2006年12月04日

胡麻の謎 健康食品「ごま」の魅力と最新の研究成果を探る! 著者・大沢俊彦&井上宏生

山口氏の読みどころ

皆さんは、胡麻を日常的に食しておりますでしょうか?

私は子供の頃によく母に胡麻合え用の胡麻をつくるよう言いつけられて、摺り鉢と摺りこ木で、胡麻を摺らされた記憶があります。ちなみに、それは私がまだ小学校に上がる前に母が私ではなく父に胡麻摺りを頼んだところ「俺は胡麻摺りなんか嫌だ!」と怒りだしたために、以降、私が摺らされたわけですが、父は別に料理をしなかったわけでもなく、要するに胡麻摺りが「ゴマスリ」を連想するため嫌がったらしいのですが。

まあ、とにかく私の母はよく食卓に胡麻合えを出しました。それ以外では私は胡麻塩が大好きで、母が赤飯を作ってくれた時、(ちなみに私の母は赤飯が大好きだったらしく、別に祝事が無い日でも気が向けばよく赤飯を炊きました)その赤飯が隠れるくらいたっぷり胡麻塩(勿論、自家製ですぞ)をかけて、「そんなにバカみたいに振り掛けたら赤飯の味がしないでしょ!」とよく怒られました。

そして、学校から帰ってきて、腹が減っていた時なんかにも生の胡麻をそのまま口に放り込んで貪り食い、買い置きの胡麻を食べ尽して、またまた母にゲンコツを喰らったりしました。

今でも胡麻好きは相変わらずで、例えば冬になると、某大手飲料会社が売り出す『黒ゴマココア』が現在の私の冬の楽しみの一つです。しかも、数年前から胡麻に含有されている「セサミン」の健康効果も注目されているところからして、子供の頃の私の胡麻の貪り食いは決して単なる「いやしんぼ」な行為ではなく、時代を先取りする賢明な行為だったのか!と我ながら感心する今日このごろです。

え?赤飯が隠れるくらい胡麻塩を振り掛けたら塩分過多だろう、ですって?!勿論、母に怒られたら、すぐに量を減らしましたよ。

まあ、それはさておき、皆さん、『胡麻』の名の由来をご存じ知でしょうか?私は小学生の時に読んだ『世界の探検家』(だったと思う。なにぶん二十数年前のことで、正確な書籍名や出版社名は忘れてしまいました)という本に漢の時代の中国で、武帝の命令で、当時、漢を北方から脅かしていた騎馬民族である匈奴に対抗すべく漢の西域の大月氏国と同盟を結ぶための使者として派遣された張騫が西域から持ち帰って来たもので、胡麻の「胡」と
は西域の人間を意味し、胡麻はその西域から来た作物であることを意味する、とありました。その後に読んだ数々の書籍にも同様の説が記されていたため、それが定説だと思っていましたし、おそらく皆さんもそうだったのでは?

しかし、本書にはその説とは異なる胡麻の名の由来を説明しております。胡麻という小さな小さな粒に秘められた壮大な歴史や、奥深き謎を本書でお楽しみあれ!

◎内容抜粋
『セサミを愛用したクレオ・パトラ』
セサミはスーダンのサバンナからアフリカ全土に伝播していったが、前出の小林貞作博士(管理人注:元・富山大学教授、植物細胞及び遺伝学専門、著書に岩波新書から『ゴマの来た道』を出している)は西アフリカの二ジェール河の流域を例にして紹介している。ニジェール河はギニアの南西端に発し、マリを経て二ジェールの西の端を流れ、ナイジェリアの中央部を貫通してギニア湾に注いでいる。その沿岸にはマリの首都・バマコ、二ジェールの首都ニアメなどがあり、下流にはデルタ地帯が広がっている。博士によると、紀元前、二ジェール河はたびたび大氾濫をおこし、洪水がもたらした湿地には野生のアフリカイネが育ち始めたという。さらに、流域の乾燥化がすすんでサバンナが広がるや、その地には野生のセサミが花を咲かせたという。こうしてセサミが生育する環境が育ち、そこにスーダンのサバンナで栽培されたセサミが入り込み、二ジェール河の一帯はセサミの産地となったという。スーダンのセサミはあっという間に大陸を横断し、西アフリカに達したのである。ちなみに、博士がナイジェリア大学のウゾ教授から聞いたところでは、二ジェール河の支流にベネ川という名の川があり、その丘陵地帯がセサミの生育地だったという。ちなみに、西アフリカの人たちはベネ川にちなみ、長年、セサミのことを「ベネ」と呼んでいた。それはセサミがこの川の流域で繁茂していたことを物語っている。エジプトへの伝播は西アフリカよりはるかに早かったに違いない。スーダンとエジプトは隣接しているだけでなく、ナイル河で結ばれており、スーダンのセサミは容易にエジプトへ伝えられたはずだ。そして、エジプトの人たちはこれらのセサミを食糧としてだけでなく、ランプ用の燃料として、肌に塗る香料としと、さらにはミイラ造りに使用したと伝えられる。とくに、セサミは油として貴重な存在だったから、その需要は多かったと思われる。無論、栽培されたセサミは野生のセサミを改良したものであり、食糧としても充分に耐えられる味だったに違いない。そんなエジプトのセサミはいまも遺跡に残されている。エジプトで王のことを「ファラオ」と呼び、ファラオはその権威を示すために巨大な墓を造った。それが現在のピラミッド群である。そんなピラミッドの深奥部からセサミが発見されている。紀元前4000年から3000年に造られたピラミッドからも発見されているから、ファラオ達は当時からセサミを重宝していたのだろう。さらに1875年、ジョージ・モリッツ・エバースがエジプトの遺跡からパピルスに書かれた本を発見している。パピルスとはパピルスという草の茎から作られた紙をいい、古代エジプトで紀元前3000年頃使われていた。エバースが発見したのはそのパピルスに象形文字で書かれた医薬書で、そこにはセサミの薬効が書かれていた。エバースが発見したパピルスは「エバース・パピルス」と呼ばれ、紀元前1552年に書かれたといわれる。それは約20メートルにもおよぶ膨大な巻物で、およそ八百種類の医薬が記されている。そこにはアニス、クミン、カルダモン、タマネギ、ガーリック(ニンニク)などのスパイスとともに、「セセムト(SESEMT)」が登場する。この「セセムト」はエジプト名で、セサミのことをいう。セサミはれっきとした薬として登録されていたのである。もっとも、エジプトの人たちがどんな薬として使っていたのか、その正確な事情はわからない。ただし、セサミは早くから化粧品として貴重な存在だった。胡麻油には皮膚を滑らかにする特徴があるため、女性達に喜ばれている。そんなセサミの油を愛用し、美女として天下に名を轟かせた女性がいる。かのクレオパトラ(前69〜30)である。彼女はプトレマイオス王朝の女王で、その美貌をもってシーザーを誘惑し、一時、ローマに移住し、アントニウスと結婚し、東方の女王として君臨している。後、アントニウスがアクティウムの海戦で敗れると、後を追って自殺している。そんなクレオパトラは生まれながらの美女だったが、肌の手入れにも余念がなかったという。彼女は皮膚の艶やかさを保つために胡麻油で丹念に手入れをし、常に女性としての美しさを維持しようと努力していたのだろう。(P40〜P42)

『胡麻油は万能のクスリだった』
元々、スパイスは古代の世界では貴重なクスリだった。例えば、この章の冒頭で紹介したターメリックもそうである。インドでは、ターメリックは肝臓病、健胃、利尿、虫下だし、腫れ物などに使われていた。また、古代インドの医学書によれば、ターメリックは「血液が自由に流出せざる場合」に使ったり、鎮静剤としても貴重だった。セサミも古代のインドではクスリとして注目されている。その医療法を紹介しているのが古代インドの伝統医学「アーユルヴェーダ」である。アーユルヴェーダ・ジッダ中央研究所の所長だったP・N・Vクルップによれば、アーユルヴェーダは組織化された最も古い医学のひとつであり、現代の医学の発展にも大きく貢献したという。それは過去の話だけでなく、いまもバングラディッシュ、インド、パキスタン、ネパール、スリランカで実践されている。アーユルヴェーダは元々サンスクリット語で「生命科学」といい、その基礎には「ダルシャナ」はという基本的な学説があるとされてる。そのダルシャナは物理、化学、生物、精神の様々な方面を含み、やがて専門化されたされた八つの部門と二つの医師の系統に分かれていった。その八つの部門とは内科学、小児科学、精神科学、外科学、老年医学、強精法などであり、二つの系統とは内科医と外科医だとされている。そのなかの外科部門では。スシュルタという外科医が書いた『スシュルタ本集』が知られるが、スシュルタは手術後の傷口にセサミの湿布をすることを勧めている。中世のヨーロッパではコショウが防腐剤の役割を果たし、ワインにもコショウがはいっていたが、当時のインドの医者はセサミに防腐剤の役割を見出していたのである。しかし、最近、アーユルヴェーダとセサミの深い関係が医学的に明らかにされようとしている。それを研究しているのが北里研究所BIセンターの上馬場和夫さんだ。上馬場さんの研究については第七章でも紹介するが、彼によると、紀元前二世紀頃の古典『チャラカ・サンヒター』にはセサミは潤性、熱性で甘味、苦味、渋味、辛味をそなえ、皮膚や毛髪によく、力を与えると書かれているという。さらには胡麻油については、皮膚によく、温性であり、四肢を堅固にし、子宮を浄化するとされている。胡麻油は体力を与えるだけでなく、上馬場さんによれば、「知性と消化の火を増加させ、その用い方と調理法によって全ての病気を除去さするものとなる。その昔、悪魔の主達は、胡麻油を常用することによって老衰することなく、病気を離れ、疲れを克服し、戦いにおいて極めて強力になった」 古代インドではこんな効用が強調されているという。まさに、胡麻油は万能のクスリといった感じだ。いま、私たちは胡麻油も料理にしか使わないが、古代の人たちはそれをクスリとして重視していたのである。クスリとしてだけでなく、古代インドではセサミの種子を強精剤として珍重していた。彼らはセサミの種子の殻をとって雀の卵に浸したのち、牛乳、砂糖、バターなどと混ぜて煮たあと、麦と豆の粉を加えて飲んだといわれる。そうすれば、精力が増し、多くの女と楽しめるというのだ。『千夜一夜物語』によれば、かつてコショウが精力剤として珍重されたというが。セサミもまた、貴重な精力剤だったようである。(P125〜P127)

『セサミ・ストリート』
アメリカでセサミの商品化に情熱を注いだのはアンダーソン兄弟だったが、本拠地のテキサス州のパリス市で本格的にセサミを栽培することにした。しかし、60エーカーにおよぶ土地は未開の地で、その開墾のために多くの黒人やプエルトリコ人、メキシコ人達が駆り出されたといわれる。ようやくセサミを栽培するための開墾が終ると、アンダーソン兄弟は社員や労働者達が住む町造りに着手し、小さな町にメインストリートが完成したとき、兄弟は迷うことなく「セサミ・ストリート」と命名したのだった。栽培地が開け、町が形を整え、労働者達がこの町に住むようになったとき、あらたな問題がおきてきた。それは栽培地で働く労働者達の子弟達の教育問題だった。そこでアンダーソン兄弟は自ら教育にあたることを決意し、セサミ・ストリートの一角に教室を開き、黒人やメキシコ人の子供達に勉強を教えている。そこでは人種の区別は全くなく、兄弟の子供達もこの教室で学んだといわれている。アンダーソン兄弟の教育への情熱はテレビ会社のプロデューサーの知るところとなり、彼はこれをヒントにぬいぐるみの人形を使った幼児番組を放映している。1969年のことだ。タイトルは『セサミ・ストリート』だった。これが放映されるや、この番組がたちまち評判を呼び、人気番組となったが、その二年後、NHK教育テレビにも登場し、幼児達の間で人気を集めている。テキサス州の小さな町の通りの名が太平洋を越えて有名になったのである。※参考文献=『ゴマの来た道』小林貞作 (P232)  テレビ番組『セサミ・ストリート』が日本で放映開始された当時、幼い私もとても楽しんで見ていました。当時私はまだ小学校にも上がっていなくて、英語どころか日本語だってまともに読み書きできなかったのですが、そんな私でも夢中にさせるほどの面白い番組でした。なにしろ『セサミ・ストリート』見たさに、母親が私一人を家に置き去りにして買い物だか姉の小学校の送り迎えだか畑仕事だかに出かけても、私は全然、気にしなかったくらいですから。普通、小学校にも上がっていない幼児が母親に置き去りにされるなんて嫌がりますよね。でも私は母親と一緒にいるよりも『セサミ・ストリート』を択んだのですから、この番組がいかに子供の頃の私にとって面白い番組だったかということですね。まあ、私の故郷がド田舎で犯罪から縁遠い土地柄であるから私一人置いて出かけることもできたともいえますが。最近のニュースを見る限りでは、田舎でもそれができないご時世のようですね。なんとも難儀な世の中になったもんです。まあ、なにはともあれ胡麻にまつわるオモシロ知識の数々をご覧あれ。 〔双葉社〕


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大澤 俊彦
1946年兵庫県生まれ。東京大学農学部卒、同大学院博士課程修了。農学博士。名古屋大学大学院生命農学研究科教授。日本農芸化学会理事。日本食品科学工学会、日本栄養・食糧学会評議委員・編集委員、日本香辛料研究会、日本がん予防研究会、メイラード反応研究会世話人、日本フードファクター学会代表幹事。著書に『がんを防ぐ52の野菜』『がん予防食品の開発』(監修)『食品機能化学』『スパイスには病気を防ぐこれだけの効能があった!』(井上宏生・共著=廣済堂出版)など。

井上 宏生
1947年佐賀県生まれ。ノンフィクション作家。著書に『海保青陵講話』『巨いなる企業家・渋谷栄一の全研究』(PHP研究所)『松下経営の神髄』(太陽企画出版)、『新・後継者時代』(五月書房)、『サラリーマン毒本』『鬱金の謎』『カレーライスの謎』(双葉社)、『複雑系の思考法』(日本実業出版社)、『安岡正篤を詠む(上・下巻)』(青龍社)など多数。
posted by 管理人 at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 趣味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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