人の踊り」の韃靼(タタール)人も、キプチャク汗国の分家クリミヤ汗国のギレイ汗も、その宮廷のハーレムの美女たちも、官宦たちも、皆シャロワールを身につけていた。(中略)もちろん、舞踊の民族衣装の原型は、元々舞踊のためのものではなく、かつて普通の日常着として身につけていたものである。そして、旧ソ連圏の人々がシャロワールを身につけていたのだろうことは、図鑑や博物館に陳列されたそれぞれの民族衣装だけでなく、絵画や小説の挿絵で確認できる。今もサマルカンドやブハラやタシケントなど中央アジア諸都市のバザールを訪れると、シャロワール姿の男女をよく見かける。いや、旧ソ連圏にとどまらない。サン＝テグジュペリの『星の王子さま』に、新しく星を発見したトルコの学者が民族服で発表したら無視され、西欧式背広姿で同じ発表をしたらすんなり認められたという話が出てくるが、挿絵に描かれたその民族服も下半身はシャロワールだったし、『アラビアン・ナイト』の挿絵でも、登場人物たちは絶世の美女や美男も魔神もみなシャロワール姿なのだ。(中略)おそらく、日本の大方の辞書辞典類ではシャルワールとして紹介されているもののことと思われる。アラビア文化圏の伝統的脚衣を指すペルシャ語のシャルワールが各国語に借用された際に訛ってしまったのだろう。“シャルワール　ｓｈａｌｗａｒ［ペルシア］北アフリカからトルコ、イラン、中央アジア、パキスタン、インド、アフガニスタンまでイスラム文化圏で男女ともに着用するズボンをいう。胴回りが２～６ｍと広く、足首まで覆う長さを持つが、股下の短いのが特徴である。古代ペルシア時代からあるといわれ、預言者ムハンマドも着ていたとか、後のオスマン帝国のスルタンが女性の純潔を保つのにふさわしいとして奨めたなどの説がある。(中略)１９７０年代後半からパリ・モードにも取り上げられ、ハーレム・パンツなどとしてファッション化されている［松本敏子］(『世界大百科事典』平凡社)“　同事典の「ズボン」を引くと、ズボン起源の筆頭に、このシャルワールが挙げられており、右では、古代ペルシアがシャルワール発祥の地と推定しているが、ロシアの大地にこれが浸透していくのに、スキタイ族が介在していると認識しているようだ。“シャルワールまたはシャルワール(ペルシャ語のｓｈａｒａｖａｒａを語源とする)東方諸民族の男女の下ばき。腰回りが非常に広く、ウェスト部と脚部の裾のところで襞を寄せて締めているものが多い。その形状は、スキタイやポロヴェツの時代からほとんど変わっていない。ロシアでは、膝のところまで届くブーツを履き、裾はブーツの中に入れる。(『民族学用語事典』１９９２年刊)“これは、民話や伝説ばかりでなく、ロシア各地で行われた考古学的発掘からも裏付けられている。思えば、前７世紀から前３世紀にかけてユーラシア内陸部の広大なステップ地帯を舞台に群雄割拠し、前６世紀から前４世紀にかけて世界最古の遊牧国家を築いた勇猛果敢な民族ｓｃｙｔｈｉａｎ(スキタイ)の活躍期と、古代ペルシャ(＝アケメネス朝ペルシャ、前５５０年～前３３０年)の存在時期はほぼ一致しているのだ。それどころか、スキタイは、マケドニアやアケメネス朝ペルシャとことあるごとに衝突していた記録が残っている。つまり直接の交流があり、しかも、スキタイは古代ペルシャ語と同じくインド・ヨーロッパ語族に属するイラン語系言語を話しているから、文化的相互浸透は、多いに考えられる。シャロワールまたはシャルワールが、その時期西アジアから中央アジアにかけての一帯で着用されていた、ということは間違いなさそうだ。前７世紀頃、スキタイまたは古代ペルシャで生まれたシャロワールが、サルマート、匈奴→モンゴル→タタール→コザックと受け継がれて、２０世紀初頭、スターリンの政治警察ＮＫＶＤの制服に採用されていた事実は、ソビエトという極めて理念先行型の人工的実験国家が、それでもまぎれもなくユーラシアの大地の文化伝統の中から生まれてきたことを物語っていて感慨深い。(Ｐ１９９～Ｐ２０８)<br /><br /><br />『モンゴル少女の悔し涙』<br /><br />「ここは学問の場ですよ。そんな不道徳で不謹慎なこと……」教頭先生はそこまで言って絶句した。唇が震えている。１９６３年のことだから、もう４０年も昔の話。プラハ・ソビエト学校の職員室の前で、モンゴル人の少女ツィガンドルシュが教頭先生に叱られていた。モンゴル人の生徒はソビエト学校に七、八人は通ってきていて、揃いも揃って途方もなく勉強が出来なかったから、あれは個人差というよりも、民族的特徴なのではないか、と誰もが口にはしないが思っていた。彼らと顔かたちがそっくりな日本人が私を含めて四人通っていて、全員が学業成績だけは優秀だったので、こちらの方は民族的特徴として誰もが口に出して褒め称えてくれたのと好対照だった。ようやく立ち直った教頭先生は呟いた。「……よく恥ずかしくないこと」呆れ返っている、という様子が目つきにも声音にも滲み出ている。また宿題で素っ頓狂な間違いでもしでかしたのかしら、と私は思い、ツィガンドルシュの顔を覗くと、涙ぐんでいた。私は彼女を可哀想とは思わなかった。本当にイライラするほどいつも愚鈍なんだから、とむしろ教頭先生を思い遣ったくらいだ。「本来一歩でも校内に入ることは、厳禁なのですからね。今すぐ家に戻って、スカートに穿き替えてくること」有無を言わさぬ教頭先生のこのフレーズでようやく私はツィガンドルシュの下半身に目をやり、ズボンを穿いていることに気づき、初めて彼女に同情を覚えた。私も妹とともに転校したての頃、ズボンを穿いてきたために、まるで寝間着姿で登校したかのように罪悪視されたのを思い出した。ソビエト学校の先生方は、授業のような公的な場で女性がズボン姿でいることを、この世にあってはならない非常識であると信じていた。あまりにも疑いようもなく当然すぎることだからなのか、予め禁止事項として注意されることも、ましてや明文化されることも無かったぐらいだ。春夏秋冬の林間学校や遠足などの課外授業で女子や女教師のズボン姿を見かけることはあったし、体育の時間には女子もトレパンや短パンを穿いたのだが、いやしくも正課の授業中に女子がズボン姿でいることは、想定外の事態だった。一度だけ、例外としてズボン着用が許されたことがあるにはある。１９６２年の２月下旬に学校のボイラーが故障して３日間暖房がストップしたため、氷点下の気温で授業をするという非常事態になったからだ。それほどに女のズボン姿はとてつもなく異常な現象であったのだ。私には不思議でならなかったし、理不尽に思えた。授業内容や日頃の教師たちの言動には全くと言っていいほど性差別を感じさせるものは無かったし、ソ連の国是として男女平等を高らかに謳ってもいた。医者、研究者の８０パーセント強が女性で、ワレンチーナ・テレシコーワが女性として初めて宇宙に飛び、「ヤー・チャイカ（私はカモメ）」と地球に送信してきた頃のことである。「カモメのワレンチーナだって、宇宙にはズボンを穿いて行ったんでしょうに、先生方はずいぶん保守的というか、古風なのね」クラスメイトの親友たちに同意を求めたところ、なんとソ連人だけでなく、イタリア人もフランス人もオーストリア人も、「えっ、日本て女の子でも学校にズボン穿いていっていいの？！」と、ひどくビックリして私を見た。あれは蛮族を見る目だった。そしてイギリス人のエリスは、忘れもしない、こう言ったのである。「パブリックスクールだってダメなのよ。姉のマーガレットはケンブリッジに通っているけれど、あそこも女学生のズボン着用は厳禁よ」こうして私は、ヨーロッパ文明圏の人々における「男はズボン、女はスカート」という固定観念の頑強さを思い知ったのだった。１５世紀、フランスの救国の英雄ジャンヌ・ダルクが捕らえられ、火あぶりの刑に処せられた時、教会は彼女の罪状に、男用のズボンを着用した罪を書き加えたし、１８世紀、フランス大革命の際に断頭台の露と消えたマリー・アントワネットは、革命が勃発するよりずいぶん前に命を落とす可能性があった。ズボン姿で公衆の面前に現れたため、怒り狂った群衆にすんでのところで八つ裂きにされかえったのである。そういう文脈から捉え直してみると、ジョルジュ・サンド(１８０４年～１８７６年)の男装が社会と文化に与えたショックは、もしかして彼女の文学作品よりも強烈だったかもしれないと思えてきた。今現在ならば、公然と性転換手術を受けるような果敢な行為に映ったのではなかろうか。いや、それ以上か。ところが、男はズボン、女はスカートという棲み分けが始まるのは、各ち地域、各民族それぞれ事情も時期も異なるが、大多数の国々においては、ごく最近のことであり、少なくとも、この棲み分けに先行する実に長い長い間、男女の下半身衣は同じ形状をしていた。それは、地球上の各地域で発掘される出土品や文献からも明らかであるだけでなく、例えば、スコットランドやアイルランドやギリシャやインドネシアの男たちは、今もとくに祭りともなるとズボンではなくスカートを好んで穿く。人類の基本的衣服はスカートで、ズボンは後から発見、発明された、あるいは余所から導入されたとする考え方は欧米の衣服史において主流を占める。日本語、ロシア語、英語(筆者の語学力に限界があり、他の言語のものは読めず)の事典類を一通り眺めた限り、人類の衣服の祖型は、①紐衣型(ｌｉｇａｔｕｒｅ)、②腰衣型(ｌｏｉｎｃｌｏｔｈ)、③巻き衣型(ｄｒａｐｅｒｙ)、④貫頭衣型(ｔｕｎｉｃ)、⑤前開き型、⑥ズボン型に分類されていて、その下半身部に注目してみると、⑥以外は、確かにどれも股を覆わないスカート型なんである。旧石器時代の人物像やエジプトの奴隷像、現存の未開人たちが腰に紐状のものを巻きつけていることなどから①は獣皮衣とともに人類にとって衣服の元祖とも言うべきものであり、②はこれの変形、発展形とも言うべきもので、古代エジプトなどの地中海沿岸や熱帯地方に多い、腰から下を覆う衣服で、エプロンもこのヴァリエーション。インドネシアなどのサロン、ミャンマーのロンギ、日本の腰巻きなど皆これに分類される。③は古代ギリシャのキトン、ローマのトガ、インドのサリーなど縫い合わせのない衣服、長方形の布を身体に垂らしたり巻いたりして襞を寄せ、布の両端を結び合わすか、帯や紐を絞めるか、留具で留める。④は、布の中央に頭を通す穴を開け、腕を通す袖をつけた形で、弥生時代から平安時代に至るまで、圧倒的多数の日本の庶民の服装はこれ。南米のポンチョなど、今にその形を残す。古代ローマ人がトガの下に着たトゥニカ(チュニック)もこれ。現代の服はこの④が祖型。⑤は東アジアに多く、日本の着物、中国の衫(さん：いわゆる中国服)、ベトナムのアオザイ、朝鮮のチョゴリなどがこれ。⑥はユーラシアの遊牧民から周辺民族に浸透していった。西欧について言えば、中世半ば頃まで、男女ともにゆったりした足首丈の貫頭衣型のコットというワンピースを着用していたようである。紀元前５００年頃からスキタイ族やフン族やサルマート族などとの交わりを通して、ズボン型が浸透してくるのだが、そのたびに頑強な抵抗に遭っている。現在中国服と呼ばれている胡服のような身体にピッタリした上着やズボンは、遊牧民系の王朝になるまでは中国でも長い間、蛮族の服として蔑視の対象であったし、古代ローマ帝国では、ズボンも股引も「蛮人の服」として禁止されていた。違反者は刑罰に処せられ財産を没収されたほどだ。しかし、軍人は例外だった。将軍たちは戦勝パレードに紫色のズボンを着用して臨んだと伝えられている。塚田孝雄氏によると、股引のラテン語はｆｅｍｉｎａｌｉａと言うが、これはｆｅｍｉｎａ(女の)という語から派生した言葉で、ローマの男性にとっては「女々しさ」と多分に野蛮なものとして意識された衣類だった。これは、フン族の移動に押されてユーラシア大陸から移動してきたゲルマン人やガリア人、中東のペルシャ人の衣類と考えられていた。しかし行動に便利で馬上での移動、寒冷地への遠征には適していたので、紀元一世紀後半にもなると、皇帝でも大っぴらに着用するようになる。それでも、初代皇帝でローマの威望の象徴たるアヴグストゥスともなると、トガの下に隠さなければならなかった。（中略）西ローマ帝国崩壊後の西欧では、十字軍の遠征などを通して東の文化文明に触れ、ズボンが普及しかかるものの、しばらくするとスカート型に揺り戻している。それでも武装した際はズボン着用が当たり前となっていき、その影響をうけて１５世紀には、男子服が胴衣とズボンに分かれ、女子服も胴衣とスカートに分離したのだった。(中略)　スカートの英語《ｓｋｉｒｔ》の語源は、古英語のシャツを意味する《ｓｃｙｒｔｅ》で、低地ドイツ語の婦人用ガウンを表す《ｓｃｈａｒｔ》に由来する。フランス語ではジュープ《ｊｕｐｅ》という。ポーランド語の《ｊｕｐａ》、ロシア語のスカートを意味するЮбка(ユープカ)と語源は同じで、アラビア語の木綿下着を意味する《ｚｕｐｐａ》に遡る。これは、和装用の下着を意味する襦袢の借用元とされるポルトガル語のｇｉｂａｏの語源でもある。要するに、現在スカートを意味する英語の《ｓｋｉｒｔ》も、フランス語の《ｊｕｐｅ》も、ポーランド語の《ｊｕｐａ》も、ロシア語の《Юбка》も、元は上半身に着用する下着を意味していて、貫頭衣のようなワンピースが上下に分かれた結果生まれたらしいことを物語っている。ユーラシアを中心に据えると、それをグルリと囲む東西南北各周辺地域において衣服の文化は驚くほどよく似た発展を遂げたともいえる。衣服の本流はワンピースから派生したスカートで、ズボンは外から、遊牧民のユーラシアからやって来ている。とここまで来て、私はあっと叫んだのだった。ユーラシアの中心にいた遊牧民にとっては、スカートではなくズボンこそが衣服の本流だったのかもしれない、と。中央アジアのウズベキスタンやトルクメニスタンを旅したときに、現地の女たちがことごとくワンピースの下にシャロワール風ズボンを穿いていたのを思い出した。中国服でも、ベトナムのアオザイでも女たちはワンピースの下にしっかりズボンを穿いている。遊牧民ではないけれど、遊牧民の支配下や影響下に長くおかれた地域だ。スカートを当然視する教頭先生に叱りつけられるモンゴルの少女ツィガンドルシュの悔しさを、今改めて思い知った。子供の頃から馬上で過ごすことの多いモンゴル人にとって、ズボンこそは男女を問わず当たり前の衣服であったのではないか、と。そして、ソビエト学校にいたモンゴル人の生徒たちが揃いも揃って勉強が出来なかったのは、決して頭脳が劣っていたためなどではなくて、あまりにも発想法や常識に隔たりがあったためかもしれないと思えてきたのだった。女のズボン姿に対するヨーロッパ人の嫌悪と不寛容は、ローマ帝国を崩壊へと促したフン族や、蒙古軍の蹂躙に怯えた遠い祖先たちの記憶のなせる業なのか、とも。（Ｐ２５７～Ｐ２６６）<br /><br /><br />本書の内容はこの他に、裸体を人前で晒すことに対する日本と西洋での羞恥心の違いについてや、アダムとイブが羞恥心を覚えて自らの裸体に纏った人類最初の衣服であるイチジクの葉についての疑問に、幼稚園時代の米原女史と園児たちが試みた実験と、その顛末。女性が悩まされる月経と生理用品についての考察、そして古代世界においては騎馬民族を象徴するような衣服だったズボンについて、騎馬とズボンとは、どちらの発生が先であるかの考察など。特に米原女史は少女時代のソビエト学校のみならず、ロシア語通訳の仕事もしていた関係からか、旧ソビエト連邦での様々な下着や服飾その他の身体文化を例に挙げて、興味深い説や話題を紹介してくれております。ご一読いただければ幸いです。〔ちくま文庫〕<br /><br /><br />米原万里<br />ロシア語会議通訳、作家(１９５０―２００６)。５９～６４年、在プラハ・ソビエト学校に学ぶ。著書に『不実な美女か貞淑な醜女か』(読売文学賞)、『魔女の１ダース』(講談社エッセイ賞)『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(大宅壮一ノンフィクション賞)、『オリガ・モリゾヴナの反語法』(Ｂｕｎｋａｍｕｒａドゥ　マゴ文化賞)、『ロシアは今日も荒れ模様』、『真夜中の太陽』、『真昼の星空』、『ヒトのオスは飼わないの？』、『ガセネッタ＆シモネッタ』、『旅行者の朝食』、『必笑小咄のテクニック』、『米原万里の「愛の法則」』、『発明マニア』、『他諺の空似』、『マイナス５０℃の世界』、『打ちのめされるようなすごい本』、『終生ヒトのオスは飼わず』など。

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            <category>文化</category>
      <author>管理人</author>
                </item>
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      <link>http://tig.seesaa.net/article/225721578.html</link>
      <title>シュガーロード～砂糖が出島にやってきた 著者／明坂英二</title>
      <pubDate>Mon, 01 Aug 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>《世界帝国の建設の野望に燃えて、ギリシャ北方辺境のマケドニアから、ひたすら当方に向かって征服の進軍を続けたアレクサンダー大王と、その兵士たち。</description>
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《世界帝国の建設の野望に燃えて、ギリシャ北方辺境のマケドニアから、ひたすら当方に向かって征服の進軍を続けたアレクサンダー大王と、その兵士たち。<a name="more"></a>シリアを、エジプトを、バビロンを、ペルシャを怒濤の勢いで征服し、遂にこの軍団の槍の穂先は、インド西部を流れる大河、インダス河の水面に煌めくまでに至った。しかし、そこまで来ていながら、この無敵軍団の雄叫びは聞かれなかった。聞かれたのは、疲労困憊の呻きと、厭戦の恨み節と、望郷の嘆きであった。アレクサンダー大王の「進め！進め！！」の声は、いつ終わるとも知れず、目前の大河の彼岸は、何が待ち構えているやも知れない未知の世界。これまで兵士たちは、大王の命令に従い、多くの民族や都市を撃ち倒し、従えてきた。しかし大王の「進め！進め！！」の言葉は止まらない。遂に兵士は大王に訴えた。「我々はいったい何処まで進めばよいのですか！　大王は我々を何処まで連れて行くおつもりなのか！！もう、たくさんです！！！」当時のギリシャ人が知る、精一杯の世界の果て、インドの地で、疲れ果てて嘆くアレクサンダー軍団の兵士たちを慰めたもの、それは「蜂が作ったのではない蜜を持つ葦」。それが西洋世界と砂糖との邂逅であった。そして、その邂逅が地球を西から東へ一周して、遂には我が日本国の出島にまで繋がる、シュガーロードの物語の始まりであった》<br /><br />今回紹介いたします本は、人間と砂糖の邂逅と、それをめぐる歴史について書かれたものです。砂糖の原料たる砂糖きびは何処で生まれたのか。砂糖を初めに見つけた人間は誰なのか。　本書によれば、砂糖きびの原産地は、ニューギニアとのことです。その種を風か、鳥か、人かは分かりませんが、インドネシアの島々を飛び石で渡りながら、アジア大陸の端のマレー半島なり、インドシナ半島に到達し、あるものは華南へ、あるものはインドへと伝播したようです。　そして本書『シュガーロード』が語る砂糖と人間の歴史物語は、インドから始まります。古代インドの神話や文化、知識を記した聖典『リグ・ヴェーダ』に、〈ソーマ〉という言葉が出てきます。ソーマとは神酒のことだそうで、蜜のように甘く、神々が好んで止まない酒。それはソーマ草の茎を圧搾して作られるもので、本書の著者は、このソーマ草の正体を砂糖きびではないかと推察しています。まあ、神話はともかくとして、英語のｓｕｇａｒ（シュガー）をはじめとする、砂糖の西洋社会での名称の語源は、インドのサンスクリット語のｓａｒｋａｒａ（サルカラ）だそうで、砂糖はインドから西洋に伝わったものであることは間違いないでしょう。本書では、その砂糖とヨーロッパ人の最初の邂逅を、アレクサンダー大王の軍団がインド西部のインダス河に到達したところから書き出しております。勇猛で覇気に溢れる大王に率いられ、アジアの地を連戦連勝で征服し続けながら、いつ終わるとも知れない進軍に疲れ果て、厭戦と望郷のつのる兵士を癒し、慰めた、インドの地に存在した「蜂が作ったものではない蜜を持つ葦」を、シュガーロードの物語の始まりとしています。そのアレクサンダーの軍勢が東に進んだ道を、およそ千年ほど後に、アラブの隊商が逆に進み、砂糖（この頃は「インドの塩」とも呼ばれていたそうです）を駱駝の背に載せ、バグダードや、エジプトのカイロ等のイスラム諸都市へ運び、さらにヨーロッパへ、そして大航海時代を経て、アメリカ大陸へ、そして日本の出島に到達するまでの地球を一周する長大な砂糖の旅路（またその逆に、インドから華南へ向かった砂糖もあるが）と、砂糖が世界各地の人々に与えてきた甘味の恩恵と、その利権から生じた悲劇。そして本書の後半では、鎖国体制下の徳川時代で唯一、海外との通交窓口であった長崎で、オランダ人と日本人との間で砂糖貿易によってなされた、様々な交流や日蘭双方の貿易事情や、日本社会に砂糖が普及し、需要が増大して経過について。砂糖を通して繰り広げられた歴史物語の数々を皆様にお贈りする一冊です。<br /><br /><br />内容抜粋<br /><br /><br />【インダス河デルタのできごと】<br /><br />『アレクサンドロスの兵士たち』<br /><br />バスが来て、バスが行く、神だけが残り続ける。インド、ニューデリー南方の町アリーガルのバスターミナルの近くで、一人の乞食がときおり身体を揺すりながら、ウルドゥー語のそんな意味の歌を歌っていたと、オリエント学者のアンネマリー・シンメル氏が書いている。世界史とは人の移動の歴史であるという。インドの歴史は古い。「雪の家」ヒマラヤの山々から逆三角形に突き出したインド亜大陸のこの一角を、いったいどれだけの人間たちが群れをなして来ては去って行っただろう。といって、ぼくがいま見ようとしているのは紀元前２５００年にも遡るインダス文明といった途方もない過去のインドではない。その者たちが現れたのはもっと新しい。それでも紀元前ではあった。紀元前３２５年のたぶん７月。アレクサンドロス大王の軍勢はインダス河下流デルタ地帯に到達した。それは異様な一団だった。大王直属のマケドニア人だけではない。ギリシャ人、キプロス人、ペルシャ人をまじえて総勢１２万人の騎兵、歩兵、その将兵の家族、女たち、それに商人。遠征軍の兵士たちは誰もが疲れはて、目がぎらつき、熱暑の空を仰ぐこともせず、モンスーンの雨でぬかるんだインドの大地をただ歩いていた。靴は水が沁みて重く、ベルトは腐り、出身地にちなんだ英雄の頭部を浮き彫りにした青銅の盾もとうにカビて緑色に変色していた。巨大な軍象が相手のこの土地では役立たずになったアレクサンドロス軍独特の長槍は捨てられた。赤紫の革の胸当てもいつからか脱ぎ捨てられていた。兵士たちのある者は、水嵩を増した雨期のインダスを人と馬と食糧を満載して下る無数の平底船の綱を引きながら岸の泥道を進み、ある者たちは、帆を深紅に染めた将校用の船を裸になって漕いでいた。それはバルカン半島の南、ギリシャの北辺、エーゲ海の陽光輝く故郷マケドニア王国を遠く離れること８年、１万８０００キロを行軍し続けてきた軍隊だった。ヒマラヤの深い峡谷を越え、東方の未知の国で戦いに戦いを継ぎ、７５万のアジア人を殺してきた軍団だった。それはまた、砂糖キビと初めて出会った西方の人間たちだった。（Ｐ９～Ｐ１１）<br /><br /><br />『砂糖きびとの出会いはどこ？』<br /><br />軍勢はインダス河三角洲の都市パッタラに暫しの憩いをとった。しかし、もともとアレクサンドロス自身にここを東征の最終地とする意図は全く無かったのだ。「ゼウスよ、あなたはオリンポスの山を支配されるがいい。余はこの地上を統治する」。インダス渡河の後は、さらに東方のタール砂漠に挑み、ガンジス河を制して、世界の果てにあると聞く「東方の大洋（オケアノス）」をこの目にするのだという２９歳の帝王の野心的な演説が将兵たちの強い拒否反応を呼び起こしたのは一年前のことだった。最古参の騎兵大隊長が泣きながら大王の命令を拒絶した。大隊長の諫言はすべての陣営に波のように拡がっていった。食事もとらず三日間、天幕に閉じ籠ったアレクサンドロスは結局敗北を自認せざるを得なかった。　今回の大規模なインダス河下りは大王の翻意による故郷への転進を意味するものであること、この苦しい南進が東方遠征の終わりの始まりであることは、すでに全軍の了解事項になっていた。あと一ヵ月もすれば、飢えと雨と泥と蛇に悩まされ、略奪にさえ飽き、ただ望郷の思いだけに凝り固まった大軍の西帰の旅が始まることになる。この時期、この地であったと伝えられるアレクサンドロスの兵と砂糖きびの出会いはこのパッタラ露営地周辺のどこだったのかは、どの伝記にも明らかではない。いや、実のことを言うと、マケドニアの眉目秀麗、小柄ながら勇気に満ちた王子が反ペルシャの戦いのうちに倒れた父王の後を継ぎ、遂にエジプトからインドに至る未曾有の、しかし未完の帝国を樹立するという英雄物語の数は両の指に余るが、それらの伝記や年代記のうち、原史料と呼び得るような材料に基づいて書かれたものはひとつもありはしないのだ。大王死語５００年、ギリシャ出身のローマの史家が著した『東征記（アナバシス）』七巻が最も信頼できる基本的史料というのでは、砂糖きびとの遭遇の素晴らしい一瞬を正確に描き出すことなど不可能というよりないではないか。それでも、砂糖きびは、そこインダス河三角洲地帯に確かにあったのだと思う。アレクサンドロスの終生の戦友であり、インドからの帰旅では二手に別れた一方の船団を率いる重責を担った海将ネアルコスによるらしいこんな言葉が残っている。「あそこには蜜蜂の助けを借りずに密が採れる葦がある」（後半略：Ｐ１１～Ｐ１３）<br /><br /><br />『砂糖きびのほんとうのふるさと』<br /><br />物語はここから始まる。とはいっても、ここで、砂糖きびという植物そのものが紀元前３２５年に生まれたのだなどというつもりはさらさら無いし、この植物がインド原産だというつもりも、またない。まず先のことについて言うと、砂糖きびはアレクサンドロスの軍勢によって「発見」される前から、もちろん、そこインドの地に「あった」のだ。軍勢が大王の最初の企図のとおり西インドからさらに東進を続けガンジス河に到達していたとするなら、多分そこでも、兵士たちはあの「蜂が作ったのではない蜜を持つ葦」に出会い、狂喜してその茎に歯を立てたことだろう。砂糖きびは、すでにして、あった。これはアメリカ大陸がコロンブスによって「発見」されようが、されようまいが、有史以前からそこに「あった」のだということと似ていなくもない。大陸はただ大陸であって、新大陸でも新世界でも、じつは無かった。砂糖きびもまた。あとのことについて言うと、インドの地にあって西方の戦士たちの渇きを癒した砂糖きびは、そこインドを原産地とするイネ科の草本だと長い間思われてきたのだったが、近年になってそうではないことがわかっている。（中略）結論だけを先に言うと、砂糖きびの原産地はニューギニアなのだ。このあたりの事情については、やはり名著のひとつ、「照葉樹林文化」の名で知られる中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』を借りることにしよう。それによると、まず、砂糖きびにもいろいろあって、インドの在来種はバーベリーとかチュニー群といったグループに属する。一方、今日の砂糖産業を支えているのはマレーシアの先住民が栽培していた優良品種群（ノーブル・ケイン）を土台にしてオランダ人が交配して作り上げたものが基礎になっている。インドの在来種は茎が細くて収量が少ない。砂糖きびがインドに原産し、東南方に伝播してマレーシア、ポリネシア、インドネシアにまで広く栽培されていたノーブル・ケインのグループを生み出したというには、無理があるわけである。では現在の優良品種砂糖きび群の直接祖先となった野生種はどこで原産したのだろう。アメリカの植物探検隊のＥ・Ｗ・ブランデス博士が思いがけない品種を発見した。その場所はニューギニアで、茎が太く丈夫なその野生種の砂糖きびは、ノーブル・ケインと比べて糖分が薄いという点を除けば何ら違いのないものだった。サッカルム・ローバスタムと名付けられたそれこそが砂糖きびのルーツだった。博士たちが踏査したニューギニア南海岸で住民たちが家の周りに栽培していたのは高さ４メートルにもなる丈夫な砂糖きびで、その付近の耕地とジャングルの間のようなところで、それの野生種サッカルム・ローバスタムが自生しているのを見つけたのだった。博士はニューギニアにおいてサッカルム・ローバスタムからその栽培種サッカルム・オフィキナムルが発生したのは紀元前１５０００～８０００年としているが、「この数字は彼もたいした根拠を示していない。ともかく、バナナやヤムイモと並んで、（砂糖きびは）人類最古の作物の一つとみることができるであろう」というのが中尾氏のコメントである。サッカルム・ローバスタムから発生した栽培種サッカルム・オフィキナムルは、紀元前６０００年、原産地ニューギニアからインドネシアの島々を飛び石づたいに辿ってマレーシアへ、そこから片やインドシナ半島を経てインドへと、ふたまたに別れて伝播したという。誰が、どのようにして、それをしたのか。風が種を運んだのか。鳥が種を運んだのか。ともあれ、インドに種を下ろした砂糖きびは、そこからまた膨大な時間のうちに土地と風土に馴れ親しんで、様々な品種変化を遂げていったに違いない。紀元前３２５年にマケドニアの兵士が噛んで吸った砂糖きびは、今日バーベリー、それともチュニー群と分類されている砂糖きびの祖先にあたる品種のどれかだったのだろうか。茎が細く、含糖分が低く、生産力も劣るとあって、それらの砂糖きびはいまはインドでもほとんど絶えてしまった。インダス河口デルタ地帯発のシュガーロードの始まるその以前に、あまりにも長くて遠く、現代人の我々の尺度では測り切れない種の進化のシュガーロードがあったのだった。その道の跡は既に消えて、ない。（Ｐ１３～Ｐ１８）<br /><br /><br />『サンスクリット語「サルカラ」』<br /><br />それにしても、何千年の尺度をもって教えられる悠久の時代に南海から届いた砂糖きびの順化と生長から砂糖作りまでの間には、どれだけの歳月が流れたことだろう。人と砂糖きびの付き合い方について言うなら、まずずっと後のマケドニアの兵士たちがしたように、インドの人たちもごく初めはにしたのは、せいぜい固い皮をナイフで削り、裸にした茎を噛みしだいて糖汁を吸うといったことだったはずだ。次には、何か道具を使って圧搾し、その搾り汁をそのままでか、水に混ぜて飲む。後に初期帝政期ローマの青年詩人ルカヌスが大作叙事詩『ファルサリア』で、ガンジス河沿岸に住む人々を「なよやかな葦の甘き汁を飲む人たち」と称えたのは、そのどちらを言ったものだったのか。食文化の進化の定理として次に考えられるのは、何か摂取しやすいような食べ物に混ぜるということだ。ヨーロッパの深い森の洞穴でヒトが好物の肉汁を効果的に口に運ぶ手だてとして用いたのは、焼け石で焼いた堅い黒パンをそれに浸すという方法だった。だいたいスープというものは、もとは肉汁に浸したパンのことをそう呼んだのだった。インド人の場合はドロドロと煮た粥に砂糖きびの汁を混ぜ込んで食べた。王族やバラモン僧は米の粥に、貧しい民は雑穀の粥に。紀元前５００～３００年に骨格が出来上がったとされる大叙事詩『ラーマヤーナ』には、砂糖きびの糖汁やカルダモンでねっとりとさせた牛乳煮の米粥が、クリーシャラという名で登場する。（中略）ヒトの料理史に最初に登場した調理器具は、火で熱く焼いた石だった。焼き石は、その余熱でエジプト人が自慢のパンを焼くのに最も重宝したように、あるいはメラネシア人が穴を掘ってバナナの葉で包んだ豚肉やタロイモを蒸し焼きにするのにいつも大量を用意したように、ここインドでも「文明の利器」だったようだ。この道具を使って砂糖きびの搾り汁を濃縮する、というところまで来ると、砂糖作りは完成までもうあとほんの一歩だった。純白の、などとは決していえるようなものではなかったにせよ、砂糖きびの濃縮汁を乾かして得た砂糖、より正確には粗糖と呼ぶべきだった貴重な産物を、インド人は、サンスクリット語で、ｓａｒｋａｒａ＝サルカラ（サンスクリット語と並ぶ中インド語のプラークリット語では、ｓａｋｋａｒａ＝サッカラ）と名付けたく。語根ｓｒｉ(引き裂く)と、ｋａｒａ(形成する)から成り立つこの言葉には、砂糖作りの工程がよくまとめられている。　サンスクリット語のｓａｒｋａｒａはそのままラテン語に取り入れられて、ｓａｃｃｈａｒｕｍ(サッカルム)となり、英語のｓｕｇａｒ(シュガー)、ドイツ語のＺｕｋｅｒ(ツッカー)、フランス語のｓｕｃｒｅ(シュクル)、スペイン語のａｚｕｃａｒ(アスカル)にその系譜を拡げている。人類の貴重な財産である砂糖がかつてインド人の発明になったということを、世界の言語が証言している。（後略：Ｐ２４～Ｐ２７）<br /><br /><br />【マルコ・ポーロの砂糖見聞録】<br /><br />『福建の砂糖は白かったか、茶色かったか？』<br /><br />《キンサイという壮麗無比な大都会に到着する。キンサイとは訳して「天上の都市」という意味であるが、まさにそのとおりの壮麗さである。》杭州についての報告を、マルコ・ポーロはこんな言葉で始めている。１２７９年、南宋はモンゴルの騎馬軍団に滅ぼされたが、かつての仮の都、杭州の栄華は消えなかったらしい。網の目をなした無数の水路と１万２千の橋、「あたかも、水の上に構築されているような」市街は、故郷ヴェネツィアを思わせたのかもしれない。インドの商人が商品を保管する巨大な石造倉庫の列、白と黄色の桃、米と香料で醸造した酒、数えきれないほどの遊女、医師と占星師と十二の工匠組合、軒を並べる冷水浴場、一日に１荷２２３ポンド入りで４３荷という市民の胡椒消費量……持ち前の数字入りの雄弁に続けて彼は、フビライ・カーンがこの市と管下諸地方から徴収する巨額の税金に話を移す。《砂糖の生産が、これまたマンジの他の八王国と同じく、この地で盛んなのである。全マンジからの砂糖生産額は、爾余の世界各地でのそれに比べて実に二倍に達するのだから、これが莫大な税収入を生み出すのである。》ここでマンジとは、大元帝国が首都を置くカタイ（江北）に対する江南をさしている。かなり古くから、揚子江流域は上流から河口までが砂糖きびの栽培地だった。北宋末から南宋初めにかけて、というから１１００年代の古典的な精糖書『糖霜譜』には揚子江上流域、四川省の北緯３０度を越えた辺りでの砂糖きび栽培法が詳述されている。そうであれば、１２００年代の元の世紀に、杭州を含む淅江省、福州を含む福建省といった華南の肥沃な一帯が全国砂糖生産の首位を占めていたというマルコ・ポーロの報告は充分に頷ける。ポーロのマンジの旅は、淅江から、南に隣り合う福建の首府福州へと進む。《この地方での砂糖製造額の莫大なことは、ちょっと信ぜられないほどである。真珠・宝石の取引も盛んであるが、それは全くインド諸島で商版に従事している商人たちを満載した海舶がはるばるインドから数多くこの地に入港するおかげである。》その福州にあと１８キロという地点だった。ウンケン、とその名を聞いた。侯官県。そこにはカーンの宮廷で使用するずば抜けて高価な砂糖をすべて納めているという製糖工場があった。『東方見聞録』はこう記す。《カーンがこの地方を支配する以前には、土地の人々はまだバビロンで行っているような調合法による砂糖精製の技術を知らなかった。彼等はそれを凝結し型に入れて固めるという製法を用いず、ただ煮詰めて粋を取るだけだったから、糊の程度の堅さをした黒い砂糖しか造れなかった。しかしカーンに征服されてから、この地にもカーン朝廷に仕えるバビロン人がやって来て、ある種の木灰を用いることによってそれを精製する方法を教えたのである。》（山口注：明坂氏は、この文中でマルコが言う「バビロン人」は、イランやエジプト等の人間で、当時の中東世界全般を「バビロン」と表現しているのではないかと推察している）まわりくどい文章だ。まわりくどい文章だが、よく注意して読むと、ポーロはここ福州近郊で、元代中国製糖の最先端を行く製造現場を目撃したのだということがわかってくる。第一のキーワードは「木灰」だ。フビライ・カーンの支配以前は、砂糖とはいっても、砂糖きびの搾汁を煮詰めて「粋」を取るだけだった、とある。つまり何度も何度も煮詰めては底に溜まったエッセンスというか、蜜と糖の混じり合ったペースト状のものを得るにとどまっていた。だからそれは「糊の程度の堅さをした黒い砂糖」でしかなかった。それがカーン以後、その煮詰める過程に「ある種の木灰」を使用するという技術革新が加わった。その木が何であったか。とにかく木灰は石灰と同じくアルカリ性だから、糖汁の酸類と化合してこれを中和する。また灰は不純物を吸着し、アクになって糖汁の表面に浮かんだり、底に沈澱する。除去しやすい。砂糖の色も、もちろん味も、ずいぶんと改善されたことだろうし、カーンの御覚えも良かったはずだ。『東方見聞録』のこの一文は、中国製糖史にたぶん初めて登場した砂糖精製工程における酸性中和剤使用の貴重な証言なのだった。（後半略：Ｐ５９～Ｐ６３）<br /><br /><br />『ヴェネツィア　砂糖の共和国』<br /><br />マルコ・ポーロを生み育てたヴェネツィアは、したたかな都市だった。（中略）その最初の町が、ラテン語の「高い崖」から発してリアルトと呼ばれていた潟の一角に完成したのは４２１年３月２５日だった。とこれはずいぶんと細かく伝説に語られている。潟に築造された寒村が独立の都市国家ヴェネツィアに成長し、それどころか中世ヨーロッパの「東を向いた表玄関」に成り上がったのには、地中海域特有の海の民の進取の気質と海運の才が大きかったし、加えて地の利という好条件があった。神聖ローマ帝国との親密な関係を維持しながら、８世紀には東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルと当時イタリア東海岸の物資集積地ラヴェンナ間の郵便サービスを仲介していたし、９世紀にはイスラム世界に組み入れられていたエジプトとの直取引を始めていた。地図を見るとこれらの地域がどこもみな、アドリア海、エーゲ海、地中海といった水で繋がったひとつの世界であることがわかる。１０世紀になると、最初の砂糖が、シリアとエジプトからサン・マルコの荷揚げ場に到着している。シュガーロード最新のシチリアの上質の砂糖がヴェネツィアの市場に現れはじめたのは１１世紀。１２世紀にはこの港からエジプトものを質でも値でも抑えたシチリア産糖が船積みされていた。もちろん手練れのヴェネツィアの水夫たちが運び入れ運び出し、機敏なヴェネツィアの商人が売り買いしたのは、砂糖だけではない。マルコ・ポーロが「私はまだ半分も話していない」と言い残して１３２４年に世を去った次の世紀に、共和国頭領トンマーゾ・モチェニーゴが大演説をした。《我々の国は、１０００ドゥカートを通商に費やし、ガレー船、帆船などの船舶を使って、全世界と取引をしている。その結果、ヴェネツィアにもたらされる利益は２００万ドゥカートであり、投資額と売上総額を考慮した利益は４００万ドゥカートである。……我々はまた、８０００人の水夫が乗船する３００隻の大型船を所有する。毎年、１万１０００人の水夫を乗せた、細身と太身を合わせて４５隻のガレー船が出航する。船大工は３０００人、船体溶接工も３０００人……　》いや、このきりのない引用はやめよう。要するに、この水上都市の大運河には、スラヴ世界から木材と蜂蜜と蝋と毛皮が、ビザンティン世界から葡萄酒と絹製品が、イスラム世界から砂糖と麻と綿と香水と香辛料がひっきりなしに持ち込まれては、文化に目覚めはじめたヨーロッパに高値で売り捌かれていったのだった。砂糖貿易についていえば、仕入先の主軸はすでにして東方世界から大きく移動していた。「カイロの砂糖は雪のように白く、石のように固い」と言われたものだが、その評判は地中海の島々が奪った。まず長靴の形をしたイタリア半島のつま先、シチリア島に広がった砂糖きびの大農場と製糖工場がある。前にも書いたように発祥の歴史は１０世紀も遡り、１１世紀から１２世紀にはピークを迎えたこの島産の砂糖に続くのは、東地中海をイタリア半島に向かって飛び石のように並ぶクレタ島とキプロス島の砂糖だった。１３～１４世紀ヴェネツィアの船荷リストの多くのページを占めることになったこの二つの島の砂糖をヴェネツィアは十字軍を利用してうまうまと手に入れたのだ。（後半略：Ｐ６８～Ｐ７２）<br /><br /><br />『フロイスの瓶入りコンフェイト』<br /><br />太平洋。万里の海にも新しい波風が湧き立っている。１５２０年１１月２８日水曜日。この日、マゼランは南米大陸南端を大西洋から太平洋へ抜け出てきた世界最初の航海者となった。　ポルトガル下級貴族の身をスペイン王カルロス１世のもとに投じたフェルナン・マガリャンエス（マゼラン）が、この国に新設されたインディアス審議院や通商院のお歴々を、新大陸からさらに西へ向かえばポルトガル人の喜望峰回りより近距離で東方の香料諸島に達するはずと説き伏せ、轟く礼砲に送られてセビリャの埠頭を離れたのは前年８月１０日。そのときにはトリニダード号以下五隻だった船団は、離反する船もあって今では三隻になっている。南緯５３度の僅か三時間しかない夜を重ね、イワシとメヒリョン貝とセロリの栄養に助けられて、南アメリカ大陸南端を切れ切れに縫い合わせる島々がつくる入り組んだ海峡を航行し続けてきた乗員たちだったが、この日ついに、雪の山に挟まれた岩の壁の海から広大な大洋（マーレ・オチエアノ）の真っただ中へ突入したときには、水面を飛んで跳ねる無数の飛び魚たちのレースを鑑賞する余裕を失ってはいなかった。尤も、目指すモルッカ香料諸島までには、そこから湾がひとつか、せいぜい内海があるぐらいのものという当時の世界観しかなかった彼らにとって、思いもかけずそこに存在していたのは地球上最大の海、太平洋だった。苦行と苦労の末、翌１５２１年４月、長途フィリピン諸島中央部のセブ島に辿り着いて西回り世界周航路の開拓という国王との約定は果たしたものの、提督マゼランが再び故国の土を踏むことはなかった。（中略）一方、ポルトガルは素早い勢いで東進を強行し続けていた。かつてガマ（山口注：ヴァスコ・ダ・ガマ、ヨーロッパからインドへの航路を開拓したポルトガルの航海者）が開いた海路に次々と派遣された艦隊は、１５１０年、インド西岸の港市ゴアを攻略、イスラムのモスクを焼き払う。この地に要塞を築き、インド洋海域を砲艦で制圧すると、次の狙いはマレー半島南端のマラッカだった。（中略）ポルトガルがさらに強固な東方交易の拠点と定めることになる華南の良港マカオの居住権を明国からいつ、どのようにして手に入れたかは、判然としない。だが１５５５年、日本へ向かう途上にあったイエズス会のインド管区長がＭａｃｈｕａｎを発信地とした手紙をゴアの同僚に宛て送っている。１５６２年には８００人のポルトガル人が居住して、地価も上昇したという。マカオ。中国名は澳門。南湾の澳(港)を挟んで聳える二つの丘を門柱に見立てた名だった。門柱の間に南シナ海の青が広がる。その海は古来、この地域の海民たちの賑やかな交易の場だった。（中略）南シナ海に夏の季節風が吹いてくるとマカオを発する日本向けの船には、丈の長い僧衣を着た宣教師たちが乗り込んだ。１６歳の時から神の下僕としてインドへの布教を願い、そのインドのゴアではフランシスコ・ザヴィエルに出会って日本行きの夢を燃やしたイエズス会士ルイス・フロイスもその一人だった。１５６３年（永禄六）、肥前国彼杵郡（そのぎごおり）横瀬浦に上陸してから実に３０年以上を日本で過ごすことになるこの人好きのする司祭が、１５６９年（永禄十二）、京で二条城を造営中の織田信長の御機嫌伺いに参上の節、この天下人にガラス瓶入りのコンフェイトを贈ったというエピソードはあまりにも有名だが、地終わる所(山口注：ポルトガルのこと。ポルトガルの詩人カモンイスの「ここに地終わり、海始まる」の詩による)から波濤を越えてジパングの国に到達したシュガーロードを象徴するようなこの話は、ぼくも気に入っている。コンフェイトとはもちろん金平糖だ。１６世紀の当時、日本の都にまで携えられたポルトガル製砂糖菓子コンフェイトはどのような形をしていたものか。貴族や司教たちに好まれたという貝や魚や胡桃をかたどった高級な砂糖の練り菓子だったのか、いまも古都コインブラやテルセイラ島で素朴な形を残している日本でもお馴染みの、あのキラキラと角のあるタイプだったのか。（Ｐ９６～Ｐ１０１）<br /><br /><br />『普段着を着たポルトガル人』<br /><br />しかし、フロイスのコンフェイトは一挿話だ。いま、東半球を渡って環シナ海海域のふちにある九州西岸にまで延びてきたシュガーロードの実際の姿は、もっと民衆的な広がりを持ったものではなかったろうか。というのは、こうなのだ。食の文化というものが育つには、ひとつの条件がある。食文化とは生活の文化だ。人々の生活、民衆の日々の暮らしの中でこそ、それは根を下ろし、拡がり、進化し、ときに姿を替えては生き延びていく。でなければ、その食文化はひ弱なものに過ぎない。いつの間にか、そっと消えてしまう。日本人にとって、砂糖は１６世紀に初めて目にするものでは、じつは、なかった。７５４年（天平勝宝六）五度の失敗を重ねた後の六度目、ついに日本へ仏法伝道の悲願を達した唐僧鑑真によってもたらされたという説がある。和上の第二次渡航の積荷目録に「石蜜」「蔗糖」の名があるのがそれだというのだが、断定しにくい。六度目に成功した渡航の際の船荷にこれらの名は無い。ただ、ほぼ同時期、聖武帝の遺品に薬種として二斤余りの「「蔗糖」が含まれていたことには文章の裏付けがある。高貴な薬であった。（正倉院『種々薬帳』）。平安時代になると唐果物だといって「沙糖」をひとから贈られたという貴族の日記がある(『後二条師通日記』)。けれど、それらは権力者の館の奥座敷や僧坊の壁をかすめた微かな痕跡にとどまった。普通の人々の暮らしの中で、砂糖がこの上もなく甘いもの、美味いものとしてその味覚を楽しまれるのは、やはり１６世紀、南蛮文化時代以後ということになる。砂糖羊羮、砂糖饅頭、砂糖餅、砂糖飴、そんな名が普段に口にされるのは、室町も後期に入ってのことだった。羊羮や饅頭にわざわざ「砂糖」と冠をつけたのは、つまりはそれまで羊羮も饅頭も砂糖無しが普通だったからだ。砂糖羊羮、砂糖饅頭、そんな呼び名に舶来の砂糖へのいかにも興味と親しみが感じられないだろうか。食の文化の息遣いが聞こえてくるのは、そんなときだ。（後半略：Ｐ１０１・Ｐ１０２）<br /><br /><br />本書は砂糖をテーマとしていますが、内容は砂糖に限らず、古代インドから、シルクロードの栄華を極めた中世イスラム世界や、十字軍時代や、大航海時代のヨーロッパの文化や歴史上の様々な出来事や文化・経済事情等が紹介されております。つまりは、砂糖の雑学本というよりも、砂糖をきっかけにした世界史の書というべきでしょう。ちなみに私も甘味は大好きです。よく酒呑みは甘いものが嫌いだと言われますが、私は酒呑みであるにも関わらず、甘味にも目がありません。たとえばウィスキーを飲むときの、お気に入りのつまみはチョコレートやクッキーという人間です。しかし、現在の私が何より砂糖の恩恵を感じるものは、奄美大島産の黒糖焼酎を飲むときでしょうかね。＾＾　皆様は如何でしょうか？それではまた。〔長崎新聞新書〕<br /><br /><br />明坂英二<br />昭和６（１９３１）年、神戸市生まれ。早稲田大学仏文科中退。ＰＲ誌のエディター、ライターの仕事の中で食の文化史にひかれる。著書『かすてら加寿底良』（講談社）、『卵を割らなければオムレツはできない』（青土社）、『オーヴンからの手紙』（同）、絵本『小さな卵の大きな宇宙』（福音館書店）など。日本エッセイスト・クラブ会員。

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            <category>文化</category>
      <author>管理人</author>
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      <link>http://tig.seesaa.net/article/214819102.html</link>
      <title>【新訳】名将言行録～大乱世を生き抜いた１９２人のサムライたち 著者／岡谷 繁実</title>
      <pubDate>Fri, 01 Jul 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>ある者は、室町幕府衰退による世の乱れに乗じて、下剋上による国盗りに身を投じ、ある者は乱世を収め、天下統一を成し遂げるべく立ち上がり、ある者は、海の向こうの異郷の地にて、異なる風土や流儀の敵を相手に奮戦し、ある者は、天下分け目の決戦にて命運が尽き、ある者は乱世が終焉し、新たに訪れた泰平の世に合わせて、武断から文治へと生き様を転換した武将たち、またそうのような主に付き従い、苦楽を共にした家臣たち。</description>
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ある者は、室町幕府衰退による世の乱れに乗じて、下剋上による国盗りに身を投じ、ある者は乱世を収め、天下統一を成し遂げるべく立ち上がり、ある者は、海の向こうの異郷の地にて、異なる風土や流儀の敵を相手に奮戦し、ある者は、天下分け目の決戦にて命運が尽き、ある者は乱世が終焉し、新たに訪れた泰平の世に合わせて、武断から文治へと生き様を転換した武将たち、またそうのような主に付き従い、苦楽を共にした家臣たち。<a name="more"></a>戦国時代と呼ばれる苛烈にして、しかし躍動感溢れる時代を駆け抜けた数多の武人たちの言葉と生き様をリスペクトし、日本の無形の宝として広め、後世にまで伝承すべく筆を執った維新回天の功労者の一人、その名は岡谷繁実。国家や社会を生かすには、何よりも「人材」の適切な活用と切磋琢磨、そしてそういう人材が遺してくれた智恵と経験の伝承であるとして、過去の名将たちの言行を集めた岡谷繁実の『名将言行録』を現代の軍学者・兵頭二十八氏が、現代式の記述に書き改めて、平成の世に生きる日本人に贈る一冊です。<br /><br /><br />内容抜粋<br /><br /><br />【　序　】<br /><br />本書は、日本の戦国武将１９２人のエピソードを選りすぐった『名将言行録』の抄訳です。エピソードの割愛はしてありますが、人物の割愛はせず、原著増訂版に載った１９２人の全員を紹介しました。原著の編者、岡谷繁実（おかのやしげざね）は、幕末の天保６年（１８３５）、秋元家の所領の山形で、その家臣の子として生まれています。繁実の先祖は関東土着の武士でした。が、天正１８年の秀吉の小田原攻めで居所を失い、その子の岡谷信繁が、寛永年間に、総社藩１万石（いまの群馬県前橋市）を領する秋元泰朝に仕えました。寛永１０年に秋元家は、甲斐の谷村藩に移封。しかし、明和２年から４年（１７６７）まで、藩主が徳川幕府の老中でもあったときに政争に巻き込まれ、経営上の悪条件の多かった出羽山形へ転封させられます。ようやく藩主が秋元志朝（ゆきとも、岡谷繁実の主君）の代に、政治的地位が向上し、群馬県の館林に移封（弘化２年＝１８４５）となり、以後、明治まで転封はありません。志朝（ゆきとも）は、実父が徳山藩主（毛利氏）でしたので、徳川譜代の関東の大名家を相続していながら、長州藩などの攘夷・維新運動を支持する立場でした。その藩主の下で、繁実は弘化４年に岡谷家の家督を継ぎ、ペリーが来航した嘉永６年には使い番（課長クラス）となり、安政５年には館林藩の大目附に昇進しました。江戸勤番の傍らには、高島流の西洋砲術も学び、水戸にも遊学します。文久３年（１８６３）の離藩の直前には、世子・秋元礼朝（ひろとも）の侍講を勤めていて、中老格でした。安政元年（１８５４）６月８日、まだ繁実が１９歳だった頃に、西洋人たちが浦賀を気儘に闊歩している姿に切歯慨嘆し、この『名将言行録』を書き始めたそうです。完成までには、それから１６年が費やされました。江戸時代後半のインテリ武士ならば誰もが読んでいた『宋名臣言行録』は、朱子学者が君主・官僚に対して模範を教示した指針の書です。それに対して岡谷繁実の『名将言行録』は、「日本人が西洋人に勝つためにはまず、鉄砲渡来以降の本朝の動乱の経験をおさらいしたい」との思いから着手されたものと言えるでしょう。万延元年、繁実は秋元志朝から特命を受けて京に上り、攘夷派の公家・三条実愛と連絡をとります。ところが元治元年（１８６４）の「蛤御門の変」の結果、志朝は幕府からの譴責をかわしきれず、隠居。繁実も表向きは藩からの放逐されます。ただし志朝は藩の最高実力者であり続けました。武蔵の深谷に居宅を手当てされた繁実は、世間的な身分は浪人となって、維新運動に身を投じながら、時折、『名将言行録』の草稿に筆を加え続けたようです。明治新政府が成立しますと、維新に貢献した岡谷繁実は、晴れて帰藩を赦されましたが、すぐに致仕（離職）し、大正９年１２月９日までの残った人生を、専ら歴史研究のために費やしたのでした。原著『名将言行録』の初版（「北条氏長」から「土屋直政」まで１７８人を収めた）は、安政元年の起草から数えて１６年後の明治２年秋（旧暦８月）に脱稿され、明治４年までにフルセットが刊行されました。増訂版（「北条氏綱」から「水野忠善」までの補遺が加わり、計１９２人を収める）の完成は、明治２８～２９年でした。波乱万丈の１６年間、正式にはどこからも扶持を受けていなかった岡谷繁実が、『名将言行録』の厖大な草稿および参照資料の抜き書き（自筆コピー）などを保管できたのは、秋元志朝をはじめ、繁実のために「図書館・兼・書斎」に近い環境や資金を提供してくれたパトロンがいたからこそでした。岡谷本人の巻頭「凡例」および巻末「引用書目」によれば、参照した書籍は『北条五代記』から『駿河志料』まで、通計１２５１部にも及びます。岡谷繁実は、多くの志士とは異なり、古い家系を誇ることができ、家格は生まれながらの家老格でした。おかげで流浪中も高位のパトロンには事欠かなかったわけです。しかるに幕末維新時代には、若い元気な者が、世襲の「バカ家老」や「バカ殿」を顰斥するのが、大きな風潮でした。繁実は些か迷惑を感じたでしょう。岡谷は、仲間の志士たちに、「今の殿様も昔は野蛮人であり無名人であった。だが安定した名家があったればこそ、史料だって保管され、智恵が伝えられている。その蓄積の真価をリスペクトしてもいいじゃないか。組織の生存には中堅幹部が必要なんだ。古くからの家老家系だって、バカばかりじゃないんだよ」と訴えたくて、最終的にこの１９２人を選んだのではないでしょうか。明治維新の推進力のかなりの部分を、岡谷のような「家老階級」が提供していたのでしょう。日本には科挙こそありませんでしたけれども、実用的な機転や敢為の精神を持ち、シナ人や西洋人にも負けないだけの人材は、常にいました。その人材が国家規模の大事を仕上げられるかどうかは、部下・同僚・上官と、いかに協働できるかにかかっていたでしょう。岡谷繁実は、旧制度が消滅して行く中で、旧制度の中でも自己実現のできた体験を愛惜し、かつ誇りたかったように思えてなりません。岡谷のパブリックな提言は、原著に「題言」を寄せている田口文之が、むしろ広宣してくれているでしょう。意訳してみます。《人材こそが、国家を盛んにし、また、衰えさせもしたのである。日本の戦国時代は、雇い主が雇われ人を選んだだけではなく、雇われ人もまた雇い主を選んだ時代だった。組織と組織、また、組織の内部で、常に人材が切磋琢磨し、能否が競われたのだ。もし政府が日本全国の人材を活かせないなら、その政府は倒されるしかないのだ。それこそが、『孫子』が「暮気」と呼んだ集団的な気力の衰えを、再び「朝気」へと変ずる方途だからである。さもなくば、日本も国家として消滅するしかない。》以下に、兵頭の訳編上の方針を記します。底本には、人物往来社が昭和４２年に出した７分冊版（歴史選書）の『名将言行録』を用いました。原著者の岡谷繁実自身が、「言行を知るを主とし、履歴を叙するを主とせず」と「凡例」に明記しているのに賛同し、兵頭が興味を抱いた逸話を中心に抄録しました。原著には、「これは史実ではない」と大方で認められているような話や、一人の人物としても矛盾したエピソードなどが、多々、混ぜられています。それらを必ずしも排除しませんでした。ですから、本書にいくら年月日などが書いてあっても、本書を「年表」や「人物事典」として頼りにすることはできません。ただ、１９２人の武将の「伝説」を味わうことで、人物のキャラクターを考えるよすがになることを本意としました。（後略：Ｐ３～Ｐ８）<br /><br /><br />『阿部正次』<br /><br />［阿部正勝の子。岩槻８万６０００石。正保４年１１月１４日没、７９歳］<br /><br />慶長の征韓作戦に従軍したのが初陣であった。これは本人の強い意志により決行された。元和元年の大坂夏の陣の最終段階で、首級が東西どちらの軍兵なのか分からないほどの混戦となった。正次は、「東軍は遠路を来る間に皆、真っ黒に日焼けしているが、場内の守備兵は白い」と、見分け方を教えた。寛永３年、大坂城代に任命された。秀忠からは、「塀の裏に大筒をずらりと並べて上方の人目を驚かし、威を示せ」と訓令された。正次は、病死するまで、このポストを動かなかった。　寛永１５年に島原の乱が起きたとき、九州の目代は、諸大名が勝手に討伐の派兵をしないようにと命じた。だが大坂に在って正次は、一向一揆の体験から、長期化させないことが大事であると確信し、独断で、諸大名に便宜次第の出兵を許した。正次から見て阿部忠秋は甥である。しかし忠秋が家光から抜擢されて閣老となりや、正次は、部下としての態度をとった。自身の子の重次が老中に出世したときにも、同様にした。正保４年、ついに正次は病床に伏せり、死期が迫った。家光は驚いて、重次に暇を与え、大坂へ急行させた。正次は、息子といえど上司であるとして、肩衣を掛け、たたんだ袴を膝の上に置いて病中の礼装とし、改まって平伏対面した。その夜、重次が、大坂の奉行たちに、「このまま父が城内でみまかっては、将軍の御成りもあるこの役所を汚すようで悪いから、私邸に引き退がらそうと思うがどうか」と相談すると、一同は賛成した。父の枕元にその旨を告げると、正次はこう答えた。「お前は籠城戦を何も知らないのだ。前将軍から直々にこの城を守れと仰せ付かったワシは、一息も息が有る限りは、この城を人手に渡すつもりなど無いぞ。よく聞け。大坂城をかように高く築いてあるのも、かほどに堀を広く設けてあるのも、みな戦争の備えなのであるぞ。西国の敵がこの城に目をつけ、奪わんとしたときは、徳川の武人の屍がこの塁をもっと高め、戦士の血がこの池をなおも深くする筈である。守兵が全滅を覚悟してかじりつかねば、どんな大城郭とて決して守り通せはしないのだぞ。だから、もし死を忌み事と思う了見ならば、最初から城など造らぬがよい。それがワシの存念である。さりながら、ワシは若いときより、我が智は人には及ばざるなりと思うてきた。いわんや今は老衰。間違った見込みを抱いておるかもわからぬ。だからどうか、このさい江戸城に注進し、御裁断を奏請してみて欲しい」飛脚は２日で江戸に至り、即日、家光は正次の所存を「神妙である」と感称。その飛脚が２日で大坂に戻り、正次は満足した。そのあくる日、正次は、冷たくなっていた。〔巻之６０〕（Ｐ２９～Ｐ３１）<br /><br /><br />『板倉勝重』<br /><br />［板倉好重の子。寛永元年４月２９日没、８３歳］<br /><br />長男ではなかったため、若くして出家して修行していた。兄の早世により、家を継ぐため還俗した。元・僧侶で文書に堪能な勝重は、検視役に遣わされることが頻繁であった。他殺体が事故死や自殺に擬装されていても、勝重はよく見破って報告した。家康は勝重の事務能力を、闘将揃いの家中に得難きものと認め、まず駿府の町奉行に抜擢。ついで、きわめて重職である京都所司代に登用した。禄高は５００石から２万石へ加増された。槍先の功名手柄は一切無しで、いきなり大名にされたのである。　彦坂光政が駿府の町奉行に就任するとき、先輩の勝重に心得を聞きに来た。「賄（まいない）をいっかな受けぬ奉行との評判を立てることです。受けてしまえば欲が生じ、あきらかなる係争利権の帰属も見えなくなります。納めずに突き返しても、必ず裁決に贔屓加減の心が生じますので」慶長１９年、豊臣方が徳川方との戦争を予期して、大坂、堺、津、尼ヶ崎の商船をおさえ、２０万石の兵糧米を強制買い付けした。このとき関東へ輸送される直前の５万石分も出航を止められたが、勝重が大野治長に「そちらの兵糧はさぞ欠乏しているのでしょう。よろしかったら大坂港の我が方の積荷を進上しますよ」と伝えると、「城中にはもう十分な貯蔵軍糧があるので、ご無用」との返事があり、船を無事、関東へ回漕できた。同年の大坂冬の陣では、豊臣方に多くの内通者と内通嫌疑者が生じた。これらはすべて勝重の工作であった。　関ヶ原の役の直前、石田三成は京都の商人を脅し、家ごとに１個ずつ、土俵を持って来させ、伏見城の前に小山を築き、そこから見下ろすように鉄砲を撃ちかけたので、たちまち落城となった。これを聞いた家康は、「その土俵を運んだ者は残らず焼き殺してやる」と息巻いたが、勝重が、「商人は、武家から脅かされれば、従うしかないものです。むしろ、我らが上洛するとき、彼らを利用することです。たとえば防弾用の畳を集めろと言えば、商人がすぐ集めてくれますから」と宥めた。勝重の言う通り、大坂の陣の折り、家康は京都の商人たちから、莫大な軍資金を上納された。博奕を取り締まることにした勝重は、「博奕は下々の慰みになるので、禁止しない。だかもし大きく負けて生活に差し障りが出た者は、訴え出よ。勝ちたる者をして、その金を返させることとする」と高札した。ながらく京都所司代を勤めた勝重も、老齢となり、将軍秀忠から、辞任を認められた。後任は長男の重宗であった。重宗が関東から京都に到着すると、即日、勝重は事務の引き継ぎを済ませて、京都の町屋へ隠居した。勝重いわく。「親子は顔が全く同じではない。心組みも、別人なのである。秀忠公が見込んで遣わされた役人である以上、すでに一人前であり、見習い期間など無用だ。其の方、必ず飾らず、不調法をそのまま顕して勤めよ。其の方の力が不足と人々に知られれば、お上が、器量ある者に交替させるであろう。天下に及ぼす迷惑は、それで最小限で済むのである」〔巻之５３〕（Ｐ５３～Ｐ５５）<br /><br /><br />『高坂昌信』<br /><br />［信州海津城主、７万５０００石。天正６年５月１１日没、５２歳］<br /><br />１６歳で武田信玄に仕えた。２５歳までは勇敢な働きを見せず、人から謗られたが、それをバネにして恪勤し、越後を押さえる海津の砦を任されるまでになった。天正２年春、武田勝頼は東美濃に進出し、織田氏の属城１８を抜き、５月には遠江の高天神城を陥れて、甲府の館に凱旋した。これがその後の強気の政策に結び付き、天正３年の長篠の合戦に至った。長篠役の間、昌信は海津城（江戸時代の松代城）に残留して、上杉謙信が南下してこないよう警戒していた。そうしてこう批評した。「なぜ全部隊を一塊にしてぶつけ、前列の死人を踏み越えるようにして信長の本陣をめがけて襲わなかったのか。訓練精到な武田軍ならば、それが可能だったのに……。他の大名がやるように、小部隊で入れ替わり入れ替わりして攻撃したから、あたら敵兵の鉄砲の前に好餌を進呈してしまったのだ」国家が亡びるときについては、こう言った。「猿士（さるざむらい）が集まったら危険だ。智恵もあり、器量もあるが、心の望は、ただ、果物の実を貪ることで、それも、飽きるということを知らないから」〔巻之１０〕（Ｐ１１４・Ｐ１１５）<br /><br /><br />『小早川隆景』<br /><br />［毛利元就の子。筑前の名島城主。慶長２年６月１２日没、６５歳］<br /><br />１３歳から１６歳まで、大内義隆の人質であった。義隆を弑した陶晴賢を討とうとするに先立ち、隆景は天文２２年１２月、まず朝廷から、逆賊を討てという勅定を請い受けるという気働きを示した。天正１７～１８年の豊臣秀吉の小田原攻めのときには、隆景は、尾張の清洲城で留守番役を命じられていた。このとき隆景は、父の毛利元就がよく使った手を秀吉に提案した。すなわち、上方から一流の芸人たちを呼び集め、攻め手の陣地のあちこちで頻繁に演芸会を催行し、兵士たちを賑やかに騒がせ、「これから無制限に長陣を楽しんで続けるぞ」と敵に思い知らせてやり、味方のモラールを維持する一方で籠城側の抗戦意志を挫折させるという心理作戦だ。秀吉がこの企画を採用したので、北条氏は降参した。文禄の役が始まった。石田三成は朝鮮半島で軍議を開き、諸軍が漢城（山口注：現在の韓国の首都ソウル市）に進む計画案を披露した。隆景は注文をつけた。「思い定めた図が外れることのあるのが実戦というものです。貴案は、勝ち戦しか想定していないようです。負け戦をしたときの御思案が是非とも必要でしょう」聞いて三成も尤もだと思い直し、釜山から漢城まで、一定間隔で「伝えの城」を普請し、敗軍のときにはその砦から砦へ順々に退却すれば釜山まで安全に戻ってこられるようにした。シナ・朝鮮の都城は、日本の平城とは異なって、強固な城壁が広い市域を囲繞する構造なので、防備のためには、夥しい人数を張り付ける必要がある。しかるに漢城の内外にロクな糧食が見つからなかった。隆景は、明軍が押し寄せてくれば、日本軍はここを捨てて退却するしかないだろうと読んだ。ところが大名たちは、「退却は日本の恥」だとか「兵糧なくば石を食っても持ち詰めるまで」などと口ばかり威勢の良さを競う習性がついている。隆景は『兵糧が残り１０日分を切るまでは、どうにもなるまい』と判断。仮病を使って軍議を欠席し続け、大名たちが真面目に青ざめる時期を待った。頃は善しと見計らって軍議に臨席した隆景は、「大将はともかく兵卒は連続５日も給養が滞れば、もう戦力としてはゼロだ。そうならぬうちに釜山まで退がることだ」と提案し、諸将も同意した。退却する前には一撃加えておく必要があるので、翌日は野戦となった。このときの部隊指揮については隆景は、「明軍に、『日本軍の一戦部隊の後ろからは、さらに大軍が続いて来ている』と思わせるようにしなければならない。それには、部隊間隔を密にして、敵が逃げても急追せずに、しずしずと押していくのが良い。そして敵が『日本軍は急追撃してこないんだな』と思って気を緩めた瞬間を見切り、猛チャージをかけることだ」と語った。隆景は、祐筆に急用の文をかかせるときには、特にゆっくりと書くようにと、命じた。文禄４年から、古巣の備後の三原城（広島県三原市）に隠居し、そこで病死した。〔巻之６〕（Ｐ１１９・Ｐ１２０）<br /><br /><br />『土井利勝』<br /><br />［土井利昌の子。古河１６万２０００石。正保元年７月１０日没、７２歳］<br /><br />２代将軍・秀忠は煙草が嫌いであり、城中での喫煙禁止を令したことがあった。利勝は煙草嫌いではなかったけれども、人々を、将軍の意向に服従させた。さまざまな性格の者を、怒らせずルールに沿わせるように仕向ける機知を、利勝は持っていた。　徳川家光に対しても、温柔に迂回的な諷諌をするのみで、それが好感された。徳川頼宣は、強面で人に恐れられた酒井忠世を呼ぶときにも「雅楽頭（うたのかみ）」と呼び捨てであったのに、幕臣の中で利勝に対してだけは、「大炊（おおい）殿」と、丁寧であったという。あるとき勘定方の役人が、「数千石クラスの旗本にまで江戸城下の蔵米を支給しているこれまでの制度を改めたい」と上申してきた。すなわちこの制度では、蔵の中に３～４年も過剰の古米を抱えざるを得ず、鼠喰いや虫食いの損が生じて、いかにも無駄である。だから５００石以上の旗本には、蔵米の支給ではなく、禄高に見あった土地そのものを与えるようにしたい、というのである。利勝は、その上申を斥けた。「余剰のストックがありからこそ、日本変事の折りに、江戸に入湊する輸送船が数十日も途絶えても、江戸城下の旗本の軍糧や市民の生活に急な差支えがなく、安心できるのである。先代将軍は、そんな無駄など御承知で、この制度をお定めになったのだ」家光が秀忠から将軍職を譲られるにあたり、幕府の天下への示威として加藤忠広を改易に処したのは、利勝の謀略だったともいう。この改易は事前に外に漏れ、「肥後の国を細川に下されるのだそうだ」と、江戸中で取り沙汰された。利勝いわく、「会議を主宰して下僚の討議を聞いていれば、その中には必ず、我が及ばぬ卓説がある。それを採り、潤飾して、自論にしてしまう」と。また、「一国を保つ者は、一国を城と心得よ。一郡を領する者は、一郡を城と見るべきである。菓子屋の子供が菓子をねだらぬように、諸民を富ませれば、誰も卑しい心を起こさない」と言っていたそうだ。しかし家光が、諸大名から旗本まで、願いに応じて拝借金を与えていたのは、良くないことだと思っていた。寛永の末、利勝は、徳川幕府の最初の「大老」になった。堀田正盛が老中になったとき、「目付（家中の見廻り監督）にはどんな人物をあてたらよいのでしょうか」と、利勝に相談した。利勝いわく、「喩えるなら、貴方がこれからせっかくのご馳走を食べようとしているときにわざわざ、『その汁にはさきほど蠅が入っていたのを私は見ました』などと注進する者は、家中に大害をもたらします。さりとて、砒素や、毒虫のハンミョウなどが混入されているのを知りながら、それを言わぬような者では、論外でしょうな」〔巻之６２〕（Ｐ１７０～Ｐ１７２〕<br /><br /><br />『徳川家光』<br /><br />［徳川秀忠の子。慶安４年４月２０日没、４８歳］<br /><br />父の秀忠は、寛永の初めから、林羅山を教育係にして、家光に儒学を教えさせた。徳川家はじまって以来の教養を身に付けたが、それでもまだ将軍としては学問が足りないと自覚するところがあった。算盤を習った最初の将軍でもあり、おかげで以後、高位の武家で数術の教育を導入するのは普通のことになった。家光は、馬の遠乗りと、銃猟も大好きで、しばしば手ずから刀鎗をふるって、猪や鹿に止めを刺そうと試みた。戦艦『安宅丸』の乗り初め式で、井伊直孝が、誰かと酒杯のことで口争いを始めた。家光は、やおら火縄銃を轟発、喧嘩を止めさせた。家光は朝廷から「太政大臣にしてやろう」という誘いがあったのを断った。これは豊臣政権がこの手を食い、秀吉以下の諸大名がわれもわれもと「大臣」「納言」に成り上がり、いきおい、『あと少しで天下人にも並べるんじゃないか？』と計算する野心が全国にみなぎったのを、戒めとしたのである。幕閣もその危険をよく了解し、酒井忠勝が「少将」を受けたのが筆頭で、松平信綱でも「侍従」に過ぎなかった。家光は、家康が蓄積した金銀が、夥しく蔵に死蔵されているのを見て、文字通りの宝の持ち腐れだと考え、旗本以下の家計赤字が累増している折りでもあるので、ほとんど余さぬほどに、気前よく分与・貸与してしまった。たしかに天下の景気は良くなった。島原の乱が起こったときには、家光は自ら軍勢を率いて下向するつもりになったけれども、稲葉正勝に強諌されて諦めた。だから、ついに家光は、実戦指揮の体験を持つことはできなかった。ある日、立花宗茂に、朝鮮での戦闘の回顧を話させた。「敵は、団扇で払えば一度に散乱するが、すぐまた元のように密集してくる、蠅のようなものでした。弱いのですが、退治ができませんでした」と答えるので、家光は「外敵に攻められても人民が敵愾心を捨てずにいれば、国土が保てるのだね」と総括した。九州地方と大陸の間の密貿易は、徳川幕府が成立した後もなかなか取り締まることができないでいた。家光は、それが海賊や反政府闘争、さらにはキリシタンを通ずる間接侵略の温床になることを憂慮して、足利氏以来、最も厳重な私貿易の禁止措置を達した。長崎奉行に甲斐正述を任命するとき、「もしシナや朝鮮や南蛮からの外冦があったら、辺境を寸地なりとも掠られることは許さんぞ。それは日本の恥となる」と、よくよく申し聞かせた。家光は、当時荒廃していた豊国神社（祭神は秀吉）を復興させようと考えた。しかし酒井忠世が、「秀頼を滅ぼしたのは徳川家です。どうして秀吉が我々の祭りを受けるものですか」と、押し留めた。あるとき家光が目黒（当時は草深い田野）で鷹狩りをし、小さな寺で休憩した。住持は客が家光と知らずに、保科正之（家光の異腹弟で、家光の実母が排斥し、小身）の母親がこの寺の檀家であるが、どうも貧窮していらっしゃるようだという話をした。家光はまもなく、正之を山形城主に取り立てた。家光は、切腹を申しつけられた江戸のゴロツキ・中山源左衛門が、８年前に前歯の一本を欠いて入れ歯にしていた、などという犯罪界の下情にまで、なぜか詳しく通じており、老臣を驚かせた。あるとき、堀に鴨がいるのを見た家光は、最寄りの門の番所から鉄砲を持って来させた。しかし鉄砲は錆び腐っており、射つことはできなかった。これに関して、何のお咎めもなかった。が、以後、各番所では、気をつけて鉄砲を手入れしておくようになった。家光は水泳も得意だった。しかるに徒士（かち）の水練がすこぶる未熟に思えたので、正保４年以降、大川（隅田川）で毎夏に特訓させるようになったのである。〔巻之４３〕（Ｐ１７４～Ｐ１７７）<br /><br /><br />『前田利家』<br /><br />［前田利春の子。加賀・能登・越中の領主。慶長４年閏３月３日没、６２歳］<br /><br />尾張の武士の家に生まれ、織田信長に属した。弘治２年８月、信長が織田信行を稲生に討ったとき、右目の下を矢で射られながら、鎗でその射手を突き殺し、首を獲た。利家には兄がいたが、将器なく、かつ男子が無かったので、永禄１２年、信長は、利家を前田家の惣領にし、すべての禄を受け継がせた。長篠合戦後、信長が越前を平定すると、利家は、能登を与えられ、七尾城主となった。安土時代には、すっかり髭面であった。賤ヶ岳の戦いでは、最初、柴田側についた。というのは、桶狭間合戦以前の昔、利家は信長の一人の寵童を斬殺して勘気を蒙り、限りなく浪人状態に近づいた期間があったのだが、そんな不遇時にも利家に目をかけてくれた数少ない武将の一人が柴田勝家だったのだ。しかし利家はすぐに秀吉に降伏した。その後、加賀に領地を与えられ、金沢城主となる。利家は、亡びた小田原北条家の遺児（氏政の弟の子）を捨扶持１０００石で養ってもいた。これは、将来家康と対決するときのために、先主を忘れぬ気風の関東武士の間に、人気を得ておきたいとの遠謀からだった。宇喜田秀家らから野戦時の大将の心得を聞かれて、こう答えた。「大将が本陣にばかりいてはならない。それだと味方の先手が崩れたときに、逃げてきた味方に踏み殺されるような負け方を喫する。まず、自軍の先手を２段以上に配した上で、大将自身が、先手の近くまで何度も何度も馬を馳せ、先手の将兵を元気づけ、かつまた、その場でテキパキと命令を下すことである。そういうときには、決して人の助言を聞いてはいけない。自分が思ったように采配することだ」慶長の役のとき、「信長公以来、誰が１０万という数の敵兵を実際に数えることがあったか？明軍の兵力について、実際に数えもしないで憶測の数字を言うべきではない」と家康をたしなめたこともある。利家の病気が重くなり、いよいよ最期が近いとき、親近者が、「戦場で数多の殺人を罪業と思えば恐ろしい。柩に納めるときには経帷子をお着せしようと思います」と告げると、利家は笑い飛ばして、「ワシは乱世に生まれたのだ。敵対する者を殺したが、それは故無く人を苦しめたのとは違う。すべて、必要があって殺したのだ。だから地獄行きの罪などワシには無いのだが、もし地獄に案内されれば、そこでもまた闘うまでよ」と、脇差を鞘ごと強く握り締めて胸に押し当て、ついに事切れた。〔巻之２０〕（Ｐ２６２～Ｐ２６４）<br /><br /><br />『毛利元就』<br /><br />［毛利弘元の子。安芸の吉田城主。元亀２年６月１４日没、７５歳］<br /><br />毛利氏は、草創期の鎌倉幕府の名参謀であった大江広元の末裔である。大永年間、元就は石見で青屋友梅の城を囲む。守兵が頑強に抵抗するので、長囲を築いて、水の手を断つ作戦に切り替えた。困った友梅は、遠目には水のように見える精米を馬に注ぎかけて、水がふんだんにあるように見せかけた。そのうちに、元就が家来を軍使として城内に入れてみたところ、友梅は、軍使の前で、馬６、７頭を引き出して、大きな盥に水を張り、馬の頭を冷やしたり、口を洗わせてみせた。また、塀の裏にはこれみよがしに米俵が積み上げてあった。この報告を聞いた元就は、「それこそ、水も米も尽きているしるしではないか！」と確信した。それから３０日足らずで、友梅は降参して城を出た。元就は、臣下に大きな権力を分け与えないように自戒していた。大臣は初めは公平に仕事をするので、君主はつい、万事を彼に任せてしまう。すると国じゅうの士がその大臣に恩威を感ずるようになるので、大臣は次第に私欲をたくましうし、君主は蔑ろにされる。現に、大内義隆はそのパターンを踏んで、陶晴賢に殺されてしまったではないか。元就は弘治元年、厳島に築城し、晴賢を誘き出して破ろうと考えた。城が完成し、兵力も配し終えた後で元就は、「厳島での築城は失敗であった。もし敵に厳島を攻められたなら、毛利家はおしまいだ」と騒ぎ、敵のスパイにわざと聞かせるようにした。晴賢の家来の弘中隆包は、「本当に悔やんでいるなら公言するわけがない。これは罠です」と諌めたものの、晴賢は聞かず、９月、舟艇に軍兵を載せ、火縄銃６、７挺で厳島に攻めかかった。城兵は、土豚（土嚢）を積んで堪えた。元就は、伊予の能島・来島の海賊の応援を得て、夜間の海上機動で攻囲軍を逆に包囲するように上陸し、夜明けとともに奇襲した。肥満体の晴賢は、味方の船まで走って逃げることすらできず、自刃した。尼子氏などの目ぼしい近隣を亡ぼした後、元就は、銀山がある石見の攻略にかかった。しかし石見は小国ながら山塞が多く、国人は郷土防衛戦となれば不屈の敵愾心を示し、毛利軍が倦怠して引き退こうとすれば後ろから尾撃してくるという風で、手こずった。元就はアプローチを変えることにし、有力土豪の星合氏を姪婿にして懐柔。星合領を足掛かりに、全石見を手に入れた。元就は、元旦に浮かれ騒ぐことを好まなかった。決まって、寅の一点、すなわち一番鶏が鳴き出す黎明時から東を向き黙座し、去年一年の中国全土の豊凶を総括し、今年一年の地域別の経済政策を熟考することにしていた。あるとき酒を飲んで慨嘆した。「乱世に数ヶ国も領導して行くのは、集団指導制では到底不可能だ。そしてどうも、ワシのような指導者には、現世には真の友人が一人もできないのであろう。もし、いるとしたら、それは過去千年と、未来千年の中でしかないのであろう。現世にこのワシと同格の者が現れれば、その者とはおそらく必然的に、謀略のライバル関係に立つだろうから……」また、こうも言った。「人の心に逆らわない家臣は、同僚から推挙される。しかし、彼には悪を懲らし善を勧める力はない。主君がそのような者を昇進させたときこそ、国家の乱の第一歩だ」〔巻之４〕（Ｐ２７７～Ｐ２７９）<br /><br /><br />本書には、当然ながら戦国時代を終焉させ、天下統一、泰平の世を築き上げた、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康も収録されておりますが、さすがに、それほどの人物ともなると割かれているページ数も多くなるので、その三人だけで、本書の紹介が一杯になってしまいますので、なるべく多くの武将を紹介するために、信長、秀吉、家康は敢えて外しました。明日をも知れない、生きるか死ぬかの世界で、名を残した男たちの言葉や生きざまは、たとえ数百年も昔のものであろうとも、私たちに何らかの有益な知識や教訓を与えてくれることでしょう。〔ＰＨＰ〕<br /><br /><br />岡谷繁実（おかのや・しげざね）<br />天保６（１８３５）～大正８（１９１９）　上野館林藩（現在の群馬県館林市）の藩士。通称は鈕吾。江戸で高島流砲術を学び、その後、水戸へ遊学、江戸昌平黌（昌平坂学問所、現在の湯島聖堂）に学ぶ。幕末、館林藩主秋元志朝が長州藩と血縁関係があったため、勤皇家として活動する。　安政元年（１８５４）から明治２年（１８６９）にかけて、戦国時代から江戸時代までの１９２に及ぶ武将たちのエピソードを記した『名将言行録』を著述　　●編訳者／兵頭二十八　昭和３５（１９６０）年、長野県生まれ。陸上自衛隊歴２年。東京工業大学大学院博士前期課程修了（社会工学専攻）。軍学者。　著書に『「新しい戦争」を日本はどう生き抜くか』（ちくま新書）、『ニッポン核武装再論』（並木書房）、『［新訳］孫子』『日本有事』（以上、ＰＨＰ研究所）、『パールハーバーの真実』（ＰＨＰ文庫）、『精解　五輪書』『新しい武士道』（以上、新紀元社）、『やっぱり有り得なかった南京大虐殺』（劇画原作、マガジン・マガジン）など多数。

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            <category>日本史</category>
      <author>管理人</author>
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      <link>http://tig.seesaa.net/article/206376660.html</link>
      <title>害虫の誕生～虫からみた日本史　著者／瀬戸口 明久</title>
      <pubDate>Wed, 01 Jun 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>あるものは黒雲の如く大群で飛び交い農作物を喰い荒らし、あるものは目に捉えるのも難しい小さな身体を利して、ひそかに人間に近づきその血を吸い、あるものは人家が提供してくれる温かさと食物を狙って住み着き、不衛生な黴菌を伝播する。</description>
            <content:encoded><![CDATA[
あるものは黒雲の如く大群で飛び交い農作物を喰い荒らし、あるものは目に捉えるのも難しい小さな身体を利して、ひそかに人間に近づきその血を吸い、あるものは人家が提供してくれる温かさと食物を狙って住み着き、不衛生な黴菌を伝播する。<a name="more"></a>私たちはそれらの小さな厄介者たちを〈害虫〉と呼ぶ。太古から人間はそれらの厄介者たちに生活を脅かされてきた。農作物を荒らされることによる飢饉、黴菌を媒介されることによる食物の劣化や病気、血を吸われることによる痛痒と不快感。しかしながら、人間はその厄介者を〈害虫〉と認識したのは、意外にも近代になってからであり、それ以前は多大な被害を受けながらも、小さな厄介者を自分たちの敵とは認識してはいなかったという。なぜなら近代科学の誕生によって虫の発生メカニズムが解明される以前においては、洋の東西にかかわらず、虫の発生は雨風同様の自然現象であり、虫の大発生による災難は、地震や台風、干魃と同じような天災、もしくは神罰であるとかんがえられていたのだ。虫たちの猛威に人智で為しうることはいくらもなく、個々のささやかな自衛を除けば、神頼みしかないと思い込んでいた。しかし近代科学の誕生により、人類は虫の正体を知り、その猛威に対抗可能となり、それまでの〈天災〉や〈神罰〉たる存在は、〈害虫〉へと変化した。かくして人類は、近代以前の諦観や神頼みを捨てて、科学技術を武器にして、〈害虫〉との本格的な戦いを始めたのだった。文明の移り変わりに伴い、人類は虫とどのように関わり、どのように考えてきたのか、〈害虫〉はいつから誕生し、人類と〈害虫〉との戦いがどのように展開されるようになったのかをテーマに日本と世界の文明を考察する一冊。<br /><br /><br />内容抜粋<br /><br /><br />【プロローグ】<br /><br /><br />『〈害虫〉とは何か』<br /><br />〈害虫〉とは何だろうか。「〈害虫〉とは、人間にとって有害な虫のことに決まっているではないか」と思われる読者もいるかもしれない。確かに今日の私たちにとって〈害虫〉とは、迷惑で忌み嫌われ、通常は排除されるべき生物である。だが、歴史的に見れば、このことは決して当たり前ではない。まずは身近な〈害虫〉の代表格であるゴキブリについて考えてみよう。家の中を走り回り、黒光りするゴキブリの姿を見ると、殆どの人はぞっとして追い払おうとするだろう。けれどもゴキブリが現在のように身近な〈害虫〉となったのは、実は戦後になってから、ごく最近のことなのである。屋内に出没するゴキブリの存在自体は、既に江戸時代から知られていた。当時の人たちは、食器でも食物でも何でもかじりつくしてしまうこの虫を「御器かぶり」と呼んだ。これが「ゴキブリ」の語源となっている。だがゴキブリが出没する家は限られていたようだ。食物が豊富で冬でも暖かな家でなければ、ゴキブリは定着することができない。そのような家が増えたのは、日本では高度経済成長以降のことなのである。それまでゴキブリは、あまり重要な害虫ではなかったと言ってよい。そればかりか、かつてゴキブリは豊かさの象徴だったという説さえある。群馬県高崎地方では、チャバネゴキブリのことを「コガネムシ」と呼んでいたという。「コガネムシは金持ちだ」という野口雨情の童謡で歌われているのは、この虫のことなのだ。ゴキブリが多いと金が貯まるという話は、愛知県や岡山県にも残っている。秋田県では、ゴキブリを駆除すること自体が厳しく戒められていたという。おそらく食料が多い豊かな家にゴキブリが居着くことから生まれた風習だろう（西原伊兵衛「『アマメ』『フ』を笑う」）。このエピソードは、現在私たちが〈害虫〉と呼んで当たり前のように駆除している生き物が、かつては害虫ではなかった場合があることを示唆している。〈害虫〉の境界線は、時代によって常に揺れ動いているのである。もうひとつ、興味深いエピソードを紹介しよう。１８９７（明治３０）年、愛知県豊橋近郊を訪れたある昆虫学者は、大量のウンカが発生しているのを観察した。そこで昆虫学者は一人の農民と出会い、次のような会話を交わす。《　昆虫学者「これは大変である、早く駆除したらよかろう」農民「いや、お陰様でようよう昨日秋葉山の御札を受けて田の中に立てましたから、まあ安心を致します」昆虫学者「ああそうか、しかしながら御札だけでは本当の駆除ができぬから、それへもっていってもうひとつ人業（ひとわざ）でやったならば必ず効があるが、やったらどうであるか」農民「……御札を立てた所はよろしいということでござりましたから、なにぶんこれでお助けをこうむるつもりだ」（名和靖『害虫駆除予防ニ関スル講和筆記』）》呆れた昆虫学者は嘆息してその場を立ち去った。ここで注目すべきは農民の愚かさではない。むしろ重要なのは二人の間で会話が全く成立していないことである。昆虫学者は、「人業（ひとわざ）」で害虫を駆除することができると考えている。それに対して農民は、そもそも人間の手を使って害虫を駆除するという発想がない。御札や神頼みで駆除するしか方法はないと思い込んでいる。この農民にとって害虫とは、人間の力を超えた存在なのである。現代の私たちは当たり前のように、害虫は殺虫剤などを使って駆除すべきであると思っている。しかし明治の人々にとって、これらの虫は人間の力では決して制御されることのない、厄介な生き物にほかならなかった。つまり害虫に対する人間の態度は、時代によって大きく変容していくものなのである。これら２つのエピソードからわかることは、〈害虫〉という存在がどの時代においても変わらない普遍的な存在ではないということである。現在私たちが自明のものと見なしている「害虫と人間の関係」は、歴史的に作り上げられてきたものなのだ。現在の私たちにとって害虫っは、「人間にとって有害な生物」であると同時に「人間の力で排除されるべき生物」である。このような現在の害虫のイメージに言及する際、本書ではカッコでくくった〈害虫〉を使い、単なる用語としての「害虫」と区別したい。では〈害虫〉はいつ、どのようにして誕生したのだろうか。本書で見ていくように、それは意外に新しいものなのである。（Ｐ７～Ｐ１０）<br /><br /><br />【虫たちをめぐる自然観】<br /><br /><br />『虫は自然にわいてくる』<br /><br />かつて日本には、虫たちをめぐる大きな知識の体系があった。それは「本草学」という学問である。本草学は古代中国に由来し、生薬として生き物を利用することを目的とした東アジアの博物学である。日本には奈良時代に導入され、江戸時代に入ると独自の内容を持つようになった。近世日本の本草学に大きな影響を与えたとされる中国の本草学書に、明代末の李時珍の著した『本草綱目』全五二巻（１５９６年頃）がある。李時珍は１９０３種におよぶ自然物を、土部、金石部などの鉱物から、木部、鱗部、介部、獣部などの動植物にいたるまで、１６の部に分けた。例えば鱗部には魚類やヘビ、トカゲ、イカ・タコ、さらには龍のような想像上の生物も含まれている。「蟲部」にくくられているのは、爬虫類、両生類、貝類などである。かつて「蟲」とは、昆虫だけではなく、クモ、サソリ、ミミズやヒル、さらにはカエルやカタツムリなど、小さな動物全般が含まれているのである。李時珍は、これらの「蟲」を「卵生・化生・湿生」の三種類に分類している。すなわち、卵から生ずる虫（卵生）、別の種類の生物から変化して生じる虫（化生）、湿気から生ずる虫（湿生）の三種類である。ここでクモやサソリは卵生だが、ホタルやセミ、イナゴなどは化生、カエルやカタツムリ、ナメクジなどは湿生とされた。注目すべきは李時珍が、虫の多くが卵から生まれるのではなく、湿気などから自然に湧いてくる「湿生」であると考えていたことである。江戸時代の日本の本草学は、１７世紀の福岡藩の儒学者、貝原益軒によって始められた。益軒は、李時珍の『本草綱目』から日本には無いものを省き、そこに日本の動植物を付け加えて『大和本草』（１７０９年）を出版した。益軒にも、李時珍の「虫の自然発生説」は極めて自然に受け入れられている。益軒は１７００年に著した語源辞書『日本釈名』で、「虫」の語源は「蒸し」であると述べ、虫が蒸し蒸しした状態から生じることを示唆している。国語学者ではない私には、この語源論が事実かどうかは判断できない。だが、虫が湿気によって発生するという観念が、江戸時代の日本では極めて一般的であったことがうかがえるだろう（塚本学『江戸時代人と動物』２５４頁）。　このような「虫の自然発生説」は、決して奇妙な迷信などではない。西洋世界においても、虫の自然発生は古くから信じられていた。それが否定されたのは、１７世紀イタリアのフランチェスコ・レディによる実験が行われた後のことである。レディは密閉されたフラスコと口を開けたフラスコを用意し、それぞれに肉を入れて様子を観察した。そのうち口を開けたものだけから蠅が発生することを観察し、昆虫が密閉空間から自然に涌き出てくるわけではないことを確認したのである。また、オランダのレーエンフックをはじめとする同時代の顕微鏡学者たちも、昆虫が卵から発生する過程を観察し、詳細なスケッチを残している。その一方で、当時の顕微鏡では観察できなかった微生物や体内寄生虫の自然発生に関しては、１９世紀半ばにパストゥールが有名な実験を行うまで論争が続いている。このように、発生する過程を観察することができない生き物が自然に湧いてくるとする考えは、決して奇矯なものではない。（中略）しかし、もし虫が自然に湧いてくるものならば、日照りや台風のような気象現象と、あまり違いがなくなってしまうだろう。そのため農民たちの多くは、虫害を気象災害と同じく一種の「天災」としてとらえ、人間の手によってはコントロールできないと考えていた。このように「虫の自然発生説」は、害虫の発生を「祟り」と見なす自然観とともに、近世までの宗教的な祭礼を支えていたのである。（Ｐ２７～Ｐ３２）<br /><br /><br />『明治日本と〈害虫〉』<br /><br />１８８０（明治１３）年８月、北海道十勝地方の空を真っ黒い一群の雲が覆った。雲のように見えたものは、無数の小さな虫たちである。それらの虫たちは地上に降りてきて、開拓後間もない農地を襲った。当時の記録によれば、虫たちは地上に積み重なって蠢き、通り過ぎた後は、あらゆる植物が食い尽くされていたという。人々はなすすべもなく、茫然と立ち尽くすしかなかった。被害は北海道東南部全域に広がり、その後数年間にわたって毎年大発生が続くことになる。「蝗」と呼ばれたこれらの虫たちは、現在の昆虫学の知見によれば、トノサマバッタであったことがわかっている。近代日本が初めて遭遇した害虫の大発生である。尤も、こうした害虫の大発生は、開拓以前の北海道においても決して珍しいものではなかった。アイヌの古老によれば、十勝地方では同じ虫が毎年多少は発生していたという。さらに数十年前には、明治期と同じような大発生が起こり、アイヌたちは「神罰」であると畏れたとされる。前章で見たように、害虫の発生を「神罰」とみなす自然観は。アイヌに限らず近世以前の日本列島に広く見られるものであった。それどころか明治に入ってからも、多くの人々が害虫の発生は人知のおよぶところではないと考えていた。そのため害虫が発生して農作物に被害が出ても、なすすべもなく、立ち尽くす人々が少なくなかったのである。周知のように、明治政府は行政制度を整備し、学校教育を国土の隅々まで行き渡らせ、さらには殖産興業によって産業を振興して、日本を近代国家に造り変えようとした。近代化されたのは制度的な枠組みだけではない。国民の身体と世界観もまた、「近代化」の対象となった。たとえば明治初期においては、男たちが上半身裸で市中を出歩くことは普通の風景であった。だが明治政府はそのような「見苦しい」風習を取り締まり、近代的な風景を造り上げようとしている。また太陽暦と西洋の時刻制度の導入は、それまでの農作業と結びついた時間とのつきあい方を変えていった。明治政府にとっては、西洋と同様の時間こそが、近代化された時の刻み方だったのである。このような近代化のまなざしは、「人間と自然の関係」にも向けられている。明治政府にとって虫送り（山口注：夕方から夜にかけて松明を持って集まり、鐘や太鼓を打ち鳴らしながら畦道を練り歩いて害虫駆除を祈願する伝統行事。やり方は地方によって様々な違いがある）のような風習は忌むべき旧習にほかならなかった。そこで明治政府は、すでに西洋科学の一分野として確立していた「応用昆虫学」を日本に導入し、人々と害虫の関係を組み替えようとする。以下では、明治日本が近代国家として出発することによって、〈害虫〉を人間の力で排除すべき対象とみなす新しい自然観が確立していく過程を見ていこう。だがその前に、まずは西洋世界における応用昆虫学の成立について簡単に見ておきたい。（Ｐ４０～Ｐ４２）<br /><br /><br />『アメリカ農学の誕生』<br /><br />１８７４年、アメリカ中西部の大平原でロッキートビバッタという害虫が大発生した。当時ミネソタ州に住んでいた少女は、その時の様子を次のように書き残している。“　太陽に雲がかかった。それは見たこともないような雲だった。それは粉雪のような雲だったが、もっと大きく、細長くきらきら光っていた……。その雲はバッタだったのだ。バッタの体が、太陽を覆い隠し、暗闇をもたらした。その細長く大きな翅はキラキラと光った。ブンブンとかすれる翅があたりを満たし、霰のように家の屋根にぶつかって音を立てた。ローラはバッタを振り払おうとしたが、皮膚や衣服にしがみついたバッタは離れようとしない。……メアリーは悲鳴をあげて家に逃げ込んだ。バッタは地面を覆い尽くしていたので、足の踏み場もなかった。ローラがバッタを踏みしめると、足の下でべったりとつぶれた。（Ｗｉｌｄｅｒ，Ｏｎ　ｔｈｅ　Ｂａｎｋｓ　ｏｆ　Ｐｌｕｍ　Ｃｒｅｅｋ，ｐｐ．１９４－１９５）”バッタたちは、数日間、彼女の家の周りの緑を食い尽くした後、西に向かって飛び立っていったという。ローラ・インガルス・ワイルダーの有名な『大草原の小さな家』の一節である。この害虫こそが、アメリカにおける応用昆虫学の誕生をもたらした昆虫にほかならない。１８７６年、連邦政府はロッキートビバッタ対策のため、地質調査局の中に「昆虫学委員会」を設置した。委員長に任命されたのはチャールズ・ライリー。イギリス生まれ、アメリカに渡って農業雑誌の記者などを経て、１８６８年からミズーリ州専属の昆虫学者として農業害虫の研究に従事した人物である。昆虫学委員会でのライリーの研究は高く評価され、１８７８年には農務省の昆虫学部門を任されるようになった。昆虫学部門は１９０４年に昆虫局に昇格する。その後、アメリカの応用昆虫学は、この農務省昆虫局を中心に発展していくことになる。（後半略：Ｐ４５・Ｐ４６）<br /><br /><br />『化学殺虫剤の確立』<br /><br />「応用昆虫学」の成立によって、１９世紀アメリカにおける害虫防除技術は飛躍的に発展することになる。この時期の害虫防除における技術革新のうち代表的なものが、化学殺虫剤と天敵導入の２つである。虫を殺すための薬剤自体は、西洋世界においても古くから使用されていた。たとえば日本の注油駆除法（山口注：水田に油を散布して油膜を作り、箒などを使って稲穂を揺すって、害虫を油の上に払い落とす方法。油にまみれた虫は、呼吸できなくなり窒息死する）のように油を散布して殺虫したという記録は、すでに紀元前２世紀の古代ローマに起源を求めることができるという。また蚊取り線香で知られる除虫菊は、コーカサス地方で栽培され、古くから殺虫剤として使われてきた。しかし本格的に殺虫剤が使用されるようになったのは、化学工業が発達して人工化学物質の生産が始まった１９世紀後半のことである。１９世紀の代表的な化学殺虫剤としてまず挙げられるのがパリス・グリーンである。パリス・グリーンは、それまで鮮やかな黄緑色の染料として使用されていた。その殺虫力が判明したのは、まったくの偶然がきっかけになっている。１９世紀半ばのアメリカでは、コロラドハムシという甲虫がジャガイモ農業に大きな被害を与えていた。当時のアメリカにおいては、この害虫を駆除する手だてはほとんどなく、一匹一匹手で取って煮沸したお湯の中に投げ込む方法が唯一の対策法だったという。１８６７年、ある農民がコロラドハムシによって駄目になってしまったジャガイモ畑に、偶然そこにあった染料をぶちまけた。すると意外なことに、パリス・グリーンに触れたコロラドハムシは次々と死んでしまったのである。こうしてパリス・グリーンは、染料から殺虫剤へと役割を変えることになった。　パリス・グリーンの毒性は、その構成成分である砒素によるものである。砒素は古代から毒薬として使用されてきた物質だった。パリス・グリーンの殺虫力の発見以降、様々な砒素化合物が殺虫剤として利用されるようになる。そのうち最もよく利用されたのが、１８９２年に殺虫効果が明らかになった砒酸鉛である。この殺虫剤は、当時マサチューセッツ州で大発生していたマイマイガに対して用いられた。マイマイガはヨーロッパから人の手で持ち込まれた昆虫で、樹木を食い荒らす害虫として問題になっていた。そこで新しい殺虫剤砒酸鉛を試してみたところ、パリス・グリーンより植物への害が少なく、かつ殺虫効果が長持ちしたという。そのため砒酸鉛は、ＤＤＴなどの有機合成殺虫剤が登場する２０世紀半ばまで、最もよく使用される化学殺虫剤となった。（Ｐ４８～Ｐ５０）<br /><br /><br />『戦争～「敵」を科学で撃ち倒す』<br /><br />（前半略）第２章第一節で見たように、化学殺虫剤が害虫防除の現場で大量に使用されるようになったのは１９世紀末のアメリカである。アメリカでは同じ頃、農務省が中心になって天敵を大量に導入する大規模な害虫防除プロジェクトも始まっている。それに対して日本では、化学殺虫剤が使われるようになったのは戦後のことだというイメージが一般的だろう。実際にこれまでの歴史研究でも、日本で化学殺虫剤が普及したのは戦後になってからであると考えられてきた。だが本章では、実際には戦前期にも、化学殺虫剤がある程度は普及していたことを明らかにしたい。転換点は１９２０年代にある。この時期は化学殺虫剤に限らず、害虫防除技術全体が大きく変わっていった時期にあたる。その転換のきっかけとなったのは、第一次世界大戦の勃発であった。　第一次世界大戦は史上初の総力戦であり、科学戦である。この戦争では毒ガス、飛行機、戦車など近代技術を用いた兵器が次々と導入され、その開発に科学者たちが動員された。その結果、第一次世界大戦の勃発以降、科学技術と国家の関係は劇的に変わっていく。開戦後、イギリスでは科学産業研究庁（ＤＳＩＲ）が、アメリカでは国家研究評議会（ＮＲＣ）が設立され、より効率的な科学者の動員がすすめられた。日本も例外ではない。現在でも日本の科学研究をリードする理化学研究所は、まさに第一次世界大戦の産物である。理化学研究所を設立しようとする動き自体は、すでに大戦前からあった。それが開戦によって急速に具体化し、国と産業界が一体となって設立を見ることになったのである。そもそも理化学研究所は産業基盤となる研究のために設立された機関だったが、その後は物理学や化学の基礎研究で成果をあげることになる。１９１８（大正７）年には、現在の科学研究費補助金の原型となる文部省科学奨励金が設けられ、大学の研究者に研究費が配分されるようになった。さらに１９３０年代に入ると、日本学術振興会が設立され（１９３２年）、分野横断的なプロジェクトに大規模な予算がつけられるようになる。このように日本において国家が科学研究を支援する体制が確立されたのは、日本が戦争に明け暮れていた２０世紀前半の約３０年間のことなのである。このような国家と科学研究の不可分の関係を「科学の体制化」と呼び、それが戦時体制を通して確立されたと論じたのが、科学史家の廣重徹である（廣重徹『科学の社会史』）。（後略：Ｐ１３６～Ｐ１３８）<br /><br /><br />【毒ガスと殺虫剤】<br /><br />『戦争と化学工業』<br /><br />第一次世界大戦以降、日本の害虫防除技術で新たに始まったのは、天敵導入と誘蛾灯だけではない。化学殺虫剤の利用も、この時期から本格化するのである。　まず、開戦前までの日本の害虫防除における殺虫剤利用は決して一般的ではなかった。とはいえ、全く無かったというわけではない。最もよく使用されていたのは石油乳剤である。これは水田に散布して害虫を窒息死させるもので、江戸時代からの注油駆除法の延長線上にある殺虫剤と考えてよいだろう。　次によく利用されていたのは除虫菊である。除虫菊はもともとコーカサス地方の原産だが、１８８５（明治１８）年に農学者の玉利喜造がアメリカから種子を輸入し、駒場の東京農林学校で栽培を始めた。その翌年には大日本除虫菊（金鳥）の創始者上山英一郎も、和歌山県に除虫菊を持ち込んで栽培している。大正期には日本の除虫菊生産は順調に成長し、昭和初期には世界生産の９０％を占める輸出大国となる。除虫菊といえば現在では蚊取り線香のイメージが強いかもしれない（ただし現在の蚊取り線香は、除虫菊の殺虫成分ピレトリンを化学合成したものから製造されている）。けれども明治期の除虫菊は、農業用にも利用される殺虫剤だった。明治末期になると、後述する砒酸鉛や青酸ガス、二硫化炭素なども殺虫剤として利用されるようになる。だがこれらの殺虫剤は基本的に輸入品で、国内の化学工場で生産されていたわけではない。当時の人々にとって化学殺虫剤は高価な舶来品で、容易に手に入れることができるものではなかった。日本において殺虫剤産業が生まれるためには、第一次世界大戦の勃発を待たなければならなかった。そもそも化学殺虫剤だけでなく、日本の化学工業そのものが、第一次世界大戦の影響を受けて発達したものである。というのも大戦前まで世界の化学工業を牽引していたのはドイツであった。そのためドイツと戦うことになった連合国側の国々（日本も含む）は、国内の化学工業を早急に整備する必要に迫られたのである。日本では参戦直後の１９１４（大正３）年１１月、農商務大臣が諮問機関として化学工業調査会を設置し、国内の化学工業をどのように整備すべきか調査を開始した。この調査会は、ソーダ工業、石炭タール蒸留および精製業、ならびに電気化学工業の振興の必要性を答申する。翌年１９１５(大正４)年６月には染料医薬品製造奨励法が公布され、染料や医薬品を製造する化学産業の育成がはかられた。さらに１９１８(大正７)年５月には、ドイツで特許化された空中窒素固定法を実用化するため、臨時窒素研究所が設立される。ここで注意しておかなければならないのは、第一次世界大戦が「毒ガス」という化学工業の産物で応酬し合う初めての戦争だったことである。最初に毒ガスを使ったのは、化学工業で先端を走っていたドイツとされている。１９１５年４月２２日のことである。場所はベルギーのイープル近郊。ドイツ軍の方から流れてきた塩素ガスが、連合軍の兵士を襲ったのである。毒ガスの実戦使用は１８９９年のハーグ陸戦条約で禁止されており、国際法違反だった。それにもかかわらず、その後の戦闘は同盟国側と連合国側の毒ガス開発競争となる。ドイツでは後にノーベル化学賞を受賞するフリッツ・ハーバーをはじめとして、ドイツ化学界の重鎮たちも開発に参加した。連合国側の参戦国とはいえ、ヨーロッパの戦場からは遠く離れていた日本では、毒ガスの開発はゆっくりと進められた。最初に動いたのは陸軍である。１９１８(大正７)年、陸軍軍医学校教官の小泉親彦は、学校内に化学兵器研究室を新設する。同年５月、陸軍省は臨時毒瓦斯調査委員を設置し、小泉は委員に任命された。小泉は軍医だったので、毒ガスの人体への影響をやわらげる防毒マスクの開発を主な研究テーマとしている。ちなみな小泉は毒ガスの研究から離れた後、兵士となる国民の体力向上を目指して、厚生省の設立に尽力することになる。戦時中には厚生大臣も務めたが、敗戦直後に自殺した。第一次世界大戦が終わると、日本の毒ガス研究は１９２１(大正１０)年に新たに設立された陸軍科学研究所でおこなわれるようになる。そこで毒ガス開発を担当する第二課化学第六研究所（１９４１―１９４２）、第六陸軍技術本部(１９４２―１９４５)と改組されながらも、敗戦まで存続した。そしてこの陸軍の毒ガス研究機関が、日本の殺虫剤産業にも大きな影響を与えたのである。（Ｐ１５０～Ｐ１５３）<br /><br /><br />【エピローグ】<br /><br />『近代国家と自然の均質化』<br /><br />〈害虫〉とは何だろうか。この問いから始まった物語も、終わりに近づこうとしている。プロローグで述べたように、有害な虫をひとくくりにして総称する「害虫」という用語は、日本では近代に入ってから生まれた。そして〈害虫〉を人間の手で排除することが当たり前となったのも、明治期以降のことである。もちろん江戸時代以前にも害虫は存在したが、単に「虫」と呼ばれ、一種の天災と考える人々が多かった。それが明治以降、農業害虫の排除がすすめられ、さらに大正期には衛生害虫が排除されるようになったのである。つまり日本では、〈害虫〉は近代に誕生した存在であると言えよう。　日本において〈害虫〉が近代になって初めて成立したことは、決して偶然ではない。あらゆる近代的な国民国家は、国境線の内側から異質なものを排除し、均質で標準化された空間を造り上げることによって生じてきた。そのため明治政府は、すべての国民を対象とする全国一律の教育制度を立ち上げ、均質で合理的な国民の生産を目指したのである。このような教育制度を通じて、国民は科学に基づく〈害虫〉とのつきあい方を学んでいった。（中略）こうした新しい「害虫と人間の関係」を支えたのは、明治期以降、政府によって整備された科学研究体制であった。明治末期に整備された農学研究体制は、名和昆虫研究所（山口注：現在の岐阜県である美濃国出身の昆虫学者である名和靖によって設立された）のような民間の研究機関を取り込みながら、害虫防除技術の研究と教育を進めていった。大正期に入ると、植民地統治下の台湾で確立された医学研究体制のもとで、病気を媒介する昆虫に関する科学的な知識が蓄積されていく。そして同時代の日本の大都市では、衛生状態が改善されることによって、蠅と人間の関係が組み直されていった。さらに第一次世界大戦以降、日本の科学技術体制は、より国家の目標に合致する方向で組み換えられていく。それまで博物学や昆虫学の枠内ですすめられてきた害虫の研究も、化学工業や軍事技術、さらには産業界や医学などと結び付きながら進められるようになった。こうして戦争と同じように、効率的かつ大規模に〈害虫〉を根絶する体制が確立されたのである。かくして〈害虫〉は、国家によって確立された科学技術の知をもとに、人間の力によって排除すべき生き物となった。（Ｐ１８９～Ｐ１９１）<br /><br /><br />『環境にとって科学技術とは何か』<br />では、こうして生まれた〈害虫〉を排除するための科学技術　「応用昆虫学」の確立は、日本の環境にとってどのような意味を持っていたのだろうか。それは化学殺虫剤によって、自然環境を悪化させてしまったのだろうか。それとも〈害虫〉の排除によって、食糧増産と衛生的な環境をもたらしたと評価できるのだろうか。この問いは、科学技術の発展が環境問題にとってどのような意味を持つかという、より大きな問いに繋がっている。科学技術と環境問題の関係を扱った古典的な議論としては、技術史家のリン・ホワイト・ジュニアが１９６７年にＳｃｉｅｎｃｅ誌に発表した「現代の生態学的危機の歴史的根源」という論文がある。ホワイトによれば、現代の環境問題は科学技術による自然への恣意的な介入によって引き起こされている。そしてそもそも近代科学を生んだキリスト教文明のなかに、人間の方が自然より優位と考える「人間中心主義」があるという。１９６０年代には環境問題が深刻化し、西洋文明が問い直されるようになっていたため、ホワイトの議論は大きな反響を呼んだ。（中略）このような「西洋文明＝近代科学＝自然破壊」というテーゼの支持者の多くは、神秘的な東洋文明に期待した。（中略）本書の〈害虫〉をめぐる物語も、以上のような文明論的な環境史の流れと同じような議論と思われるかもしれない。すなわち「かつて日本人は、虫送りのような牧歌的な自然との関係を維持してきたのに対し、明治以降の西洋化によって〈害虫〉を支配するようになった」、と。確かに日本では、西洋世界に比べると「虫けら」への親近感は強かったかもしれない。虫の声を聞く文化も、「虫合戦」（山口注：虫を擬人化して、善玉・悪玉に分けて戦わせ、社会風刺する物語）のような滑稽な文学を楽しむ文化も西洋世界には無かった。また、日本では西洋と比べて、動物と人間の境界が曖昧だったことも間違いないだろう。しかし私は、江戸時代の人々が「害虫と共存」していたとは考えていない。江戸時代の人々も、現在の私たちと同じように、害虫に苦しめられ、できればいなくなって欲しいと考えていた。だからこそ彼らは、御札を立て、虫送りを行って神仏に祈ったのである。彼らは決してエコロジカルな人々ではなかった。逆に彼らが自然破壊的な自然観を持っていたとも言えない。そもそも江戸時代の人々には、「エコロジー」「自然破壊」という発想そのものが無かった。したがって、「エコロジーか自然破壊か」という二分法で歴史を描くことは、現在の目線で過去を評価し、断罪してしまうことになってしまう。（後半略：Ｐ１９１～Ｐ１９４）<br /><br /><br />本書の内容はこの他に、江戸時代に日本に顕微鏡が渡来し、虫の正確な姿を知った当時の人々の反応が、科学的な分析よりも、その奇妙な造形への関心であったことや、明治時代に入ってからの近代化政策で、害虫を人為によって駆除しようと、民衆に奨め、指導しようとする政府や役人たちと、虫の害は天災や神罰という旧来の観念に基づき、政府や役人たちに反発・抵抗する農民たちの様子や、そんな新旧の対立を解決するために、在野の身で、昆虫の研究に人生を投じ、日本における昆虫学の発展に貢献した、名和靖氏の活動について。さらに蠅や蚊などが媒介し、流行させる伝染病に対する、日本とアメリカでの都市衛生事情の歴史や、殺虫剤の他に害虫駆除法として、熱心に研究された天敵導入法について等々、人間と自然の関わりの歴史を科学と社会の両面から考察する一冊です。〔ちくま新書〕<br /><br /><br />瀬戸口 明久<br />昭和５０（１９７５）年、宮崎県生まれ。京都大学理学部（生物科学）卒業後、同大学文学部（科学哲学科学史）卒業。同大大学院文学研究科博士課程修了。現在、大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。生命科学と社会の界面に生じる諸問題について、科学技術史と環境史の両面からアプローチしている。共著に『トンボと自然観』（京都大学学術出版会、２００４年）がある。

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            <category>日本史</category>
      <author>管理人</author>
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      <link>http://tig.seesaa.net/article/195292928.html</link>
      <title>剣の乙女　戦場を駆け抜けた女戦士 著者／稲葉義明とＦ．Ｅ．Ａ．Ｒ．</title>
      <pubDate>Mon, 11 Apr 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>鉄と血で彩られる男たちの世界“戦場“で、異彩を放った華がある。</description>
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鉄と血で彩られる男たちの世界“戦場“で、異彩を放った華がある。<a name="more"></a>“女戦士“という華が。ある者は故郷を侵す外敵に対する義憤に燃えて、ある者は平凡でささやかな幸せよりも、血湧き肉躍る冒険を求めて、ある者は君主の家系に生まれた者の運命として、またある者は類い稀なる権力欲で栄耀栄華を極めようとして、そしてある者は……。女性の身でありながら、捨て身の勇気を奮い、自ら剣や銃を手にして、猛り荒ぶる男たちに敢然と立ち向かい、あるいは君主の座による権威と政治力を用いて、外敵はもちろん、国内の政敵や反乱者とも戦いながら、国を守り、繁栄させようとした女王や女性領主たち。戦乱と陰謀、愛と裏切りの連続で荒狂う歴史の激濤のなかで、勝ち抜き、あるいは悲しく散っていった戦うヒロインたちの物語を綴った一冊です。<br /><br />内容抜粋<br /><br />【スターリングラードの白薔薇：リディヤ・リトヴァイク】<br /><br />地域：ロシア（東部戦線）／時代：第二次世界大戦中／生没年：１９２１～１９４３年<br /><br />『バルバロッサ作戦とソ連空軍最悪の日』<br /><br />１９４１年６月２２日は、ソヴィエト（現ロシア）国民にとって悪夢の日となった。バルバロッサ作戦。ナチスドイツが独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連侵攻作戦を開始したのだ。ドイツ軍３００万は最新鋭の戦車と航空機、そして同盟軍の援助を得て、怒濤のように国境線を越えた。対独戦の準備に全く欠けていたソ連軍は初撃で甚大な被害を受け、敗退に敗退を重ねた。ドイツ軍が第一撃目として狙ったのは、ソ連空軍が所有する全作戦機の７５％を配備していた独ソ国境地帯の前線飛行場、約６０ヵ所への奇襲だった。突然の空襲を受けた前線飛行場では、ソ連空軍機が緊急離陸することすらできないまま、地上で残骸へと変えられた。ソ連空軍は開戦から一週間の間に４０００機以上を失った。それは壊滅的な痛手だった。なんとか飛び立って迎撃を試みた者もいたが、旧式の機体、練度不足のため、大半がドイツ空軍（ルフトヴァッフェ）に鴨撃ちの的を提供するだけに終わるという悲惨な有り様だった。こうしてほぼ完全に制空権を握ったドイツ軍は、機械化部隊による破竹の進軍に移った。（中略）このように深刻な危機に追い込まれた祖国を前にして、ソ連の民間人からは多くの志願兵、義勇兵が出た。第二次大戦中のソ連軍の特異な点は、いくつかの分野で、少なからぬ人数の女性を前線で戦う兵士として登用したところにあった。その中には、著名な女性飛行家、マリナ・ラスコヴァの呼びかけで編成された、男性同様の戦闘任務をこなす女性飛行連隊も含まれている。（Ｐ４６・Ｐ４７）<br /><br /><br />『女子飛行連隊の成立と経緯』<br /><br />モスクワ放送を通じて行われたマリナ・ラスコヴァの呼びかけには、飛行訓練を受けた女性という制限があったにもかかわらず、若い女性であるという理由でこれまで志願を受け入れられなかった全土の女性たちが応えた。願書が殺到し、面接の候補者だけで２０００名に及んだという。条件を満たす女性がこれほどまでにいた背景には、各地の飛行クラブ（オソアヴィアヒム）の存在があった。これは労働者が休日に飛行ライセンス取得に向けた訓練を受けられる民営団体だったが、一面では有事に徴用できる軍用機搭乗員の予備軍を育成する役目をも担っており、成立から軍の支援を受けていた。第二次世界大戦勃発までに、クラブで飛行免許を得た男女は１２万人以上にのぼっていた。志願者の大半はここの出身者か指導員だったのだ。マリナ・ラスコヴァは三個飛行連隊を作るために約１２００人の女性を採用した。その中に、リディヤ・リトヴァイクという小柄で可愛らしい、まだ２１歳の娘がいた（尤も他の隊員も、おしなべて若い娘だったが）。（Ｐ４７）<br /><br /><br />『大空を愛した少女』<br /><br />リディヤ（愛称はリリー）・リトヴァイクは１９２１年に、鉄道労働者の父、店員の母から誕生した。父は１９３７年に「人民の敵」として処刑されている。生前、リディヤはソ連の英雄としてはふさわしからぬこの秘密を隠し通した。もし表沙汰になれば、公的な活動から一切締め出される危険があったからだ。子供の頃から大空に憧れていた彼女は、１５歳のときにモスクワの飛行クラブへの参加を願い出たが、受け入れられなかった。１７歳にならないと参加できないという規定だったので、これは仕方がない。普通ならば諦めて２年待つところだろうが、リディヤは違った。クラブに通いつめ、自分の航空知識をアピールしたのだ。その甲斐あって、リディヤは１６歳での特例参加を認められたのである。すると彼女は天稟を発揮してたちまち飛行技術を吸収し、飛行員との同乗飛行四時間を終えた後、若干１６歳の身で単独飛行を許された。（中略）彼女が花を好んだのは有名な話で、乗機の計器盤や帽子をしばしば野の花で飾り、機体の側面に白い百合（これが薔薇の花と見間違えられ、「スターリングラードの白薔薇」の異名を取ることになる）のパーソナル・エンブレムを描いていた。だがこれらのエピソードは後の話である。マリア・ラスコヴァの募集がかかると、飛行指導員として働いていたリディヤは早速志願した。彼女は当然ながら採用され、新設の女子連隊の一員として迎えられた。（Ｐ４７・Ｐ４８）<br /><br /><br />『転属に次ぐ転属と初撃墜』<br /><br />第５８６女子戦闘機連隊（山口注：リディヤが最初に配属された部隊）の最初の実戦は、サラトフという町の防空任務だった。続いて秋にはヴェロネジに進出し、ここでも要衝の上空を守る哨戒（敵の攻撃が危惧される地域を定期的にパトロールすること）任務についた。敵爆撃機が都市や戦略拠点に到達する以前に阻止するのが、女子戦闘機連隊の役目だった。リディヤもここで初出撃を果たしている。重要だが、第一線とは言い難い任務内容だった。そこで連隊中でも特に優れた技量を持つ者に、通常の連隊に補充兵として赴任し、男性に混じって戦うように命令が来たのだ。リディヤ、そして彼女の親友であるカティヤ・ブタノヴァにも転属指令は来た。まずリディヤは第２６８戦闘飛行師団に配属され、次に第４３７戦闘機連隊へと異動になった。後者の連隊には新鋭のラボォーチキンＬａ５戦闘機が配備されており、リディヤはこの機体を駆って生涯初の敵機撃墜を果たしている。１９４３年９月１３日、転属して僅か２日後に、メッサーシュミットＢｆ１０９、ユンカースＪｕ８８の２機撃墜を記録したのだ。（中略）こうしてめまぐるしい異動を経験した後、彼女とカティヤ・ブタノヴァは終の住み処となった第２９６戦闘機連隊（後に親衛第７３戦闘機連隊）とめぐりあった。当時連隊はスターリングラード上空を戦場に、連日ドイツ空軍と死闘を繰り広げていた。眼下の市街では血で血を洗う市街戦が行われ、ソ連軍反撃の狼煙となるスターリングラード戦がまさにたけなわという重要な戦局だった。リディヤは少尉になっていた。（Ｐ５０）<br /><br /><br />『アレクセイ・サロマーテンとの出会い』<br /><br />第２９６戦闘機連隊司令のニコライ・バラノフ中佐も、当初は配属されたリディヤ少尉を戦闘機乗りとして認めず、ぞんざいに扱った。すぐに転属させるつもりだったらしい。（中略）バラノフは、女子搭乗員に十分な技量があるとも、彼女たちと他のパイロットとの間に信頼関係が築かれるとも考えていなかった。スターリングラード上空は当時最も激烈な航空戦の舞台だった。激戦地であたら若い娘を無駄に散らせることはない、もっと危険の少ない任務はいくらでもある、そうバラノフが考えたとしても無理はない。しかしバラノフの部下で、個人的な親友でもあった熟練パイロット、アレクセイ・サロマーテン大尉は違う考えだった。彼は初対面からリディヤに好印象を抱いていたのだ。実戦で腕前をテストしてくれと直談判に乗り込んできたリディヤに味方し、サロマーテンはバラノフを説得して、自分の列機として飛ばせることを約束させた。翌日の飛行で、リディヤはサロマーテン機の後方に張り付いたまま離れない、見事な操縦技術を披露した。誰もがこれには驚いた。美男子の大尉に既に多数の撃墜記録を有する連隊指折りのパイロットで、彼の操縦についていける者は隊内にもいなかったからだ。（中略）サロマーテンの口添えで、バラノフ中佐は考えを改めた。リディヤとバラノフの列機として出撃したカティヤは連隊残留を許された。（中略）そして翌日もサロマーテンの列機として飛んだリディヤは、共同でハインケルＨｅ１１１爆撃機を撃墜した。二人は良いコンビで、数日でお互いに戦友を越えた好意を抱くようになっていた。リディヤとサロマーテンは、敵機撃墜を飛行場上空での派手な曲芸飛行で祝った。（Ｐ５０・Ｐ５１）<br /><br /><br />『スターリングラードの白薔薇』<br /><br />スターリングラード上空への連日の出撃で繋がりを深めていったリディヤとサロマーテンは、半ば公然たる恋人関係になった。風紀を乱しかねない関係だったが、大尉の個人的な友人であるバラノフ中佐は、行き過ぎない限り大目に見てくれた。軍隊としては随分とおおらかな話だが、リディヤは恋愛によって戦意を鈍らせるどころか、サロマーテンを狙う敵機に普段は秘めている攻撃的な気質を剥き出しにして戦いを挑んだというから、戦力としてはむしろプラスに働いていたのかもしれない。互いを気遣う両機は、巧みな連携を駆使して次々と撃墜数を稼いでいった。リディヤが１９４３年２月１７日に最初の勲章である赤旗勲章（戦闘で著しい勇敢さを示した軍人に贈られた）を受け、中尉に昇進すると、軍の報道が彼女に注目した。２１歳の美少女で、激戦地スターリングラード上空を飛ぶ凄腕の戦闘機パイロットとくれば、戦意高揚のネタとしてこれ以上のものはない。彼女は自分が過大に報道されるのを嫌ってインタビューをできるだけ避けたというが、それでも彼女の名はソビエト中に知れわたり、乗機の風防の下側面に描かれた白薔薇（本当は白百合）にちなんで「スターリングラードの白薔薇」の異名で有名になった。この宣伝の結果、リディヤ・リトヴァクはドイツ軍にも知られ、彼女の乗機が来ると警戒されるようになったという。ほどなくさらに上級中尉へと昇進したリディヤは、スターリングラードでのソ連軍勝利に伴う第２８６戦闘機連隊の移動に従って、ドンバス地方へと転戦した。だか３月２２日に、９機目の個人撃墜であるＪｕ８８爆撃機と交戦中に、敵機銃座から（一説には護衛のＢｆ１０９）から銃撃を受けて脚を負傷し、事実上の相撃ちとなって不時着を余儀なくされた。彼女は上空を心配そうに飛ぶサロマーテン機に大丈夫だと手を振って見せたが、実は後方で治療に専念せねばならないほど負傷は深かったのである。（Ｐ５１・Ｐ５２）<br /><br /><br />『負傷と恋人の死』<br /><br />負傷治療の許可を得て故郷モスクワの母の下へ帰郷したリディヤは、やはり以前とは様子が違っていたという。かつての天真爛漫な無邪気さは陰を潜め、変わって真剣で緊張した表情を浮かべることが多くなっていた。母親は内心で娘の変化を悲しんでいたが、戦場に、戦友の所に戻りたがっているリディヤを止められなかった。リディヤは僅か２週間で休暇を切り上げ、入院も含めて３週間で連隊に合流した。だが彼女が留守にした短い期間に、大きな変化が起こっていた。第２９６戦闘機連隊はロストフ付近の飛行場に異動となり、名誉ある親衛部隊の称号を授与されて「親衛第７３飛行連隊」となり、そして彼女とカティヤの理解者になってくれたバラノフ中佐が撃墜され、戦死していたのである。連隊は悲しみに沈んだが、感傷に浸っている暇は無かった。スターリングラードの大反攻作戦は成功したものの、大局的にはまだ一進一退の状勢だったのだ。いつ果てるともない戦いを、連隊は続けねばならなかった。その最中、さらなる別離がリディヤを襲った。次の死神の手によって奪われたのは、彼女が休暇中に書いた手紙の中で愛を告白したアレクセイ・サロマーテンだった。その事件は５月に起こった。飛行場上空で、サロマーテンと新入りのパイロットとが模擬格闘戦訓練を行っていた。リディヤが皆とともに見上げて見物する中、歴戦のエースであるサロマーテンは巴戦中にギリギリの低速旋回を駆使して新入りパイロットを破った。悲劇はその直後に起こった。サロマーテンは限界を越えて速度を落としてしまったのだ。機体は錐揉状態に陥ったまま、態勢を立て直す余裕もなくまともに墜落した。最高の僚機であり、戦闘技術の師でもあった恋人は、リディヤの目前で大地に激突死したのである。（Ｐ５３・Ｐ５４）<br /><br /><br />『白薔薇は散った』<br /><br />戦時中でなくとも、若い娘が恋人を目前で亡くせば、深刻なショックを受ける。リディヤがサロマーテンの死を振り払おうと、戦闘に没頭するようになったのを責めるのは酷だろう。リディヤは彼女とサロマーテンが共に乗機の翼に腰掛けている写真を大事にポケットに入れていたという。リディヤが１０機目の敵機を撃墜し、晴れてエース（この時期のソ連空軍では１０機撃墜でエース認定された）になったのもこの時期のことである。１０機目はドイツ空軍のエースで、機体に数発の弾丸を喰らった死闘の末に、彼女は強敵のメッサーシュミットを火だるまにした。敵パイロットは機体を捨てて落下傘降下し、捕虜として連隊司令部に連行されてきた。多くの勲章を胸からぶら下げた壮年のドイツ軍パイロットは、意地悪な者に「自分を撃墜したパイロットに会いたいとは思わないか」と問われ、「ぜひ会いたい。彼は連隊トップの男だろう」と自信たっぷりに答えた。　呼ばれてきたリディヤが自分を撃墜した「強敵」だと教えられても、ドイツ軍パイロットは信じず、冗談はやめてくれ、私は自分を撃墜した男に会いたい、と言い張った。それがリディヤの逆鱗に触れた。彼女は男の前に胸を張って立ち（といっても小柄なので、頭が相手の胸にも届かなかったそうだが）、格闘戦の経緯を克明に語って聞かせた。当事者でなければ絶対に知り得ない内容だった。通訳して話を聞いた相手にもそれは伝わったのか、どんどん態度が萎縮して、最後はリディヤを戦った相手と認め、きちんと敬意を払うようになったという。身近な人々によればリディヤは地上では娘らしからぬ攻撃的な気性を隠していたが、この事件が唯一の例外だったそうだ。撃墜されるという不運は、何もこのドイツ軍パイロットに限った話ではなかった。この一件の直後、リディヤも二度にわたって続けざまに撃墜された。二度ともドイツ軍戦線の後方に不時着したが、一度目は徒歩で、二度目は味方のパイロットに救助されて、無事に基地まで帰還している。しかしリディヤの昔からの親友で同僚、相談相手、そしてやはりエースだったカティヤ・ブダノヴァはそう幸運ではなかった。カティヤは１０機目、１１機目を単独で撃墜した７月１８日に、フォッケウルフＦｗ１９０に撃墜され、不時着に失敗して戦死したのである。親しい人々を次々と失ったリディヤは、深い孤独に沈んでいたようだ。そして彼女にも刻々と最期の時が迫っていた。１９４３年８月１日、朝の出撃の前に、リディヤはモスクワの母に宛てた手紙を友人に代筆してもらっている。「戦いが長く続く生活の中に、私は完全に飲み込まれています。戦闘のこと以外は何も考えられないように感じます。便りを書く時間もなかなか無く、今やっと書くことができました。お察しの通り私は元気に過ごしています。ちょっと手に負傷したので、友達に代筆してもらったところです。何よりも、私は祖国と大好きなお母さん、あなたを愛しています。私たちが昔のように楽しく一緒に暮らすことができるように、頑張って戦い、ドイツ人どもを祖国から叩き出します。お母さん、あなたに逢いたい気持ちでいっぱいです。心からキスを送ります（ブルース・マイルズ著／手島尚訳『出撃！　魔女飛行隊』）」この日の最後の出撃で、リディヤと列機は敵爆撃機の捜索任務中に敵のメッサーシュミットの編隊と遭遇し、空中戦となった。激しい空戦の最中、列機のパイロットが、８機のメッサーシュミットに同時に狙われ火を吹いている長機のＹａｋ１を見たのを最後に、彼女の消息は途絶えた。敵は白薔薇の目立つリディヤ機に狙いを定めて、執拗に追い縋っているように見えた、と列機のパイロットは語っている。　撃墜されたはずのリディヤの行方は、長い間不明だった。捜索にもかかわらず乗機の残骸も死体も見つからなかった。一年足らずの間に１６８回の任務をこなし、個人撃墜１２、共同撃墜を数え、２２歳の若さで散ったスターリングラードの白薔薇は、行方不明のため最高の栄誉である金星記章を受けられなかった。捕虜となったのではないか、という疑いがかけられたのだ。だが関係者は諦めずに捜索を続け、１９７９年になってからついに身元不明の戦死者として埋葬されていた彼女の遺体を発見した。彼女は慣例に従って乗機の翼下に埋葬されていたのだが、残骸が撤去されてしまっていたので、なかなか発見されなかったのだ。科学的な検査の結果、小柄な女性の亡骸がリディヤのものであるのが確認され、１９９０年にゴルバチョフ大統領からＧＳＳ金星記章が追贈されている。リディヤは誰よりも空を愛していた以外は、年齢相応の普通の娘だった。ただ時代が彼女に与えてくれたのは、爆音と殺意が交錯する空だったのである。最後の出撃の朝も、彼女は野の花を摘み、自機の計器盤を飾っていたという。戦争の最中にあっても娘であり続けた女性エースは、愛してやまなかった花の運命をなぞり、短く咲いて、美しく散った。スターリングラードの白薔薇、その異名どおりに。（Ｐ５４・Ｐ５５）<br /><br /><br />本書が紹介する女戦士・女傑はこの他に、英仏百年戦争でフランスを救い、救国の乙女としてあまりにも有名なジャンヌ・ダルク。リディヤ・リトヴァクの活躍に１３０年ほど先立つ、１９世紀初頭のロシアで、ナポレオンが率いるフランスの大陸軍を相手に戦った女騎兵のナージェンダ・アンドレーエヴナ・ドゥーロワ。スペインのアルマダ（無敵艦隊）を撃滅し、後に「日没する事なき帝国」となる大英帝国の礎を築いた女王であるエリザベス１世。我が国からは、木曾義仲に付き従いて戦場を駆け抜け、『平家物語』や『源平盛衰記』で語り継がれ、我が国における女戦士の代名詞ともいうべき巴御前や、戦国時代に北条家の重臣成田氏長の娘に生まれ、豊臣秀吉の小田原攻めで、石田三成らの２万３千の軍勢を相手に獅子奮迅の抗戦をしてみせた甲斐姫。徳川時代末期に会津藩子の家に生まれ、砲術師範の兄から西洋式の銃や砲術の指導を受け、戊辰戦争では、自ら銃を射ち、大砲隊を指揮して、新政府軍に抗戦した山本八重子。そして、実在な人物以外にも、北欧神話のヴァルキューレやギリシャ神話から、ギリシャの勇者アキレウスと戦ったアマゾンの戦士ペンテシレイアなど、様々な魅力的な女戦士・女傑（女神も含む）が紹介されています。本当はもう一人くらい紹介したかったのですが、どのキャラクターの物語も魅力的なため、なかなか文章を省略し難く、二人目も紹介したら長くなりすぎてしまうため、リディヤ・リトヴァクだけにとどめました。その他の女戦士たちに興味を持たれた方はぜひ、本書をご購読いたしてください。〔新紀元社〕<br /><br /><br />稲葉義明とＦ．Ｅ．Ａ．Ｒ．<br /><br />昭和４５（１９７０）年生まれ。神奈川県出身。文筆家。執筆活動のため明治学院大学を中退。執筆、翻訳に従事する。著書に『蘇る秘宝』（新紀元社）、『信長の野望・新軍師録』『信長の野望・新名将録』『信長の野望・下克上伝』（光栄）など、訳書にオスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ『百年戦争のフランス軍』『モンゴル軍』『ルイ１４世の軍隊』（新紀元社）他多数がある。共著者：佐藤俊之／青木行裕

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            <category>人文</category>
      <author>管理人</author>
                </item>
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      <link>http://tig.seesaa.net/article/192434393.html</link>
      <title>セーラが町にやってきた　著者／清野 由美</title>
      <pubDate>Fri, 08 Apr 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>昨日の続き</description>
            <content:encoded><![CDATA[
昨日の続き<br /><br /><a name="more"></a>セーラ・マリ・カミングス女史の古き良き日本の伝統文化の保全と復活、さらに新生のための奮闘は、これまで紹介してきたもののほかに、戦後の産業化、均質化の流れのなかで、酒の個性を犠牲にしてまでも「効率が悪い」という理由で廃されてしまった木桶仕込みの酒の復活や、枡一・小布施堂関連施設の古い重厚な建造物の瓦屋根に相応しい、量産品ではない、古い伝統的製法での瓦の自作活動。<br /><br />そして長野冬季五輪で、白い雪に覆われた会場を美しく彩らせるために、赤、青、黄、黒、白のオリンピックカラー五色の蛇の目傘の制作プロジェクトなどなど。<br /><br />長野県の小さな町の会社に飛び込んできたアメリカ産の台風娘の猛進撃を紹介する一冊です。〔日経ビジネス人文庫〕<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=intelligenc02-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4532194849&ref=tf_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br /><br />清野 由美<br />ジャーナリスト。１９６０年、東京都生まれ。東京女子大学理学部卒業後、出版社勤務。英国留学を経て「日経トレンド」創刊に参加。１９９１年まで同編集部勤務の後、フリーランスに転じる。国内外の都市開発、デザイン、トレンドなどを取材する一方で、時代の最先端を行く各界の人物記事に力を注いでいる。　著書に『ほんものの日本人』『新・都市論ＴＯＫＹＯ』（隈　研吾と共著）などがある。

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            <category>文化</category>
      <author>管理人</author>
                </item>
        <item>
      <link>http://tig.seesaa.net/article/192434130.html</link>
      <title>セーラが町にやってきた　著者／清野 由美</title>
      <pubDate>Thu, 07 Apr 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>昨日の続き</description>
            <content:encoded><![CDATA[
昨日の続き<br /><br /><a name="more"></a>蔵でセーラに酒造りの一日体験をさせた時、遠山の感想は「小布施堂にガイジンが入ったって聞いたけど、まあ、本当に金髪の美人が来たもんで、びっくりしたわ」と、一言で終わるものだった。<br /><br />冬の仕込み作業を黙々と見ていたセーラに対しても「ま、やれるもんならやってみなって、半分甘く見ていたね」。<br /><br />ところが、セーラが社内で孤軍奮闘しながら蔵部プロジェクトを推し進める姿に接してから、その思いは大きな変化を遂げていった。<br /><br />「とにかく気が強いというか……。いや、気が強いだけじゃなくて、酒のことを本当によく勉強しているんだ。ただのアメリカ人の女だと思ったら大間違いで、ありゃあ一匹狼なんだと思ったねえ」枡一では大杜氏（前杜氏）を「オヤジさん」という役職名で呼ぶ習わしがある。<br /><br />杜氏集団も一匹狼の集まりだという遠山は、その「オヤジさん」という呼称で自分を慕ってくるセーラを、そのまま仲間の一人として受け入れた。<br /><br />そのセーラが原料には長野県産の「美山錦」を使い、大吟醸ブームの逆を行く本醸造か純米酒で行きたいと言った時も、異論は全くなかった。（後半略：Ｐ１１９～Ｐ１２３）<br /><br />明日へ続く<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=intelligenc02-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4532194849&ref=tf_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />

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            <category>文化</category>
      <author>管理人</author>
                </item>
        <item>
      <link>http://tig.seesaa.net/article/192433802.html</link>
      <title>セーラが町にやってきた　著者／清野 由美</title>
      <pubDate>Wed, 06 Apr 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>昨日の続き</description>
            <content:encoded><![CDATA[
昨日の続き<br /><br /><a name="more"></a>セーラが発想した新銘柄のキーワードは「なつかしさ」である。<br /><br />ヒントとなったのは、セーラが蔵から見つけてた江戸、明治にかけての「通い瓶」だ。<br /><br />昔の人々は酒がなくなると、蔵元に陶器製の瓶を持って行き、再び酒を詰めてもらっていた。<br /><br />そのまま燗にも使える徳利型の陶器を使って、“昔ながら“の“新しい酒“を造る。<br /><br />そんなセーラの発想のもとには、ひとつ酒の世界だけでなく、日本の世の中全体から古き良き習慣が、どんどんなくなっている現状に、ストップをかける気持ちが込められていた。<br /><br />「蔵部で使う食器を注文するために有田に出かけた時、陶器の工房がピンチだという話を聞きました。有田に限らず、今、日本のどこに行っても、昔ながらの方法で作られている生活の品々は立ち消える寸前になっています。でも今の時代だからこそ、時間をかけて丁寧に手作りされたものには価値があるって伝えたいのです。お客様には陶器の温かさというものを、もう一度発見してもらいたかったのです。それに陶器ならリサイクル機能が備わっているでしょう！あらためて見直ししてみると、昔のものって本当は合理的なんですよ」大杜氏の遠山隆吉には「オトーサンが喜びそうな酒を造ってください」と伝えた。<br /><br />明日へ続く<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=intelligenc02-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4532194849&ref=tf_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />

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            <category>文化</category>
      <author>管理人</author>
                </item>
        <item>
      <link>http://tig.seesaa.net/article/192433371.html</link>
      <title>セーラが町にやってきた　著者／清野 由美</title>
      <pubDate>Tue, 05 Apr 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>昨日の続き</description>
            <content:encoded><![CDATA[
昨日の続き<br /><br /><a name="more"></a>その枡一は、宝暦五年（１７５５年）の創業以来、「白金」「桜川」というふたつの銘柄を看板にしてきた。<br /><br />だが、戦争を機にこれらの製造は徐々に打ち切られ、戦後から四十年間は、親戚の蔵元六社で共同生産するブランド「雲山」を造り続けることで、昭和の時代を生き長らえていた。<br /><br />（中略）<br /><br />蔵部が開業するにあたっては、蔵部に相応しい新銘柄が必要なのは明らかだった。<br /><br />当初計画の十倍以上の投資事業に膨れ上がった経緯の間には、市村次夫自身も不安を覚えることがあったが、「これは枡一の第二の創業なのだ」と、思い直してから腹が据わった。<br /><br />実際、完成に至った蔵部の建物を目の当たりにすると、セーラの主張した到達点の確かさは、ひしひしと我が身に伝わってきた。<br /><br />そして第二の創業であればこそ、新銘柄の開発にも胸が高鳴った。<br /><br />明日へ続く<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=intelligenc02-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4532194849&ref=tf_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />

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            <category>文化</category>
      <author>管理人</author>
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      <link>http://tig.seesaa.net/article/192432933.html</link>
      <title>セーラが町にやってきた　著者／清野 由美</title>
      <pubDate>Mon, 04 Apr 2011 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>昨日の続き</description>
            <content:encoded><![CDATA[
昨日の続き<br /><br /><a name="more"></a>『ブームの大吟醸ではなく、オトーサンが喜ぶ酒を造りたい』<br /><br />蔵部プロジェクト（山口注：長野冬季五輪でアン王女と英国選手団の激励会に使った古い酒蔵を、和食レストランとして正式オープンするプロジェクト）の最中にあった９７年の冬に、セーラはこの蔵独自の銘柄酒を新たに造り出す計画にも着手した。<br /><br />利き酒師の勉強をしたことで、この時点でセーラの日本酒についての知識と造詣は、その辺の日本人よりも遥かに深いものになっていた。<br /><br />しかもセーラが詳しいのは酒だけではなかった。枡一の専務取締役、市村憲彦は、ある時、枡一の店頭で客が発した質問に、そこにいたセーラがすぐさま反応した光景を覚えている。<br /><br />「『なぜ高井鴻山の子孫なのに市村さんと言うのですか』（山口注：高井鴻山＝晩年の葛飾北斎を支えたパトロン）とお客様が聞いてらしたんです。高井姓というのは、鴻山の二代前の当主が、天明の飢饉の際に米蔵を村人に開放したうえで献金した功績で幕府から賜った姓で、一族の本来の姓は市村なんです。それを私が話そうとしたら、横にいたセーラさんがパパッと説明しましてね。彼女の頭の中には、日本の歴史、小布施と市村家の歴史がちゃんと入っているんだ、と感心したことがありますよ」セーラにとっては枡一とは、彼女が最も心ひかれる江戸時代の生活文化を象徴する存在だった。<br /><br />明日へ続く<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=intelligenc02-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4532194849&ref=tf_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br />

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      <author>管理人</author>
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