2007年01月30日

香水の本 香りへの招待 著者/ワールド・フレグランス・コレクション/編

山口氏の読みどころ

私は子供の頃、大嫌いなものとして、化粧品や整髪料の匂いがありました。私の母が何かの機会に念入りの化粧なんかをすると、その近くには絶対に寄りませんでした。特に口紅の匂いが一番嫌いでたまりませんでした。「鼻を塞ぎたくなるような油臭いモノ」というのが、少年期の私の口紅に対する考え方でしたし、口紅以外の化粧品にも似たり寄ったりの感想を抱いていました。

また、これは自分の母の化粧からだけではなく、近所のおばさんや、友達のお母さん達の化粧からも感じました。整髪料も大嫌いで、父がやはり何かの機会に整髪料をつけた日には、決して近寄りませんでした。だから整髪料の匂いが充満している場所、つまり床屋なんかは少年期の私にとって大変苦手な場所でした。しかしだからといって髪を全然切らないわけにもいかず、困った私は止むを得ず、最も早く散髪が終了できる坊主刈りで少年期を通しました。何を大袈裟な、なんておっしゃいますか?

しかし、少年期の私にとって化粧品や整髪料の匂いはそれほどまでに悪臭と感じたのです。これは少なくとも私にとっては煙草の煙なんか問題にならないものでありました。そんな私の匂いに関する感じ方に変化を発見したのは上京してからでした。最初に働きだした職場で私の面倒をみてくれた女性の先輩に接してからでした。その先輩から発せられる匂いに私は魅了されま
した。その匂いは間違いなく化粧品の匂いだったのですが、かつて自分の母親から感じた変に油臭い嫌な匂いとは全く異なり、魅惑的というか官能的というか……。

この違いが、化粧品によるものか、化粧の技法なのか、はたまたそれ以外の何かなのかは知りませんが、18歳の私に新たな、そして不思議な世界が突如開けたのでした。その一年後、劇団活動に足を踏み入れ、様々な劇団や養成所を転々とする過程で様々な自分もメイクをするようになるとは、少年期には想像もできませんでした(高校の時に演劇部に所属したが、その時は舞台に出たのは一度だけで、すぐに上京のための軍資金作りのバイト三昧の日々と化した)。

さて、いったい私が何を言いたいのかと言えば匂いや香りの不思議についてです。ある人にとって心躍るような良い香りが、ある人にとっては耐えがたい悪臭だったり、私のように同一の人間でありながら幼少期と成年期によって、ある香りだか匂いだかについての感じ方に違いが生じたりする香りの世界。また、聞くところによると、ある匂いを特定の病人にかがせることで、その病人の生理機能に変化を生じさせて治癒させる治療法もあるそうな。つまり香りは時として薬にもなるわけですね。そんな香りのエッセンスとしての商品である“香水”。本書は世界の主だった有名な香水の紹介をはじめ、香水のミニ知識や香りの起源や香水の歴史。さらには数々の著名人の筆による香りに関するエッセイなどで楽しめる一冊です。

◎内容抜粋
『香水の歴史』
古代から19世紀まで:香りは人間と人間とのコミュニケーションのために大きな機能を果たしてきた。香料の意識的利用は、文明とともにはじまっている。匂いによる交信は動物的本能から受け継がれているが、文明の香りは火との結び付きによってつくりだされる。なにかが燃える時に出る香りは、宗教的祭儀の時に使われた。煙の不思議な形、その匂いの幻覚的な効果によって、人々は神との交信を行ったのである。古代エジプトでは、ミイラの製法が発達するとともに、化粧と香料の技術が開発された。香料は油脂に混ぜて、香油(ポマード)として使われることが多かった。エジプトの化粧法は、メソポタミア、パレスチナ、カルタゴ、ギリシアなどに伝わった。香料はまた、それを入れる陶器の小瓶を発達させる。ローマでは香料がふんだんに消費された。特にバラの香りが好まれていた。しかしローマ帝国が崩壊すると、香りの文化は中断した。十字軍によって、香料の宝庫である東洋と接したヨーロッパは、再び香りの文化をとりもどす。ヨーロッパで香りの文化が停止している間に、アラビアでは、花を蒸留したり、アルコールに溶かす方法が実用化されていた。バラ水はヨーロッパに輸入され、大いに愛好されるようになる。ヨーロッパでは1200年頃といわれるアルコール製法の発見によって香水は新しい歴史を踏み出す。近代的な意味での香水が現れるのは、1370年頃であるといわれる。これはハンガリー水といわれ、ローズマリー(マンネンロウ)をアルコールに溶かしたものであった。伝説では、ハンガリー女王イザボウ(エリザベス)に捧げられたものと言われている。また、カルメル派の修道尼が作ったと言われるカルメの水(メリッサ水)などもあった。この時期の香水は、ワインなどと同じく、修道院で作られることが多かったようだ。ルネサンスになると、人間の身体に対する関心が増し、化粧や快適な香りへの欲求が盛んになる。16世紀には香水がはやり、下着や手袋にも匂いをつけるようになる。この時期には、衛生よりも香水に気を取られていたといわれ、身体を洗わずに、強い香水で嫌な匂いを消そうとしていた。18世紀には、フランスの宮廷を中心に、贅沢な、女性的な文化が栄えた。ルイ15世の宮廷は「匂いの宮廷」と言われたほど香水がおびただしく使われた。ポンパドゥール侯爵夫人は1年に100万本の香水を使ったと言われている。そして香水を売る店がパリで繁盛する。オー・デ・コロン(ケルン水)を売るジャン=マリー・ファリーナの店、またジャン=フランソワ・ウビガンの店も1775年にフォーブール・サン・トノレ街に開店した。オー・デ・コロンはルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人が使ったことで大流行する。18世紀には強い香水と厚化粧が流行ったが、後半になるとマリー・アントワネットは、自然な顔色、自然のソフトな香りを好んだ。しかしこれらの化粧や香水の趣味は、依然として貴族階級のものであった。フランス革命によって旧体制が崩壊するとともに、香水も裕福な市民階級へと解放される。また入浴が一般化して、石鹸が普及してくる。近代科学の発達とともに、香水も企業化され、また、バラやラベンダーなど単一の香りではなく、それらをミックスした調合香料が作られるようになる。香水は自然の香りではなく、化学的香りになったのが19世紀であった。パリのリヴォリ街にピエール=フランソワ=ポール・ゲランが登場した。1828年頃であった。ゲランは、幾つかの香りを合成して、新しい人工の香りを作るとともに、ガヴァルニに瓶のラベルを描かせ、香水にとってイメージが大切であることを示した。(P22〜P25)

『名香物語』
香りの評価は各人によって基準が異なるのが当然である。しかし同じ人間であるから、多かれ少なかれ嗜好の共通点を持っている。従って多くの香水の中から嗜好の最大公約数的特典と、そして時代の流行に流されず、少なくとも40年も50年も愛好され続けてきたのが名香というべきものであろう。そういう観点から、数ある香水の中より選んだものが次の何点かである。《ミツコ 哀愁の旋律》ゲランのミツコをまず最初に挙げたい。モーツアルトの作品はどれをとっても、またその曲のどこをとっても華麗であり、洗練されており、1音たりといえども無駄がない。バッハ、ヘンデル、ハイドン、ボッケリーニ、ビバルディ、その他の古典派諸家の作曲もそれぞれ評価があり、特にバッハ、ハイドンが優れている。これらはそれぞれ天才性もあるが、そう考えた上でモーツアルトの天才性を断然第1位におくことに躊躇しない。バッハのフーガと旋律とを1日中繰り返し聞くことは容易ではないし、退屈を伴う。ときによれば聞いているのが耐えられなくなるという。モーツアルトの場合はそうではない。1日聞いていても楽しい。ミツコの香調はモーツアルトの作品に相当している。哀愁と、哀切と、惜別と、情熱と愛着をこれほどまでに感じさせる香水は他にない。私は、モーツアルトを聞きながらミツコのことを書いている。それほど両者は音の調べと、香りの調べがピッタリしているからである。モーツアルトの音楽会にはミツコをつけていくことを勧めたい。ミツコは1921年に発売された。ゲラン家の3代目のジャック・ゲランによって創作された。香調も代々ゲラン家の伝統的な香調を基本にしている。すなわち、従来の古典的なシプレー(苔調)のコンポジション(処方)を踏まえ、その上に時代感覚を付加したものである。ジャック・ゲランはミツコの処方を彼の最も得意としていた、また精通していたモス(オークモス)とフローラル(花香)のノートを配し、それらの香調と調和させるため、アンバー(竜涎香)を配合した。ミツコの配合成分をあらゆる角度から分析しても、なおその完全なコピーはなされていない。近代的手法によるガスクロマトグラフィも手が及ばない。それほど慎重にかつ大胆に多くの天然樹脂が配合されているらしい。オリバナム、ガルバナム、沈香エキスも含まれているようだ。これらを慎重に考えて香りの古典性とロマン性と近代性を表徴したのがミツコなのである。モーツアルトの作曲に近代感覚を盛ったのと同じであるから、発表当時より今日までの間約40年間香水の王座を保っているのも不思議ではない。ミツコのネーミング(命名)もその香調に全く適したものである。ゴンクール賞をとりそこなった、クロード・ファレールの「ラ・バタイユ(戦闘)」(1909年作)から借用されたものである。ミツコとは1905年の日露戦争のおり、夫の体面を捨てて、祖国日本の軍略に従った日本の海軍軍人の魅力的な妻の名であった。「歓楽極まって、哀愁生ず」との中国の古語にピッタリと当てはまる香調を持つミツコは過去にも愛用されたし、おそらく今後もなお長く愛用されるであろう事は間違いない。ミツコほど、男女共に魅力を与え、活力を与え思慕を与え、哀愁を与える名香は他にない。私はミツコに文句なしに古今の名香の名を与えたい。地下のジャック・ゲランももって暝するに足るであろう。  《シャリマー 愛の殿堂》ミツコを語ったからには、どうしてもシャリマーを挙げねばなるまい。シャリマーはゲランより発売されたもう1つのジャック・ゲランの名作である。ミツコに続いて1922年に着想され、1925年に完成し発売された。シャリマーとはインドのサンスクリット語で「愛の殿堂」の意である。古代インドのラホールの魔法の園が、ジャハン王の手で、愛妻である美わしのムンタスとの愛をひそかに営むためにつくられた。シャリマーはロシア・バレエの中の一場面でもある。ゲランではこの話は、あるインドの王が、ジャックと兄のピエールに語ってくれたものだと主張している。しかしジャック・ゲランはパリで、ロシア・バレエの最初の公演のとある晩、この伝説の東洋に接したときにあるヒントを得たというのが事実らしい。従って、シャリマーには東洋的な樹皮、樹脂などの植物性のトップノート(乳香、没薬など)に、アンバーをベースにしたコンポジションである。シャリマーは鋭い、そして東洋的な魅惑の香調を与える。シャリマーも発売されてから斯界の絶讃を浴びた。今なお、賞用されているゲランの至宝の作品の1つである。ジャック・ゲランが見た、このロシア・バレエのシャリマーの場面から得た感触は彼をしてこの名作を作らせた。ジャックにとっては、その宵こそ忘れ得ぬ印象的な感動の一コマであったろう。ゲランにはその他名香として、ルール・ブルー、リュウ、夜間飛行、ベチバー、シャマードなどの秀作がある。

『フランス貴族と香り〜香りが語る歴史のヒロインたち』
リュバン、ゲラン、ウォルト……これら名門の香りが、歴史上のヒロインたちの華麗な生き方を語ってくれます。ルイ王朝が開花しようとしていた1798年、ルイ16世の妃として迎えられたのが14歳のマリー・アントワネットでした。彼女が愛用した香りが「エル・デュ・リュバン」でした。その優雅な甘さが美貌の王妃をして王室御用達調香師にフランソワ・リュバンを任命させました。いかに彼女がそのまろやかな甘さを愛したかがわかります。ナポレオン3世は、皇妃となるユージェニーのためにピエール・フランソワ・パスカル・ゲランに彼女の香りの調香を命じました。その香りは「ブーケ」。当時“ブーケ・ユージェニー”と呼ばれて賞讚を浴び、その可憐な愛らしい香りはパリ社交界に本格的な花香調の香りのブームを巻き起こす引金となりました。これも、それまでの地味な香料研究と香粧品作りにパスカル・ゲランが彼ならではの芸術性を吹き込んだからでした。ルイ15世自身も香水好きでしたが、愛人のマダム・ドゥ・ポンパドゥールの香水好きは有名で、一年間の香水の請求額は当時のお金で3000万円にもなったそうです。ナポレオン・ボナパルトは花の香りが好きで、戦場に行くにもオー・デ・コロンを手離さなかったといいます。それに対して妃のジョセフィーヌは動物性の香りが好みでした。2人の不和の原因は案外このへんだったかも。(P81)

世界中の香水を、女性用のみならず男性用も含めて350余種をカラー写真で紹介。ゲランからニナリッチ、ジャンパトウ、シャネルなどフランスの香りから、エスティローダーやマックスファクターなどアメリカの香り、さらには日本の資生堂などなど。写真では香りは分からないとおっしゃいますな。瓶や容器のデザインや個々の香水の解説文でも楽しめます。 (新潮文庫)


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posted by 管理人 at 11:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 趣味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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