2007年04月23日

大山倍達正伝 著者/小島一志&塚本佳子

《「牛殺し」「ゴッド・ハンド」「ケンカ空手」「地上最強の空手」そして「空手バカ一代」と、フルコンタクト空手として名高い[極真空手]の創始者にして、空手界の巨人である故大山倍達氏はその人生の中に数々の伝説をもつ。しかし、その伝説はあまりにも深く大きな謎を内包している。各種メディアや故大山氏の自著で語られた伝説と、その伝説の彼方に隠された真の大山倍達氏の姿を探し求める一冊》

皆さんは、武道・格闘技の経験がおありでしょうか、あるいは経験はなくとも興味や関心を惹かれたこととかはありますか?

私の場合は小学生時代には剣道、相撲、プロレスでした。プロレスはさすがに『プロレスごっこ』という遊びに過ぎませんでしたが、剣道は父親が剣道三段で、居合や小太刀といった古武道も少し心得があったために、私が小学生になってから朝一時間、夕方二時間、仕込まれました。

ただし、父は昭和一桁生まれの元軍国主義少年でしたから、その指導も子供にとってはかなり厳しいスパルタ式でしたので、正直、その稽古は、あまり好きにはなれませんでした。もう一つの相撲は、私の家の近所にもと大相撲の力士だったというMさんという、おじさんが、住んでいてその方に個人的に指導してもらっていました。

まあ、“おじさん”とはいっても指導を受け出した小学三年生頃の私から見ればで、その時の年齢は27、8歳だったと記憶しています。そのMさんは、部屋の名前は忘れたけど高校卒業後に大相撲に入門したけれど、幕内に入れないまま、腰を痛めて相撲を断念、故郷に帰って実家の雑貨屋を継いでいたのですが、当時、相撲大好き少年で、友達との遊びもプロレスごっこか、戦争ごっこか、相撲かの私がしつこく相撲を教えてくれと頼み込んだために、週一、店の定休日に教えてくれました。

このMさんは、さすがに他人様の子供というので遠慮があったのか、さほど厳しいものではなく、むしろ遊び相手になってくれているといった感じでしたがね。この他に私たち日本人にがすぐに思いつく武道・格闘技は、柔道、ボクシング、空手といったところですが、柔道、ボクシングについてはまた、別の機会にとして、ここで私と空手の関わりを話しますと、私は正直言えば空手に関しては悪い印象をもっていました。

私が初めて空手の名を知ったのは、確か小学一、二年生くらいだったか、テレビアニメで『空手バカ一代』を見た時でしたが、そのアニメには私はさほど興味が惹かれず、とりあえずテレビで放映していたから視たという程度であまり印象に残りませんでした。

そして私に空手に対する悪感情を与えたのが小学五年生の時、私の同級生のS君がある日、「アチョォーーー!チョォーーー!ワッチャーーー!!」なる、意味不明な叫び声をあげて、クラスの何人かを殴ったり蹴ったりしだしたのです。彼はテレビだか映画だかでブルース・リーを見て、それに影響されて空手道場に通いだし、そこで習った技をブルース・リーになったつもりでクラスの何人かにしかけて遊んでいたのです。

しかし私が友達と普段やっている相撲やプロレスごっこと違い、S君の空手は、その気のない相手、しかも男子だけではなく女子に対しても行っていた明らかなイジメでした。相手が嫌がったり怖がったりするのを間違いなく楽しんでいたのでした。

私と何人かの同級生がそんなS君に注意すると、S君は注意をした私達に矛先を変えて空手の技を仕掛けてきたのでした。それにブチキレた私は持っていた竹刀(父が学校でも休み時間に練習しろ、と持たせていたのです。でも友達と遊ぶから練習はしませんでしたが)でS君をブッ叩きました。

S君は「こっちは素手なのに武器を使うなんて卑怯だぞ!」と、ほざきました。それに対して私は「ふざけるな!お前から仕掛けてきた喧嘩だろう!空手だかなんだか知らないが嫌がっている人間を殴ったり蹴ったりしてたのは卑怯じゃないのか!!」となり、後は大乱闘。

私の竹刀に対し、S君は空手の技をやめ、イスを振り上げ、投げつけてきて、私は小学生の剣道では禁じ手の突きを繰出し、最後には竹刀で面を打つと見せかけてS君の注意を上に引き付けた隙に、彼の股間に蹴りを入れて勝負を決めました。

その喧嘩の後、S君は私の竹刀に対抗しようとしてかヌンチャクを持ってくるようになり、さらに同じ空手道場の仲間にも応援を頼むようになり、対する私はプロレスごっこ仲間の友人達と組んで、S君達の空手一派との抗争になりました。

竹刀VSヌンチャク。空手VSプロレスといったわけです。しかし、この抗争を知った、S君が通う空手道場主が彼を辞めさせたことで一ヶ月くらいでウヤムヤになり、その後、S君はクラスで孤立したまま、卒業することになるのですが、その後、S君は中学で(私の行った中学校とは別の中学校)不良グループに入り何度か補導され、さらには故郷を出奔してヤクザになったとの話を耳にしました。

まあ、とにかく、このような経緯で私は空手に対しては当初、悪い印象を持っていたわけです。そんな私に変化が生じたのは高校生になってから。

きっかけは落合信彦氏の著作によるものでした。落合信彦氏の著書は当時の私にとってポール・ボネ氏、小室直樹氏のそれと並ぶ三大愛読書群でありました。『空手バカ一代』や、ブルース・リーにも動かされなかった私の空手に対する興味が、落合信彦氏によって惹き起こされたのです。

とはいっても、故郷の町にいるときは空手を習い出したわけでもありません。空手と直に接触を持つのは上京後、私が最初に勤めた職場の先輩が空手の黒帯で、しかも落合信彦氏と同じ剛柔流空手ということで、なおさら興味を惹かれて、仕事の休憩時間や終業後に居酒屋等で一杯飲む時に空手に関する様々な話を聞き出しました。

先輩は私が空手に関して興味を示していることから、自分の通っている道場を薦めてくれたのですが、当時、既に役者を目指し演劇の道を進む決意だった私は、さすがに空手道場にまで通う時間もお金も都合かつけられないため、お断りしたのですが、それならと、「役者なら殺陣をするときがくるかもしれないから、型くらい知っておいても損はないだろう」と、仕事の休憩時間に簡単な型を教えてくれ、さらに予め決まった動きで技をかけ合う約束組手の相手をしてくれました。

その先輩との付き合いは同じ職場にいた一年間だけでしたが、それにより私の空手に対する興味はより高まり、実際に道場には通わないまでも、各種の武道や空手に関する雑誌(格闘技通信・フルコンタクトKARATE・月刊空手道etc)から、様々な空手関係の本や、空手の源流の沖縄武術に関する本や中国武術。さらには空手以外の国内・外の様々な武術・格闘技を扱った書籍を読みあさるようになりました。

そして中でももっとも興味を惹かれたのが、ケンカ空手、実戦空手、地上最強の空手を売りにしていた極真空手でした。それもそのはず、先ほど紹介した私に若干ながらも空手の手ほどきをしてくれた先輩が、自身の流派は剛柔流でありながらも。

極真空手の創始者にして総裁であった大山倍達(故人・平成六年没)の大ファンで、空手について詳しい知識のなかった私に大山倍達氏の話をよく話してくれ、さらには大山氏の著書を読むことを薦めてきたからです。

大山倍達氏の伝記は梶原一騎氏原作の漫画『空手バカ一代』が有名ですが、いくら空手に詳しくなくても、あの漫画の中の話を実話と解釈するほど単細胞ではないつもりでして、一応参考までに読み出した(それ以前は読んだことがなかった)けれど、やっぱり、というか所詮漫画は漫画だな、という印象でしかありませんでした。だから梶原一騎氏の作品は無視して、大山氏自身の著書を片っ端から読みあさりました。

また大山氏以外にも元極真空手の黒崎健時氏、芦原英幸氏、東孝氏等の著書も読み極真空手の世界を探りだしました。そうこうするうちに、私の脳裏に大きな疑問符が浮かび上がってきたのです。それは大山倍達氏が極真会館創立以前の自らの体験や戦歴を語るにおいて、その著書や雑誌によっていくつもの矛盾点、事実の不一致な記述が目に付くことでした。もちろん人生で体験してきた事実をすべて正確に語れる人間なんか存在しません。たとえ実体験であっても時を経て風化し、正確な事実を忘れてしまった場合、願望や思い込みや、それを語るときのその場の状況に合わせて脚色することは、どんな人間にもあるでしょう。

しかし、大山倍達氏の場合、記録・資料として確実に残る活字媒体において矛盾する、不一致な事実を書いたり、語ったりしている。しかも。、良くも悪くも著名人の大山倍達氏の言動は、かなり高い確率で後世まで遺るはずです。それなのに著書や雑誌による自身の過去についての矛盾・事実の不一致は何故なのか?

そんな疑問に解答の緒を見つけたのが、ソウル五輪開始を目前にした1988年の某日。ある週刊誌に在日韓国・朝鮮人の著名人を特集した記事があり、野球の金田正一氏や張本勲氏、新浦寿夫氏。歌手の西城秀樹氏や錦野あきら氏。

プロレスの故・力道山などの名前が載っており、これらの方々が在日韓国・朝鮮人だということは当時の私でも知っていましたが、そこに崔永宜(チェ・ヨンイ)の名で、極真空手の大山倍達氏を発見した時、大山氏の極真会館創立以前の経歴が不明瞭な点を説明する鍵となることを直感いたしました。それは生前の力道山が日本で成功するために、朝鮮人としての過去を隠蔽して日本人・百田光浩の名前と経歴を押し通したことと、共通する事情があるに違いないという判断です。

しかし、大山倍達氏の場合、生まれは韓国人でも、日本に帰化して日本人として生きたわけだし、過去がわかったとしても別に良いのではないか?

プロ野球では多くの在日韓国・朝鮮人が出自を隠さず活躍しているし、芸能界にも本人は公表しなくても在日だということが既に日本人にも広く知られていながら、それでいて高い人気を保っている人が少なくないのだから、大山倍達氏が様々な矛盾を語りながら無理に日本人を装う必要が私には理解できないまま、最近まで疑問を抱えてきました。

それが昨年になって、この『大山倍達正伝』を読むことでその疑問を解き明かすことができました。本書は二人の著者により、「人間・崔永宜」と「空手家・大山倍達」の謎を探求する二部構成になっています。

さらには本書は単に一人の人間が持つ二つの顔のみならず、大山倍達こと崔永宜が生きた70数年の歳月に重なる日本と韓国・朝鮮の歴史。戦前、戦中、戦後と変遷した日本人と韓国・朝鮮人(特に在日)の歴史を知る上で貴重な存在であるとも感じました。

そして、さらに重要なのが、本書において空手家・大山倍達の伝説がかなりの部分で虚構であることを明らかにされておりますが、しかし、それが決して空手家として、武道家として、ファイターとしての大山倍達氏を否定するものではないと言うことです。世に流布されている大山倍達伝説が、虚構であるにしても、大山氏が数々の実戦を経験してきた、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた、猛者であることは事実であることも、本書は様々な事例や証言に基づき記述しております。

ただし、その実戦や修羅場の体験を大山氏自身の都合や思うところにより、戦った相手や時期、場所等を変えて世に発表していたわけです。何より大山氏が偉大な空手家であることは、大山氏の活動が空手をメジャー化し、大山氏が創りあげた極真空手がフルコンタクト空手の総本山的存在になったことからも明らかでしょう。惜しむらくも大山氏没後の分裂騒動等で、現在の極真空手は迷走している感が私には感じられます。

しかし、それが空手家・大山倍達氏の功績を否定するものではないことを重ねて強調しておきたいと思います。また、前述いたしましたように、本書の内容には在日韓国・朝鮮人についての記述もかなりの部分、存在いたしますので空手に興味のない方でも、日本人と在日韓国・朝鮮人の関係の歴史を知りたい方々には大いにお薦めできる有意義な一冊です。

◎内容抜粋
『誕生』
大山の幼少期の伝説として最も有名なのが「幼少時代に日本から満州に渡った」という逸話だ。これは「少年時代に出会った武術・借力(チャクリキ)」の物語と合わせて多くの極真空手ファンに知られている。だが大山の自叙伝を読み比べてみると、渡満時期や満州での生活環境の記載に一慣性が欠けていることがわかる。一例を紹介する。《九歳の初夏だった。東京を離れて姉と一緒に、初めて長い旅をした。(中略)満州(現・中国東北部)の札蘭屯で農場を開いている長姉の家を訪ねていった。姉と、家族は、広大な農場を経営していた》(『闘魂』サンケイ出版)《果てしなく広がる満州の荒野。大陸の空を赤々と染める夕日を浴びながら、私は姉とともに荒野を突っ走る列車の中に座っていた。(中略)当時四歳だった私の子供心にも鮮烈な印象を残したのである。(中略)姉は日本からこの大陸に渡り、奉天の女学校で教鞭をとっていた。(中略)姉の家は、奉天にさほど遠くない牧場であった。彼女の主人、つまり私の義兄にあたる男は、その牧場の経営者であった》(『わが空手修行』徳間書店) 『闘魂』と『わが空手修行』以外にも「少年時代における満州での生活」を描いた著書は多い。だが、どの本でも微妙な部分で幾つもの矛盾が存在する。満州に渡ったときの年齢に始まって、姉の夫の職業が農場主であったり牧場主であったり、異様な統一感のなさに呆れるほどだ。もっとも、これらの食い違いが生じるのはある意味仕方がないのかもしれない。何故なら、大山には少年時代に満州で過ごした事実がなく、さらに言えば大山は生涯を通じて満州を訪れたことは一度もないからである。その最大の根拠は韓国在住の関係者による証言だ。私達は、大山の兄・崔永範をはじめ、大山の長男・崔光範(終章で詳しく触れるが、大山には韓国人の妻との間に三人の息子がいる。光範は2006年現在、32歳)、永範の妻・姜順禮、龍池面役場の職員で大山の足跡に詳しい趙基文、韓国における大山倍達研究の第一人者である作家・房学基(映画『風のファイター』の原作者)など、多くの韓国人関係者に会った。私達はすべての人達に大山の「満州の逸話」について訊ねた。すると、皆一様に驚きと当惑の表情を見せた長男・光範は「そんな話は聞いたことがありません。あり得ない」と首を振り、房学基は「彼は中学校に入学するためにソウルへ出るまで、故郷の村を出たことは一度もありません」と断言し、兄・永範は「そんな事実は全くありません。私自身は満州や上海、日本を往ったり来たりしていましたが……」と言った。 「日本では、大山倍達は幼い頃に満州に住む姉のもとに預けられたというのが定説なのですが?」と再度話を振ってみても、やはり全員が否定した。 「確かに姉はいましたが、姉は満州に往ったことはないし、生涯この龍池面(面と村は同意語)で、実家のすぐ近くで暮らしていました。この面から一歩も出ないまま一生を送ったと言ってもいいくらいです」と永範と妻は笑い飛ばした。日本では当たり前のエピソードとして知られる「満州の生活」は、実は大山の著作のなかだけに存在する架空の物語だったのである。では何故、大山は出生地を偽り、満州で育ったという虚飾の足跡を創作しなければならなかったのだろうか?(P27・P28)

『渡日』
ところで「大山倍達伝説」によれば、大山は山梨航空技術学校を卒業後、上京して拓殖大学に入学したことになっている。大山の著書には例外なく拓殖大学についての記述が見受けられる。加えて、大山が拓殖大学に在学していたと証言する人物も多数存在する。大山倍達および極真空手ファンだけでなく、実際に大山と交流のあった空手関係者の多くが、大山の「拓殖大学入学」を当然の事実として受け止めているのだ。しかし結論から言うならば、大山倍達が拓殖大学に入学したという客観的な資料を入手することはできなかった。私達はあらゆる手段を使って、その「事実」を証明する資料を探した。だが、拓大学務科や拓大学友会などが保管する卒業者名簿をはじめとする資料には、「崔永宜」「大山倍達」だけでなく、彼が通名として使っていた「崔猛虎」「大山虎雄」「大山猛虎」の名もなかった。拓殖大学側が下した最終的な回答は次のようなものだった。 「卒業者の生徒名簿には大山倍達の名前はありません。崔永宜、崔猛虎、大山猛虎、大山虎雄などの登録もありません。生徒名簿には本科、予科(旧制大学制度における本科に入るための予備課程)、留学生を含め、入学した生徒はすべて記録されています。それは中途退学した生徒も同様です。名簿に記載されていない以上、大山氏が拓殖大学に在籍していた事実はないと答えざるを得ません」 「大山倍達伝説」において、定説とされてきた大山の拓殖大学入学は闇に包まれた謎のままである。(これに関しては第二部・第二章で詳しく言及している)。(P115・P116)

『満州と借力、李相志の物語』
「東京に生まれた私は、関東大震災の混乱のなか、幼くして満州に住む長姉のもとに預けられた。姉の家は大きな農場を経営していた。私が九歳になったとき、私は生涯を決定する出来事に遭遇した。姉の農場では多くの季節労働者を雇っていた。秋の収穫祭が催されたある日、村の農夫達が酒を飲み、豊作を祝った。そんななか、蒙古相撲の大会で優勝経験があるという大男が酒に酔って小さな男に絡んだ。大男に絡まれたその人は姉の農場で働く李相志という名の男だった。だが大男が李さんの襟首を掴むや否や大男は吹き飛んだ。私は今でもその時の状況をありありと思い浮かべることができる。李さんが駆使した武術こそ、私の武道人生の原点となった『借力(チャクリキ)』であった。私は李さんに借力を教えてほしいと頼んだ。借力を習得するには気の遠くなるような修行が必要とされる。私は李さんから、借力の基本である跳び蹴りを教えられた。くる日もくる日も、高い木の枝を目掛けて跳び蹴りを放った。私は生まれて初めて格闘技を学ぶ喜びを知った。日増しに強くなる自分を感じた。私にとって李相志は生涯初の格闘技の師であった。同時に最強の師でもあった。後に、中国武術を教えてくれた曹七大師、松濤館空手の船越義珍先生など、私は多くの師と出会うことになるが、私にとって格闘技の最高の師が李相志であることは紛れもない事実だと断言する」 以上は大山倍達が私に語った少年時代の思い出話の概要だ。しかしこれは、大山の著書を読んだ者なら誰もが知っている有名な逸話である。大山倍達といえば、まず最初に満州で学んだ格闘技「借力」を思い浮かべる読者は少なくないだろう。大山の言葉を借りるならば、「借力とは読んで字のごとく、敵の力を利用して攻撃する格闘技」である。 「借力の起源は約二千年前に遡ることができる。山に籠って仙術を学ぶ道教の修行者が身に付けたと伝えられる。以来、借力は朝鮮半島の人里離れた秘境において連綿と受け継がれてきた」 大山はこのように解説する。ちなみに「借力」を韓国語で発音するならば「チャリョク」となる。だが、結論を先に言うならば朝鮮半島に借力という武術・格闘技は存在しない。少なくとも大山が空手家として名を成し、自著のなかで借力を紹介する1960年代後半まで、あらゆる媒体を探しても「借力」という言葉を見付けることはできない。現在、韓国や日本で手にすることができる借力に関する書籍は、例外なく1970年代以降に出版されたものである。日本において、大山以外の人間が著した借力の最も古い文献は、1980年に日貿出版社から発売された『秘武道借力拳法』である。事情によって著者の力抜山に取材することは出来なかったが、少なくともこれ以前、大山関連の書籍以外に借力を紹介する資料は見当たらない。もうひとつ不思議な事実がある。前述したように、借力の存在は大山の著書によって知られることになるわけだが、これは日本における出版物に限られるということだ。強いて言うならば、日本で発行された出版物をもとに欧米の雑誌に紹介された記事に限定されるのが実際である。借力の発祥地であるはずの韓国では、大山関連の媒体のすべてにおいて借力の名前が省略されている。大山の故国・韓国でも彼に関する媒体は数多く出回っている。だが、これらに共通していることは、満州と借力についての描写が皆無だという点である。私達(小島一志と塚本佳子)は韓国の図書館、資料館などを可能な限り調べ歩いた。しかし、借力に関する古い資料を発見することはできなかった。結局、借力は大山の手によって「1970年代以降に創られた格闘技」であると断定できるだろう。大山が学んだと語る借力は、実は大山自身が「創造」した「想像」の武術だったのだ。では何故、大山は空想上の格闘技・借力を学んだと終生言い続けたのか?架空の存在である李相志を「生涯最強の師」と主張したのか?その解答を探るためにも、満州における「借力と李相志の物語」が作られた軌跡を、大山に関する文献の中から追ってみる。(P329〜P331)

さて、本文の後書きを書くにあたって、皆さんに問いたいのは、故大山倍達氏が日本人に遺した遺産とは何か?ということです。寸止め形式から直接打撃(フルコンタクト)形式へと、より実戦的に進化した空手?極真会館を総本山にして世界各地に拡がる巨大な空手組織と空手のメジャー化・国際化?

否、私は大山氏から日本人が受け取るべき最大の遺産は、大山氏が座右の銘とし、極真空手の精神として、ことあるごとに強調していた言葉。 「力なき正義は無能なり、正義なき力は暴力なり」の言葉だと思います(尚、この言葉の本来の出典はブレーズ・パスカルの『パンセ』、この本は大山氏の愛読書とのこと)。戦後、現在に至るまでの日本人に最も欠落しているのは、力と正義に関する理解力、秩序を守るための強制力と利己的欲望を追求するための暴力とを区別するための知性・良識ではないでしょうか。

「平和主義」「暴力反対」「話せばわかる」などという言葉が実際には粉飾された「事なかれ主義」であることに気づかない人間が遺憾ながら日本には多すぎる。そんな言葉の虚妄性を利用した無法者と、その言葉の虚妄性に気づかない人間によって日本社会の正義・秩序がどれだけ狂わされてきたか、また現在でもなお狂わされているか。

小は学校等におけるイジメの横行に対する学校や教師の無為無策や、警察官が職務遂行上の必要から為された発砲に対する一部メディア側の、まるで発砲それ自体が悪だとでも言いたげな視野狭窄的報道。そして人権という言葉を誤用・濫用・悪用して無法者を過剰に擁護し、秩序を守る側を責め立てる自称・人権擁護団体。さらには日本国の主権をあからさまに侵害している外国に対して全くといってよいほど抵抗・反撃ができない日本政府。その根本的規範となっている日本国憲法前文と第九条。

これらは日本人に自衛・護身のための実力行使と、利己的欲望に基づき他者の権利を侵す暴力とがキチンと区別されず、力の使用はすべて暴力だという無分別な考えに呪縛されているからでしょう。こんなアホな呪縛にいつまでも囚われているから躾のなっていないバカなガキどもが畑を荒らす猿のように暴れまくり、また自分から先に事を荒立てておきながら、それを咎められたり制されたりすると「人権侵害だ!」「おまえに何の権利があって文句を言うんだ!」なんて屁理屈を喚き立てるチンピラ・ゴロツキを増長させたり、さらにはそれを取り締まる警察官の士気まで衰えさせて、取り締まりを及び腰にさせてしまったり、大使館がゲリラに占拠されても人質を自力で救出できなかったり、領事館に外国の警官が職務上とはいえ許可なく押し入ってきても排除できなかったり、日本のEEZ(排他的経済水域)を外国の船舶に侵されながら有効な対処ができずにいるという情けない我が国の現状をつくりだしているのです。

この呪縛を解き、日本人が正常な正義と秩序の概念を取り戻すためには、大山倍達氏が自身の道場生のみならず著書を通して広く世に訴えていた 「力なき正義は無能なり、正義なき力は暴力なり」 の言葉を日本人が真摯に受け止めることではないでしょうか。 〔新潮社〕


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小島 一志
1959年、栃木県生まれ。早稲田大学商学部卒業。株式会社夢現舎(オフィスMugen)代表取締役。元『月刊空手道』『月刊武道空手』編集長。極真会館空手道、講道館柔道の有段者。武道・格闘技関係者との深い交友関係を持つ。著書として『格闘技総合トレーニング』(新星出版社)、『新世紀格闘技論』(ス
キージャーナル)、『最強格闘技論』(スキージャーナル)、小説『拳王』(PHP研究所)など多数。

塚本 佳子
茨城県生まれ。株式会社夢現舎(オフィスMugen)取締役副代表。元『新極真空手』編集長。編集者として多くの武道・格闘技関連媒体の制作を手掛ける。特に極真会館関係者との広い人脈を有する。過去、小島一志監修による書籍のすべてをディレクションする。著書として『極真空手 甦る最強伝説』(ナツメ社)、『女性がキケンから身を守る24の方法』(大和出版、小島一志と共著)がある。
posted by 管理人 at 07:00| 東京 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 趣味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。
力抜山氏の訓練生としてコメントします。

借力についてですが、借力とは、「人の力を借りる」のではなく、
宇宙の力を応用するものです。
その為、宗教家(仏教家や禅僧)、軍人、政治家等、表向きは「借力」
と名乗っていないのが真実です。
歴史的に調べても、公文書としては「借力士」としては残っていない
そうです。それには、明治時代の伊藤博文等の日本政府の韓国統治政策
が絡んでいるときいています。
結論としては、借力とは、宇宙の力を応用するテクノロジーの総称で、
特別な伝統を持つものではありません。
軍事的な気象情報等を応用した特殊作戦や宇宙物理学的な作用を応用した
戦争等に関係します。
力抜山氏の借力も、独自の発明であり、エジソンやアインシュタイン等と
同様です。電球の発明と同じように、数々の試行錯誤の上、呼吸の
しかたで知力や体力、特殊技能等を発揮できると発見したのです。
1980年に日貿出版社から発売された『秘武道借力拳法』も武道として
紹介されていますが、当時、お金がないので、出版社からお声をもらった
為、3日間で書き下ろしたメモみたいな本です。
借力を武道と捉えるのは間違いです。
宇宙科学、哲学と捉えるのが正しいです。

古代修行者は、百日祈祷、百日瞑想等の伝統がありますが、これをやれば
成功するといった方法はないそうです。
仏典を使う人もいたそうです。

おそらく、大山倍達氏の本に出てくる修行者も、武道家ではなく、軍人か
特殊訓練をしていた身分を隠した人物の可能性が高いです。

私自身、極真空手を学んだ経験があり、大山倍達氏の著作も多数呼んでい
ます。その中に「借力」という記述があったのも印象的です。
しかし、大山倍達氏は、武道と捉えているところが誤りであり、哲学や
サイエンスと考えていれば、幼少期に何か「概念」を学んでいたとしても
不思議ではありません。

参考になればと考え投稿します。
Posted by キャット at 2008年12月18日 05:49
ここにも借力情報が載っています。
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/budou/1222091083/l50

あるいはこちらは訓練している人みたいですね。
http://hispi.blog71.fc2.com/blog-category-4.html

こちらは本も紹介してますが、
公式サイトなのでしょうか。
http://www.shakuriki.com/index.html
Posted by パンダ at 2008年12月18日 17:05
キャット様、パンダ様 コメントいただきありがとうございます。 今後とも当インテリジェンスを、閲覧いただければ幸いです。 よろしくお願い致します。
Posted by 山口 at 2008年12月18日 20:55
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