2012年01月03日

日本海軍の爆弾〜大西瀧治郎の合理主義精神 著者/兵頭 二十八

《大正3年、一隻の水上機母艦から発進した貧弱な水上機が中国・山東省の青島にあるドイツ軍の艦艇に爆弾を投じた。我が日本国が初めて行った航空作戦であり、空襲である。しかし、数多の名機やエース・パイロットが華々しく活躍し、散華する大規模な消耗戦を展開していた欧州大陸の空での戦いに比べれば、それはあまりにもささやかな出来事に過ぎなかった。大国ロシアに勝利し、世界の強国に仲間入りしたとはいっても、当時の日本は後発の近代国家であり、工業力と技術力は欧米に遥かに及ばないのが現実だった。しかし、それから僅か27年後の昭和16(1941)年12月8日。六隻の航空母艦を中心とする日本海軍の航空部隊は、ハワイのオアフ島を拠点とするアメリカ太平洋艦隊の戦艦群を潰滅させ、さらにマレー半島沖にてイギリス東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスという二隻の戦艦を、航空機の攻撃だけで撃沈し、かつて遥かに仰ぎ見るほど強大な存在だった米英二大海軍に戦いを挑み、約3年8ヶ月の死闘を展開することになった。特に空母対空母の戦いという、互いに相手の艦隊の姿を直接視認することができないほどの広大な空間で、互いの艦隊を攻撃し合うような大海戦は、第二次大戦における日本海軍VS米英海軍の戦いが初めてであり、以後も発生していない。米英より遥かにささやかな出発をした日本の航空戦力が、僅か30年足らずの年月で、いかにして米英両国に戦いを挑むまでに急成長を遂げ、しかしそれでも最終的には米英に追いつき追い越すことかなわず、敗戦することになったのか。軍学者・兵頭二十八氏が、日本海軍が開発・製造した爆弾とアメリカ軍の爆弾を比較し、さらに日本海軍とアメリカ海軍の戦術・用兵思想も比較し、なぜ日本が敗北し、アメリカが勝利したかを考察し、第二次大戦の敗北から我々日本人が何を学ぶべきかを問う一冊です》


◎内容抜粋

『「第一次上海事変」以前の旧式爆弾』

ノースカロライナ州キティホークの砂丘を蹴って、ライト兄弟の「フライヤー」号が史上初めてエンジンの動力により浮揚、群衆の眼の前をパタパタ……と横切ってみせたのは、日本では明治36年にあたっていた。だがもちろん、日本の軍人たちがこの地球の裏側の新発明「飛行機械」の可能性を落ち着いて調査できるようになったのは、翌年より1年半続いた日露戦争を決着させてから、なお暫く後でなくてはならなかった。日本海での死闘の末に、ロシアの軍艦は影も形も見えなくなりはした。が、代わりに日本海軍は、ハワイからフィリピン、中国、そして満州へと、商船隊を伴って延びてきたアメリカの太平洋艦隊の槍先に、一人立ちはだかっている自分らを発見した。かくて、日本海軍が発達途上の航空機を将来の海上戦力として認め始めた時期は、日米両国が互いを敵国として意識する時期と一致する。遅くとも明治45年には、絶対優勢のアメリカ海軍に貧乏な日本が対抗を図るには、軍艦での競争は避けて、飛行機に資源を傾注すべきだとの意見が、海軍内の公論の一つになっていた。日本海軍が貧弱な水上機を飛ばせてその最初の航空爆弾を青島のドイツ艦艇めがけて投ずることになるのは、それから2年後(山口注:大正3年に日本は第一次世界大戦に連合国側として対独参戦。中国山東省の青島にドイツが構えた要塞を攻撃した)。性能優れた艦攻、艦爆、陸攻を多数揃え、各種爆弾、魚雷を準備して、英米二大海軍に戦いを挑めるのは、まだ27年先のことであった。(P33・P34)


『陸用爆弾』

旧日本陸軍の航空隊にとっては、地面に落として人馬を殺傷する爆弾こそが「普通爆弾」であった。だが、所変われば品変わる。日本海軍の航空隊にとっては、主たる破壊標的は終始、アメリカの戦艦(途中から空母)に他ならない。だから海軍では、対艦艇攻撃用の爆弾こそが「通常爆弾」と呼ばれ、それ以外は、通常ではない、というニュアンスの分類名が付けられた。地上破壊に用いる爆弾は「陸用爆弾」であった。では、日本海軍のお手本であった英国では、いつ頃から爆弾に「陸用」という区別を立てていたのだろうか。東京都新橋の「航空図書館」にあった二、三の洋書資料から推測を試みるに、どうもイギリスの爆弾は、初めから専ら地上の歩兵を制圧することが目的で造られており、改良の努力は、いかに爆弾を地面にめり込ませずに、破片をたくさん飛び散らせるか(クーパー爆弾)、あるいは、鋳造等によって安く大量生産するかに置かれていたようだ。第一次大戦の末期になって、工場攻撃用の薄殻(ライトケース)中型爆弾、または厚殻(ヘヴィケース)大型爆弾を開発したが、英国空軍が対艦攻撃を念頭した厚殻中型爆弾、または徹甲爆弾を造ったのは、第二次大戦直前のようである。これはアメリカも同様で、つまるところ、優勢な戦艦によって仮想敵海軍を封鎖あるいは圧倒できる立場であるから、海軍航空隊が魚雷に加えて徹甲爆弾などを好んで準備する動機も生まれないのであろう。それでも無理に類似性を強調すれば、中型の薄殻爆弾は日本海軍の「陸用爆弾」に相当すると言えなくもない。この「陸用」という分類が、日本海軍の爆弾について記され出したのは、昭和7年の第一次上海事変からのようだ。(P49・P50)


『ミッドウェー海戦の日米爆撃兵装比較』

(冒頭略)ミッドウェー海戦で沈没した日米計5空母の喪失の模様を概略比較すると、次のようになる。『加賀』…エンタープライズのSBD×25機(山口注:SBD=第二次大戦中のアメリカ海軍の艦上爆撃機)が投弾した1000ポンドGP爆弾または500ポンドGP爆弾のうち4発直撃。(中略)他に数発の至近弾。飛行甲板と格納甲板から直ちに大火災を生じた。鎮火できず、艦の前後にあるガソリン庫が過熱して大爆発が起き、ゆっくりと沈没。『赤城』…エンタープライズのSBD×5機が投弾した1000ポンドGP爆弾または500ポンドGP爆弾のうち2〜3発直撃。他に数発の至近弾。飛行甲板と格納甲板から直ちに大火災を起こし、鎮火できず、全艦火災となり機関室の機能停止、漂流。総員退艦が命じられた、味方駆逐艦が93式魚雷で処分。『蒼龍』…ヨークタウンのSBD×9機が投弾した1000ポンドGP爆弾のうち3発直撃。他に数発の至近弾で浸水あり。飛行甲板と格納甲板から直ちに大火災を起こし、鎮火できず。全艦火災となり、最後は艦尾ガソリン庫の爆発で船体後半部から沈没。『飛龍』…ヨークタウン所属のSBD×1機から投下された1000ポンドGP爆弾のうち4発直撃。格納甲板から直ちに大火災を起こし、鎮火できず、全艦火災となり機関室の機能停止、漂流。総員退艦が命じられた、味方駆逐艦が93式魚雷×1本を命中させたが、沈没までにはさらに長い時間がかかった。『ヨークタウン』…飛龍の「99式艦上爆撃機」×7機から投弾された25番爆弾(山口注:250キロ爆弾)×4〜5発が直撃。爆弾による艦内火災は直ちに鎮火。通常爆弾の1発が煙路を破壊したために機関機能低下、漂流。さらに「97式艦攻」から投下された「91式魚雷改3」(炸薬235s)×2が命中。浸水、傾斜。さらに「伊168潜」が発射した「89式空気魚雷」(炸薬295s)×2本が傾斜の反対舷に命中。艦を放棄後、2日以上経って沈没。一見して、アメリカ空母の「撃たれ強さ」と日本空母の「撃たれ弱さ」が目につく。ちなみに『ヨークタウン』は、『サラトガ』や『レキシントン』と違い、戦艦を改造した空母ではない。しかしこうなった原因は、日本海軍の「防御」「ダメージコントロール」への取り組み姿勢の不徹底さだけでは、もちろんない。ミッドウェー海戦における日本空母の喪失原因について、本論では、「急降下爆撃機が投下する爆弾の基本性能と信管選択」「艦載機の燃料タンクの配置」「投下器と魚雷運搬車」「魚雷の炸薬と爆発尖」に注意してみたい。まず、アメリカ空母搭載の急降下爆撃機が投下した1000ポンドGP爆弾の優秀性を確認しよう。GPとは、ジェネラル・パーパス、つまり汎用の意味だ。その名のとおり米軍は、このGP爆弾をB29から工場地帯へバラ撒きもすれば、B24により軍艦や輸送船の上にも降らせるのみならず、B25のスキップボミング(山口注:反跳爆撃戦法。低空飛行する航空機から海面に爆弾を投下し、海面に反発した爆弾が「水切り」の要領で目標の艦船に命中するもの)にも流用し、さらに、艦攻や艦爆によって空母や重巡洋艦のような重要目標に対して投下した。日本海軍が、目標に応じて、陸用爆弾、通常爆弾、5号爆弾(徹甲爆弾)、8号爆弾(反跳爆弾)……等と使い分けていたのとは大違いなのだが、それが可能であったのには、以下の二つの条件が存在したと想像する。一つ。アメリカは稀少金属資源、特にカナダ産のニッケルを混入して造る特殊圧延鋼の生産に努力を集中し、それでGP爆弾の弾体も造っていたのではないか。二つ。アメリカ海軍は、艦載機の爆弾による軍艦の撃沈を真剣に考えたことがなかったのではないか。もし爆弾の弾体をニッケル含有スチールで圧延していたとすれば、陸軍と海軍とで同じGP爆弾を共用し、対艦船だけでなく、陸地の攻撃にも惜しげもなく投下できるのである。合衆国には、大量生産の余裕は、多分あっただろう。戦略爆撃調査団の一員であったB・コーヘンが『戦時戦後の日本経済』に記しているところによれば、第二次大戦中のアメリカの航空爆弾の生産高は、日本の167倍だという。日本への投弾量は16万1425トンであり、ドイツへの投弾量は135万6808トン(一桁違う)であった。対して日本の軍需工業は僅かに工面したニッケルを、航空機のエンジン、機関砲、脚、耐熱タービンブレード等に、是非とも優先使用しなければならなかった。日本では、ニッケルはおろか、屑鉄(それは銑鉄よりも高級である)の使用先すら厳選する必要があった。だから日本では、アメリカの0・6%の爆弾しか造らなかったというのに、稀少金属・高級金属を少しでも節用するために、陸用爆弾、通常爆弾、特殊徹甲爆弾(5号爆弾)と、設計を違える必要があったのである。(P63〜P67)
ところで、アメリカ海軍が、レイテ海戦まではGP爆弾一本でやっていけたことの背景には、もう一つ、彼らの艦載機や航空爆弾に対する期待の特異性があったと考えられる。それは、このGP爆弾の弾頭と弾底に、アメリカ海軍は、最も瞬発に近い秒時の短延期信管のみを装着していたことから窺われるのである。GP爆弾の信管秒時については、SBD「ドントレス」の活躍をまとめた本(P.C.Smith著 “Douglas SBD Dauntless“1997 英国刊)にヒントがあった。残念ながらそれは珊瑚海海戦の記述なのであるが、米空母所属のSBDが、0・01秒の遅働信管を取り付けた1000ポンドGP爆弾を兵装としたと書かれてある。ちなみに日本軍の爆弾用機械式信管で、最も遅延秒時の短いものは0・03秒(甲信管)であった。0・01秒の遅働信管が作れるということだけでも、アメリカの精密工業の水準の程はしのばれよう。ミッドウェー海戦で日本の空母に命中した爆弾は、すべてこのSBD(型は、最新のものでSBD3型)が、急降下爆撃で投下した1000ポンドGP爆弾であった可能性が高い。(中略)それを艦載のSBDは、500mまで降下して投弾する。爆弾の自由落下距離が500m以下しかないわけだから、終速は水平爆撃に比べると甚だ小さい。それでありながら、敢えて最も短い0・01秒の延期信管をつけている。その効果は、しかし、空母に打撃を与えるには最も好都合なのであった。戦艦や重巡洋艦の弱点は、下甲板の弾火薬庫に砲弾や徹甲爆弾が飛び込んで、誘爆を引き起こすことである。あるいは、魚雷や徹甲爆弾で艦底に穴を開けられ、浸水することであった。だから日本海軍の通常爆弾は、この艦底攻撃を強く意識して弾体を厚くこしらえ、しかも0・2秒という長い遅働信管(丙信管)が付けられるようになっていた。米軍にも、無延期、0・01秒、0・1秒、0・25秒の4種類の信管バリエーションがあった(B29が落としたGP爆弾に関する報告による)。しかるに米海軍は、至近弾の爆発景況からして、マリアナ沖海戦までは、航空用爆弾の弾頭に、いちばん短い延時信管以外は取り付けていなかったと観察されている。(弾底信管に別な秒時のものを取り付けることは有り得るが、これは不完爆防止の目的であって小論では無視できる。)アメリカ海軍の艦爆隊は、航空爆弾で戦艦や空母を撃沈しようという使命感は持っていなかった。これは、ミッドウェ海戦で『蒼龍』が3発の命中弾で炎上したのを見届けるや、直ちに続行していた4機のSBDが攻撃目標を他の無傷な水上艦に変更したことからも、よほど徹底した戦術思想だったと思われる。アメリカ海軍の航空隊は、何が必要なことで、何が無駄なことかを、しっかり割り切っていた。(P68〜P71)
急降下爆撃によって低空からリリースする爆弾には、命中率の高さと引き換えに、撃速の小ささという、どうしようもないハンデがある。たとえ信管秒時をもっと長くしてみたところで、ポストジュットランド型戦艦の上面アーマーを突き破ることはできないのである。しかし、日本の重巡洋艦の砲塔天井装甲や、空母の飛行甲板に対しては、短い延期信管のGP爆弾は、十分な貫徹力と破壊力とを発揮した。しかも、命中率は水平爆撃とは比較にならぬほど高い。戦果は「中破」で満足せよと、彼らは教育されていたに違いない。太平洋での日米海戦が生起するとすれば、どちらの海軍も、敵情偵察の役割を受け持つ空母と巡洋艦とが前衛になって出てくるのは、戦前からすでに常識であった。最初の海戦は、必ず空母と空母の遭遇戦となる。この確信は、むしろ米海軍の方がはっきりと持っていた。アメリカ海軍は、よく言われるように、決して空母を軽視などしていない 事実は逆で、その対策を日本海軍以上に徹底して立てていたのだ。端的にそれが表れているのが、空母の搭載機の機種配合だ。アメリカの正規空母では、常に艦爆が艦攻(ミッドウェー海戦ではTDB「デバステイター」が主)よりも多く積まれていた。そして爆弾の信管は0・01秒であった。爆弾による大艦の撃沈などは、初めから考えていないのである。これに対して日本の機動部隊では、艦爆を18機積む空母に、艦攻を15機しか積まない、などということは絶対に有り得なかった。日本海軍の意識の上では、艦載機の主役は、明らかに艦攻であった。なぜか? 艦攻だけが、魚雷によって米英の戦艦を撃沈できたからである。日本の空母の搭載機編成と爆弾は、どうみても対戦艦用にできていて、対空母用にはなっていなかった。またその対艦用爆弾の信管に0・2秒の長い遅働のものを好んで付けたことは、空母や巡洋艦を狙う場合でも「中破」させるだけでは満足せず、「撃沈」にこだわっていたことを示している 対するアメリカの空母機に託された使命は、相手の前衛である空母と巡洋艦の戦闘力を奪えば良いのであって、撃沈までは求められていない。軍艦を撃沈するのは、あくまでも戦艦の仕事だからである。(P71・P72)
蓋を開けてみれば、実際に生起した海戦は、やはり空母対空母のものであった。ミッドウェー海戦で「99式艦上爆撃機」が米空母『ホーネット』に投下した25番通常爆弾には、弾頭信管として0・2秒という長めの延時の「丙信管」を取り付け、機関室へのダメージを狙い、さらに、できれば艦底爆発による浸水沈没を期したと思われる。そのような信管を通常爆弾に付けること、それを空母に対して投下することは、ともにアメリカ軍にとっては予想の外であった。フランクとハリントン共著『ミッドウェイ 空母「ヨークタウン」の最期』(邦訳1976年)によれば、珊瑚海でヨークタウンが「99式艦爆」から食らった1発の通常爆弾が、デッキ4層を貫いて爆発しているので、専門家すら、これは真珠湾で投下された戦艦の徹甲弾改造の爆弾だと結論したのであった。これに対し、米軍のGP爆弾のパフォーマンスはどうだったか。0・01秒信管と、急降下爆撃による低い撃速の結果、その爆弾は、日本の空母の飛行甲板を貫いてすぐ爆発した。そこは、格納甲板であった。格納甲板は、飛行甲板のすぐ下にある。爆弾や魚雷などの兵装を取り付け、交換は、この格納甲板までリフトで弾薬を上げてきて行う。ミッドウェー海戦では、アメリカ機が投下した爆弾により格納甲板に火災が起こり、さらにそこで魚雷や爆弾が誘爆したことが消火を不可能にさせたといわれる。  しかし、これにも原因があったはずである。格納甲板で爆弾が炸裂したのは、アメリカ海軍の兵装選択が正しかったからだが、その爆発によってただちに格納甲板が大火災となってしまった主たる原因は、日本海軍の飛行機の構造そのものに求められるべきなのだ。日本海軍の飛行機は翼の大部分はガソリンタンクで占められていた。この中にギッシリとガソリンが入っていれば、破片1つの貫通で火がつくことはない(機銃弾が連続して貫通した場合、一発目で液中に生じたキャビテーションの泡に、二発目で着火する危険はあったろう)。しかし、ほんの少しでもタンク上部に空隙があれば、そこは可燃性ガスの溜まり場だから、破片が主翼を貫通する時の火花で、簡単に爆発的燃焼が起こる。比島沖海戦での『大和』の戦闘詳報を見ると、艦内で米艦上機の投下爆弾が炸裂すると、飛び散る弾片が艦内の金属に衝突し、そのときにもの凄い火花を発するため、一瞬思わず大火災と錯覚するくらいであったという。ミッドウェーの4空母の場合、このような高速弾片が、まず搭載機の主翼の燃料タンクを襲ったのである。「99式艦爆」が、270s爆弾を2発も抱えられたノースロップの「ガンマ」機を昭和八年に参考輸入したずっと後からの設計であるにもかかわらず、兵装として250s爆弾を1発しか積めないのは、アウトレンジ戦法のために、米国の艦爆よりも余計にガソリンを持たせる必要からであった。「零戦」も「97式艦攻」も、大面積の主翼は過半が大容量のガソリンタンクとなっていた。これが高速弾片で貫通され、その火花で火災となった場合、もはや消火のしようはなかった。ガソリンエンジンの飛行機を火災に強い構造にしようと思ったなら、可燃ガスが溜まる部分の投影面積を最小にすればよい。だからドイツでもアメリカでも、この原則を守って飛行機を設計した。「メッサーシュミットMe109」が、航続力があんなに短いのも、主翼に燃料を入れなかったからであった。アメリカ海軍機が日本機よりもズングリしていたり、やたらに胴体が前後に間延びしているのも、主翼内には絶対にガソリンを入れず、すべて胴体内燃料タンクにしたためであった。(P72〜P74)
もし日本機の構造も、米軍機のように胴体内タンクだけであったなら、数発の爆弾の破片で一瞬にして格納甲板の大火災を招くようなことはなかったであろう。たとえばミッドウェーにおける『ヨークタウン』は、被弾時に艦爆×10機、艦戦×7〜8機が格納庫内にあった。最初に食らった、たぶん瞬発信管付きの25番陸用爆弾の爆発で、格納庫内の飛行機の翼に燐のように燃える物質が張りついたが、整備兵が翼を切断して火災になるのを食い止めたという。これも、翼の中にガソリンタンクが無いからこそできる措置であった。(中略)日本機の構造が他国のようになっていたなら、簡単に大火災は生じず、少なくとも爆弾が爆発することはなかった。98式爆薬は、たとえ機銃弾が貫通しても誘爆しないからである。摩擦や熱で直ぐ爆発してしまう爆薬の代表はカーリット(88式爆薬)だが、すでに内地用の機雷以外にはその爆薬は使われていなかった。また、火災の炎によって焙られても爆弾はすぐに爆発するものではない。『ミッドウェー戦記 豊田穣戦記文学集(3)』にも、250キロ爆弾が真っ赤に灼けて半透明ぬなりかかっているのに爆発せず、海に転げ落とせる描写がある。昭和18年7月9日に海軍で作製した『不発弾処理実施要領書類』に、陸上の不発弾に対しては「焼夷筒」(テルミット)を信管から30センチ離れた弾壁に密接させて着火すれば数分(昭和20年の鹿屋基地の戦訓では、地上火災機の爆弾は8〜9分で誘爆したという)で弾体が溶け内部の炸薬に着火して部分的な不完爆が起きるので安全に処理できるという方法が示されている。ただし弾底信管があるものはダメだとしているから、装着済みの信管が過熱されると爆発することは有り得たようだ。逆に云うと、弾庫の爆弾は火災には相当程度安全だが、信管装着済みのものは火事に遭うとたちまち危険な状態となる。急降下爆撃用の25番爆弾は、艦爆に取り付けた段階で、絶対確実を期すために、風車安全装置をやや緩めていたのかもしれない。しかし、誘爆の主役は、やはり爆弾ではなく、魚雷であったろう。(中略)航空魚雷は酸素式ではないから、それでも自爆する原因としては2つしか考えられない。1つは実用頭部の炸薬として98式爆薬(TNA+ヘキシル)や97式爆薬(TNT+ヘキシル)以外のものが充填されていた可能性だ。たとえば下瀬火薬だったなら機銃弾を受けても自爆してしまったろうし、94式爆薬(TNA+ヘキソーゲン)でも、被弾感度がやや高かった。日米開戦までは魚雷の需要はほとんど無かったことを考えると、このような旧い魚雷用炸薬がまだ入れられたままだったということも、考えられなくもない。(P74〜P76)
しかし、より可能性が大きいのは、爆発尖(爆弾の信管に相当する部品)の構造が、被弾に対してあまりに安全性の低い構造だったことだろう。これは断言するものではないが、ある本で、魚雷に取り付ける前の「爆発尖」が、敵の攻撃による衝撃に敏感に反応し、小型爆弾のように爆発して破片を飛び散らせたという記述を読んだ覚えがある。とすれば、この爆発尖を装着した魚雷は、『大和』戦闘詳報のようなスプリンターを浴びれば、ひとたまりもなく誘爆したであろう。最後に、そもそも艦攻の雷爆転換に何故2時間も3時間もかかっていたのかだが、これは多分に、海軍航空本部の主流派、たとえば大西瀧治郎らのせいなのである。昭和7年に第一次上海事変に出動した『鳳翔』(山口注:日本海軍初の空母であると同時に、最初から空母として設計された世界初の艦)から、「13式艦攻」が、魚雷、爆弾、増槽の「任務転換」にあまりにも時間がかかるため、海戦になったらどうなるのか、というクレームが航空本部に届いている。そのへんの事情について、航本で水雷の主務者であった愛甲文雄氏が、昭和29年に『水中兵器について』という資料を残している。それによると、兵装を機体から懸吊するための「投下器」が、爆弾と魚雷とで共通になっていないため、投下器も交換する必要があった。また、「爆弾運搬車」が魚雷の運搬やリフトアップには対応していなかったという。魚雷は、航空用といっても、艦政本部の助けなしには開発不可能な兵器であった。だから、戦艦無用論をぶちあげ、少しでも飛行機のために海軍予算を取りたい航空本部の主流派としては、どうしても自主開発ができる爆弾を中心に考える。いきおい爆弾の主務者側は、投下器や運搬車を敢えて魚雷と共通化することを考慮しなかったらしい。また、今日の話題社版『太平洋戦争ドキュメンタリー第五巻』(昭和43)の「英空母撃沈記」には、「97式艦攻」の投下器の螺の規格と孔の位置が各機ごとにバラバラで、別の機のものを持ってきても絶対に合わなかった、という貴重な証言が載っている。昭和17年2月12日には、海軍航空技術廠で「飛行機雷撃兵装急速転換対策研究会」が開催されている。これは、雷爆転装で非常に危ない目に遭ったインド洋作戦の前であるから、ウェーク島攻撃の戦訓なのかもしれない。しかし、インド洋作戦は無論のこと、ミッドウェー海戦までにも、何も改善はされなかった。つまりは昭和7年の『鳳翔』のクレームは、その後10年間、航本によって放っておかれたのである。(P76〜P78)


『通常爆弾』

日本海軍の「通常爆弾」(略して「通爆」)とは、艦船一般に対して使用できる品質・性能の爆弾を意味する。前章でも少し触れたが、イギリス軍はナチス・ドイツが相当に強大化するまで「対艦用爆弾」が必要だとは考えていなかった。だから、戦前のイギリス製爆弾とは基本的に「陸用爆弾」であり、その中に「厚殻」(ヘヴィケース、鋳造量産品)と「薄殻」(ライトケース、特別製の工場破壊用大型爆弾)の別があったにすぎないのである。アメリカ陸海軍も、まさか日本の戦艦を航空爆弾で攻撃する時が来るとは想定していなかった。対戦艦用の徹甲爆弾が昭和19年まで登場せず、その高高度投下は終戦まで見られなかったことが何よりの証左だが、日本海軍の通常爆弾と陸用爆弾を一つで兼ねるGP(汎用)爆弾の基本性能が非常に優れていたために、珊瑚海、ミッドウェー、ビスマルク海戦、およびマリアナ海戦を、この爆弾だけで勝利したのである。対艦攻撃用爆弾を「通常爆弾」と位置づけて深く研究したのは、世界の中でも日本海軍だけであった。それは、軍艦の数では明白に劣勢でありながら海戦には完勝せねばならないというユニークな使命感の反映であるとともに、日本海軍が早くからアメリカ海軍の『航空母艦』を強く意識していた証しでもあろうかと思う。ワシントン条約により日本の『赤城』『加賀』と同じく巡戦を改造し、昭和2年に竣工した米空母『レキシントン』と『サラトガ』は、前衛の水上艦による水雷襲撃を大いに頼みにしてきた旧来の日本海軍の漸減作戦構想を、根本から改めさせるに十分な脅威だったのだ。日本海軍の通爆の機能は、ちょうど陸軍の「破甲爆弾」(コンクリート構造を貫徹できる堅い弾殻と遅延弾底信管を有する爆弾)に近いといえる。しかし、海軍の想定する標的は、コンクリートよりも硬さも粘りもある軍艦の甲板であるから、その弾体の素材、熱処理、寸法、信管などには、陸軍の爆弾よりも厳しい要求をするのは当然であった。たとえば陸軍の破甲爆弾は、鋳鋼を熱処理して堅くしたものでもよかったが、海軍の場合は陸用爆弾以外だとそうはいかず、比較的高価な鍛鋼でなくては弾体が割れてしまう。しかし幸いにも、通爆の整備所要量は、陸用爆弾ほどあるものではなかった。弾体の弱い陸用爆弾を艦船に対して使用すると、投下高度によっては、完爆する前に弾体が潰れて爆薬が飛散してしまうが、逆に通爆は、必要ならば陸上の目標に対しても使用しても強度上は何の問題もなかった。この点では汎用爆弾ともいえるのだが、弾体が強固になっている分、充填炸薬量は陸用爆弾に比して少ないのと、単価が高い点とが、泣き所であった。(P79〜P80)


『戦艦を撃沈できる徹甲爆弾』

陸上基地から発進する双発の爆撃機から、TNT爆薬1000ポンド入りの2000ポンド爆弾を投下すれば、至近弾の浸水だけでも戦艦が沈められるという可能性は、1921年7月21日のW・ミッチェルの実験で立証された(和田穎太著『真珠湾攻撃〜その予言者と実行者』)。この衝撃的なイベントが世界に報道された大正10年当時の、日本の最新最強戦艦『長門』の40糎主砲から発射できた弾丸の重量は、ちょうど1トンであった。2000ポンド(907s)の航空爆弾が登場したことは、戦艦にとって真の脅威の兆しといえた。2年後、ミッチェルは、今度は廃戦艦『アラバマ』を、1100ポンド(500s)爆弾の水平爆撃だけで撃沈してみせた。ちょうどその年、日本海軍は、英人スミス技師の設計になる「13式艦上攻撃機」を完成している。爆装は240s×2発(計480s)まで可能。(魚雷なら約800s×1本可能。雷撃は低空飛行だけでも構わないので。)しかし『オストフリースラント』(山口注:第一次世界大戦時のドイツ海軍の戦艦。ドイツ敗戦後、賠償としてアメリカに引き渡された。)も『アラバマ』も、第一次大戦前に設計された戦艦であった。第一次大戦のユトランド半島沖海戦では、大落角の徹甲弾が弾火薬庫を上面から直撃することで戦艦すら轟沈してしまう実例を見、爾後、重巡以上の軍艦は、側面だけでなく上面にも、少なくとも自艦の主砲弾を防げるだけのアーマーを張るようになったのである。「ポスト・ジュットランド型」と英語で言い表されるそのような新鋭戦艦(日本では『長門』以後)に対して、艦上攻撃機や艦上爆撃機が投下するせいぜい数百sの爆弾で上面アーマーを貫徹し、弾火薬庫を爆破することができるかどうかについては、日本以外の各国海軍は現実的、つまり相当に懐疑的であった。日本海軍の仮想敵、アメリカ海軍では、艦載機で無理をして戦艦を撃沈しようなどと真剣に考えたことは、大戦後半までは無かったように見える。米空母機が日本の戦艦に徹甲爆弾を初めて投下したのは、昭和19年10月の比島沖海戦からであった。航空魚雷の実用頭部は、大口径であったが、軽量で、空母搭載の艦攻の数も少なく、その訓練は艦爆隊に比べて明らかに重視されてはいなかった。これはアメリカの軍人が、日本はアメリカに戦争は仕掛けてこないと高をくくっていたからではない。戦艦の戦力比で日本に対して優位を失う恐れがまるでない以上、その必要性が認められなかっただけである。(中略)しかし、日本海軍の立場は逆だった。戦艦の戦力比では到底アメリカに勝ち目は無かったので、空母(と潜水艦)に、戦艦の撃沈が期待された。だが、艦載機の搭載兵装は艦攻でも800sが限度で、最新鋭戦艦の主砲弾より初めから軽量である。その軽量爆弾の衝突威力を戦艦の主砲弾並みに増やそうとして投下高度を上げれば、命中率は極端に下がってしまう。かといって、命中率の最も高い爆撃法である急降下爆撃は、艦攻よりもさらに軽量の爆弾を、最小に近い撃速で戦艦の上面アーマーにぶつけることしかできない。その限界を百も承知で、それでも艦載機で戦艦の撃沈を狙おうとしたのが、『空威研究会報告』で大西瀧治郎らにより開発方針が定められた、艦攻用の「5号爆弾」と、艦爆用の「4号爆弾」であった。(P103〜P105)


『防空用の空対空炸裂爆弾』

日本の軍部が「対飛行機爆弾」の必要に目覚めたのは早い。満州事変〜第一次上海事変頃から、アイディアが出てきている。たとえば昭和7年3月7日の海軍の訓令に「垂下曳航爆弾」の実験のことが見える。これは、2〜5sの爆弾を、太さ10〜18ミリ、長さ25〜30mの柔軟鋼索で下げ、そのまま敵爆撃機にぶつけようとするものであった。しかし実験の結果、この方式では、母機が150ノット以上を出すと索が横になびいてしまって、所期の目的は達せられないということが判明した。これは「良い失敗データ」になるはずであろう。しかし困ったことに、昭和19年頃に、陸軍がほとんど同じ内容の実験を復行している。「ト四」弾がそれで、30キロまたは50キロ爆弾を200mの鋼索の端に吊し、在空敵機を攻撃できないかとの計画であった。昭和19年の飛行機の速度は、昭和7年の3倍はあろう。結局、とても実用にならぬことが確かめられたのみで、貴重な時間資源と実験資材の空費に終わっている。戦前の日本がアメリカに勝てなかった理由のひとつに、新兵器開発のために国家の予算で得たはずの貴重な情報が、いたずらに部外者に秘匿され死蔵された結果、遂に1億人の頭脳動員に失敗したことを、どうしても挙げなければならない。そのためただでさえ敵より一桁少ない技術者と実験資源を、ますます非効率的に働かせることとなった次第だが、それでも昭和11〜13年時点で、「対飛行機」の自由落下爆弾は、30s以下では効果がなさそうだという知見だけは得られていた。昭和16年8月13日の文書には、「敵ノ編隊ニ対スル攻撃用落下傘附時限爆弾」を、2sで時限と着発の2タイプ作ってみたが、安全度不良で多量生産向きでもなく、再考を要す、とある。いろいろなものを試していたようだ。ところで、これは陸軍の「トニ弾」に非常に近いように思われる。「ト」は対空用「特殊爆弾」の含意(ひらがなの「と」だと特攻の符号)だが、陸軍側の史料によれば、1・8sの「トニ弾」を10発収容し落下傘を有した「トニ器」が、おそらくソロモン航空戦が始まった後で、実用されていたのである。(P143・P144)


『29号爆弾』

「29号爆弾」は、対B29専用の空中炸裂爆弾として試作されたが、実際には使用されずに終わっている。日本がB29を落としあぐねた遠因を探っていくと、1926(大正15年=昭和元年)に遡る。この年、三菱重工業の前身である三菱内燃機製造会社は、英国よりアームストロング=シドレーの航空用星型空冷エンジンの製作権を取得した。これは、その前年に陸軍航空隊が飛行機の採用にあたって競争試作方式を採用することを決定したことから、三菱が技術習得に努めてきたイスパノ系液冷エンジンでは、中島飛行機と川崎造船所が占めていた陸軍機の納入シェアは切り崩せないと判断されたためであった。液冷エンジンは気筒数に比例して曲軸が長くなってゆくが、星型エンジンならそのようなことはなく、高度な精密加工技術なしに大馬力を狙うことができた。短期的には、この路線転換によって、三菱重工は中島を追い越し、日本最大の航空機メーカーになったのである。しかし敢えて春秋の筆法を用いれば、最大の資本力と人材プールを持つ三菱がこの早い時期に液冷エンジンを見限りだし、最終的には手を引いてしまったがために、日本は昭和19年以後、B29やP51を迎撃できる本土防空戦闘機を持つことが、不可能になってしまったといえよう。高高度を高速で飛ばすためにレシプロ・エンジンのブースト圧を高め、回転数を上げるためには、小直径の星型空冷ではどうしても冷却に限界があった。B29から本土を守る迎撃機は、極限に高性能の液冷エンジンを積まなくてはならなかったのだ。日本国内に、高性能の液冷エンジン技術を育んでいた体力のあるメーカーが無かったため、せっかくドイツからBMWの最新式エンジンを輸入しても、それを満足にコピーすることすらできなかった。もちろん、日本の本土防空は陸軍の担当であり、海軍は空母での運用の必要からも空冷路線になるのは当然だった。(「彗星」の採用は相当に異常な決定といえる)が、以上の経緯は、軍が民間メーカーを養成することに失敗した例として、もっと注目されてよいように思われる。さて、昭和19年末、日本陸海軍の非力な空冷エンジン戦闘機がB29を確実に撃墜する方法としては、体当たり戦法しかない有様であった。しかし、日米の生産力の差に思いを馳せると、仮に本土上空において大々的な対B29体当たり戦法をとっても、1:1の損耗率だと最終的に米国が勝ってしまうだろうと、海軍内では考えた。おそろしく弱気になったものだが、ともかくも、迎撃機1機でB29×3機は落とせるような武器が必要だ、との要求が出されたのである。そこで爆発威力を追求し、「25番3号」を上回る炸薬を詰めた空対空爆弾が作られることになった。これが「仮称3号爆弾」であった。しかし投下実験1発まで実施した段階で、終戦となったという。別な史料では、「29号爆弾」用に大戦末期に「三式電気爆弾信管2型」が作られ、使用されたと記しているが、確認はできない。ドイツは戦前から電気信管を整備していたが、日本海軍は最後までそれを実用化する余裕はなかったと考えられる。電気信管が造れないために、照準器と連動して自動的に空対空爆弾のタイマーを機内から変えるという方式が、容易にできないのであった。(以下略:P161〜P163)


本書で紹介している爆弾は、火薬の爆発力での対人・対物破壊用の爆弾の他に、催涙ガスや嘔吐作用ガス、くしゃみガス、皮膚を爛れさせる糜爛剤のイペリット(マスタード・ガス)や、青酸ガス等の毒ガスを装填した「化兵爆弾」(旧海軍は化学兵器のこと“化兵“と呼んだ)。 細菌を充填した生物兵器「7号爆弾」。さらに人が乗り込み操縦しながら、そのまま目標に体当たりする有人爆弾(特攻兵器)などや、巻末の附録として、日本陸軍の爆弾についての簡単な紹介があります。〔光人社NF文庫〕


兵頭 二十八
昭和35(1960)年、長野市生まれ。 二等陸士として自衛隊に入隊し、その後、神奈川大学英語英文科を経て、東工大の大学院で江藤淳研究室の最後の院生となった。既著の『たんたんたたた 機関銃と近代日本』では、日本で重工業製品の海外輸出戦略を最初に組み立てたのは、軍人設計家の南部麒次郎中将その人であったという、経済史家が誰も指摘しない事実を紹介した。『有坂銃 日露戦争の本当の勝因』では有坂成章の、『イッテイ 13年式村田歩兵銃の創製』では村田経芳の、『日本海軍の爆弾』では大西瀧治郎の、それぞれ人物像の見直しを試みている。『武侠都市宣言!』は、日本に「市民」などいたことはないという歴史の真相を詳らかにした。他に『属国の防衛革命』(太田述正氏との共著)、『東京裁判の謎を解く』(別宮暖朗氏との共著)など多数の仕事がある。
posted by 管理人 at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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