2011年11月01日

銃に恋して〜武装するアメリカ市民 著者/半沢 隆実

《その黎明期、彼らは自身の生存を「銃」に託した。まだその地理や風土が定かならぬ新天地。そこには治安機構も存在せず、自らに襲いかかる暴力的危難は自力で解決しなくてはならなかった。また文明が存在せず、未開の荒野で生計を立てねばならぬ条件下において、銃による狩猟は生命維持に必要不可欠だった。だから彼らの社会において銃の所持と使用は、神から与えられた不可侵の権利と誰もが考え、その思想と権利が継承されてきた。その「彼ら」の名は「アメリカ人」。対英国独立戦争、先住民との抗争、バッファロー等の狩猟による食糧確保や、家畜を襲う狼の排除、そして広大な大地ゆえに生じる治安機構の限界を補う護身のために、アメリカ人は銃を最良のパートナーとし、頼り、誇り、愛した。一方で、大量無差別殺人や、強盗、暗殺等を実行するための手軽な凶器として、多くの人々を傷つけ、悲しませ、脅かし、社会を悩ますものでありながら、しかしそれでも我と我が共同体の平和と安全にとって最も頼りになる強い守護神として信仰にも近い思いを多くのアメリカ人たちが抱いている「銃」。アメリカ人の自衛に関する倫理観と、銃無き日本社会からは異質とも思える市民感覚について、情緒やイデオロギーによらず、歴史的・風土的な考察を行って、まとめあげられたアメリカ文化論です》


◎内容抜粋

【銃がつくった国家】

『政府を倒す道具』

1994年バージニア州で結成された「ブルーリッジ・ハントクラブ」は、狩猟同好会を隠れ蓑にした民兵組織であった。 創設者のジェームズ・ロイ・マリンズ(その後服役)は、政府が銃規制を強化しようとしていることを「人民への抑圧だ」として反発、一斉蜂起を計画した。「友人諸君。まだこの国にも骨のあるやつ、ガッツをもったやつらがいることがわかって嬉しい」。武器弾薬の備蓄を仲間に呼びかける演説を第一回集会に向け用意していたことも、自宅から押収されたコンピューターのデータなど証拠品から明らかになった。逮捕後の裁判で五年間の禁固刑を受けたマリンズ被告は、会員の元兵士や元警官らに対し、「作戦の重要な一部となる」として狙撃手養成訓練への参加を求めた。M16アサルトライフル奪取のため、州軍基地の襲撃も計画していた。こうした暴力主義の武装集団とは一線を画すものの、“銃による革命権“の存在を主張する人々や団体は数多い。「個人の身を守る銃は、個人の権利を政府から守る道具でもある」という考えからだ。全米ライフル協会(NRA)と並ぶ強力な銃の権利推進派ロビー、米銃所有者協会(GOA)の関連組織で、カリフォルニアを本拠とするカリフォルニア銃所有者協会(GOC)のサム・パレデス代表が、その論理を解説してくれた。それは、銃と民主主義の不思議な共生関係であった。「支配階級は、他の階級が武装するのを快く思わない。だがアメリカ建国の父たちは、政府が圧政を布くときには革命を起こすべきだと考えた。そのためには銃が必要で、必要なら武力で政府を倒す力を持っているのが、民主主義のあるべき姿だ」とパレデス氏。ジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソン以来続く伝統でもあると言う。政府や支配者層が、自分たちだけのために権力を乱用する可能性は政体にかかわらず常にある。銃の力でそうした圧政を許さなかったのが「アメリカが専制国家にならなかった理由の一つだ」、とパレデス氏は考えているのだ。だが、まさにそうした圧政や暴力と流血を避けるために政治プロセス、つまり選挙を基盤とした民主主義制度が存在するのではないか。この点を質問すると、「選挙が機能する限り暴力には訴えるべきではない。それでも選挙が機能するとは必ずしも保証されていない」という答えが返ってきた。興味深いのは、「為政者が人民を恐れることは、民主主義にとって悪いことではない」という主張だ。民衆が銃を持つことは、普段から民衆を怒らせてはいけないという圧力を政府にかけ、良い政治を引き出す手段にもなるからだという。許容できる武装の範囲については、「戦車やバズーカは無理だろうが、ライフルや拳銃を所持するのは、人民の権利の範囲内だ」とパレデス氏は語った。アメリカが独立戦争を戦った当時は、ケンタッキー銃が歩兵用の最新兵器だった。これを現代に当て嵌めれば、「M16が個人の武装としては適当だろう」という見解である。M16は現在でも米軍が制式採用する、主力の自動小銃だ。銃の力による究極の民主主義の在り方を説くパレデス氏だが、狂信的な銃信奉者のイメージには当て嵌まらない。敬虔なクリスチャンで、休日には子供とハンティングを含むアウトドアやバーベキューを楽しむ日常を柔和な表情で語る、典型的なアメリカの良き父親といった雰囲気だ。これもまた良き父のしるしでもある少々大きめのお腹を気にしながらも、銃規制に反対するロビイストとして忙しい毎日を送っている。インタビューの場所は、政治家を相手に銃規制法の成立阻止活動などをする“主戦場“である、カリフォルニア州議会。重厚な議会ビルのカフェテリアでパレデス氏は、私のどんな質問にも笑顔で丁寧に答えてくれた。銃を所持する権力を侵害すべきではないとしながらも、「アメリカには銃の数が多すぎる」と、野放図な現状を批判するバランス感覚も持った人物であった。それでも武装権については非常に頑なであった。パレデス氏は「そもそも武装の権利は憲法解釈論を超えた基本的人権であり、アメリカ国民だけでなく日本人も含めすべての人類が武装の権利を保有する」と考えているのだ。銃なき国家日本から見ると、銃が溢れるアメリカ社会が奇異に映ることを伝えると、「アメリカ人は、5、6人ぐらいの家族で、牛を飼いながら数千キロを旅し開拓する生活を送り、国家の歴史を築いてきた。(日本と比べて)どちらが良いという問題ではなく、拠って立つ歴史と文化が違うのだ」と力説する。(後半略:P30〜P34)


『政府への不信』

ニューヨークで核テロが起きたとする。炭疽菌が主要都市でばら撒かれたとする。でもそれは政府の仕業かもしれない。ナチス・ドイツが1933年の国会議事堂放火事件を共産党の犯行と主張したように。保守系の米ジャーナリスト、リチャード・ポエ氏は、著書『銃規制、七つの神話(The Seven Myths of Gun Control)』(Prima Publishing,2001)で銃規制を許してはならない主な理由に、強烈な政府不信を挙げる。「議事堂放火事件は他国の出来事と思い込みがちだが、歴史は教えている。政府が圧政の口実をつくるために攻撃をでっち上げることがあり得ると」ポエ氏は、選挙結果が無効となったり、人々が令状もなしに逮捕されるような事態は他国では日常茶飯事であり、アメリカでも起こり得ると主張する。銃を規制することは、「いかなる事態でも黙って政府の言うことを聞くしかない」と考えるような市民を仕向ける。 政府に抵抗し得る武器を持つのを禁じようとしているからだ。「そもそも銃を持ったところで、戦車や戦闘機、核兵器まで持つ政府に勝てるはずがない」とする規制派には、国民皆兵のスイスにナチスのヒトラーが侵攻しなかった例を挙げて、強く反論している。「戦車と急降下爆撃機などによる電撃作戦を駆使するヒトラーが、総合的軍事力に劣るスイスを本気で攻略しようと思えば1週間でできたはずだ」と指摘。そうしなかった理由は「国民皆兵制だ」と分析できるのだと言う。「スイス人のゲリラ戦による抵抗をコスト計算したヒトラーは、スイス侵攻を断念せざるを得なかった」として、圧倒的に武力に不利でも、抵抗手段を持っていれば、国民が圧政を思い止まらせることが可能となると説く。こうした抑止理論は、対ソビエト冷戦に勝利したアメリカの政策にも通じるという。「左派は核戦争が起きれば人類は滅びるのだから、核を廃絶せよと言う。だが、レーガン大統領は常に核ミサイルの発射ボタンに指を置いておくことによって、核戦争の無い時代を築いた。我々も常に銃の引き金に指を置いておくことによって、圧政を予防し、平和を維持できる」。また、圧政や暴君との戦いは常に続いている、と言うのはNRAの政治ロビー部門、NRA立法活動研究所(NRA―ILA)のクリス・コックス代表だ。「アメリカ独立時の指導者らが明確に理解していたように、善良な市民は自衛の手段を奪おうとする暴君と戦わねばならない」。そして、自衛の手段を奪おうとする試みは、歴史が証明するだけではなく、現在もあり、また将来も続くと主張している。コックス氏は、ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグ氏ら全米の銃規制派市長の連合や、国際社会でアメリカの銃政策を批判する国々を「アンチ銃のギャングたち」と呼ぶ。 銃を持つことは、国家が誕生した時点から認められた権利であり、「自由な市民として生き続けるための糧であると同時に、我々をアメリカ人たらしめている」と考えている。パレデス、ポエ、コックス各氏に共通するのは、銃の力への揺るぎない信頼だ。先住民族を倒し、牛を襲う狼を撃ち、英国からの独立を勝ち取り、ソビエトを崩壊させた力。力(銃)を信じることで弱肉強食の社会を生き抜いてきた国民としての誇りが、必要とあれば現代でも政府を武力で倒すことができるという主張を生んでいるのだ。特にポエ氏の指摘は、アメリカの核武装論と銃の権利擁護論の2つが底流で繋がっていることを浮き彫りにしている。(P34〜P37)


『憲法に生きる民兵精神』

1492年のコロンブスによるアメリカ発見後、16世紀から17世紀初め新大陸への植民活動が本格化した。当時の植民地では当然、警察などの治安機構は、存在すらしていない。家族や共同体を守るのは住民自身、という意識が生まれたのは自然なことだ。その後、先住民との戦争を経て、自ら武器を調達し共同体を守る民兵となるのは、健常な成人男子の義務とみなされるようになる。その力が発揮されたのが、1775年4月に始まる対英独立戦争だ。英国の財政難を救うための過大な課税に反発した植民地の人々は、73年12月のボストン茶会事件を経て、本国と本格的に対立。75年4月、マサチューセッツ植民地のレキシントンとコンコードで戦闘の火蓋が切られた。強力な兵装と数で勝る英国軍に対し、植民地側はそれぞれが持ち寄った銃で武装した民兵によるゲリラ戦で抵抗、非正規軍との戦いには不慣れであった英国軍に多大な被害を与えた。このとき、アメリカの銃所有権擁護派にとって今日でも極めて重要である、武装した「民兵」という存在が確立された。彼らは、ミニットマン(Minuteman)とも呼ばれた。普段はそれぞれの仕事や生活を営むが、臨戦の召集があれば一分(one minute)以内に参集できるとの意味で、日本でいえば武士の「いざ鎌倉」に通じる精神は、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の名称や国境監視グループの名称に使われるなど、アメリカ人の誇りとして今も生き続けている。合衆国憲法は1787年9月17日、フィラデルフィアでの制憲会議で制定された。間もなく中央政府の権力強大化により個人や州の権利が侵害されることを懸念する声が高まり、89年9月25日、第一条から第十条までの修正が発議され、91年12月15日成立した。その第二条(武器を所有し携帯する権利)は、「規律ある民兵は、自由な国の安全にとって必要であるから、国民が武器を所有し携帯する権利は、これを侵害してはならない」と謳っている。(後半略:P37〜P39)


『現代に生きる民兵』

憲法に謳われた民兵の精神は、現代にも生きている。メキシコ国境の警備に、費用面などから及び腰の政府に代わって立ち上がった市民たちだ。「空港のセキュリティーで乗客に靴を脱がせてテロ対策ができていると思っている連中に、この光景を見せたいね」。カリフォルニア州の「ミニットマン・プロジェクト」に参加するためフロリダ州から大陸を横断して駆けつけた男性、ブリット・クレイグさんは、皮肉と怒りが交じった表情でメキシコ国境線を指さした。全長約3000キロに及ぶアメリカとメキシコ国境は、1200万人に上るとみられる不法移民の主要な玄関口だ。ミニットマンは、国境を民間人の手で守るため2004年に組織された。クレイグさんが陣取っていたのは、カリフォルニア州南部サンディエゴ郊外の国境線。低木が疎らに生える乾燥した丘陵地帯に、メキシコ側からの不法移民を止めるために設置された高さ約3メートルの鉄製フェンスが、地平線の果てまで続く。だが近づいて見ると、老朽化したフェンスはあちこちが隙間だらけで、体の大きな大人でも容易に擦り抜けられる。メディアが「壊れた国境」と呼ぶ両国の間を、推定で年間50万人が不法越境する。フェンス周辺のすぐメキシコ側では、ペットボトルやスナック菓子の袋、新聞紙が散らばっており、不法移民が自由に行き来している実態を物語っていた。酒の空瓶やトイレの用を済ませた跡もあちこちにあり、国境というよりマナーの悪いキャンプ場といった風景だ。不法移民はメキシコのほかグアテマラ、ホンデュラスなど中南米諸国の出身者がほとんどで、昼間は国境近くの窪地に隠れ、夜中になると米側の国境警備隊員による巡回の合間を縫って、フェンスを擦り抜けるという。クレイグさんらミニットマンの監視員は、24時間態勢で主要な越境ポイントを見張り、発見すれば国境警備隊などに通報する。基本的に不法移民のグループとの接触は避けるが、怪我人や病人に対しては、医薬品の提供なども行う。不法移民の越境ガイドをビジネスとして手引きする組織は、夜間に活動するため「コヨーテ」と呼ばれ、一部には麻薬組織の構成員も含まれる。軍用ライフルなどで武装しているため、監視員側も護身用に拳銃などで武装している。ベトナム戦争への従軍経験を持つ退役軍人でもあるクレイグさんは、他の数十人のボランティアと交替で歩哨を担当。週に一回程度、シャワーや買い物などのために町に出掛ける以外は、国境フェンス沿いにある仮設テントで暮らす。テント入口に置かれた無線機からは、時折、本部基地からの状況報告連絡が雑音混じりに入った。常時携帯する拳銃を使ったことはまだない。だが、クレイグさんは「アメリカには憲法で保障された自衛の権利がある」と、修正第2条を引き合いに、必要な場合の発砲は正当であることを強調する。 そして憲法が武装を保障するミリシア(民兵)の一員であることに、強い誇りを持っていた。(P44〜P46)


【アメリカ銃社会の実情】

『開拓時代からのDNA』

「女房の射撃がなかなか上手くならんのだ。困ったもんだ……」。被災地に近いファーストフードのレストランで、地元の中年男性がこんな会話を友人と交わすのを耳にした。何かと物騒なので銃を持たせたが、女には無理かも」という嘆きだった。2005年夏、超大型ハリケーン「カトリーナ」の直撃で、米南部、ルイジアナ州のニューオーリンズは、市中心部の約八割が水没するという壊滅的な被害を受けた。死者数は約千人、百万人以上が避難民となり、周辺地域や他州に逃れた。警察を含めた行政機関はほぼ機能を停止。道路が寸断され、他州からの救援部隊は被災地入りを阻まれた。逃げ遅れて食料や医療品、飲料水にも窮した市民らは、市内のあちこちの商店やスーパーマーケットで略奪、一部はこの機に乗じて、銃砲店から銃器を盗むなどしていた。ルイジアナ州は、もともと薬物絡みのギャング抗争や、警察官の汚職の深刻さが指摘される全米で有数の犯罪地帯だ。ジャズやブルースの演奏で知られる歓楽街、バーボンストリートのあるフレンチクオーターを抱える同市内を、昼間から銃を抱えた犯罪者が跋扈する事態となった。このため大繁盛したのが、周辺地域の銃砲店で、護身用に拳銃や散弾銃などを買い求める市民が殺到した。一部の店では品切となり、アーチェリーやパチンコ玉などを強力なゴムで飛ばすスリングショットですら飛ぶように売れた。市中心部や周辺部などの家々や商店には、自衛のため「Looters! I Have a Gun(略奪者へ告げる、私は銃を持っている)」との警告文が、ペンキやマジックで壁面一杯に書かれた。「警察はあてにできない」。何度も地元の住民に聞かされた。自分の身は自分で守るしかないと確信する、武装市民が甦ったのだ。危機において武器が売れる現象は、01年9月11日の米中枢同時テロの後にも起きている。初めての米本土本格攻撃によって、約三千人が死亡するという未曾有のテロに対する恐怖が、全米各地で市民を銃砲店へと駆り立てたのだ。二機の旅客機がワールド・トレードセンターに突っ込んだニューヨークから4000キロ近く離れた、西海岸北部のワシントン州でも、テロ発生間もなくシアトルなど主要都市で各地の銃砲店の売り上げが約1・5〜2倍となり、その傾向は事件から約半年間続いた。公共の場所で衣服の下などに隠して外見上は分からないように拳銃を持つこと(秘匿拳銃携帯)には許可が必要だが、シアトルを含むキング郡で、この許可を申請した人の数は2000年の9、10月が約200件であったものが、01年の9、10月には約350件とこれも急増した。「シアトル・ポスト・インテリジェンサー」紙によれば、地元警察に提出された秘匿拳銃の携帯許可申請も倍増した。地元警察関係者によると「(航空機まで使う)テロ組織の攻撃に、どうやって拳銃で立ち向かうというのか理解できない」というのが冷静な見方だが、次の攻撃への不安が高まる中、「人々は少しでも安全だと感じることができるよう、何かの対策を取ろうと必死」だったようだ。この傾向は、銃規制に関する意識変化にも現れた。ギャラップ社の世論調査(07年4月)によると、「銃の販売に関する規制はもっと厳しくあるべきと思うか」という問いに対し「はい」と答えた割合は、1990年で78%で、その後2000年に入る頃には、60%前後で推移していた。しかし、中枢同時テロが起きた後の01年10月には53%に急落、その後2、3年間この水準を保った。イスラム過激派によるテロの脅威を身近に感じ、「銃はいつでも入手できるべき」との考えが広がったためだ。これに対応して、「規制は緩和されるべきか」という問いに対する「はい」の答えは、やはり同時テロの後に急増している。この調査から、個人か国家かを問わず、危機においては銃が必要だと考えるアメリカ人が多数派であることがわかる。これもワシントン州の例だが、1999年にシアトルで世界貿易機関(WTO)の閣僚会議に反対する非政府組織(NGO)の一部が暴徒化し、非常事態宣言が布告された際や、西暦2000年にコンピューターが誤作動するY2K問題が騒がれた時期にも、“銃の買いだめ“ブームが起きた。こうした事例を振り返ると、危険を感じるとすぐに銃に手を伸ばす習性は、先住民の襲撃に怯えながら粗末な小屋暮らしを送った開拓時代からの「アメリカ人の心を形成したDNA」との指摘が理解できる。(P58〜P62)


『銃なくば死を』

クリントン政権下の2000年3月17日、全米で最大の銃器メーカー、スミス&ウェッソン(S&W)は、銃の安定協定で同政権と歴史的な合意に達した。@安全ロックなど子供が銃を操作できない装置の開発、A購入希望者のバックグラウンド・チェックを販売店に義務づける措置を取る、B保有者以外が操作できない工夫を銃に施す、などの規制を定めたもので、主要な銃器メーカーとしては初めての試みだった。 これは、強硬な銃の権利推進派には“惨めな敗北“と受けとめられた。同社はこの協定が原因で、「武装の権利を脅かす」と、失望した長年のS&W愛好家や銃の権利推進派などによる脅迫や製品ボイコットに晒された。しかし当時の最高経営責任者(CEO)、エド・シュルツ氏は、決してただの弱腰でそうしたのではない。会社と武装の権利を守るため、宿敵クリントン政権との妥協という苦渋の選択をしたのだ。繰り返される銃犯罪に銃メーカーの責任を問う集団訴訟が相次ぎ、たばこメーカーのように巨額の和解金や賠償金を支払うことになれば、製造者として存在できなくなる、との判断だった。シュルツ氏は武装権への思いを後にこう語った。「銃を所持する権利は私にとって絶対の権利なのだ。もし、政府がそれを取り上げようとしたら、喜んで命を投げ出し抵抗するだろう。なぜなら、銃を所有できない世の中など、生きている価値がないからだ」。政権との妥協は、ビジネス上の算盤勘定だけでなく、銃を世に送り出し続けることを使命と自任するがゆえの決断だった。命を賭して武装権利を守ろうとしたもう一人の人物として忘れてはならないのが、故チャールトン・ヘストン氏(08年4月5日死去)だ。ヘストン氏は、武装権利擁護の覚悟を示す言葉として、「From My Cold Dead Hand」を後世に残した。NRA集会で壇上に立ち、アメリカの銃と独立の歴史を象徴するケンタッキー銃を高々と掲げ、そう叫んだのだ。市民から銃を取り上げようとする政府に対し、「From〜」という言葉で、死んで冷たくなった私の手から銃をもぎ取れ、つまり「私と戦って殺す覚悟をもて」と、挑戦状を叩きつけたのである。代表作の「十戒」(1956年)のほか、「大いなる西部」(58年)や「大いなる決闘」(76年)など、西部劇でも活躍したヘストン氏は、世界の映画界を代表する名優でありながら、政治的には超保守派のイメージが強い。「From〜」のような発言や、1998年から2003年まで異例の長期にわたってNRA会長を務めたことで極端な保守派としての印象を強めたが、実際のヘストン氏は、本来はリベラルに近い考えの持ち主であった。黒人
がまだバスで白人と同じ席に座ることが許されなかった1963年、黒人公民権運動指導者、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師とともに、数少ない白人の著名人としてワシントン大行進に参加したことなどは、人々の記憶から消えつつある。こうした経緯を考慮すれば、多くの人々の記憶に“最後の出演作“として残る映画が、コロンバイン高校乱射事件と銃規制問題を鋭く批評したドキュメンタリー「ボウリング・フォー・コロンバイン」(2002年、マイケル・ムーア監督)であったのは皮肉な話だ。ムーア監督はこの映画の中で、ヘストン氏を頑迷な銃マニアの象徴として描いた。そのヘストン氏は、NRA会長に就任間もない1999年2月16日、ハーバード大で行われたNRAの集会で、銃規制派が勢いを増していることについて、「我々は再び南北戦争に突入しようとしている。それは文化の戦争であり、生まれながらに与えられた我々の権利を奪おうとする戦いである」と警鐘を鳴らした。演説でヘストン氏は、武装の是非をめぐる議論を超えたアメリカの価値への挑戦が起きていると主張。リベラル派が生み出した幾つかの事例を挙げ、文化侵略の行き着く先に、銃所有権利の侵害があると強張した。例えば、「オハイオの大学では同級生との交際で、キスから性交渉に至るまでの行為についてどこまで許すかの合意文書を事前に作るよう大学が指導している」、「サンフランシスコでは、性の中間にいる市民が性転換手術を受けるまでの間、使用する特別なトイレを設置する条例が導入された」など。リベラル勢力が一切の差別を排除するため推進したポリティカル・コレクトネス(政治的公正性)の潮流は、性別、身体的特徴、宗教などを指摘した表現や行為、法規などを否定したため、逆に軋轢を生んでいる。ポリスマンの呼称はポリス・オフィサーとらなり、近年では年末の「メリー・クリスマス」をクリスチャンだけを重視しており不当であるとの観点から、宗教的意味合いの薄い「ハッピー・ホリデー」と言い換える表現も一般化。ヘストン氏はこうした空虚な人権主義、教条主義的なリベラリズムの潮流こそが伝統的な権利である武装権に対する最大の脅威だ、との考えだった。これは、彼らが、銃規制問題の議論を通して守ろうとしているものが、銃を所持する権利を取り巻く伝統的な価値観であることも示している。(P100〜P105)


『武装市民』

アリゾナ州に住む59歳の女性、サンドラ・フロマンさんが生まれたのは、カリフォルニア州サンフランシスコ。全米一のリベラルな気風で知られ、ベトナム戦争時代には反戦運動の中心地でもあり、現在も銃規制が最も厳しい都市の一つだ。ユダヤ系の家庭で育ち、名門のスタンフォード大を卒業したフロマンさんが、銃の権利推進派に転じたのは32歳、カリフォルニア州で弁護士として働いていた頃だ。ある夜、自宅玄関先の物音に気づいたフロマンさんが見たのは、外側からドライバーで玄関を抉じ開けようとする男の影だった。時刻は午前3時で隣人を電話で呼んでも応答はなく、やむなく警察に電話し、助けを待った。「もし警察が到着する前に侵入されたらどうなる」。自宅には銃は無い。実際に銃には触れたこともないフロマンさんは、警察の到着をただ震えながら待った。幸いその男は途中でドアを抉じ開けるのを諦めて立ち去ったが、「最後は銃しか自分を守るものはない」と実感した。翌日、銃砲店に駆け込んだ際、希望する銃のタイプを聞かれて「何でもいいから銃を下さい」と叫んでしまったという。その事件後、フロマンさんは射撃教室の生徒となり、さらに銃のコレクターへ転身。NRAにも入会し、幹部へと昇進する。遂にはチャールトン・ヘストン氏の後継者として、2007年までNRA会長を務めた。在任中のスピーチでは「銃の必要性を教えてくれたあの時の侵入犯に感謝している」と冗談を飛ばして聴衆を沸かせるのが常で、銃の権利に目覚めた元銃規制派の代表格になった。銃で身を守ったという体験を持つ人は多く、NRA広報誌「アメリカズ・ファースト・フリーダム」は、毎号そうした銃犯罪絡みのニュースを報告している。そのコラムは「武装市民(Armed Citizen)」と名付けられ、各地の各地のNRAメンバーが、地元の新聞やテレビが伝えた銃による護身の成功例を同誌編集部に投稿するという、手作りの銃権利擁護キャンペーンだ。全国紙や海外からでは知る機会の無い程度の小さな事件の数々だが、犯罪社会に生きるアメリカ市民が銃に頼る姿が垣間見える。ペンシルベニア州カーライルに住む75歳の退役軍人、ユージーン・ジョンソンさんが寝室前で怪しい音がするのに気づいたのは、08年5月30日の午前2時頃。見知らぬ男の影が窓越しに見えたため、侵入犯と確信したジョンソンさんは枕元にいつも置いておいた拳銃を握った。男はジョンソンさんが目を覚ましたことに気づき「俺は銃を持っている」と脅したが、ジョンソンさんは男がいる暗がりに向かって、「ああ、俺も銃を持っている。それはあんたに向いている」と叫んだ。男は間もなく逃走、地元の司法当局者は、「窃盗などが目的の侵入犯は、常に撃たれる可能性に怯えている。銃で脅したジョンソンさんの行動は正しいものだった」としている。別の事例では、テキサス州サンアントニオで、空き巣の被害を受けた39歳の男性が、犯人が再び自分の家を狙う可能性があると考えて銃を購入し、待ち構えた。案の定、深夜になって18歳の男が侵入、男性はこの男を射殺した。犯人は身体的な特徴から空き巣犯と同一人物とみられ、地元警察は男性の発砲を正当防衛と断定した。NRAによれば、これらのエピソードは年間200万件に及ぶ銃による人命保護実績のほんの一部に過ぎないという。(P116〜P119)


『コルトの功績と神話』

「エイブラハム・リンカーンは人間を自由にした。サム・コルトが人間を平等にした」アメリカの名門銃器メーカー「コルト」は、この言葉を創設者であるサム・コルトへの敬愛を込めて、会社のモットーとして長年使っている。奴隷解放で黒人を白人と平等な立場にしたのは、第16代大統領のリンカーンだが、優れた銃の能力によって体力や人種、肩書などの差を埋め、人間に真のビョウドを与えたのはコルト銃だ、というのがそのメッセージのようだ。コルト銃が登場する19世紀前半まで、拳銃といえば一発か二発しか装填できず、発射のたびに弾を詰め替える必要がある、フリントロック式が主流だった。この時代にサム・コルトは、5ないし6発の弾を装填しシリンダーを回転させることで次々に発射できる回転式拳銃を発明、銃器の歴史に名を刻んだ。従来の拳銃に比べて発射、装填速度などで圧倒的に優れた回転式拳銃は、1845年まだ揺籃期にあったアメリカ軍に採用され、先住民との戦闘で威力を発揮する。その後の改良型を含め、コルト拳銃は「西部を平定したピースメーカー(平和の創設者)」との異名を取るようになった。西部開拓時代には、土地を白人によって不当に奪われたことに憤慨し、弓矢で立ち上がった先住民族の部族戦士を、高性能のコルト銃が倒した。また職人の手作業によるところが大きかった当時の銃器製造を、工場での大量生産システムに切り替え、庶民が買えるような価格で提供し、耐久消費財化したのもサム・コルトだ。一方で、銃が西部開拓地に平和をもたらした、という歴史観には誤解もある。コルトのピースメーカーをホルスターにおさめ、保安官が「俺の銃こそが法律だ」と嘯く無法地帯、西部の町。こうした情景は、ハリウッド映画が作り上げた虚構であるというのだ。ニューヨーク州立大のロバート・スピッツアー教授(政治学)は、著書『銃規制の政治(The Politics of Gun Control)』の中で、カウボーイが集まる交易地点であり治安の悪さで知られたダッジ・シティ(カンザス州)などを分析している。同書によれば、開拓時代の殺人件数が、年に5件に過ぎず、ダッジ・シティと同じく危険な町とされたサウスダコタ州のデッドウッドでも、年間に4人が殺されたのが最悪の年として記録されているだけである。西部劇で最も名高い決闘の一つである「OK牧場の決闘」の舞台となったアリゾナ州のトゥームストーンでも、多い年で5人の殺人が起きた程度であり、勇ましい西部劇のヒントになった逸話は、殆どが噂話の域を出ていないことが明らかになったという。また1870〜85年の資料では、ダッジ・シティを含む西部の治安ワースト5都市で発生した殺人事件は計45件で、そのうち16件は警察や保安官による発砲だった。町の郊外に住んでいたカウボーイたちも銃を使うことは極めて稀で、カウボーイの生活や歴史に詳しい専門家も、「決闘の物語は、殆どが新聞記者や小説家の創作だった」ようだとしている。保安官らの仕事も「酔っ払いの世話や捨て犬の始末などが主要な業務」で、やはり「西部で起きた殺人の大部分は、騎兵隊と先住民族の戦いだった」としている。スピッツアー教授によれば、真に西部を開拓したのは、移住した牧畜業、交易やビジネスに従事する人々であり、彼らは町ができると、まずは治安安定のために市民の武装規制を要求したという。(P129〜P132)


【おわりに】

『彼らが銃を捨てられない理由』

日々銃の脅威に曝されながら、銃とともに生きる。一見、不可解なアメリカ人の銃への執着には、2つの明確な理由がある。1つには、第二章でテーマとした国家の生い立ちに由来する理念であり、それは「敵を倒さなければ自分は生き残れない」という生死観と一緒にアメリカ人の意識に深く沈殿している。17世紀初頭、ヨーロッパの宗教的な迫害を逃れ、新大陸へ自由を求めたアメリカ人の祖先たちは、過酷な環境の中、ハンティングで動物を狩り、貴重な食物を得て生き延びた。やがて英国の植民地搾取が、入植者らの忍耐の限界を超え、独立戦争が発生。圧倒的に劣勢にありながら、ゲリラ戦を展開することで勝利した。それを可能にしたのが、歩兵レベルでの当時の最新兵器、ケンタッキー・ライフル銃であった。銃全般の権利推進・保護を旗印にしながらも、NRAが、“ライフル“協会であって、“銃“協会でないのは、本来ライフルこそがアメリカ人の心の拠り所であった歴史に基づいている。NRAの会長であったチャールトン・へストン氏が、死んで冷たくなった私の手から銃を奪えと叫んだ際、高々と掲げたのはケンタッキー・ライフル銃であった。こうした独立の歴史から彼らが学んだのが、「自由と民主主義は、時として武力によって勝ち取るべき」、ということであった。もし圧政を布く政府が出現しても、人民が武装し抵抗力を持つ限りは、為政者の意のままにはならない。抵抗し、勝利することで、自らの尊厳と自由が維持できるのだと経験的に会得したのだ。独立戦争を勝ち抜いたアメリカ建国の父たちは、憲法という国のバックボーンに、武装の権利をDNAのごとく埋め込んだ。その遺伝子を民兵精神として受け継いだ銃の権利推進派は、武装の権利を「神が人間に与えた不可侵の権利」とみなしており、一部は「銃を持つ自由のない社会には、生きる価値はない」とすら考えている。こうした理念と並ぶもう一つの柱が、より現実的治安の問題で、銃による護身目的だ。NRAが名づけた「武装市民」たちが紹介するように、銃が一般市民の命を守った例は数多い。日本など他の先進国のように比較的治安の安定している国で、都市生活を送る人間には想像しにくい部分もあるが、隣家まで20キロ、最寄りの町まで50キロなどという居住環境も珍しくないアメリカの地方では、異常事態が発生した場合、警察官の到着をただ待つわけにはいかないのが実情だ。史上最悪の犠牲者を生んだバージニア工科大の乱射事件は、大学キャンパスに「銃には銃を」の武装論を巻き起こした。「乱射の現場に必ず立ち会うことができるのは、犯人と被害者だ」という図式は、単純だが的を射た主張だ。ガンショーの話の中で紹介したように(山口注:全米各地で行われている銃の展示即売会)、1分間に800発もの銃弾を連射できる改造小銃を民間人が手にできる現状では、数分間(場合によっては数秒)の対処の違いが、ただの発砲事件と虐殺事件の差を生むからだ。こうした特殊性を考慮すれば、「銃の無い社会を」という理想を、そのまま今のアメリカに受け入れろというのは、酷な要求であることが分かる。既に2億丁を超える途方もない数の銃火器が存在しており、意図的な横流しや過失を含め、所在や所持者が不明となる銃だけで、年間に50万丁に上る。そうした社会で、市民の武装解除を強行すればどうなるか。本当に安全な社会が出来上がる可能性も長期的にはあるだろうが、結局「犯罪者だけが密かに無数の銃を持ち続け、丸腰の市民に狙いをつける」という悪夢のシナリオが実現してしまやないだろうか。それはあまりにもリスクの高い実験となる。(後半略:P193〜P197)


これまで紹介いたしました内容抜粋は、銃所有権擁護論、市民の銃による武装肯定論のものでしたが、著者の半沢隆実氏ご自身は、銃があまりにも数多く流通し、容易に入手可能なアメリカの社会が、たとえ「正当防衛」のためとはいえ、「健全」であると言えるかどうかに極めて懐疑的であり、銃の蔓延するアメリカ社会の被害の大きさについても深く憂い、さらに政治において強力な圧力団体と化し、ロビー活動で、アメリカ政界を左右するNRAの強引な実態等についても本書にてかなりのページを費やして紹介しており、結論としては半沢氏は「危険な銃を社会から排除すべき」という銃規制支持派です。しかし、同時にアメリカ社会が「銃」によって誕生し、維持・発展してきた歴史的経緯や風土的な必要性も熟知しており、独立戦争や西部開拓を銃の力で行ってきたアメリカの先人たちや、その後継者たるNRAや他の銃権利擁護者、銃の愛好者や信奉者を、感情的、イデオロギー的に批判・否定せず、銃規制支持派としての自身の意見や信条よりも、銃を愛し、銃を頼り、それに強くこだわる人々の姿や考え、事情や経験を多く記すことで、武装市民国家を創りあげたアメリカ人の本質に迫ろうとしました。 だから本書は、銃によってもたらされるアメリカ社会への悲劇や弊害にもしっかり触れながらも、全体の印象としては「銃あってのアメリカ」、「銃による武装がアメリカの自由・正義・平和を守ってきた」、「銃は多くのアメリカ人の精神支柱」という印象を受ける内容となっております。銃所有権を肯定する論と、銃規制推進を唱える論と、どちらに軍配を挙げるかは、皆様が各々実際に本書をお読みになって考えてみてください。 ちなみに私自身は、銃所有権肯定派の論に好意的になりがちです。 より正確には自衛のための武装と武力行使の肯定・推進論と言えましょうか。現在の日本が、マッカーサーが押しつけた憲法前文および第9条に起因する非戦・非武装精神が社会全体に無制限・無分別に拡散・浸透し続けたために、国防や、自衛隊の必要性や役割を蔑するにとどまらず、警察官が暴漢・無法者に対して職務遂行のために発砲することにまで過剰で理不尽な批判や論難が巻き起こる風潮に、子供の頃から反感や苛立ちを感じ続けている私としては、どうしても銃による武装、自衛反撃の必要性を謳う人々に好意的な心情を持ってしまう傾向になりがちです。ただし、そうはいっても私もまた、銃とはほとんど無縁な日本社会で生まれ育った人間には違いなく、銃に対する専門的な知識や経験は無いので、そんな私が、いくら心情的に同意できても、論理的にアメリカのような銃社会を肯定する論を展開する自信はさすがに無いのも事実です。いま唱えられるのは、せいぜい警察や自衛隊、海上保安庁のような安全保障や治安維持の役職にある方々が職務遂行や自衛反撃のために武器使用することへの法的な規制や、社会の心理的な抵抗や狭量がもっと緩和され、然るべき理由があるならば躊躇せず発砲できるような、法整備や国民的合意がなされることを願うにとどめ、個人の護身のための銃器による武装の是非については、今後もいろいろな書籍を読んで、無学非才の身ではありますが、私なりに慎重さも忘れずに、考え続けていきたいと思っています。〔集英社新書〕


半沢 隆実
1962(昭和37)年、福島県会津若松市生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、88年共同通信社に入社。大阪支社、浦和支局、本社社会部などを経て、外信部へ配属。カイロ支局特派員、ロサンゼルス支局長としてパレスチナ紛争、アフガン、イラク戦争、ハリケーン「カトリーナ」被害などを取材。2007年から外信部デスク。
posted by 管理人 at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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