2008年04月23日

銀座木村屋あんパン物語 著者/大山 真人

昨日の続き

『横浜居留知地のベーカリー』
文明開花は横浜から始まったといってもいい。実際に開港されたのは安政6(1859)年6月2日で、このときすでにアメリカをはじめロシア、オランダ、イギリス、フランスの五ヵ国との間で開港条約が締結されていた。このため横浜には相次いで諸外国の領事館が設置され、外国の商人も入り込んできた。彼らは料理人を同伴し、西洋料理やパンを楽しんでいた。中にはパンを焼くときの助手的役割として、日本人の職人を雇う外交官や商社マンもいた。その横浜で日本人として最初にパン屋をオープンさせたのは、居留地で外国人職人の助手として働いていた日本人ではなく、本牧の野田兵吾という男だとされている。野田は異人館近く長屋でパン屋を開いた。しかし、技術を持たない野田のパンは、粉を捏ねて焼いただけのものだったらしい。それが結構売れたというからわからない。見かねた外国人のパン職人が、発酵パンの作り方を教えてくれたという。開港の翌年にあたる万延元(1860)年のことだった。(中略)明治初年には、横浜の外国人居留地内(山下町)に四軒の外国人経営のパン屋がオープンしていた。焼いていたパンは主にフランスパンで、美味しいうえに貯蔵性に富んでいた。当初、フランスパンが主流だったが、西南戦争後にイギリスパンにとって代わられた。新政府に対する各国の力の現れがパンにも影響を及ぼしたためである。イギリスの強大化につれて、イギリス流の「山型食パン」が台頭し、第一次世界大戦後はアメリカ式のラードを使ったパンに代わっていった。ロシアパンもロシア革命で国外に亡命したロシア人などから広まったものの、主流になるほどの影響はなかった。 ドイツパンは「ジャーマンベーカリー」として横浜に進出、一部の外国人から歓迎されたものの、主流を占めることはなかった。(中略)当時横浜には四軒の外国人経営のベーカリーがあった。そのうち、大規模に食パンの生産をしていたのがアメリカ人クラークの経営する「ヨコハマベーカリー」だった。その後、クラークは帰国。店を職人として働いていた打木彦三郎に譲った。これが「宇千木パン」のはじまりである。これと前後して「富田屋(加賀パン)」「勢国堂」などの邦人パン屋がオープンして賑わいをみせた。 関東大震災前までは横浜がパンの本場だったという人もいる。震災後は東京にその地位を譲ることになるのだが、震災による壊滅的状況を見て、横浜で商売をしていた外国商社の多くが見切りをつけ、神戸に引っ越したためでもあった。それに反して東京では、多くのパン屋が食パンの卸売工業の近代化・大規模化を推進した。すでに資本の大部分は東京を中心に動き始めていたからである。これはパン業界だけの問題ではなかった。(P40〜P44)

明日へ続く

posted by 管理人 at 07:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ビジネス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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