2007年04月30日

スペシャル・フォース 最強の特殊部隊 

《テロリストによるハイジャックや大使館占拠事件等の人質救出作戦。敵地の奥まで秘密裏に進入してのテロリストやゲリラの首領捕獲や暗殺作戦。敵国の重要施設の破壊工作等々に暗躍する組織、「特殊部隊」。厳しい国際社会で真剣に生き抜こうと考えている国なら絶対に必要とする組織、それが特殊部隊。アメリカのグリーンベレーもイギリスのSASも、ドイツのGSG9も、旧ソ連(現ロシア)のスペツナズも、その存在そのものが各国の生存への強い執念の証しなり。平和が夢と祈りとテレビ討論で実現するという妄想にとりつかれている平和ボケ人種などお呼びでない、現実世界の超級戦士たちの群像》

“特殊部隊”と聞いて皆さんがすぐに思い浮かべるイメージといえば何でしょうか?

多分、映画の影響がもっとも強いのではないでしょうか。シルベスター・スタローンの『ランボー』シリーズや、アーノルド・シュワルツネッガーの『コマンドー』、チャック・ノリスの『デルタ・フォース』、チャーリー・シーンの『ネイビー・シールズ』なんかはかなり有名ですし、もしかしたらジョン・ウェインの『グリーン・ベレー』なんて古典的作品を挙げる人もいたりして。

私の場合、上記の作品はもちろん観ましたが、一番最初に特殊部隊を認識したのは小学五年生の時に、自衛隊のレンジャーでした。私の故郷の町には陸上自衛隊の駐屯地があり、友人に自衛隊員の子弟が多数いて、さらに私の父も元自衛隊員で、2人の従兄弟は現役自衛隊員という、自衛隊関係者に囲まれて育ったといっても過言ではない私は幼い時から自衛隊に対する関心が高く自分も将来、自衛隊に入ることを夢見ている少年でした(結局は演劇の道へ入ってしまいましたが)。

だから父はや従兄弟はもちろん、友人の父親の自衛隊員や、父の友人の自衛隊員(現役・OB共に)から自衛隊についての話を聞かせてもらうことが無上の楽しみでした。そして、小学五年生の時に、その地元の自衛隊駐屯地で催された、スキー教室に参加した時に、初めて自衛隊のレンジャー隊員に会って話を聞くことができました。

ちなみに、このスキー教室というのは自衛隊と地元の住民の親睦の一環として、小学五年生から中学三年生までを対象に、自衛隊駐屯地の施設に二泊三日の合宿でスキーを教えるというもので、私の地元だけなのか、他の地域の自衛隊駐屯地でも同様のことをしているのかは承知しておりません。それで私を含めた合宿に参加している数十名の少年達にスキーの指導をしてくれた数名の教官の一人がレンジャー隊員だったのです。

私を含めたスキー以上に軍事に興味がある、いわゆるミリタリー・マニア、今風にいうなら、オタクの数名が、そのレンジャー教官につきまとい、レンジャーとしての訓練や任務について、好奇心丸出しで色々質問したものです。

また、私の父の友人にもレンジャー訓練を修了した隊員が何人かいて、その方々が私の家にたまに遊びに来たりしたら、父に「子供は大人の話の中に入るんじゃない!部屋で宿題でもしてろ!」と叱られながらも、何かにつけて、レンジャーについてあれこれ聞いたものです。

だから私にとって最初は自衛隊レンジャー、イコール特殊部隊だったわけです。その後、中学に入って仲良くなった同級生F君によって米軍特殊部隊グリーン・ベレーの存在を知りました。それ以前の私はミリタリー・マニアとはいっても、その関心は、ほとんど第二次世界大戦と日露戦争に偏っていて、例えば読む本も第二次世界大戦や日露戦争の戦記物が大半を占め、第二次世界大戦以後の軍事については自衛隊以外あまら知らず、外国の軍隊に対する知識も第二次世界大戦時のものばかりでした。

だから、第二次世界大戦以後に創設されたグリーン・ベレー(その原型となる部隊はあったらしいが)については、F君が愛読していたコンバット・マガジンやGUNという雑誌で初めて知ったのです。

F君の感化を受けて、グリーン・ベレーに興味をもった私は、彼と一緒に通信販売で、米軍放出品のタイガー・ストライプの迷彩服や、ジャングル・ブーツ、サバイバル・ナイフ等(本当に放出品だったかどうかは不明)を購入しだし、それまでの第二次大戦や日露戦争の戦記物ばかりだった軍事への興味を、ベトナム戦争や中東戦争、アフガニスタン事件などの現代戦や、米軍をはじめとするNATO軍。ソ連軍(現ロシア軍)。イスラエル軍へと拡げ、さらには、それまであまり興味をもたなかった諜報機関(なにしろ私は007シリーズさえロクに見たことがない、てゆーか、現在も観たいとは思わない)にまで興味を拡げ出していきました。

そんな私が疑問に感じたのは、果たして日本には特殊部隊と呼べる存在はあるのだろうか?ということでした。確かに自衛隊にはレンジャー隊員がおり、また習志野には空挺師団という精鋭部隊がありますが、しかし、これらはそういう任務を託された部隊なり隊員なりがいるとはいうものの、実際に彼等が活動して然るべき時に活動していないし、できないのでは存在していないに等しいのではないでしょうか。

戦前の軍国主義は終わって、戦後の日本は平和国家に生まれ変わったわけだから、軍隊は必要ないし、ましてや特殊部隊なんてなおさら不要だ!なんて妄言を吐くスカタンが今尚、我が国に棲息しているのは誠に嘆かわしい限りです。敗戦と同時に不法占拠された北方領土は止むを得ないにしても、韓国に不法占拠された竹島の場合は自衛隊が出動して解決してもおかしくない、いや日本以外の国なら間違いなくそうしているはずの問題であり、まだ不法占拠まではされていないにせよ、尖閣諸島にも同様のことが言えます。つまり日本は戦後だって少しも平和だったわけではなく、紛れもなく侵略を被っているのです。

仮に百歩、否、百万歩譲って竹島・尖閣諸島問題は棚上げしても、日本の主権と日本国民の自由を侵害するテロだって一つや二つではありせん。「よど号」事件やダッカ空港事件などの極左過激派によるハイジャック事件や、ペルーでの日本大使館占拠事件、さらにマラッカ海峡やベンガル湾で多数発生している日本の
貨物船に対する海賊行為など、特殊部隊を投入すべき事件は日本国と日本人に対して間違いなく起きているし、これからだって起きない保証は誰にもできません。

ちなみに警察にはSAT(スペシャル・アサルト・チーム〜特殊急襲部隊)があり、聞くところによれば、ダッカ空港での日本赤軍の日航機ハイジャック事件の教訓として結成されたとか。そのSATはオウム事件の渦中に起きた函館空港ハイジャック事件を見事解決いたしましたが、ペルー大使館不法占拠事件では何の活躍もできませんでした。

もちろんそれは政府の責任であって、SATの責任ではないのですが、ダッカ空港日航機ハイジャック事件の教訓という話が本当だとしたら、肝心の政府が全然、教訓を学んでいないというわけですな。自衛隊が海外にPKFとして派遣され、防衛庁が防衛省に昇格するご時勢なのですから、ぜひとも今後起きるかもしれない日本に対する危機には、対抗措置として断固、特殊部隊を投入してほしいと思います。

軍事的挑発に対しては陸上自衛隊の空挺師団やレンジャーを、過激派やカルト教団には警察のSATを、海賊や不審船には海上保安庁のSSTを勇気を持って投入していくべきです。それを投入するにも憲法や法律に問題があるなら、必要なそれらを創ればよいだけのことです。空手や柔道でどんなに厳しい訓練を積んだとしても、暴漢相手に技の使用を躊躇うのならば、それらは単なる体操の域を出ないわけだし、どんなに威力のある武器を持っていても使う必要があるときに使う決断が出来ないなら、丸腰と同じであり、訓練を積むための時間や、武器を購入するための費用は全く無意味なわけです。最後にもう一度、強調させて下さい。

「戦後の日本のどこが平和なんだ!竹島や尖閣諸島はどうなんだ!北朝鮮のミサイルや核実験、拉致問題はどうなんだ!日本赤軍のハイジャックやペルー大使館事件や地下鉄サリン事件はどうなんだ!」 

◎内容抜粋
『西ドイツ [GSG9] 』
1960年代の後半から、戦後の目覚ましい経済復興を続けてきた西ドイツ(山口註:本書の初版は1987年。つまりドイツ統一前です)に、テロリスト集団が暗躍するようになった。これに対抗する特殊部隊の設立が考えられたが、戦前のナチスのイメージから反対する者が少なくなかった。日本と同様に特殊部隊アレルギーが存在していたのだ。ところが情勢が一変した。1972年のミュンヘン・オリンピックで、<黒い九月(ブラック・セプテンバー)>と名乗るテロリストが、イスラエル選手団の二名を殺害、他に九名を人質として要求を突きつけてきたのであった。結果は軍用空港での銃撃戦となり、人質とテロリストは全員死亡した。このとき西ドイツ側の狙撃手の不手際が目立ち、その指揮官までが射殺されていた。かくして総合的な対テロリスト活動をする特殊部隊が必要との声が高まり、連邦国境警備隊の一部として GSG9 が創設された。この部隊の創設が成功だったことは、1977年10月13日のルフトハンザLH181便のハイジャック事件で証明されている。このGSG9が他の諸国の特殊部隊と異なっているのは、軍隊ではなく警察部隊という点である。組織上はドイツ連邦政府の内相の指揮下にあり、小規模な司令部と四つの実戦部隊、それに特別部門を有しているだけだ。当初、その全兵力は180名強であった。けれどモガディシオ救出作戦の大成功により、一時的に300名にまで達した。ところがそれだけの人員だと、質を維持するのが困難となり、現在では160名から200名といったところである。メンバーはすべて連邦国境警備隊の隊員から選ばれる。もしドイツ連邦軍の兵士がGSG9に加わりたいと思ったら、まず除隊してから改めて連邦国境警察に入隊しなければならない。訓練期間は長く、実に二十二週にわたって行われる。この間に対テロリズム活動に従事する気持ちをしっかり固めさせる。最初の十三週間では、警察官としての職務とか法規、武器の使用方法、それに空手など格闘術が教育される。訓練の場所かどこで、いつ行われるかについては全く知らされない。その場その場で指示されてゆく。第二段階に入ると、各人の技術習得が進むにつれ、対テロリズム活動のテストが実施される。各コースとも80点以上が合格点となっているようだ。GSG9が使用する武器は、へッケラー&コッホ社のMP5短機関銃である。任務の特殊性から、MP5には消音器が装着されている。また隊員は全員、サイドアーム(予備の銃)として拳銃を所持している。その種類はドイツ警察の多くが採用しているへッケラー&コッホのP7、もしくはシグ・ザウエルのP6が支給されている。MP5もP7も、どちらも使用する弾薬が9ミリ・パラベラム弾のため、互換性があって便利である。GSG9では通常、連邦国境警備隊の濃紺の野戦服を着て、緑のベレー帽をかぶる。ところが出動となると、防弾プラスティックと特殊合金を組み合わせたヘルメットを着用する。必要ならば防弾ヴェストを着用し、一切のバッヂや部隊の象徴となる外して出撃するのだ。このように特別任務だけのために存在する部隊だから、日常は要人警護などで出動する以外、ほとんど訓練で明け暮れてしまう。だからどう士気を維持すべきかが、大きな問題となっている。(P57〜P60)

『モガディシオ救出作戦』
1977年9月5日、西ドイツ財界の指導的立場にあるハンス=マルティン・シュライヤー氏が、これまで全く知られていなかった西ドイツ赤軍と名乗る連中に誘拐された。彼らの要求は、フランクフルト空港で捕えられた、11名のテロリストの釈放であった。ドイツ連邦共和国。つまり西ドイツ政府はテロリストとの交渉を拒絶し、こうして一ヶ月以上が経過した。 10月13日12・00 。 フランスのレーダー管制官が、ドイツ航空LH181便の飛行コース離脱を発見した。やがてユルゲン・シューマン機長が、彼のボーイング737がテロリストに乗っ取られた、と報告してきた。機には5名の乗員と86名の乗客、それに4名のテロリストが搭乗していた。テロリストのリーダーは、「キャプテン・マームド」と名乗った。誰一人知らない名前であった。給油のためにローマ空港に着陸している頃、ボンではGSG9のウェグナー隊長が出動準備に入っていた。彼は出動を命ぜられるとの前提で、直ちに30名強の人員の人選を終えた。マイホーファー内相から、隊長に緊急出動に備え待機するよう、命令が出た。GSG9は、ルフトハンザの用意したボーイング707に搭乗すると、一路進路をローマに向けた。ところがハイジャックされた181便はローマを離陸後、キプロスのニコシアへ着陸しようとした。追うGSG9の機はラルナカ空港への着陸を拒否され、アクロティリ英軍基地しか使用できなかった。次はどこへ向かうか?ベイルート、バグダード、それにダマスクスといった空港は、既にこの段階で181便の着陸を拒絶していた。関わりになることを嫌ったのだ。181便はバーレーン、そしてドバイと転々として移動した。機内の温度は摂氏40度にも達し、乗客の健康状態は最悪だった。日付が改まり15日となった。トルコのアンカラ空港にいたGSG9の救出部隊もまた、疲労はピークに達そうとしていた。移動と待機の連続は、人間を思ったより緊張させ疲れさせるのだ。別の隊員を搭乗させたボーイング707機が、ウィシュネスキー総理府長官とともに、ドバイに向かった。この時点で最初の部隊はいったんケルンに戻ることとなった。ハイジャック機に突入する許可を取りつける交渉が、アラブ首長国連邦と続いた。その間にもウィシュネスキー長官が、テロリストと実りのない交渉を始めた。いったんケルンに戻った先発隊は、クレタ島で待機すべく再び行動を開始していた。ところが181便は突如、ドバイ空港を離陸した。そしてそのまま行方不明となった。181便が次に姿を現したのは、イエメン人民共和国のアデン空港だった。全く地上と交信なしに着陸しようとしたため、空港は閉鎖命令を出した。このため181便は滑走路を使用出来ず、滑走路わきの砂地に辛うじて着陸した。ここで車輪の様子を見に機外へ出ようとしたシューマン機長は、人質全員の目前でテロリストにより頭を射抜かれた。機内の条件はいよいよ悪化していった。中東の砂漠地帯の暑さと、換気ができないことによる耐えがたい臭気が襲ってきた。事件発生から84時間が経過した。181便はアデン空港を離陸、二時間余りのちにソマリアのモガディシオ空港に飛来した。着陸するが早いか、脱出用シュートからシューマン機長の遺体が放り出された。既にGSG9には、救出作戦の開始を承認する暗号が出ていた。あとはタイミングを待つのみであった。シュミット首相はボンから緊急電話をソマリア大統領にかけ、GSG9の救出作戦行動の承認を求めた。現地ではテロリストとの間で、最終期限の延期交渉が行われた。それは現地時間18日02・30と決められた。クレタ島を出発していたGSG9の最初の隊は、一直線にモガディシオ空港にと向かった。着陸は一切の灯火を消して行われた。現地時間01・50。GSG9の隊員たちは、足音を忍ばせて181便の機体の下に集まった。それから各人が所定の位置についた。ボーイング737の場合は、前後部のドア、それに翼の上の非常脱出口が突入箇所となる。事件発生から108時間が経過しようとしており、テロリストも乗客も疲労しているはずだった。ウィシュネスキー長官が、テロリストたちに要求の実施に手違いがあったことを伝えた。テロリスト3名、操縦席に集まった。ドアをイギリスのSASが開発した特殊破壊装置で破り、続いて特殊閃光手榴弾を放り込んだ。GSG9の突入隊員が、耳栓と特殊眼鏡をして突っ込む。奇襲を受けたテロリストたちは、たちまち射殺され、残った最後の一人も、後部で射たれて重傷を負い捕えられた。乗客乗員の全員が、数名の軽傷だけで無事に救出された。彼らはクモの子を散らすように機外に出て、管制塔に向かった。GSG9の隊員は、たった一名が軽傷を負っただけだった。テロリストは、3名が射殺され、女が一名のみ生命をとり止めた。こうして西ドイツは、ミュンヘンの汚名をモガディシオで晴らすことができた。文句のつけどころのない、ほぼ完璧と言える救出作戦であった。だがその裏に、作戦終了後三日して、ムルハウスでシュライヤー氏の遺体が自動車のなかから発見されるという痛ましい犠牲もあったのである。このようにしてGSG9の活躍は、一躍にして世界に知れ渡った。テロに対する特殊部隊を語る場合、GSG9を抜きにはできない存在となっているのだ。(P60〜P66)

「日本は第二次大戦後のドイツに学ぶべきだ!」なんて言葉を日本国内の自称・進歩的文化人だか、市民運動家だか、平和主義者だか、さらには中国や韓国・北朝鮮あたりがさかんにわめいておりますが、それならこのGSG9とモガディシオでのLH機救出作戦を遠慮なく学ぼうではありませんか。

そして日本の主権と日本国民の自由を脅かす侵害者に躊躇うことなく日本国としての怒りの鉄槌を下すべきです。なお、本書には9ヶ国、19の特殊部隊と精鋭部隊がとり上げられています。  〔原書房〕

スペシャル・フォース 最強の特殊部隊
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柘植 久慶
1942年愛知県生まれ。1961年に慶應義塾大学入学。この年の夏休みに傭兵部隊の一員としてコンゴ動乱に参加。翌62年、フランス外人部隊の格闘技教官としてアルジェリアに渡り、中尉待遇で五ヶ月在隊する。卒業後は外資系商社マンとして海外生活を体験。1970年代初頭より、ラオス政府軍の格闘技教官
。のちアメリカ陸軍特殊部隊に加わり、インドシナで闘う。現代の特殊戦争を経験した軍事ジャーナリスト、冒険小説作家として活躍中。著書に『ザ・グリーンべレー』『フランス外人部隊』『サバイバル・バイブル』『ザ・ファイティング』(原書房)、小説『グリーンべレーの挽歌』(集英社)、『戦場の人間学』(祥伝社)など著書多数。


posted by 管理人 at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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