2006年11月01日

中国10億人の日本映画熱愛史 高倉健、山口百恵からキムタク、アニメまで 著者・劉文兵

山口氏の読みどころ

“政冷経熱”と言われている現在の日中関係。安倍総理の訪中で、果たして今後の日中関係にどう展開するかは、まだわかりませんが・・・(そもそも、先日の北朝鮮核実験で、日中間の外交問題は何か影が薄くなってしまいましたな。まあ、一時的なことでしょうが)。

しかし、今から僅か30年ほど前、中国に熱い旋風を巻き起こし、多くの中国人民の魂を虜にした“日本”がありました。それは映画。高倉健・中野良子の『君よ憤怒の河を渉れ』。栗原小巻・田中絹代の『サンダカン八番娼館 望郷』。丹波哲郎・加藤剛の『砂の器』。山口百恵の『絶唱』『風立ちぬ』『霧の旗』などなど。

これらの1970年代に製作された日本映画が、やはり1970年代後半の文化大革命終結直後の中国で公開され、今風に言えば日流とでも言えそうな日本ブームが起きていたことをご存知でしょうか?当時はまだ日中間の戦争が終結してからまだ30年余りで、戦争中の記憶を実体験として持っている人々が多数存在していながらの日本ブームですから、これらの日本映画の魅力の秘密とは何なのか、大いに興味を掻き立てられませんか?

そんな興味を中国人映画研究者である劉文兵氏が映画は勿論、テレビドラマやアニメも具体例に挙げて分かりやすく解説してくれるのが、本書です。政治経済だけじゃない、もうひとつの日中関係を知ることのできる一冊です。

◎内容抜粋
【豊かな日本に目が眩んで】
『君よ憤怒の河を渉れ』
1976年に徳間書店傘下の大映が、西村寿行の同名小説を映画化した佐藤純爾監督作『君よ憤怒の河を渉れ』は、東映から離れて新基軸を打ち出そうとした高倉健の第一作であった。東京地検検事である杜丘冬人(高倉健)は、強盗や強姦、殺人など、身に覚えのない容疑を次々とかけられ、矢村警部(原田芳雄)によって執拗な追跡を受ける。それは、朝倉という代議士が変死した事件をめぐって、政界の重鎮である長岡了介が自殺だと証言したにもかかわらず、他殺説を主張する杜丘が調査に踏み出したからであった。逃走中の北海道で杜丘は、牧場主の娘、遠波真由美(中野良子)と出会い、彼女の助けを得て警察の追及から逃れ続ける。やがて杜丘は、朝倉代議士を死へと至らしめた黒幕が長岡にほかならないことを突き止め、長岡を射殺することによって、自らの嫌疑を晴らす。日本において『君よ憤怒の河を渉れ』は、公開当時からそれほど大きな反響を呼ぶことはなく、今日では殆んど顧みられなくなった作品の一つであることは否めない。それにたいして、1978年に『君よ憤怒の河を渉れ』が中国で公開されるや否や、社会現象になるほどの熱狂的な人気を巻き起こした。高倉健や原田芳雄、中野良子のヘアスタイルや衣装が流行の指標となり、ヒロインの役名にあやかった美容室や化粧品が数多く出現し、「私たちが上げた経済効果は何億になるのかしら」と主演女優の中野良子に言わしめたほどであった。また、この映画をネタにした漫才までもがつくられた。その設定は、『君よ憤怒の河を渉れ』の熱烈なファンが日常生活のあらゆる場面でその台詞を強引に用いるというものであり、漫才師はシンセサイザーによるこの映画のテーマ音楽を鼻唄で真似たり、様々な役柄の声色を使って観客を大いに沸かせた。このような漫才がヒットしたことは、オリジナルの映画作品が中国においていかに人気があったかを如実に物語っているといえるだろう。1999年におこなわれた調査によると、中国人の約80%が『君よ憤怒の河を渉れ』を観たという。

『都市のモダニティー体験の反復』
しかしながら、スター俳優を軸に大量生産されたサスペンス映画の一つに過ぎない日本の娯楽作品が、いったいなぜ中国においてかくも熱狂的に受容されたのであろうか。おそらく、その第一の要因は、この映画で描き出される資本主義社会の物質的豊かさにあったといえるだろう。新宿の高層ビル群、ホテルや豪邸での贅沢なライフスタイル、登場人物達の洗練されたファッション。『君よ憤怒の河を渉れ』においては、こうした資本主義世界の華麗で豊かな光景が、素早いズームや斬新なカット、スペクタクル溢れる追跡シーン、さらには電子楽器によるBGMを交えて、きわめてモダンなものとして呈示されている。灰色の人民服を身に纏い、614元程度の平均年収で、家と職場の間を自転車で往復する毎日を過ごしていた当時の中国の都市生活者にとって、このようなモダンな都市表象が、彼等の想像力を遥かに上回る新鮮な光景として映ったであろうことは想像に難くない。言うなれば、『君よ憤怒の河を渉れ』は、文革直後の中国の人民に対して、未だ見知らぬ資本主義世界をスクリーン上で疑似体験するという機会を提供したのだ。そしてそれは、刺激に満ちたきわめて新鮮な体験であった。例えば、映画研究者張頤武は、2005年の時点で次のように振り返える。 “『君よ憤怒の河を渉れ』は、ある世代の中国人が共有している文化的記憶であり、異文化からの衝撃を再度受けた際に感じた極度の驚きの証ともなった。(中略)二十数年前に9インチの白黒テレビをとおして観たこの映画は、その中に現れた全てが、我々が置かれた現実とは異なり、まるで異星人の世界のようだった。”  そしてジャーナリストの張志東は、2003年の時点で次のように述べている。  “二十数年前に、映画に対する中国人の認識が、まだ演劇的なレヴェルにとどまっていた頃に、『君よ憤怒の河を渉れ』は、モンタージュを様々に用いてよどみない速いテンポを作り出すことによって、きわめて新鮮なかたちで中国人の視覚に訴えかけた。”  また、2004年に中国のテレビ局によって日本映画音楽の特集番組が放映され、青山八郎による『君よ憤怒の河を渉れ』の主題歌と音楽も取り上げられたが、その中で、1980年代にデュエット曲で一世を風靡した歌手の牟玄甫は、次のように証言している。  “『君よ憤怒の河を渉れ』を観た後、みんな競って矢村警部(原田芳雄)の格好を模倣してトレンチコートやサングラスを購入し、髪の毛を長く伸ばすようにしました。(中略)ヒロインの真由美はそれほど美人ではありませんが、ストレートの髪を肩まで伸ばし、洗練された洋服を身に纏う彼女の独特の雰囲気は、当時の観客を魅了しました。また、彼女が馬に乗り、高倉健を救い出す場面では、眩しい照明の中、シンセサイザーによる緊迫感溢れる音楽が、愛の高まりを引き立てていました。”  原田芳雄や中野良子のファッションを懸命に模倣する中国の若者達。そうした欲望のうちには、『君よ憤怒の河を渉れ』によって掻き立てられた物質的豊かさに対する強い憧憬の念があったことは明らかであろう。彼等はスクリーン上で豊かな日本を疑似体験することを越えて、さらに、ヴィジュアルな次元での模倣を通じて、自らの身体を映画の登場人物と一体か化させようとしたのだ。だが、これらの証言から同時に窺えるのは、『君よ憤怒の河を渉れ』に対する熱狂的な反応が、ヴィジュアルな次元のみならず、聴覚的な次元によっても引き起こされたということである。斬新な映画技法によって映し出された人物像が、視覚的な刺激となってスターへの風俗的レヴェルでの模倣という現象を生んだとすれば、青山八郎によるディスコ調のテーマ音楽は、日本製のテープレコーダーから流れる曲に合わせてディスコダンスを踊り狂うことが流行の最先端であった文革直後の中国の解放的な時代風潮にぴったりとマッチしていた。「まるで鞭で叩かれているように、その速いテンポについていくうちに興奮を覚える」という当時の証言があるように、『君よ憤怒の河を渉れ』の刺激的なメロディーにも多くの若者が惹かれたのである。当時、多くの中国の観客が、この映画の挿入歌や音楽を口ずさみながら自転車を漕いで仕事に向かっていたことも、このような聴覚的な刺激の大きさを物語っているだろう。このような、『君よ憤怒の河を渉れ』が与えたショッキングな体験は、20世紀初頭における都市のモダニティー体験を連想させずにはいられない。日本と同じく、20世紀初頭から西洋か化の波が押し寄せた中国では、上海を中心として、洋服やジャズ、ダンスホールなどに象徴される西洋文化を熱狂的に取り入れた。そして、上海の都市文化を研究している李欧梵が指摘しているように、こうした西洋化の過程には、スピード、パワー、スペクタクル、センセーションと結び付いたショック経験が伴っていた。注目すべきは、これらの近代を想起させる諸要素が、全て中国における『君よ憤怒の河を渉れ』の受容のプロセスに凝縮されていたことである。つまり、20世紀初頭の都市のモダニティー体験が、『君よ憤怒の河を渉れ』を媒介として、文革直後に再び反復されたといえるのではないだろうか。さらに、『君よ憤怒の河を渉れ』ブームの背景には、1949年以降の中国映画において、都市への欲望が厳しく抑圧されていたという経緯があったことを見逃してはならない。「革命の勝利を収めた農村が、取り残された都市を包囲する」という毛沢東による中国革命の戦略の反映として、農村が、革命の担い手として称揚される一方、物質文明が進んだ都市は、革命の文脈においてむしろ立ち後れている存在と見なされた。新中国建国以後、都市を描いた映画がごく僅かしか製作されなくなったのは、その端的な表れである。さらに都市は、堕落した西欧のデカダンス文化の産物としても否定されるべきものであり、モダニズム的な諸要素がしばしば諷刺の対象とされた。例えば、ブルジョア的な登場人物を下から照明を当ててわざと不気味に映し出したり、ジャズやネオンをパロディー的に用いることで都市生活の軽薄さを批判することが、中国映画において頻繁におこなわれていたのである。このように、従来の中国社会の価値観においてブルジョア腐敗文化としてネガティブに捉えられていた都市が、『君よ憤怒の河を渉れ』において、初めてポジティブなものとして登場したことによって、中国の観客が受けるカルチャーショックは計り知れないものとなったのである。このような映画における疑似体験と並行して、現実においても、当時の中国は、先進国の日本をショックと羨望とともに体験していたといえる。すなわち、1978年10月の日中平和友好条約の締結を受けて、政府関係者、研究者、企業家をメンバーとした代表団が次々と日本を訪れ、日本社会の繁栄を身をもって実感したのである。例えば、国家経済委員会考察団のメンバーとして1978年に訪日したトン・リーチュンと馬洪は、その驚きを次のように述べている。「普通の工場労働者家族は、一般的に40〜50平方メートルの住居に住み、95%以上の家族がテレビ、冷蔵庫、洗濯機、テープレコーダー、掃除機、電気炊飯機を所有している。(中略)日曜日に賑やかな街に出ても、同じ洋服を着た女性の姿を目にすることはなく、我々の案内や役の女性スタッフも、毎日違う洋服を着ていた」。また、当時の中国を代表する女優の白楊は、1978年に宿泊していた日本のホテルの朝食について嘆息している。 「多彩な料理は勿論のこと、牛乳やオレンジジュース、グレープジュース、トマトジュースも、すべて食べ放題・飲み放題となっている。(中略)経済発展に伴い、いつか我が国もこのようなセルフサービスを導入できたらどんなに素晴らしいことか」。こうした当時の中国人の証言は、単なる物質的な豊かさに対する驚嘆にとどまらず、実際に日本を体験することを通じて、これまで絶対的な悪と見なし続けてきた資本主義濃くのイメージを、生々しい手触りとともに、豊かな実像へと書き換えたことを示しているといえるだろう。そして、このような価値観の変化のなかで、近代化路線へと転換した中国の、日本を含めた世界の先進諸国をモデルとし、経済発展を成就しようとするメンタリティーとエネルギーが育まれていったのである。だが、文革直後の中国における『君よ憤怒の河を渉れ』の大ヒットの要因は、その勧善懲悪的なストーリーも大いに与かっていた。すなわち、当時の中国では、1957年の反右派闘争や文革で失脚した人々の名誉回復が進んでいたのであり、そのような時代状況において、無実の検事杜丘(高倉健)が、警察の追手を逃れながら自らの身の潔白を証明していくという『君よ憤怒の河を渉れ』のストーリーに、多くの観客が共鳴したのである。冤罪事件や社会秩序の乱れといった文革期の負の遺産を早急に処理して、経済体制改革を推進することを目指す中国の指導部は、国民に対し「辛い過去を忘れ、未来に向かえ(向前看)」と盛んに呼び掛けた。そのため、文革中のプロパガンダ映画を特徴付けていた復讐というテーマが、一時的とはいえ抑制された。例えば、1980年製作の『原野』(凌子監督)は、完成後も八年間にわたって上映禁止とされたが、大胆な性描写に加えて、農民が地主に復讐するという仇討ちのテーマは文革直後の社会秩序の再建に悪影響を及ぼす、というのがその主な理由であった。『君よ憤怒の河を渉れ』のシンプルなストーリーは、文革期の暗い記憶が未だに生々しく残る中国の人々にとって、現実においてはなおも解消されない鬱憤の捌け口となり、主人公が徹底的に悪を懲らしめる痛快さと、名誉回復のカタルシスにたいして、彼等は共感し、大いに喝采したのである。(P20〜P29)

確か、日本でも終戦後、アメリカのハリウッド映画やテレビドラマやアニメが、自由と豊かさの象徴として日本人の心を虜にしたとか。私は昭和40年代前半の生まれなので、物心がついた時は既に日本は高度経済成長を遂げて経済大国となっていたので、当時のそういう雰囲気は実体験としては知りませんが、それでも『じゃじゃ馬億万長者』や『わんぱくフリッパー』、『奥様は魔女』、アニメ『トムとジェリー』などに熱中し、同時に当時既に経済大国だった日本と比べてさえ、明らかに違うアメリカの豊かさをテレビ画面で視て感じました(ちなみにハリウッド映画の方は、ド田舎である私の街には来ませんでした。ちなみに私の故郷の町に映画館はたった一件だけで、しかも情けないことに普段はポルノ映画ばかり上映していて、学校が夏休みや冬休み、春休みになる期間だけ、邦画を上映する程度のものでした。近隣の町の映画館も似たようなもので、18歳で上京してから初めて映画館でハリウッド映画を観たのです。そのため、上京して2、3年間は暇さえあれば、それまで観ることのできなかった反動でハリウッド映画を観まくりました)。おそらく、『君よ憤怒の河を渉れ』や、山口百恵主演の映画、テレビドラマなども、文化大革命の動乱で極度に疲弊した中国人民に対して、終戦直後から高度経済成長前の日本人に対するハリウッド映画、アメリカン・ドラマ並のカルチャー・ショックを与えたのかもしれません。   〔集英社新書〕


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劉 文兵
1967年、中国山東省生まれ。94年に来日。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学(表象文化論)博士課程修了、博士(学術)。日本学術振興会特別研究員として早稲田大学演劇博物館を拠点に研究活動を続けている。専門は映画芸術論。日本語の著書『映画のなかの上海 表象としての都市・女性・プロパガンダ』(慶應義塾大学出版会、2004年)をはじめ、論文多数。
posted by 管理人 at 07:00| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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