2012年01月02日

面白すぎる釣りの本 著者/博学こだわり倶楽部

《アマゾン川に棲み、釣竿ではとても釣り上げることができない世界最大のナマズ、ピライバーに挑んだ日本人の釣果や如何に?。日本独特の釣法、「アユの友釣り」を発案したのは江戸時代の虚無僧という説の真偽や如何に?。ある日本人がスペインの釣具店で出逢い、見惚れてしまった傑作の毛鉤とは何か?。平安時代の猛将、源為朝が流刑先の伊豆大島で島民たちに教えた擬餌鉤とは何か?。グラス・ロッドの釣竿が誕生したのは、平賀源内の功績?。罪人として沖永良部島へ流罪となった西郷隆盛が、牢獄の中にいながらにしてイカを釣り上げた、そのカラクリとは何か?。世界の怪魚や珍しい漁法。釣りにまつわる伝説や、釣りの技術や道具の進歩の歴史や、釣り好きな著名人たちのエピソード、魚の習性や、魚の味わい方まで、釣りの魅力や魚の雑学が満載。釣りをしたことのない人でも知的好奇心を誘われる一冊です》(※本書は、当インテリジェンスの初期にエントリーした一冊ですが、当時は現在のような内容抜粋をしていなかったため、今回、内容抜粋して改めて紹介させていただくことにいたしました。)


◎内容抜粋

『何百キロの怪力を持つ、巨大ナマズ釣りにエキサイト!』

釣り上げるときの力の強さで定評のあるカジキだが、世界には、そのカジキ用の竿でも無理という大物もある。世界最大のナマズ、アマゾンのピライバーだ。松坂寛さんの『ナマズ博士赤道をゆく』に、このピライバー釣りに挑戦したときの模様が紹介されている。それによると、カジキ用の竿を持っていったところ、「こんな竿では赤ん坊クラスしか釣り上げられない」と言われたとか。ピライバーは、体長4メートルで、250キロという現地情報もあり、そこまでいかなくても2メートルはザラ。巨体のうえに、普通のナマズと違って、流れの速い川の中を、かなり高速で泳ぎながら生活する魚で、餌をくわえると、体を反転させて猛スピードで突っ走る。そのため、2メートル以上のクラスだと、何百キロもの力が竿にかかるのだというのである。それで、ピライバー釣りには、竿ではなくロープを用いる。巨大なウキから、先に巨大な針をつけたロープを川に流す。針につける餌は、なんと、猛魚と名高いピラニアだ。かかったピライバーが大物のときは、2、3人がかりで引き上げるのだが、それでも危ないときもあるという。そんな大物のときは、ロープの先をボートのフックに結んで弱ってくるのを待つのだが、ボルトで締め上げていたフックが吹き飛ばされたり、ボートが水中に引きずり込まれることすらあるらしい。松坂寛さんは、現地の人の指導で2メートルのピライバーを釣り上げのだが、ボートで何十分もロープと格闘しても、ピライバーは水中に潜ったまま。ボートを岸につけて、岸から3人がかりで引き、やっと砂浜に引き上げたそうである。(P14・P15)


『チャレンジ精神をくすぐる凧釣りの上手なやり方』

凧を使った釣りといったら、どんなものを想像するだろうか。何だかひどく珍しいもののように思えるかもしれないが、欧米では密かなブームを呼んだこともある。そう簡単にいかないところが、チャレンジ精神をくすぐるらしい。そもそも、この釣りを編み出したのは、南太平洋諸島の人々。浅いところを泳いでいるのに、あまり接岸しないシイラを釣るために、凧を使って仕掛けを遠くにまで運ばせようと考えたのだ。最大のメリットは、餌を傷めないという点にある。シイラは体長2メートルにもなる大物で、釣り上げたときに光を受けて輝く姿は英語名のドルフィン・フィッシュに相応しい。では、日本の凧釣りは欧米から入って来たものかというと、そうでもないらしい。あまり知られていないが、土佐では大正時代から行われている。では、一般的な凧釣りのやり方を見ていこう。用意するのは、2本のリール竿と仕掛け、それに凧。1本の竿は凧を上げるためのもので、もう1本に仕掛けをセットする。2本のラインは、予め途中で連結させておくのだが、これにはクリップが使われることが多い。凧を上げ始めたときには、クリップの位置から仕掛けラインがぶら下がった状態になるということだ。そして、ポイントの上空に達したら、仕掛け竿を引っ張って、それぞれのラインを分離させる。こうして、仕掛けはクリップごと海に落ちることになる。仕掛けを上手く脱落させるためには、ラインの連結が大切なことがおわかりだろう。凧が目的の場所に上がる前に外れてしまったらやり直しになるし、凧が上手く上がっても仕掛けが落ちなければ失敗だ。竿で凧を上げることについては、さほど難しくはない。ナイロン糸のリール凧を上げた経験がある人なら、難なくこなせるだろう。竿を使うと案外簡単に凧をあおることができるし、巻き戻しもスムーズだ。(P95〜P97)


『釣り竿をまったく使わずに獲物をとる方法とは』

魚をはじめとする海の生き物を捕獲するのに釣り竿は必需品かというと、意外とそうでもない。たとえば、タコを釣り上げるのに竿も針さえも使わない方法だってある。用意するのは凧糸だけ。あとは海辺を探して巻き貝を10個くらい見つけてくればいい。それらを凧糸に等間隔で縛りつければ、道具の出来上がりだ。ポイントは、干潮時の潮だまりで、投げ込んでは手繰り寄せる動作を繰り返し、タコの好奇心をくすぐること。「何だろう」とばかりに吸いついてきたところを慎重に引き寄せれば、みごと凧糸でタコが釣れるというわけだ。また、漁師の伝統的な漁法のなかには、銛を使って魚に一対一の勝負を挑むといったものもある。なかでも豪快なのが、突きん棒漁法。先を尖らせた銛にロープを結びつけて狙ったカジキに投げつける。船首のさらに前方にせり出すように専用の台がしつらえてあって、漁師はそこに陣取って銛を突く。成功したところで、カジキは簡単には降参しない。疾走するか、深いところに潜ってしまう。漁師は銛に繋がったロープを伸ばしながら追って行き、カジキが疲れて抵抗が和らいだところを見計らって、引き寄せて釣り上げる。この漁法では、海面近くに上がってきているカジキを15〜30トン級の船で追いかけ、その回遊経路を辿って、房総や伊豆を拠点としながら北海道から東シナ海まで行くのだという。また、銛を使う漁法にはサワラ突き漁法と呼ばれる一風変わったものもある。囮の模型を使ってサワラを誘き寄せ、銛で刺して仕留めるのだ。模型というのはサワラか餌の魚をかたどったもので、海中に入れて竿で動かして生きているように見せかける。サワラの目を欺いて仲間か餌だと思わせ、近づいてくるのを待って捕まえるということだ。このように古くからおこなわれてきた漁法を見ると、現代人より昔の人の方が柔軟な発想をしていたように思われて、面白いものだ。(P104〜P106)


『「アユの友釣り」は、修行中の虚無僧が発案した?!』

日本独特の釣りの方法「アユの友釣り」。アユの縄張りを守る習性を利用した釣り方である。アユは、成長期に、川底の石に着いた藻類を食べるようになる。そのため、縄張りを作って自分の餌場を確保するようになる。縄張りの中に別のアユが入り込むと、その縄張りの持ち主は、たとえ自分より体の大きな相手でも、相手が出ていくまで懸命に戦う。その時、相手の肛門をめがけて攻撃する。この習性を利用して、囮のアユの尻鰭近くに掛け針を仕掛け、アユが縄張りを作っていそうなところに放し、攻撃してきたアユが掛け針に引っ掛かるのを待つという方法だ。「友釣り」とはいっても、実際には「友」ではなく「ライバル釣り」になるわけだが、その発祥の地は、伝えられているところでは、アユ釣りのメッカといわれる伊豆の狩野川。江戸中期の法山志定という虚無僧のアイデアだという。志定がある時、狩野川の川辺りで尺八の練習をしていると、2匹のアユがケンカをしているところが目に入った。見ると、川のあちこちでアユがケンカをしており、みんな申し合わせたように、相手の尻鰭めがけて攻撃している。そこで「友釣り」を思いつき、近隣の漁師たちに教えたのがルーツだという。ただしこれには異説がある。水戸の加藤寛斎という武士の残した『加藤寛斎随筆』に、友釣りについて記述が見られるのだが、それが書かれたのは宝山志定より1世紀も早い江戸初期のことと、思われる、というのである。水が綺麗で、どの川にもアユがたくさんいた時代なら、アユのケンカはどの川でも見られるはず。あちこちの川で、それぞれ、独自に友釣りが考案され、伊豆の場合は法山志定が発案したということなのかも知れない。(P106〜P107)


『日本伝統の「てんから釣り」は、武士の楽しみだった』

最近はフライフィッシングという言葉が一般的になっているので、外国から伝わった釣り技術のように思われているが、日本の釣り界にも立派な伝統があるということは、忘れられがちだ。アユ釣りの毛鉤など、世界一成功で立派な芸術品ともいえるもの。一朝一夕の技術で作れるものではないのだ。フライとは昆虫のハエのこと。つまり、元々は小さな虫を餌に魚を釣ることを意味するわけだが、この昆虫にあたる疑似餌を針につけた擬餌鉤を使うのがフライフィッシング。そこで外国では、魚に合わせて餌とする昆虫や小魚を研究し、季節や水温、さらには昆虫の生態まで、科学の光をあてて擬餌鉤を考案した。いわば科学的釣り技術というわけだ。日本でも偽の餌で魚釣りをするというのは、江戸時代頃から行われていた。海に落ちた馬の爪に魚が集まったところからはじまった相模の角ダマシ針とか、壱岐の海岸にあったカボチャが海に落ちて、そのワタをメジナが食べたことにヒントを得たというカボチャのフカセ釣りなど、偶然の発見による漁法があった。職業としてでなく、武士たちの楽しみの釣りにも擬餌鉤は使われていた。幕末に流行した「てんから釣り」である。アユの毛鉤に対抗してヤマメに用いられていたようだ。これは、川のすぐ上を蚊を模した針を飛ばし、ヤマメが針をくわえた瞬間に合わせるという技術。普通にアタリがあってから竿を合わせたのでは間に合わない。ヤマメの姿を見たら蚊を飛ばし、瞬間を狙って竿を立てるという高等テクニックが必要だった。ヤマメが獲物をとる瞬間を見極め、その獲物になる蚊鉤を飛ばすという方法は、海外と同じ手法だったのである。(P108・P109)


『手製毛鉤の傑作は、まるで生きているチョウ』

世に凝った毛鉤はたくさんあるが、これだけの傑作は滅多にないのではないだろうか、というほどの毛鉤の傑作が、木村榮一さんの、『スペインの鱒釣り』に紹介されている。木村さんは、スペインで、リールを買い替えるためにある釣り具店に入ったとき、エスラ川の鱒釣りに使う毛鉤はどんなものが良いか、釣り具店の主人らしい人物に相談した。店のガラスケースに陳列されていたのは普通の既製品だったが、木村さんが自分の手製の毛鉤を見せると、店の主人は、陳列してあったのとは全く違う手製の毛鉤を見せてくれた。何十個もあったその毛鉤は、どれもたいへん精妙で、思わず見惚れるほどだったという。何個か譲ってもらった木村さんが、その出来を褒め讃えると、店の主人は、とっておきの非売品の毛鉤を見せてくれた。一見しただけでも見事なモンシロチョウの毛鉤だが、なんと、水に浮かぶと羽が開くように作られていたのである。本物そっくりのモンシロチョウの胴の材料は、なんと鶏の腸。川に飛ばして水に濡れると、腸の胴が水を吸って膨らみ、羽がだんだん開いていく仕掛けだという。世に知られざる毛鉤の傑作に、木村さんはすっかり感心したそうだ。(P119・P120)


『昔、日本独自のルアーに用いられた材料は?』

土佐の一本釣りの名で知られるカツオ漁は、イワシなどの生き餌を撒いた後、寄ってきた魚群に竿を入れて、餌をつつくのに夢中になっているカツオを擬餌鉤で釣り上げる。今では漁船を仕立てて遠洋漁業にまで出かけるが、かつては沿海でこうした釣りが行われていたのだ。つまりルアーフイッシングが、趣味としてではなく漁法として昔から行われていたことがわかる。これらの擬餌鉤はオバケ、コンペイトウ、シャビキなどと呼ばれ、土佐、紀伊、伊勢などでかなり古くから使われていた形を図版にした記録も残っている。鷺や朱鷺といった文字も見られるから、贅沢な羽毛も使われていたようだ。そんな中で、いちばん古いと思われる擬餌鉤の作り方を書いた物語がある。江戸時代に書かれた『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』だ。書かれたのは江戸時代だけれど、舞台は平安時代末期、鎮西八郎といわれた源為朝が主人公の物語だ。この物語で、崇徳上皇と戦って敗れた保元の乱後に伊豆大島に流された彼が、島の人々に擬餌鉤の作り方と利用法を教えるシーンが出てくるのだ。これが「ツノ」と呼ばれたルアーである。実際のところ、この擬餌鉤は西の方で使われはじめて、次第に関東に伝わったといわれているから、若き日に九州を平定していた彼なら、ありそうな話だ。なぜルアーが「ツノ」かというと、その素材が牛の角だったから。為朝も、大島の在来種の牛の角の他にも、蹄や骨、鳥の骨や嘴なども材料にしたのが、日本独自のルアーである。(P126・P127)


『グラス・ロッドは、実は平賀源内の発明の応用だ』

浦島太郎は釣り竿を担いで浜辺を通りかかったとき、子供にいじめられている亀を助ける。おとぎ話に添えられた挿絵でおなじみの、腰蓑を着けて魚籠をぶら下げているスタイル。竿は当然ながら竹である。しかし20世紀の釣り竿は、名人の手になる銘の入った竹製のものを除けば、新素材が主流。竿師という言葉も、いずれ死語になることだろう。その新素材のなかで、いちばんポピュラーなのがグラス・ロッド。これはアメリカ空軍の釣り好きパイロットのアイデアが、誕生のきっかけとなったものだ。日本と戦争中のこと。 日本の優れた竹が輸入できなくなって、良い釣り竿にめぐまれなくなった彼は、自分の乗る飛行機に防火耐熱布として使っているガラス繊維を、鉄パイプに巻き付けることを思いつく。竿にする竹もガラスもケイ素を含んでいて、このケイ素が弾力を生むという、科学的事実を知ったからだ。早速パイプに繊維を巻いて接着剤で固めてみると、しなり具合もちょうど良かった。ここにグラス・ロッドの原型が完成したのである。しかし、グラス・ロッドの材料の防火用布のアイデアは、日本人の平賀源内が最初に思いついたものだ。彼は最初、中国に生息する、火の中も平気で歩く火ネズミの毛から布を紡ぐことを考えたがうまくいかず、結局出来たのは蛇紋石の繊維から作った火浣布、つまり石綿だった。この源内の研究が、20世紀のアメリカ空軍に引き継がれていった。ガソリンとエンジンで動く飛行機には、万一の火災のときの用心に、防火耐熱布は欠かせないからだ。その研究の延長線上に誕生したのが、ガラス繊維だったのである。源内の火浣布研究の執念に、現在の釣り人は大きな恩恵を受けているわけだ。(P131・P132)


『アマゾンの肉食魚、ピラニアってどんな味?』

ピラニアといえば、獰猛な肉食魚。 下手をすれば人間でも襲われるというイメージばかりが強く、人間がピラニアを食べるということは、思いもよらないという人が多いのではないだろうか。だがピラニアは、現地のアマゾンでは、れっきとした食用魚。魚屋でごく普通に売られて、人々の食卓に上っている。しかも、開高健さんの『小説家のメニュー』によると、このピラニアは結構美味しいらしい。開高さんは、アマゾンを旅したとき、ピラニアが食べられると知って、同行のカメラマンと共にピラニア料理に挑戦した。日本から持参した出刃包丁とカッターで薄造りにして、ブラジル産の醤油と練った粉わさびにつけて、食べてみた。意外なことにも、ピラニアの肉は透き通ってるような白身で、ほどよい脂がのり、なかなかの味。それは、さながら旬のヒラメの味のようだったという。そのあとも、ピラニアを、焼き魚、煮魚、フライ、ブイヤベースなど、様々な料理法で何度か食べたが、どれも美味しかったそうだ。また、現地の人が作ってくれたピラニアの頭のスープも食べてみたとか。あの鋭い歯のピラニアの頭が入っていて、凄絶なスープだったそうである。(P142)


『最古の釣り針が物語る、日本の釣りの始まりとは』

『日本書紀』に登場する「海幸彦・山幸彦」の物語は、いつもは山で仕事をしている弟の山幸彦が、兄と道具を取り替えてお互いに相手の仕事に挑んだとき、過って釣り針をなくす物語が発端になっている。兄にどうしても探してこいと言われて、彼は海底の国まで訪ねていって妻となる女性に巡り会うという話だ。そのきっかけとなった釣り針は、この時代すでに鉄製だったことがわかり、釣りの歴史を知るには重要な手がかりとなる物語といえる。これは神話の時代の話だが、実際には3世紀には日本で鉄製の釣り針が存在したことが証明されている。福岡県京都(みやこ)郡にある「川の上遺跡」から、5本の鉄製の釣り針が墓の副葬品として出土しているのだ。5本のうち4本が完全な形で、そのうち1本は、針の太さ5・5ミリ、長さ11・6センチ、幅3・4センチという大きなもの。それまで最大のものは、同じ福岡の遺跡から出た7・4センチのものだから、一気に4センチも記録を更新したことになる。墓の副葬品になっていたということは、それだけ鉄製の釣り針が貴重品だったということ。まして当時、副葬品つきの墓を持ったのはかなりの有力者だったはずだから、この辺りに漁業を仕切る豪族か何かがいたということになる。玄界灘を控えて、豊かな漁場に恵まれていたこの辺りの古代の人々が、こんな大きな針で何を釣り上げていたのか、興味は尽きない。おそらくマグロだったのではないかと思われるのだが……。(P162・P163)


『釣った魚の証拠を残す「魚拓」は歴史ある庶民の芸術』

釣り人たちの自慢話は、その日の釣果を誇る数やキロ数がほとんどだが、時間が経つほどに、自分が釣った魚がいかに大物だったかと話が大きくなるようだ。翌日には「このくらい」と示す幅が30センチだったクロダイが、一ヵ月もすると50センチになり、一年も過ぎれば80センチになるといった、まるで出世魚みたいに育って。そんな大げさな話に釘を刺すために考案されたのだろうか、それとも本当に大物を誇りたい人が思いついたのか、魚に墨を塗って和紙に型を録るのが魚拓である。これがいつ頃始まった習慣なのかはっきりしないが、現存する最古の魚拓は、天保10年(1839)年、庄内藩主・酒井忠発の釣ったフナのものといわれている。江戸の錦糸堀での獲物で、作成したのは藩士・林正中。今も鶴岡市郷土美術館で保存されている。酒井家は魚拓に熱心だったのか、安政2(1855)年、4年、6年のものなどが、知られているが、これが直接法による魚拓の始まりだったようだ。その後、糊を塗った魚の上に和紙を置き、その紙の上から墨をのせる間接法も考案されたが、これも文久2(1862)年に始められている。近代に入って魚拓作りが盛んになるのは、昭和初期。ようやく東京に釣りのグループが誕生し、系統だてた作成方法の研究が発表されるようになってからだ。今では海外にも紹介され、「ゴ」(碁)、「ボンサイ」(盆栽)などと並んで、趣味の分野で世界に通用する言葉になりつつある。(P166・P167)


『西郷隆盛は牢からイカを釣ることができた?!』

西郷隆盛は、勝海舟との直談判で江戸城無血開城の功績など、明治維新の立て役者として名高いが、それ以前に薩摩藩主島津斉彬の急逝などで不遇をかこったことがある。それどころか、奄美大島に変名で隠れ住んだり、罪人として徳之島や沖永良部島に流されて数年を過ごしたこともある。その沖永良部島時代の、釣りに関するエピソードが綴られているのが、『南洲翁テキ書逸話』(山口注:「テキ」の漢字表記は、「滴」のサンズイの部分が、言偏になる字)。南洲とは、西郷の号である。この島で、牢に幽閉されていた隆盛は、手持ち無沙汰ですることが無かった。「読書習字作詞の外、漁具を製作して以て一つの楽しみとなし、頗る其技に長ず」と書かれているのだが、この漁具というのが、鹿児島独特の「イカ餌木」といわれる擬餌鉤だった。たまたま夜釣りの松明が海面に落ちた時、その燃えさしにイカが巻きついたという習性に気づいたことから、江戸中期から鹿児島で普及していたものだ。西郷は、牢番に木を切ってこさせて、それを削ってはエビのような形の餌木を作った。見咎めた牢役人に、「これでイカを釣って役人宅へ届ける」と答え、翌日まさか牢から釣りはできまいと思っていた役人宅に、本当にイカを届けて驚かせるのである。「座して魚を釣る方法を案出し、昨夜その秘伝を応用した」とからかっているが、なんのことはない、西郷の作った餌木があまりに見事なので、漁師がそれを欲しがり、貰った御礼に牢へイカを届けたというだけのことだ。あの武骨な体で、思いがけず手先は器用だったのか、擬餌鉤作りは名人だったようである。(P193・P194)


この他の本書の内容は、魚が釣り人の存在を察知する「第3の目」の秘密や、ジャズやロックを聴かせてアジを釣る珍しい漁法をがある島や、スイカや酒粕を餌に釣り上げられる魚の話や。生きた化石として名高い古代魚のシーラカンスを食べてみた日本の学者たちの感想や、文豪アーネスト・ヘミングウェイの名作『老人と海』が最初に日本語に翻訳されたときの、思わず「?」と首を傾げたくなる誤訳などなど。『オーパ』という釣りをテーマにした世界紀行の作品で有名な、作家の開高健氏(故人)が、「三日間幸せに暮らすなら豚を殺して食べなさい。七日間幸せに暮らすなら結婚しなあさい。一生幸せに暮らすなら釣りを覚えなさい」という中国の古い諺を著書で紹介していますが、さて本書は皆さんに「一生幸せに暮らす」ための案内書となれるでしょうか?〔河出書房新社〕


博学こだわり倶楽部

互いの知識を競いあう、驚くほどの博学集団。メンバーは、常人が気にもとめない世の森羅万象にこだわり、その解明のために東奔西走して追究する。著書には、『退屈しのぎの博学知識塾T・U・V』『ネコに遊んでもらう本@AB』『イヌに遊んでもらう本@AB』『元祖!ラーメン本』『新鮮!寿司本』『時刻表の楽しみ方』『聖書の楽しい読み方』博学知識シリーズの『犯罪捜査』『ワイン』(河出書房新社)などがある。
posted by 管理人 at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 趣味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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