2012年01月01日

「馬と黄河と長城」の中国史 著者/西野 広祥

《チベット高原の北部、青海省にその水源を発し、大きく蛇行しながら、中国の大地を西から東へ5464キロメートルもの旅路を経て、渤海湾へと至る黄河。黄河は、その巨大な流れの中に黄土という肥沃な土壌を抱いて、その流域に豊穣をもたらして、四大河文明の一つである黄河文明、そして中国周辺の東アジア文明の原型までをも生み出した、偉大な母なる河ともいえよう。その黄河も時には荒れ狂う巨大な龍のごとく洪水という災厄をもたらしもするが、それ以上に肥沃で柔らかな黄土の恵みは流域の農耕民に恩恵を与えて、中華文明を繁栄させる富を生み出し、蓄積させてきた。その黄河文明の富を狙い、襲いかかるものたちがいた。黄河の北方にあるゴビ砂漠のさらに北、漠北ともいわれるモンゴル高原を馬を巧みに操りながら、風のように駆け、鳥の群れのように離合集散し、神技のごとき弓術と馬の機動力で、農耕民を翻弄し、恐怖させた剽悍な騎馬民族。匈奴、突厥、鮮卑、契丹、女真、蒙古と呼ばれたそれら騎馬民族は、馬に跨がり、羊を追いながらユーラシア大陸の広大な草原や砂漠を長征して、数多の農耕民族の国々を恐怖のどん底に陥らせ、文明や国家の興亡を左右してきた。その騎馬民族に最も悩まされ、苦しめられ続けた黄河の民である漢民族。野戦において兵の数こそ勝れど、騎馬軍団による神速とも思える機動力を相手には手も足も出せずに、奪われ、侵され、蹂躙され続けた。しかし恐怖と屈辱と逼塞の日々を虚しく過ごし続けるほど漢民族は軟弱ではなかった。母なる大河・黄河の恵みがもたらしてくれる富と生命をいたずらに、異民族に奪われたり、貢がされ続けたりしてなるものか。その富の生産力を国土防衛のために、死力を尽くして投じたのだった。その結晶が、万里の長城だった。秦の始皇帝によって完成され、その後も歴代王朝によって補強され続けた、東アジア大陸を南北に分断する未曾有の大防壁。漢民族の生存に懸ける執念が創り出した地上最大の建築物だった。古代から近世まで気の遠くなる年月の間に数多繰り広げられてきた騎馬民族と農耕民族の死闘と興亡を、騎馬民族の武器である「馬」、農耕民族の武器たる「防壁」(万里の長城)に力点を置き、さらに、あるときは豊穣をもたらす偉大な母として、あるときは災いをもたらす荒れ狂う巨大な龍としての黄河が漢民族と匈奴や蒙古などの北方騎馬民族に与えた影響を交えて、ユーラシア大陸東半部で展開されてきた悠久の興亡史の秘密を語る一冊です》


◎内容抜粋


『南に移された長城』

万里の長城は馬を来させないためのものだった。北方の異民族は必ず馬に乗って攻めてくるので、馬をくい止めるのが目的であった。だから、秦の始皇帝時代の長城は、高さがせいぜい2メートルから3メートルぐらいしかなかったが、それで用が足りた。現在我々が眼にする長城は、ほとんどが遥か後の明代(1368〜1662年)、それも16世紀になって造り変えられたものであり、時代とともに攻める方も守る方も進歩したので、高さもだいたい7、8メートルぐらいになった。明代の長城は馬をよせつけもしないほど立派なので、長城をめぐる熾烈なせめぎあいが行われたのは、むしろ明代以前の長城の方である。それらは、明代の長城よりかなり北の方に位置していた。明代に長城を北から南に移した距離は、平均すると100キロぐらいと言われる。が、距離よりも降水量でみたほうがわかりやすい。平均年間降水量が200ミリ台のところからだいたい500ミリのラインのところに移されている。日本の平均年間降水量が約1800ミリとされるから、どっちにしろ少ないが、少ないからこそ、その差は大きい。明代の長城は、山の稜線を辿っているところが多いように、地形的により険しいところを選んだ。が、南に移して造り変えたもう一つの理由は、降水量や地質のうえで少しでも屯田がしやすい場所を選ぶためだった。屯田とは、駐屯軍が自給自足できるように畑を耕して作物を作ることであり、明は平地で「屯八守二」を駐屯軍の方針とした。言い換えれば、屯田を第一条件とした 農作には平均年間降水量がぎりぎり500ミリは必要と言われるので、自然に500ミリの線になったわけだ。中国では、万里の長城のことを普通は略して単に長城という。長城は、北方異民族の騎馬を防ぐためのものだが、長城を造りさえすれば、それで防げるというものではない。それを守備する駐屯軍がいて、駐屯軍が長城と一体となってはじめて機能する性質のものだ。したがって、軍隊のいないときの長城は、長城のはたらきをしない。それは長城ではなく、単なる物体にすぎず、騎馬は簡単に侵入できた。歴史の中で長城が異民族に越えられたのは、中国側が政治的に混乱したり、その他の理由で守備兵が手薄になったときだ。平均年間降水量が200ミリ台の明代以前の長城付近は、海抜も高ければ気温も低く、しかも岩場や小石の多い地面であり、耕作に適さなかった。中国のどの時代も、どの王朝も、長城を守れるだけの駐屯軍を補給によってのみまかなう余裕は無かったので、どうしても屯田が必要だったのだ。そのため、明は、敢えて地理的に後退しても長城を南に移したのである(ただし、後述するように黄河の大湾曲部オルドス内の陝西省靖辺以西では明の長城が北、秦の長城が南に入れ替わる)。(P15〜P17)


『天高く馬肥ゆる秋』

歴史家の司馬遷も『史記』の中で言うように、北方の遊牧民族は、幼少のときから馬に慣れ親しみ、馬に乗って狩りを覚えた。 馬の上から弓でタルバガン(草原リス)や野ウサギなどの小動物を狙い、大きくなるとともに、狙う獲物も大きくなっていった。その日常的な騎馬と騎射が、そのまま軍事訓練になり、成人した男子の総てが戦士として戦えるようになった。だから、数こそ少ないが、移動が速く、手薄な処を選んで襲撃しては、巧みな弓術で攻めかかる。略奪したものは自分自身のものになるので、いつもやる気満々だったという。数で反撃されそうになると、逃げ脚が速く、さっと退却する。それはちょうど「鳥の群れ」のようだと、中国側の歴代の高官は地団駄を踏んだ。これに対し、中国の農耕民族は、鋤と鍬で生活をしてきた。軍隊といっても歩兵が中心であり、しかも普段は農耕をしている農民兵がほとんどだ。騎馬民族の襲撃を防ぐ手立てが無いのが実情だった。馬は最大の武器であり、相手だけがそれを使えるようなものだったから、中国側からみると、凶器を持った相手に素手で立ち向かうに等しかった。馬の機動力を使って敏速に遊撃戦、運動戦を展開されると、対抗のしようがなかったのである。ここに数千年におよぶ遊牧民族と農耕民族の戦いの構図が生まれた。それは農耕民族に対する遊牧民族の襲撃である。農耕民族が耕作して収穫した物を食糧の乏しい遊牧民族が襲って略奪する。いや、収穫した物にとどまらず、生命、財産までも脅かす。こうして、中国は、ほとんど有史以来、北方や西方からの異民族の侵攻に悩まされた。そのためにたとえば都を渭水のほとりから洛水のほとりに移したのは、前770年のことである。それまでの都を鎬京(今の西安付近)といい、後の方を洛邑(今の洛陽付近)といった。いかに早くから侵攻が始まっていたかである。遊牧民族が中国に向かって南下するとき、オルドス北辺の黄河を渡ることが多かった。これは、時期的には、短い秋が過ぎ、黄河が凍結して、騎馬が氷の上を自由に渡れるようになってからが適していた。春にも襲撃は行われたが、氷が解けるときだし、春から夏にかけては集中的に雨が降って増水する時期である。しかも春、夏は収穫したものが少なく、襲撃しても危険なわりに成果に乏しい。また、春、夏は、北のゴビ砂漠の彼方、すなわち「漠北」の草原にも種類豊かな草が生え、馬がこの草を糧に繁殖期をむかえる。いちばん襲撃に適するのは冬である。この時期が中国で言う「天高く馬肥ゆる秋」なのである。(P17〜P19)


『ハミとアブミ』

遊牧民が国家的な規模で歴史に登場し、中国を脅かすのは前三世紀頃の匈奴の時代からである。匈奴が急成長したのは、たんに頭曼単于(単于は匈奴の王の意)、冒頓単于のような優れた指導者が出現したからだけではない。この頃、漠北にハミ(馬銜)が伝来したという事情がある。 ハミとは手綱をつけるために馬にくわえさせる金具のことだが、この伝来によって騎馬の技術が飛躍的に発展した。西方の遊牧騎馬民族スキタイから伝わったといわれる。人間が馬に乗るには、現在でも手綱とアブミ(鐙)が必要である。この2つで馬を御す。馬に乗るときに足をかけるアブミはまだ開発されていなかったが、馬に慣れ親しんだ遊牧民にとっては、ハミさえあれば手綱が使え、自由に馬を御すことができた。秦の統一前、北方の諸侯国である趙の武霊王(在位前325〜前299年)が異民族に対抗するため、「胡服騎射」を唱えたことは、よく知られている。つまり、騎馬に適さない中国の服をかなぐり捨て、異民族と同じ騎馬に適した服を着て馬上から弓を射る軍隊を組織しなければならないとした。そうしなければ異民族に対抗できないとした。どれだけの実績があげられたか。少なくとも本質的に対抗できるまでには到らなかった。子供のとくら覚えた騎乗と後に訓練で得たそれとは全然違うからだ。農耕民族が馬に乗るにはハミだけでは足りない。アブミも必要だった。が、たとえアブミが開発された後でも、農耕民族が騎馬軍を創設して、異民族の騎馬軍に対抗できるまでになるのは現実には不可能であった。遊牧民の方は、ハミさえあれば騎馬隊を創って手練の武器を手に中国に攻め込むことができた。攻められる方は、ただの定住農耕民族であるから、簡単に家を焼かれ、財を奪われ、人間も殺されたり、連れ去られたりした。国境線も長いが、騎馬軍団は馬による移動という機動性を活かし、場所と時期を選ぶことができた。(P21〜P23)


『夷をもって夷を制す』

そこで、中国側としては、異民族の捕虜や離反者を優遇して国境近くに住まわせ、その騎兵としての能力を利用して、攻めてくる異民族を防ごうとする方法をかんがえついた。これが「夷をもって夷を制す」政策だ。宋の王安石の言葉であるが、実際は春秋戦国時代から諸侯国でも採用されてきた。騎馬に苦しんだ中国側の苦肉の策だ。長城を造ろうと、騎馬はある程度、騎馬で防がなければならない。そのためには、この策を採るしかなく、以来、中国の各時代を通じて伝統的に採用されてきた。(中略)しかし、異民族を利用して異民族を抑えるという政策は、極めて危険なことだ。彼らの力を強くしなければ意味をなさないし、強くし過ぎれば両刃の剣となって、いつ中国に向かってくるか、わからない。例えば、後漢末から五胡十六国時代にかけての混乱がそうだ。異民族国家が多数出現した。唐の安禄山の乱もそうだ。(中略)そこで「夷をもって夷を制す」政策と並行させて長城を重要視した。軍隊と長城の併用である。明代以前の長城は、土で造った長城がいちばん多いが、時代や場所によって、いろいろある。東の方や山区では調達しやすい石を積み重ねて造ったところもあれば、石と土の両方を使ったところもある。土といっても、黄土である。黄土は、水と一緒にしてタコ(杵の類)で突き固めたあと乾燥させると、非常に固くなる性質がある。そこで寸法を決めた板の囲いの中に黄土と水を入れて捏ね、タコで突き固める。日を経て囲いをはずすと土手のような長城ができる。いわゆる版築という製法であるが、さらに西のシルクロードの方に行くと、黄土の粘土の中に補強のために葦やタマリスクの枝を混ぜているところもあり、これが漢代の遺跡の中では意外に生々しく残っている。日本の昔の家の壁土に切り藁を混ぜたのと同じ原理だ。また表面に日干しレンガを積み重ねたところもある。日干しレンガとは、版築の長城と同じようにレンガ大の寸法で板の囲いを造り、そこに黄土と水を捏ねて入れ日干しにして造ったレンガだ。現在の長城のように焼いたレンガが使われるようになったのは明代も後半になってからである。そして、これはオルドス内の長城の途中から東方に限られる。これらのレンガが中国でいう「磚」(せん)である。秦時代の長城は、ところによってまちまちだが、高さが平均して2・5メートルぐらいであり、幅は平均3・5メートル、上部で2・5メートルぐらい。現在、我々が眼にする長城と比べると、ずいぶんと低い。中国各地に点在する遺跡を見ると、その多くがかなり崩れ、単なる土手の跡ぐらいに見える。だが、当時はその前に溝を掘ったり、さらにその手前に城壁のような土塀を設けたりしていた。これでかなり馬を防ぐことができた。馬を防げないことがあっても、長城を使って戦えば有利に戦えた。つまり、長城を単に異民族の騎馬に越えさせないためのものではなく、これと戦うための武器の一つと考えたわけだ。(P23〜P26)


『袋のネズミ』

北方異民族が南下して中国に侵入する場合は、まずオルドスを狙う。オルドスが狙えないときは、それより東の部分である今の山西省の大同方面を中心に狙う。 オルドスとは、黄河が上流部分で大きく北の方にコブ状、あるいは乳首状に曲がっている部分で、かつ長城の北側をいう。明末、モンゴルのタタール部の傘下がオルドス部として一時占領したことで慣用的にこの地方をオルドスと呼ぶようになったが、中国では「河套」(三方が河の意)と呼ぶことが多い。なぜ異民族は南下する場合、オルドスを狙ったか。オルドスには砂漠もあって牧草地があって、騎馬軍団には戦略的に適していたからである。砂漠は彼らが最も得意とする遊撃戦、運動戦を展開するのに有利だし、牧草地があれば馬の飼料が確保できるからである。しかもここを攻略すれば、すぐ南に中国の都を睨むことができる。黄河を渡ることができないときは東側の大同方面を狙う。長城を越えさえすれば、その辺りには中国有数の牧草地があり、オルドスと同じような条件になる。だから、この付近の長城は何重にも造ってある。ところによっては、なんと二十何重にもなっているという。長城を何重にもしておけば、迂闊に長城を越えた騎馬を本体から引き離し、袋のネズミにすることができる。長城を武器の一つと考えるゆえんである。異民族が南下して中国に侵入する季節は、前述のように冬が多い。漠北の秋は短く、一気に冬が来る。夏の間、ステップ(北方の草原地帯)で青草を充分に食した馬は、秋を迎えて体ができている。だが、体ができても、あくまでも生き物のことだ。その後も草を食さなければならないことにはかわりはない。元々、ステップにおける遊牧民は、春から夏にかけ、草と水を求めつつ、平原から涼しい山腹に移動して家畜を放牧する。これを夏営地(ジュラサン)という。平時ならば、冬は平原に戻り、北風が吹けば家畜を南向きの谷間に導く。ここを冬営地(エブルジャ)という。馬は比較的雪の浅いところを脚で掘って枯れ草を食す。家畜の乳、多くは馬乳であるが、その出は悪くなる。遊牧民の食料は白(乳製品)と赤(肉)といわれる。野菜は無い。野菜が無くとも、彼らは生きてきた。ビタミンは主に動物の内臓を通じてとる。冬の時期、彼らは乳製品を切り詰めなければならなくなる。家畜は痩せ、これを殺して食べるときは、文字通り財産を食い潰す思いだという。遊牧民にとって冬は家畜とともにひたすら耐える最も苦しい時期である。遊牧民の生活の良し悪しは冬次第だといわれる。昔の北方異民族は、この冬の時期に略奪を仕事として集団で南下したのであるから、現代の遊牧民族とは生活の内容が全然違ったわけだ。そして、リーダーが優れていれば、略奪したものを糧としながら強力な軍団になった。(P29〜P31)


『黄河の凍結期に渡る』

冬が南下に適している理由の一つは黄河の凍結にある。オルドスは乳首状の先端部分がいちばん北に位置しており、北緯40度以北となる。現在は内蒙古自治区のいちばん南の部分になるが、海抜が1000メートルぐらい。今でも、いちばん早い地域ではだいたい11月初旬になると氷塊が流れ出し、早ければ一週間もたたずに凍結する。が、人馬がその上を渡れるようになるには、なお時間がかかることがある。氷の厚さは平均約1メートル弱、その上に黄土が積もって平地と同じようになり、車馬の通行ができるようになる。騎馬も難なくその上を渡河できるようになるわけだが、1年のうち数ヵ月がこの状態になる。ただし、これらの氷の厚さ、凍結期間は、人民共和国成立後のものである。それ以前は水温がもっと低かった。人民共和国成立後に支流だけでも、200近いダムができ、もちろん本流でも青銅峡、三盛公(渡口堂)、劉家峡、塩鍋峡、さらに八盤峡、天橋、龍羊峡などに多目的ダムができ、全体として水温がかなり上がっている。この上がりかたは正確にはわからないが、氷の厚さでいえば、戦前の日本側の資料ではオルドスの先端部分で氷の厚さが1メートル50センチと記されている。さらに、たとえば1527年「八月庚戌」には数万のモンゴル軍が黄河の氷を渡って寧夏(今の銀川)を襲ってきたという記録がある。新暦に直すと、現在より二ヵ月近くも早く凍結していたことになる。たかだか400年あまりでもこうも違うのは、自然条件の変化ばかりでないことがわかるだろう。したがって、ダム建設以前は、現在よりも氷が厚く、凍結期間も長かった。少なくとも、古代から中世にかけての黄河の凍結期間は、現代より遥かに長かった。西から異民族も黄河を渡ってオルドスに侵入してきた。その場合は、今の青銅峡あたりからである。黄河は上流から銀川を過ぎると、川幅が狭い峡谷になって渡り難くなる。そしてオルドスの先端部分よりはやや南になるため、凍結も遅く、解氷が早い。しかし、凍結が一原因となって銀川は水陸交通のうえからも政治のうえからも古来要衝の地になっていた。無論、凍結前の氷塊が流れている間は馬では渡河などできない。土地の人は、かつて氷塊を舟がわりにしていたが、危険このうえなかった。自分の乗っている氷塊より大きな氷塊とぶつかるときは、衝突寸前にそちらに素早く跳び移らなければならない。跳び移るタイミングが遅れると衝突のショックで河にとばされ、命を失うことになる。 滑ったりして河に落ちればやはり同じ運命になる。そして、騎馬軍団にとって、凍結しさえすれば渡河できるというものでもなかった。(P32〜P34)


『冬の洪水』

凍結が原因となって冬の洪水になることがある。上流から流れてくる水とか氷が、凍結した巨大な氷塊(中国では「氷の堤」と言っている)に邪魔されて溢れるときだ。こういう大きな河川の酷寒地方の解氷の仕方には二通りがある。中国ではこれを「武開」と「文開」という(開は氷がとける意)。武開がおこるのは、上流の方が温度が高く、解氷が上流からおこなわれるときだ。文開は反対に下流の方が温度が高く、下流から解氷するときだ。文開の方は静かに異常がなくすむが、武開のときは上流で溶けた水が小さな氷塊と一緒になって流れ、下流の氷塊にぶつかる。これを繰り返しながら、下流の巨大な「氷の堤」な邪魔されて行き場を失うと冬の洪水になる。これを「凌ジン」という(山口注:ジンの漢字は、“迅“のシンニュウ部分がサンズイとなる字)。凌ジンが起こる方に武の字が使われ、静かで異常が無い方に文の字が使われている。オルドスの北緯40度以北の黄河は、それまでの北流から東流に変わるが、統計によれば、約60パーセントが武開になり、約40パーセントが文開になる。武開になるか、文開になるかは、風向、風速、気温による。 このあたりの冬は北西の風の影響が強く、記録的なものまでいれれば最低気温は零下35度に下がる。が、普通は零下15度から零下20度ぐらいである。凌ジンが起こるのは、上流では蘭州付近、それに銀川から内蒙古自治区にかけての北緯38・3度から41度ぐらいまで、下流では北緯34・8度から38度ぐらいまで、すなわち鄭州付近から渤海までとなる。中流は勾配が急で流れが速く、あまり凍結しない。匈奴以来、漠北の異民族の南下は冬に集中しており、必ずしもオルドスだけを狙っていないのは、黄河の氷の具合によった場合が多いとみられる。遊牧民の騎馬は凍結していない時期の濁った河川を極端に恐れた。それにはそれだけの理由があることだ。時代が下り、人民共和国成立後は、多数のダムで水量をコントロールすることにより、凌ジンの防止を行っている。が、これだけでは完全には防止できず、空軍による爆撃や、その他の爆薬使用によって氷を人為的に破壊する作業を行い、大きな災害になることはほとんどなくなった。要するに、黄河の洪水は大きく分けると、冬の洪水と夏の洪水の二種類になる。冬の洪水は、後述するように、1855年から100間でみると、下流だけで堤防が決壊したケースが29年ある。匈奴の時代は、水利事業があまりなかっただけ、その頻度はもっと多かった。したがって、異民族は毎冬オルドスを狙うわけにはいかなかったのだ。(P34〜P36)


『ヨーロッパとは対照的』

モンゴル馬、およびこの系統の馬はみな小さい。我々が、いま目にしやすいサラブレッドに比べると、二まわり、いや三まわりぐらい小さい。漠北(山口注:ゴビ砂漠の北、モンゴル高原)に住む異民族は、紀元前の匈奴時代より遥か以前の時代から、こうした小さい馬を飼い、これに乗り、生活の糧を得てきた。その頃、すでに牝の馬に牡のロバを掛け合わせてラバを産ませたり、牝のロバに牡の馬を掛け合わせてケッティを作り出そうと試行錯誤を繰り返していた。そういう知識や試みを持っていながら、彼らは馬を交配によって大きくしようとはしなかった。それから1000年経っても、2000年経っても、漠北の民族は、馬の大型化をはかろうとはしなかった。周知のように、13世紀のチンギス汗の時代には、西方に遠征し、次々に征服をし続け、ヨーロッパにまで軍を進めて史上最大の帝国を造り出した。これにより、ヨーロッパや中央アジアにいた大きい、均整のとれた、脚も速い馬を自由に手に入れる機会を得たわけだが、根本的にこれに乗り替えるとか、この血統で馬種を改良するとかなどは、考えなかった。ヨーロッパでは、こうした方針とは対照的だった。だいたい前17世紀前後のヒッタイトやアッシリアの時代から、ひたすら馬の大型化をはかってきた。有史以来とも言われる。軍事、運搬、乗用、競馬など様々な面から馬の大型化を必要としてきた。このため、モンゴル軍がヨーロッパに攻めていったときは、ヨーロッパの人間の眼には「ネズミのような馬に乗った未開人」の群れと移った。「ネズミのような馬」とは馬をこきおろすときの常套句である。なぜ、漠北の民族は、頑なに小さな馬にこだわったのか。むろん進化や進歩に無関心だったからではない。また、先祖の遺産を尊ぶとか、信仰的とか、他の理由によるものでもない。遊牧という意味からも、軍事的な意味からも、小さなモンゴル馬がすぐれているとみていたからである。(P49・P50)


『ナポレオンの敗北』

ユーラシア大陸を股にかけるような規模の遠征には、馬が克服すべき条件として、少なくとも3つあった。まず粗食に耐える。次に悪路をこなせる。そして厳しい気象にも屈しない。この3つは、互いに関連しあい、その一つが悪化すれば、途端に後の2つの悪条件も増幅される。例えば、飢えが続いた後ならば、悪路、気象条件が一段とこたえる。悪路ならば、餌もとりにくく、暑さであろうと寒さであろうと、疲労を増す。炎暑なら、飢えと悪路がそれだけ響く。これらのことは容易に想像ができよう。こうした粗食、悪路、厳しい気象に耐えられる馬となると、小さな馬しかいないのだ。大きな馬は、この一つにさえ、耐えられない。漠北の遊牧民族は、匈奴の時代、あるいはそれ以前から、経験的にこのことを熟知していた。だからこそ、1000年も2000年も、小さな馬にこだわり続けて、決してヨーロッパ各国のように馬の大型化をはからなかったのだ。これにより、広大なユーラシア大陸を自宅の庭のように駆け回ることを可能としたのだ。馬は小さい馬ほど性格的に扱い難いところがある。自己主張が強く、頑固で、気も荒く、人を乗せたがらない。だが、巧みに調教すれば、これらの気性のために逆に我慢強く、勇敢で、恐怖におののいたりしないようになる。遊牧民は、優れた馬の扱いと騎乗技術によって、まずこうした気性の馬を征服してしまい、軍事においても運搬においても、自由に使いこなせるように調教してしまう。しかし、彼らの技量をもってしても、牡馬は去勢する。 牡馬はごく少数の種馬用を除いて軍用に使ったが、軍用の牡馬は去勢しなければならない。去勢しておいたほうがおとなしく、扱いやすいばかりではない。去勢しなければ、いかに行き届いた調教をほどこしていようと。作戦実行中に敵馬や牝馬の匂いを嗅ぎ付けて、いななきやすいのだ。これは本能的なものであり、調教ではどうにもならないものだ。もし、作戦実行中にいなないたりすれば、作戦が失敗するばかりではなく、命取りにもなりかねない。去勢をしても、一年間ぐらいはだいたい性欲があるので、子馬のうちに行ってしまう。馬の去勢は、中国でも変わらない。おそらく騎馬民族との戦いの歴史によって去勢が常識になっていったのだろう。したがって、近代において、日本軍が日本から去勢されていない牡馬を中国に持ち込むのを見て、彼らは失笑を禁じ得なかったという。馬の大型化をはかり続けたヨーロッパの国や民族には、モンゴル軍が行ったような遠距離遠征は不可能だった。皮肉にも改良のはずの大型化が進めば進むほど出来なくなった。歴史上、東から西へ攻めていったことはあっても、西から東へ攻めたことはない。東から西へ攻めたのは、フンの時代もあれば、モンゴルの時代もあったが、西から東に大規模に遠征したことはない。前四世紀、アレキサンダー大王のときは、難儀をしながらも、カイバル峠、ヒンズークシ山脈を越えることはできたが、危険を冒してインダス川の支流を渡ったところで、疲れはてた傭兵たちの拒絶にあい、インド攻略を前に挫折した。馬の大型化が進んだ時代のナポレオンが試みたのはロシア遠征だったが、これまた成功はおぼつかなかった。大きな馬は長距離の遠征にはむかないのだ。(P71〜P74)


『小さな馬の利点』

日本の農村には、昔、馬の飼料について、「一寸倍」という言葉があった。モンゴル馬ぐらいの大きさの日本馬を基準にして、これより馬の体高が一寸高ければ、飼料が二倍は要るという意味である。モンゴル馬とヨーロッパの軍用馬とを比べると、体高は四寸以上の差がある。かりに三寸だとしても、この伝でいけば、ヨーロッパの軍用馬一頭が、モンゴル馬一頭の飼料の八倍も要ることになる。まさか、そんな差があるわけはない、とは思うが、重種(山口注:ペルシュロン種、ブルトン種、シャイヤー種等の重輓馬、北海道で重い丸太を曳いて競争する輓曳競馬の馬もこれにあたる)とポニーだったら、わからなくなる。ともかく、小さい馬と大きい馬とでは、そんな言葉が出てくるぐらい、餌の量がちがうということだ。とくに餌の乏しい条件のもとでは、その差は決定的だ。日本でも、貧しかっただけに餌をたくさん食する馬は嫌っていたのだ。ステップや砂漠では、飼料の条件が極めて限られている。小さい馬と大きい馬とでは、生死を分けるほどの差があった。漢から大宛への道程は(山口注:漢の武帝が遊牧民族・匈奴の侵攻に対抗するため、中央アジアの大宛国に産する名馬・汗血馬を獲得すべく行った遠征のこと)、どこまでも続くような砂漠やゴビ灘(山口注:砂ではなく豆粒ほどの小石で形成されている)だったり、岩の多い丘陵だったり、岩と岩の間で馬一頭がやっと通れるような隘路だったり、よく滑る岩の難路もあった。敵軍を避けた山中の行軍では、一歩間違えば谷に落ちる険路もあれば、山間の奔流で丸太の橋を渡らねばならないこともある。実際、フビライが経験した遠征は、こうした難路の連続だった。小さなモンゴル馬は、このようなとき、怯えることなく、驚くほどの器用さと粘り強さで、難路を克服する。その点、大きな馬は、不器用でもあれば臆病でもあり、事故を起こしやすい。そもそも、馬が危険を察知すると、巨体で抵抗して前へ進もうとしない。周知のように、万里の長城は多くのところで峻険な尾根を伝わっている。非常に険しい尾根には「単辺牆」といわれるように塀一枚だけのところもあるが、それでも長城である。これはモンゴル馬ならばそんな尾根でも越えられる可能性があるということを中国側が知っていたからだ。2000年以上も敢えて改良しようとしなかったモンゴル馬は、小さいばかりでなく、見映えもしない。頭が不格好に大きく、首も太い。たてがみが多く、眼が小さい。耳は短く、厚い。全体が毛むくじゃらで、背も低い。脚は体に比べて太く、どこにもスマートさは無いし、走って速そうな感じもしない。中国には、古く漢の時代に既に「相馬経」というのがあった。相馬経とは、馬の将来性を占うため馬体の各所を見てその良し悪しを鑑別する方法を説いた本である。こうした相馬経に照らしても、モンゴル馬は高く買える要素がまりでない。だから、漢の武帝が汗血馬を見て狂喜したのが、実によくわかるのだ。(P74〜P76)


『モンゴル人にとっての馬とは』

馬は用途によって優劣が異なる。楕円形の小さい競馬場では、モンゴル馬はサラブレッドには歯がたたない。が、ユーラシア大陸を股にかけるような遠征では、モンゴル馬のように小さい馬が、断然優れている。実際、今でも中国の競馬場ではモンゴル馬が走っているが、競馬場でのレースのタイムを比較すると、2000メートルで1ハロン以上ちがう。つまり、一緒に2000メートルのレースをすれば、モンゴル馬は、サラブレッドに200メートル以上も離されてしまう計算になる。チンギス汗の軍隊を眼にした当時のヨーロッパで「ネズミのような馬」といわれたのも、単に見かけだけではない。だが、モンゴル馬は、胸が厚く、後躯も発達しており、骨太の脚は頑健である。サラブレッドの「ガラスの脚」といわれるひ弱さは全くない。太い脚を使い、地面が凍って枯れ草が地面に埋まったときでも、遊牧だけで生きながらえることができる。モンゴル馬は、水や草にありつけなくとも、持ち前の精神力でなかなかへこたれない。草のあるステップといっても、高山帯あり、森林帯あり、砂漠帯あり、草や水にありつけないことも珍しくない。サラブレッドのような大きい馬をステップで遊牧させるとしたら、一頭あたり、どれだけの面積が必要だろう。飼料が充分でなかったら、天性の走る力も発揮できない。しっかり走らせるためには穀物も与えなければならない。サラブレッドだったら、どんな穀物にしろ、1日に四升から五升は食べる。サラブレッドの祖先にあたるアラブ種がアラビア半島で育ったのはアラブのオアシスで穫れた大麦を与えたからだ。穀物を食さなければ走れないような馬はステップの遠征には向かないのだ。そして充分な餌を与えられても、レースといえば、競馬でいう「馬なり」の時間、つまり馬の気分のまま走らせる全力疾走とは限らない時間が長い、せいぜい3000メートルぐらいの距離だ。漠北で行われるモンゴル馬のレースは、伝統的に20キロ、30キロが普通だ。いちばん人気のあるレースは30キロだ。冬のレースでも15キロある。死ぬまで我慢して走り続ける精神力を持っているので、レースでは死ぬ馬が続出する。ユーラシアの遊牧民族と西方の馬愛好民族とでは、考えていること、やることが全く違うのだ。かつてアラブ種は、アラビア半島で、砂漠の中をより速く、より長く走れるようにするため、穀物を与えられ、栄養をつけられて育った。もともと砂漠の戦闘に備えるとか、商用のキャラバン等を襲って略奪行為をするなどの目的をもって創られたから、距離といっても、ユーラシア大陸の遠征に比べると、たかがしれている。せいぜい数キロももてばいい。したがって、こういう馬とモンゴル馬と、どっちの馬が優れているか、という設問はあまり意味をなさない。モンゴル民族は、漠北の遊牧やユーラシア大陸の遠征には。モンゴル馬がいちばん優れていると信じていた。経験に富んだ生粋の遊牧民がそう判断してきたのだ。『馬と進化』のシンプソンはこう記している。「モンゴル人は、馬によって軍事的成功を得たばかりか、その全文化の本質を馬に求めた典型的民族であった。モンゴル人にとって、馬の無い生活はあり得ず、馬は武器であり、そして防御物であり、さらに食料、飲物、友人、神であった。馬の乳は日常の飲物として新鮮なまま、または軽く発酵させクミスにして飲んだ。このクミスからはまた、度が強くてモンゴル人の酒宴の席でひどく人を酔わせるアラック酒を作った。食料を持たないで旅をする兵士は、時々自分の馬を切り開いて血を飲み、傷口を閉じると再びその馬に乗ったものである」(原田俊治訳)ここで言う馬とは、無論、身体の小さなモンゴル馬のことである。もし、身体がサラブレッドぐらいに大きな馬だったら、どうだったか。13世紀のモンゴル軍が、同じ数の馬を連れていたら、餌の量からして餓死させねばならない馬が多かったろう。餓死させないために数を減らしていたら、遠征は成功しなかったろう。机上の空論ではなく、モンゴル軍が李広利(山口注:漢の武帝が汗血馬を獲得するために中央アジアの大宛国に遠征軍を出したときの将軍)の遠征のように馬をたくさん餓死させたという記録は残していない。現実に疲れていたはずの馬を使って戦勝し続けた記録が残っている。小さなモンゴル馬だからできたことである。 (P78〜P81)


『最初の万里の長城』

万里の長城は、あくまでも馬をくい止めるためのものであった。このことを忘れると、犠牲が大きかった事実、長城が何度も越えられたという事実だけで長城を見てしまう恐れがある。だが、長城の効用については、もうひとつの事実を考えてみるべきである。すなわち、長城のおかげで黄河流域の民の営みが続けられたという事実である。 秦が天下を統一した後、万里の長城を造り始めてから、明の大規模な工事により今日我々が眼にする万里の長城になるまで、実に1800年間を経ている。この間、幾つかの例外を除けば、ほとんどの王朝が万里の長城を造り変えたり、なおしたりしている。これら多数の王朝の皇帝たちは、大きな犠牲を払いながら、役にも立たない長城の補修や増築をそれぞれに国力をかたむけて行うほど、おめでたい権力者たちだったのだろうか。中国が秦の始皇帝によって統一される前の戦国時代、各諸侯国はそれぞれに自国の周囲に長城と同じような城壁を造っていた。むろん版築によるものがほとんどである。それはちょうど黄河の洪水を防ぐとき、堤防を造るのではなく自分の領土を囲むように城壁を造ったのと同じ発想である。この城壁は他の諸侯国の軍、とりわけその主力をなす戦車をくい止めるのに大きな役割を果たした。(中略)北方の諸侯国の城壁は、他の諸侯国の軍だけではなく、北の異民族を防ぐ目的があった。異民族の騎馬軍団は極めて戦闘力が強く、その防御には頭を痛めた。確かに城壁で全面的に防ぐことはできないが、それが全く無くて戦うのと、それを防壁にしつつ戦うのとでは、全く違う。秦の始皇帝による統一前、漠北の東方、すなわち今の東北南部、河北省の一部にまたがる地方に燕の国があった。燕の西側、今の河北省、山西省、内蒙古自治区にわたる地方に趙の国があった。さらに趙の西方、オルドスの大半、今の寧夏回族自治区、甘粛省、青海省におよぶ広大な地域に秦があった。これらの城壁を活かして、それをなおしたり、繋いだりしながら、完成させたものである。始皇帝によって造られた長城は、今の甘粛省の臨トウ(山口注:トウの字は、サンズイに兆)から遼東まで一万余里だったと『史記』には記してある。秦は、万里の長城として活かした北の城壁以外のそれまでの城壁は、すべて支配した土地の民を動員して取り壊した。中国が統一された以上、それは不要になったばかりか、統一を妨げるはたらきを持つからである。取り壊す労力もまたたいへんなものであったろうが、わりに短期間で行っている。(P219〜P221)


『本格的長城の建設』

長城が完成しても、それは頻繁に越えられる。だが、越えられても、越えられても明(山口注:朱元璋がモンゴル民族の元帝国を滅ぼして建国した漢民族の王朝。1368〜1662年)は長城を補修するばかりか、16世紀後半にはいると、高さで約三倍、費用と労力はおそらく何十倍にものぼる長城の増改築にとりかかる。過去、多くの王朝が長城にこだわってきたが、明は特別である。我々の見る明の長城は、北京近くの居庸関から山海関までの表面をレンガで覆った堅牢なものだが、こういう形になるのはその16世紀後半になってからのものである。それまではほとんどが版築だったり、石を積んだ長城だった。ここのところが日本人にはわからない。何故、どうせ越えられるのに大きな犠牲を払って長城を造り続けるのか。だが、これはおそらく他国に本質的に侵されることの無かった人間だけが覚えられる疑問である。その根本はオール・オア・ナッシングである。まったく越えさせないか、玉砕かである。だが、大陸ではそうはいかない。人間は生きなければならない。生きるために食わなければならない。食うためには生産(農作)か商いをしなければならない。農作を守るには大きな犠牲をともなう。犠牲の無い生き残り策は無い。長城をめぐるせめぎあいには、島国の人間には想像も理解もできない厳しさがある。たとえ襲撃され略奪されようと、それが日常的でなく、たとえば一年に一度、三年か四年に一度ならば、農作は続けられる。貧しくとも、生き残ることができる。つまり、長城によって襲撃の回数を減らすことができれば農作ができる。王朝が倒され、家族が殺され、混血となり、ついには人種がすっかり変わろうと、農作ができる限りは生きられる可能性がある。もし、長城を造らなければ、日常的に襲撃されると覚悟しなければならず、それでは農作どころか、おちおち眠ることさえできないのだ。だから、長城を造り続ける長城を越えられ、襲撃され略奪されると「没法子(しかたない)」で、諦めるしかないが、実はこれは本当に諦めるのではなく、生き続けるためのしたたかな知恵なのだ。後述するが長城は、異民族にある程度越えられることを覚悟して、或いはそれを前提して造ってある。越えられたら、その時点で諦めるのではなく。次の手立てを考える。戦術的に相手を袋のネズミにすべくわざと越えさせたことだってある。長城はそういうものであり、そのように造られている。強力な敵に対して日本流に玉砕戦法を選ぶなら、農耕も亡くなれば文明も滅びたであろう。「生きて虜囚の辱しめを受けず」などという思想はとんでもない。これはユーラシア大陸では滅びの哲学だ。たとえ一兵なりとも生き延び、反撃のチャンスを待つ。これが大陸で生き残った民族の現実的な思想である。だから、長城は造り続けられた。これにより、農耕生活は続けられ、黄土文明は守られてきた。ならば長城は人類が血と土にまみれながらもしぶとく生き続ける尊い努力とエネルギーの証しと言えないだろうか。(P297〜P299)


『越えられたら明の長城』

我々は、長城を見るとき、これを攻めようとした敵軍があって、その敵軍を首尾よく撃退できれば、なるほど長城は役に立ったと納得しがちだ。たとえば、長城に登ってくる敵を弓や鉄砲で追い返す、あるいは矛や刀で叩き落として退ける。こういう記録があるなら長城は建設の努力の甲斐があったと認めたい。が、そんな子供向きのような撃退劇は現実には少ない。だから明の長城は結局無駄だったと思われがちになる。しかし、長城は、攻めてきた敵を退けるという状態では、まだ最上とはいえない。最も優れた長城とは、敵をよせつけもしないほど堅牢であることなのだ。(中略)だが、始末が悪いことに、敵をよせつけもしなかったということは歴史に残り難い。歴史に残るのは、つねに突破されたときばかりだ。明の長城も、山海関を清軍(山口注:清=現在の中国東北部を発祥の地とする女真族が、明を倒して建てた王朝)に突破された。結局役に立たなかったではないか、と、こうなってしまう。だが、実状を見てみよう。清は初代の太祖ヌルハチ、二代目太宗ホンタイジとも、長城攻略には成功しなかった。ホンタイジは何回も長城突破を企てて失敗している。三代目の世祖フリンは即位したとき六歳だったので、叔父のドルゴンが摂政を務めた。このドルゴンの軍が山海関に迫っていた頃、すでに明の側に大きな政治的異変が起こっていた。明の上層部の腐敗が進み、経済は破綻し、農民暴動が多発して、その一つ李自成の反乱軍が北京を占領して、国全体が崩壊寸前となっていた。1644年3月19日、反乱軍は遂に宮城に攻め込んだ。時の明の皇帝は崇禎帝であったが、すでに完全にハダカの王様になっていた。急を知った崇禎帝が自ら緊急の鐘を鳴らしたが、誰一人として駆けつける者はいなかったという。これが明末の状態を象徴している。こういう明の状態で、山海関は突破された。それまで山海関を守っていた明の守将は呉三桂という。何度も清軍を退けてきたが、明が滅ぼされ主を失ったため、新たな支配者の李自成に従うべきかどうか、迷った。一方、李自成は、当然、呉三桂が自分に従うものと読んでいて、宮中で女性と享楽に耽っていた時、呉三桂が李自成の軍に矛先を向けたという報に接して仰天したという。呉三桂は、父が李自成の軍に投獄され拷問を受けていること、婚約者であった美貌の陳円円という女性が李自成の部下の劉宗敏という将軍に奪い取られたことを知って、李自成に同調しないばかりか、これと戦う決心をしたという。李自成はこれを聞くと、呉三桂を討つべく20万の兵を発して山海関に向かった。単独では李自成にかなわない、とみた呉三桂は、なんとそれまで敵だった清軍に救援を求めた。清は渡りに船とばかりに、これに応え大軍を差し向けた。呉三桂は清軍を長城内に招き入れ、先導役を務めて北京に向かった。大軍に攻められた李自成は退き、遂には北京を支えきれず、宮殿に火を放って逃れた。が、結局戦死する。こうして長城は清軍に越えられたらのだ。これは堅牢な長城も役に立たなかったから越えられたのではない。どんな長城だって兵と一体になっていなければ機能しないのだ。明の長城が本当にその機能を発揮したのは、中国が清の領土になってからだ。(P317〜P321)


『清朝がうけた恩恵』

まがりなりにも長城を越え中国を征服した清は、康煕帝(聖祖)、雍正帝(世宗)、乾隆帝(高宗)の時代となる。この三皇帝は名君とされ、とくに長命でもあった康煕帝(在位1661〜1722)、乾隆帝(在位1735〜95)は、並べられて康煕乾隆時代と呼ばれる。 三代の合計は134年間におよぶが、善政をしいたため、社会は安定して生産が空前の高まりをみせ、この経済的繁栄によって人口が回復し、さらに大きく増加し、国力の充実を成し遂げる。のみならず強大にして賢明なる対外政策によって版図も漢、唐の時代を凌ぐ史上最大なものとなった。漠北には親征も含めてたびたび遠征し、モンゴルの残存勢力を討って以後、それらしきものは僅かにガルダンに率いられたジュンガル部ぐらいであった。それも康煕帝の軍によって衰勢の一途を辿らされた。文化的にも深い関心をよせ、『康煕字典』『古今図書集成』『四庫全書』他を生み、文運盛大な時代を築く。しかも、康煕帝の使った宮中費用が明代のそれに比べ著しく少なかったと、その節倹ぶりが称賛される。清の前半は良いことずくめだ。長城は必要がなくなった時代と言われる。本当にそうだろうか。これら清の善政の治積の全ては、明の長城ができていたことを条件とし背景として、初めて行えたことではないだろうか。明時代の堅牢な長城が無ければ、やはり北の異民族は全く別の強力な異民族となっていたかもしれない。したがって清も別な清になったかもしれない。明の長城があればこそ、北の異民族の勢力は強くならず、来襲が無くなり、あたかも長城の役割が終わったようにみえるだけなのだ。まもなく脅威になってくるロシアとて、騎馬の強さだった。日本はロシアに勝ったが、前述のように騎馬戦では、コザック部隊に圧倒された。ロシアに対して清が強く出られたのも明の長城があったからだ。(中略)逆に言えば、明の長城が無ければ、清王朝も北の脅威をうけて短命に終わったかもしれない。清の長命王朝は明の長城の賜物だったと言えるかもしれない。このことに触れることなしに、万里の長城は無駄なことのようにみなされてきたのではなかったか。単に長城が歴史の上で異民族に何回も越えられたらという事実だけで判断されてきたきらいがある。あるいは、日本人の心理的背景には、間接的にしろ、火器が発達した時代に日本軍が簡単に長城を越えたということもあるのかもしれない。無用の長物と解釈することは、長城の果たした役割を正当に評価することにはなるまい。少なくとも、そこからは何の歴史的理解も生まれないし、そんな解釈によって長城に眠る万骨の霊が浮かばれるとも思われない。反対に、長城の果たした役割を単なる無用の長物などとみるのでなければ、アジアの歴史の読み方もかなり変わってくるのではなかろうか。より複雑、豊富になって、多くの真実が読み取れるようになるだろう。長城のひとつひとつの土塊にすら熱い感情が湧いてくる気がする。(P321〜P324)


本書の内容はこの他に、モンゴル騎馬軍団による中央アジアや、さらに遠くロシアやヨーロッパへの征服の進軍と、数々の凄絶な戦いについて。その兇猛剽悍さで行く先々の国や民を震撼させながら、ユーラシア大陸に空前絶後の大帝国を築き上げたモンゴル軍団が、唯一恐怖した大自然の猛威、黄河の洪水について。漢の武帝が宿敵の匈奴を撃滅するために、中央アジアの伝説の名馬「汗血馬」を獲得するべく国力を傾けるほどの大規模な遠征とその結末。 東アジアの歴史書の元祖にして、長年にわたり手本とされてきた『史記』に記された、秦・漢と匈奴との間で繰り広げられた、死闘と遺恨と恥辱と雪辱の史劇や、万里の長城の長城が漢民族どころか、異民族の征服王朝さえも、それを重んじ、それに頼り、補強を続けてきた例などなど。万里の長城が「無用の長物」という論の、我が国での主唱者が誰であるかを私は浅学のため知りませんが、もしもそれが第二次大戦後に出てきた論だとしたならば、いかにもマッカーサーの呪いである憲法第9条に毒された戦後日本の歴史観らしいなと思います。敗戦・被占領という、その時その時の好ましからざる結果だけを取り上げて、それを防ぎ、抗うための組織や道具の存在を、安易に無価値と決めつけ、それが作られたり、実行されるに至るまでの経緯、努力、必然性を考えない。過去の様々な事情や先人たちの苦労も、未来への大目標や子孫たちへの思いも頭の中には無い刹那主義者の歴史観に思えます。私が尊敬する小室直樹氏(故人)は、「万里の長城は無用の長物」という論を次のように斬り捨てていました。「これだけの膨大な努力をして造り上げたものが、無用の長物だったというなら、世界最高峰の中華文明を築いた人々が何千年にもわたって発狂し続けていたとでも言うのか?」(記憶を頼りに再現したので一字一句まで正確な再現ではありません、念のため)と。そして在日華僑で歴史作家の陳舜臣氏も、その著書で、「遊牧民は、羊を追って移動するから、羊が進むのを阻止できれば、それでよかった」と、長城の有効性を認めています。もちろん何度も長城は越えられ、遊牧民に蹂躙され、支配されたことがあるのも事実ですが、この世に万能の道具も、完璧な方法も存在しない以上、そういう結果になることもあるでしょう。しかし、たとえ万里の長城は突破されようとも、万里の長城を造り上げた中国人の強靭な生命力は、現代まで中国を存続させ続け、10数億の巨大な人口を擁し、核武装までした大国として世界に大きな影響力を示しております。そして我が日本国をはじめ、近隣のアジア諸国の大きな脅威となっているのが現実です。私はこの現代における中国の恐るべきパワーは、数えきれないほどの北方騎馬民族の侵攻や支配という危難と屈辱にもしぶとく耐え抜き、万里の長城を建設し、補強し続けた漢民族の血と汗と涙の遺産だと思います。万里の長城についての言及ではありませんが、国際ジャーナリストの落合信彦氏は「生存への執念が無い国民は滅びて当然」と語りました。まさに万里の長城こそは、漢民族の生存への執念の凄まじさの象徴と言えるのではないかと思います。そしてこの漢民族に負けないくらい強い「生存への執念」が、私たち日本国民にも必要なのではないでしょうか。〔PHP文庫〕


西野 広祥
昭和10年、東京生まれ。東京都立大学中国文学科博士課程修了。慶應義塾大学教授を経て、東北公益文化大学教授。昭和43年日本中央競馬会月刊『優駿』300号記念懸賞論文に一等当選。昭和59年より10年間日本中央競馬会運営審議委員。主な著訳書に、『韓非子』『史記』『十八史略』(以上共訳、徳間書店)、『中国見たもの、聞いたこと』(新潮社)、『中国古典百言百話(2)韓非子』『新釈荘子』『人物中国五千年(共編著)』(以上、PHP研究所)などがある。
posted by 管理人 at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 世界史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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