2008年05月10日

海峡のアリア 著者/田月仙

昨日の続き

『拉致発覚とヨーロッパへの旅』
2002年9月17日。私は東京の自宅で朝からずっとニュースを見ていた。小泉純一郎総理大臣が北朝鮮を訪問し、金正日総書記と会談を行った。長年暗礁に乗り上げていた日朝国交正常化が、実現へ向かって大きく動いていくのか。それとも……。国交正常化のため、日本側が条件に出している北朝鮮の日本人拉致疑惑が、どのような形で解明されるのか?期待を抱くと共に、不安に駆られながら行方を見守った。テレビの画面には、拉致被害者のご家族が、固唾をのんで知らせを待っている様子が映し出されていた。 1985年の北朝鮮訪問から長い時が流れていたが、北へ渡った兄たちが辿った過酷な運命を考えると、暗闇に包まれたかの国で、普通では思いもよらないことが起きている可能性はあると感じていた。しかも休戦ラインで南北に分かれたままの状態の北朝鮮では、未だ戦争が終わっていないのだなと強く感じた。常に何が起こるかわからないような緊張感に包まれていた。戦時中であれば、どんな残酷なことも起こりうる。母は以前から、北朝鮮が日本人を拉致した可能性はあると断言していた。しかし、東西冷戦が終わり、民主主義が発展した21世紀の現代に、一国の首脳が、他国の人間を拉致したことを認め、謝罪するなどとは考えられなかった。しかも北朝鮮という国で、神のように崇められている金正日自身が、それを認めるとは思えなかった。 しかし、その日、それは現実に起こった。北朝鮮が発表した拉致事件の実態は、日本全土を震撼させた。拉致被害者の名を一人一人読み上げ、死亡、生存、と告げるテレビの報道番組を見ながら、心臓が凍りつく思いだった。こんな恐ろしいことが報道されていること自体が信じられなかった。(中略)報道を通して、悲しみに暮れる拉致被害者家族たちの姿を見るたびに、胸が痛んだ。南北分断による対立を余儀なくされ、自国民にも言いしれぬ苦しみを強いてきたのに、今また、日本の何の罪もない人間までを巻き込み、犠牲にするのか。どうしていつまでも罪のない人々が犠牲にならなければならないのか。 そして、私は歌を歌えなくなった。 「南であれ北であれ……」と歌ってきた心に、初めて迷いが生じた。 それまでこの歌を(山口註:「高麗山河わが愛」のこと)歌う私を支持し声援を送ってくれたのは在日コリアンだけでなく、たくさんの日本の人々だった。しかし、日本人拉致事件という北朝鮮による国家犯罪が明らかになり、怒りと悲しみに震える彼らを前にして、朝鮮半島の平和を訴える歌を歌えるはずがなかった。日が経つにつれ、拉致被害者家族の苦しむ姿が、頭から離れなくなった。彼らを前にして、一体どこの誰が、この理不尽な許し難い犯罪を弁明できるであろうか。日本人拉致問題は、在日の帰国者問題とは異なる。日本の人々から見れば、自らの意志によって北朝鮮へ渡った在日朝鮮人たちと、他国によって突然拉致された日本人被害者たちを同じ思いでとらえることなどできないであろう。しかし、背景は違っても、拉致被害者家族の我が子を奪われた人間としての苦しみが、母の張り裂けんばかりの悲しみと重なって映るのだった。 私は何もかも忘れてしまいたかった。歌う喜びは消え去ってしまった。(P240〜P247)

前書きで述べたように、今回は著者の意向を尊重して、「私」の言葉では北朝鮮バッシング文章は書きません。ただし、最近の中国製毒餃子事件や、チベット騒乱に端を発する北京五輪問題や、映画『靖国』問題等に紛れて拉致問題への関心が極端に弱まってはいないかと憂慮している最近の私です。

安倍晋三氏の総理退陣以降、まるで政界からもマスコミからも忘れ去られたか、あるいは厄介者として遠ざけられたかのように、全然進展が見られない拉致事件。新しい事件が次々と出てくるからといって、決して旧い事件が消えてなくなったわけではありません。

日本国の主権と日本人の人権が重大な侵害を被った事件がいまだ未解決だということを忘れてはなりません。   〔小学館〕



田月仙(チョン・ウォルソン)
声楽家。東京生まれ。桐朋学園大学短期大学部芸術科卒業、同研究科卒業世界各国でオペラやコンサートに出演し、「祈り」とも言える独自の歌の世界を確立。1985年、平壌公演では金日成主席の前で歌い、1994年にはソウル定都600年記念オペラ「カルメン」主演で、初の南北コリア公演を実現。2002年ワールドカップ小泉純一郎内閣総理大臣主催・金大中韓国大統領歓迎公演にて独唱。2004年NHK・ETV特集では「海峡を越えた歌姫」として90分のドキュメンタリー番組が放映された。2006年、本作品で第13回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。国境を越えた音楽活動を展開している。二期会会員。
posted by 管理人 at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 人文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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