2011年10月01日

そんなバカな!〜遺伝子と神について 著者/竹内久美子

《肉体的な特徴を血縁ある次世代に伝達するのが「遺伝子(ジーン)」なら、知恵や行動様式を血縁を越えて次世代へ伝達するもの、その名は「ミーム」。動物学者のR・ドーキンスが、模倣するというギリシャ語の(mimeme)をベースに記憶(memory)をひっかけて作成した言葉。自身の複製を存続させ続けることに極めて利己的である遺伝子(セルフィッシュジーン)が、その乗り物(ヴィークル)であるそれぞれの生物を繁殖させるためのプログラム。ミームによって生物は、「文化」という、血縁を超えた繁殖戦略を進化させた。 そしてその血縁を越えた繁殖戦略は、遂には無謬にして不可侵、不死身のリーダーである「神」を生み出した。深遠なる人間行動の謎を動物行動学者・竹内久美子女史があなたにお贈りする一冊です》

さて今回は、動物行動学者の竹内久美子女史の代表作ともいえる『そんなバカな!〜遺伝子と神について』です。“利己的遺伝子(セルフィッシュジーン)“という考え方から、動物の行動を支配するメカニズムを探り、さらに“ミーム“という名の、文化を伝播・継承させる無形の存在から、人間の意識や行動の謎を追究していく一冊です。ところでこの本は、実は当インテリジェンスの初期の頃に一度紹介済みのものなのです。それを何故再び紹介いたしますかというと、実は、この記事を作成している時期の数ヵ月前から、諸々の事情で大変忙しく、新しく本を購入するために書店めぐりをする時間もない状態が続いているため、未紹介の本は底を尽きかけている状態なためです。当インテリジェンスは現在でこそ内容を一部抜粋しておりますが、初期の頃に紹介した本は、内容抜粋はしておらず、この『そんなバカな!〜遺伝子と神について』もそのひとつであるため、それなら今回は内容も紹介して、更新の繋ぎにしようと思った次第であります。f(^_^;もっとも内容は、前回紹介しなかったことが惜しまれるくらいに面白いものですので、こういう機会ができたことで、新しい本を購入できないほどの多忙も、案外悪くはないかな……なんてね。(^◇^)それでは竹内久美子女史の語る、利己的遺伝子(セルフィッシュジーン)と、血縁を越えた自己複製子(ミーム)の世界をご覧ください。

◎内容抜粋


『ミームという名の曲者〜ニホンザルのイモ洗い文化』

宮崎県串間市の石波海岸から沖へ200メートルほどのところに一つの小さな島がある。周囲は3キロメートル、最高点の標高は114メートルである。亜熱帯性の植物に被われた美しい島なのだが、あまり人が住んでいる気配はない。住んでいるのはニホンザルで、ここがあの有名な幸島である。幸島の名が有名になった理由の一つは、この島が日本のサル学の発祥の地だということである。戦後間もない頃、京大の今西錦司氏は伊谷純一郎氏、川村俊蔵氏、河合雅雄氏ら多くの若手研究者を率いて未開拓の分野に乗り出した。サルの研究地は今では、北は下北半島から南は屋久島まで全国至るところに分散しているが、ここは一番早い時期から研究が行われている。サル研究のルーツの地である。もう一つの理由は、かつてここで大変画期的な発見がなされたことである。研究を始めるにあたり、当然のことながらサルの頭数が数えられた。ところが、どう数えてみても僅か20頭ほどしかいない。サルの群れと言えば50〜60頭はいるのが普通で、ときには100頭を越えることもある。おそらく島の食糧事情が良くないのだろう。それに研究を進めるためには、サルたちにもっと接近することが必要だ。そこで海岸などにサツマイモを撒いて餌付けが始まった。1951年のことである。だが、これがなかなかうまくいかない。サルたちは極度に警戒しており、研究者が現れるとサッと森へ隠れてしまうのだ。サツマイモは手付かずのまま放置されることもしばしばだった。結局、こういう状態が半年以上も続き、餌付けが一応成功したと言えるようになったのは翌年だった。サルたちはこの予期せぬ贈り物に無論、文句のあろう筈はなかったが、それでもやや不満に思えることがあった。海岸の砂がイモの切り口にくっついてしまい、ジャリジャリとして食べにくいのである。手で払うとか腕の毛でブラッシングするという程度の工夫は誰しも思いつき実行したが、どうも今一つであった。次の年(1953年)になっても、彼らは相変わらず砂つきのイモをかじっていた。ところが、ある秋の日、前の年に生まれた一歳半になるメスの子ザルがサルとしては異例の行動を開始した。彼女はイモを川へ持って行き、切り口を川の水で洗って食べたのである。それは片方の手でイモを持って水に浸し、もう一方の手でゴシゴシ擦るというやり方で、我々がイモを洗う動作と何ら変わりがない。ニホンザルで一歳半といえば、やっと離乳し、少しは固い物も食べられるようになったばかりの時期である。彼女は随分前にこのとっておきの方法を思いついており、それを実行に移す機会を狙っていたねかもしれない。ともかくこの噂は研究者やサル愛好家たちの間にたちまちのうちに広がった。彼女は「天才だ」、「神童だ」と騒がれることになった。が、ここでようやく彼女にまだ名前が無いことに気がついた研究者たちは、彼女の偉業を讃え、その才能に敬意を表して、「イモ」と名付けたのだった。イモのイモ洗い行動も画期的だが、興味深いのはその文化の伝わり方である。彼女がイモを洗い始めた頃、他のメンバーたちはただ怪訝そうな顔をして眺めているだけだった。ところが、間もなくイモの母親であるエバとイモの遊び友達のセムシ(♂、2〜2・5歳)がイモ洗いを真似するようになった。そして翌年(1954年)にはウニ(♂、1〜1・5歳)が、二年後にはエイ(イモの弟、1〜1・5歳)、ノミ(♂、2〜2・5歳)、コン(♂、3歳)の三者が、三年後にはササ(♀、1〜1・5歳)、ジュゴ(♂、2〜2・5歳)、サンゴ(イモの姉、5歳)、アオメ(♀、5歳)の四者がそれぞれイモ洗いをするようになったのである。この新文化を取り入れたのは殆どがイモの同輩か年下の子ザルたちでリーダーのカミナリを始めとする大人たちはいつまでたっても流儀を変えようとはしなかった。結局、大人でイモ洗いをするようになったのは、イモの母親のエバとジュゴの母親のナミに留まった。イモ洗い文化はまず子ザルたちを中心に定着したのである。この文化についてもう一つ興味深いのは、文化の伝播の次なる展開である。イモ洗いをする子供らが成長し、メスが子を持つようになると(ニホンザルのメスは5〜6歳で最初の出産を経験する)、今度は母から子へのルートで急速に伝わり始めたのである。人間でも子は母親のすることなら何でも真似をする。乱婚的で父親のハッキリしないニホンザル社会では、子はなおさら母親の影響を受けてしまう。こうしてイモによるイモ洗いの発明から十年が過ぎたとき、幸島にすむ2〜11歳のサルの大半はイモ洗い派に転じていたという。幸島のサルのイモ洗いは、今では海水につけて塩味を楽しむという食文化の変化の話として有名である。これは、川の水でイモを洗っていた誰かが、あるとき海の水でやってみたら美味しかった(目撃はされていないが、イモの可能性もある)、そこでそれを誰かが真似しはじめた、という経緯によるものらしい。しかし、イモ洗いは本来イモについた砂を落とすことが目的だったのである。また、天才イモは4歳のときにもう一つの大発明を成し遂げている。「小麦選別法」と名付けられたその方法は、海岸に撒かれた砂まみれの小麦を両手で掬い、海の浅いところへ持っていって撒くというものである。砂が沈んだ後、浮いている小麦を摘まんで食べるのである。これもイモ洗いとほぼ同様の経過で伝播している。さて、このようにニホンザルのような高等なサル類、類人猿、そしてもちろん人間には「文化」と呼べるものがある。ただし、動物行動学で言う「文化」とは、通常使われる意味とは少し違い、「遺伝」によらず伝達される行動や行動様式、技術などのことである。人間で言えば、言語や宗教、芸術に始まり、習慣やしきたり、家風、校風のようなもの、建築や輸送の技術、それに服装や歌などに見られる一時的な流行に至るまで、とにかくありとあらゆる無形の所産を指すのである。「文化」は個体の脳から脳へ主に模倣によってコピーされて伝わり、ときにはコピーミスが起きる。これが新しい「文化」を産むこともある。役に立つ「文化」はよくコピーされるが、どうでもいい「文化」はあまりコピーされないので、「文化」の複製の頻度には差がある。だから「文化」は“進化“すると考えることもできる。実際、文化は遺伝とのアナロジーが考えられており、遺伝的伝達の単位を遺伝子と呼ぶのに対し、文化的伝達の単位をどう呼ぼうかという論議がある。幾人かの人が様々な案を出しているようだが、この本ではR・ドーキンス(山口注:オックスフォード大学出身の動物行動学者。『The Selfish Gene』、邦題『利己的な遺伝子』の著者)の提出した「ミーム」を用いることにする。「ミーム」は模倣するという意味のギリシャ語(mimeme)をベースに記憶(memory)などをひっかけて彼が作成した言葉である。遺伝子と比較したミームの特徴は、伝達の速度が極めて速いこと(これはあまりにも当然)、それにコピーミスが大変頻繁に起こること(噂話の伝達を考えよ)などである。イモ洗い文化にしたところで、もしイモを洗うという行動が遺伝によってのみ伝達されるとしたら、集団内に広まり、定着するのに恐ろしく長い時間が必要だ。ところが、一頭の子ザルの脳に生じた“イモ洗いミーム”は次々と他者の脳にコピーされ、たった十年かそこらで血縁、非血縁を問わずに広まっていった(尤も、血縁者の間の方がいろいろな意味で伝わりやすいが)。途中、イモを洗う水が川の水から海水に変化するという“突然変異“も起きた。遺伝子ではあり得ない子から母への“逆流“もあった。遺伝子はなかなか融通の利かない代物だが、ミームは変幻自在で素早い。してみるとミームは案外、曲者であるかもしれない。ミームは、特に人間において遺伝子と互角か、もしかするとそれ以上の力を持っている可能性があるのである。(後略:P106〜P113)


『ゲームの理論〜タカ派とハト派』

ジョン・メイナード=スミスは、ちょっと異色の動物行動学者である。1920年生まれの彼は、まずケンブリッジ大学で工学を学び、第二次世界大戦中は航空機関係のエンジニアとして働いていた。しかし大戦後、何を思ったのか彼はロンドン大学ユニバーシティ・カレッジの大学院へ入り直し、動物学を専攻する。(中略)エンジニア出身の彼が、なぜまた動物学を志したのかということについては定かではない。しかし、その結果開拓された分野は画期的なものだった。動物行動の進化については、血縁という観点から説明されるのがまず基本である。例えば親が子を保護する行動、キョウダイやイトコがときには助け合い、ときには裏切るという行動。そしてその際、行動を決める重要なカギは遺伝子をどれくらい共有しているか(血縁度)ということである。しかし、この理屈を押し進めて行くと、共有する遺伝子の無いアカの他人同士は相手のことなど顧みず、徹底して利己的に振る舞うということになってしまう。メスをめぐってオス同士は血みどろの争いをし、どちらも相手の息の根を止めるまでは攻撃の手を緩めないだろう。寝場所をめぐって争う二羽のメンドリは互いに頑として譲らず、結局は夜が明けてしまうのかもしれない。もちろん現実にはそうはなっていない。アカの他人同士も案外協力や協調の関係をよく結ぶ。そして、そういう態度や精神に対しては、「紳士的態度」とか「譲り合いの心」、「友情」などの言葉が当て嵌められている。なぜ、そのようなことが起こるのか?この問題も実はチャールズ・ダーウィンが当時既に提起しており、解決の糸口も若干掴みかけていたのである。しかし、彼はまたしても生まれるのが早すぎたようだ。この問題の解決には、メイナード=スミスという元エンジニアの頭脳と1960年代のコンピューターの飛躍的進歩とがどうしても必要だったのである。メイナード=スミスが非血縁者間の争いに適用した考えは、「ゲームの理論」と呼ばれるものである。元々は国家や人間同士の利害の衝突の解析のために、コンピューターの発明者であるジョン・フォン・ノイマンなどが考案している。メイナード=スミスはその考えを発展させ、何かをめぐって争っている動物(もちろん人間も含まれる)を一定のルールのもとで得点を競いあっているゲームのプレイヤーとみなした。そして、連綿と続く対戦の結果、どういう戦略をとるものが最終的に高得点を稼ぐのか、あるいはどういう戦略をとっていれば間違いが少ないかということなどを探ったのである。動物の種類は何であっても良いし、争いの対象は配偶者の所有権や営巣場所、寝場所や餌などいろいろと考えられる。 但し、動物の行動の進化については今や個体ではなく(ましてや集団や種でもなく)、遺伝子に着目して考えるべきで、得点や失点も遺伝子のコピーの増減に対応させるのが本当なのだが、大まかには個体の利益で近似すればいいだろう。ゲームの理論のごくさわりの部分を紹介しよう。同種の動物が何かをめぐって争う場合、二つの極端な戦略を考えてみる。一つはどんな相手とでも必ず戦い、余程の大怪我を負わない限り退却しないという強気の戦略(タカ派戦略)、もう一つは威嚇や睨み合いくらいはするがあくまで直接の争いは回避しようとする穏やかな戦略(ハト派戦略)である。まず、タカ派同士がぶつかったとする。互いに戦おうとするから、少なくとも戦いのために浪費される時間とエネルギーに関しては相方とも等しく点を失う。勝者は食物なりメスとの交尾権なり、とにかく大きな得点を得るが、このように一方でかなりの大打撃を受け、非常に多くの点を失う。次に、タカ派とハト派が出会ったとする。タカ派は戦おうとするが、ハト派はすぐに退却してしまうので、タカ派は労せずして大きな得点を手に入れる。ハト派には得点はないが、すぐに退却するので怪我をすることはないし、時間やエネルギーの損失も少ない。従って若干の損をするだけである。では、ハト派とハト派の場合はどうか。相方とも攻撃を仕掛けないので勝負は持久戦になるだろう。勝った方は無論得点を得るが、威嚇や睨み合いのために相当な時間とエネルギーを費やしており、その分についてある程度の点を失う。負けた方もそれと同じだけの点を失うが、これは戦って負傷した場合に比べれば遥かに少ないものである。こうしてみると、タカ派はハト派をいとも簡単にカモにしているわけである。何しろ相手は何の文句もなしに譲ってくれるのである。タカ派はハト派を踏み台にして得点を荒稼ぎし、その結果繁殖も有利になるので、急速に数を増していくだろう。ところが、タカ派が増えてくると今度はタカ派同士の対戦が増える。彼らは互いに潰し合いを始めることになる。すると、その間隙を縫ってハト派という非暴力主義者たちが着々と得点を重ね、勢力を盛り返して来る。そうするとまたタカ派がハト派をカモにし……というサイクルが繰り返されるのである。タカ対ハトの比は最終的にはどちらの戦略をとろうが損得勘定は同じであるという点で釣り合い、事態は落ち着くのである。尤も、実際の野性動物たちはこういう安定した状態にあることは稀で、戦略の比は振り子のように揺れ動いていることの方が多い。それに、それぞれの個体が一生同じ戦略をとり続けるのではなく、あるときはタカ派として振る舞い、またあるときはハト派として振る舞うという方がより現実に近い。話はやや逸れるが、こういったことについて若干考えを押し進めてみると、個体が「紳士的態度」を取ったり、「譲り合いの心」を発揮したりすることが必ずしも立派なことではないということがわかる。そういう行為は、その場合の彼(彼女)にとって他の強引な戦略をとるよりもましだというだけである。戦略モデルについては今や百花撩乱で、解析はコンピューターを駆使して進められている。ところで、ここで紹介した最も単純なタカ・ハトゲームの中には、我々が是非とも注目しておいた方が良い教訓が含まれている。それは、得点、失点の設定の仕方によって安定状態におけるタカ・ハト比が簡単に変わってしまうということである。特に、負傷した場合の失点を大きく設定すると、平衡がハト派優勢の方にぐっと傾くということだ。これは強い殺傷能力を持った動物の方がむしろハト派的で、行動が紳士的であるというパラドックスを見事に説明している。こういう動物は自分が負傷した場合の大打撃を恐れ、互いに敢えて“武器“の使用を控えているのである。かつてK・ローレンツ(山口注:オーストリアの動物学者)はオオカミの騎士道精神を賛美した。争いで分が悪くなった方が急所である首筋を差し出すと相手の攻撃行動が抑制されるというあの話だ。ローレンツは、これぞ種の繁栄、これぞ種の利益のための行動だと絶賛した。彼はオオカミの一頭一頭が種が滅んでしまうことを懸念して武器の使用を控えるのだと考えたのである。しかし、ゲームの理論が示すところによれば、オオカミは自分が傷つくのを恐れて武器の使用を控えるということになる。儀式化された攻撃行動も、ひたすら自分が負傷したくないという、最初から最後まで利己的な理由によって引き起こされているのである。このことも追究すれば遺伝子の利己性に帰着するだろう。ニワトリなどはしょっちゅう揉め事を引き起こして激しいつつき合いを演じているが、そんなことができるのも彼らが大した武器を持っていないからだ。メイナード=スミスはある論文の中で、動物の殺傷能力の大小と争いの儀式化の程度との相関を論じているが、その際、人間における通常兵器と核兵器の問題に言及することを忘れていない。「核」による武装がかえって争いを回避させるという論には確かに一理あるのである。 (P136〜P144)


『遺伝子が神をつくった〜血縁を越えたリーダー』

大学と縁を切って言いたい放題言うという人は(どこかの誰かも含めて)多いが、デズモンド・モリスほど傑作な人物を私は他に知らない。1928年、イギリス生まれ。バーミンガム大学を卒業後、オックスフォード大学のN・ティンバーゲンのもとで研究生活を送った彼は…(中略)…『裸のサル』(日高敏隆訳、河出書房新社。これは角川文庫にも収録されている)、『人間動物園』(矢島剛一訳、新潮選書。これは元々「プレイボーイ」誌に連載された)などの傑作が次々生み出されたのである。彼の評価はこれで決定的なものとなったと言えるだろう。即ち、学問でエンターテイメントをする男……。けれども、モリスについて私が真に素晴らしいと思うのは、『裸のサル』に見られるように、人間という動物にズバリ行動学的アプローチを試みたことである。『裸のサル』は普通(特に日本では)、単なる面白い本としか思われていないが、この本の真価は別のところにある。それはキリスト教思想の根強い西洋にありながら、人間についてここまで暴いてしまったということである。(中略)この本の中で彼は、宗教についてこう言い切っている。「宗教活動とは人間の大きな集団が集まってきて、ある優位な個体を宥めるために服従の誇示を何度も、しかも長々と行うことであると結論せざるをえない。この優位個体は文化が違えば様々な形を取るが、常に無限の力を持つというのが共通する要素である。ある場合にはそれは他の種の動物の形態、あるいは架空の動物の形態をとる。ときにそれは、我々の種の賢明な祖先として描かれる。また、ときにはより抽象化されたものとなり、単に“ある状態“ないしそのような言葉で示されることもある。こうしたものに対する服従反応は、目を瞑るとか、頭を下げる、施しを請う姿勢で両手の指を組み合わす、ひざまずく、地面に口づける、さらには極端になって平伏す、といったことで構成されることが多く、しばしば悲しげなあるいは単調な発声が伴う。もしこれらの服従行動がうまくいけば、優位個体は宥められる。けれど、この優位個体の力は極めて強いので、その怒りがまた燃え出してくるのを防ぐには、このような宥めの儀式を規則的な間隔でしばしば行う必要がある。この優位個体はいつもそうとは限らないが、普通『神』と呼ばれている。」共通のリーダーに服従することで仲間と認め合うというシステムは、ニワトリ、イグアナ、サルなど一応社会と呼ばれるものを作る動物にはよく見られる。彼らはその原理によって無駄な争いを避けることができる。モリスによれば、これと同じ現象が人間においては宗教という形をとって現れているというわけである。なるほど、考えてみれば、どの宗教の信者も礼拝(お祈り、読経)するときは、まるで優位のサルに対する劣位のサルの如き振る舞い方をする。頭を垂れたり、身を屈めたり、平伏したり……。讃美歌やお経は確かに優位のサルに向けられた宥めの音声に似ている。しかし、サルの場合とハッキリ違うのは、彼らがそのような行動を向けている対象は現実に存在するリーダーではなく、神という架空のスーパーリーダーだということだ。この点で人間は多くのサル類や類人猿と一線を画している。ドーキンス流に言えば、人間は神というミームを初めて乗せた乗り物(ヴィークル)なのである。これは逆に、遺伝子は人間においてとうとう神という概念を創るまでに至ったと言うことができるかもしれない。(中略) 神は現実のリーダーとは違い、絶対的な権力を持っている。しかも不死身である。共通の神を崇拝する集団は、血縁や現実のリーダーによってのみ連合する集団よりも、遥かに強固で安定した関係を保つことができるだろう。もちろん集団の規模も数段大きくすることができる。死んだら神のもとで幸せに暮らせると教えられている兵士たちは、死を恐れない。だから、神のミームを乗せた乗り物(ヴィークル)の集団とそうでない乗り物(ヴィークル)の集団とが戦ったのなら、前者の方が勝つに決まっているのである。それに、負けた方の集団はその時点で往々にして神のミームに“感染“させられるから、そこでまた神のミームのコピーが増えるのである。神のミームは、まず血縁を越えた非常に多数の人々の連合を可能にした。このミームは普通のミームとは少し違い、戦争という人間の生死に直結する淘汰の場を通じてコピーを増やしてきた。だからこそ神のミームは、我々の心を捕らえる力、捕らえたら離さない力が破格であり、乗せれば我々には大きな安堵感が訪れる。我々は精神的に打ちのめされたときなど、思わず信仰の世界に救いを求めたりするわけだが、それは何のことはない、宗教によって安らかな気持ちになれるよう、利己的遺伝子(セルフィッシュジーン)が既に我々の心をプログラムしているからである。利己的遺伝子にとって乗り物の周囲の乗り物は既に神のミームを乗せている確率が高く、さらに彼(彼女)が乗せるとなれば、その集団はますます戦争に勝ちやすくなる。となればそれは、その乗り物自身はもちろんのこと、彼(彼女)の血縁乗り物の生存確率をも高める形で返ってくるからである。(中略)神のミームはもはやほとんど総ての人間に何らかの形で乗り込んでしまっている。 無神論者だという人にしたところで神のミームがおさまるべき所はちゃんと持っている(これを神のミーム座と呼んでもいいかもしれない。遺伝子に遺伝子座があるように、ミームにはミーム座があると考えてもよいだろう)。それは今は空席になっているかもしれないが、いずれは神のミームが乗ることを期待されている、あるいは現在のところはロックスター、映画スターのような神の類似物(アナログ)によってふさがれているといったところだろうか。かつて人間の祖先たちが、神のミームを乗せるかどうかの選択に迫られたとき、淘汰は「乗せる」を選んだ人々の方に微笑んだ。乗せている方がどうしても戦争に勝ってしまうからである。(後半略:P216〜P224)


『知らないあいだに武闘訓練〜「鬼畜」のミーム』

防火訓練というのは、はたしてどれほどの効果があるのだろう。学校や会社で行われる防火訓練には大抵予告がなされている。「明日、午前十時半より防火訓練を行います。皆さん気を引き締めて取り組んで下さい」私にも覚えがあるが、こういう形の防火訓練には全然身が入らないのである。小学校の頃のことだ。いつ始まるか、いつ始まるかとドキドキしていると突然けたたましいサイレンの音が鳴り響く。すかさず先生が、「みんな、落ち着いて」と言う。先生の指示に従い、机の上の物をさっとしまってランドセルを背負うと、また先生が言う。「みんな、落ち着いて!」落ち着いてはいるのだが、みんな嬉しくてたまらないのである。こんな調子なものだから、どこをどう通って“避難“したのかなんてほとんど覚えていないし、せっかく教えてもらった消火器の使い方も、いざ実際に火事が起こった場合に役に立つのかどうかは疑問である。では、抜き打ちで訓練するというのはどうだろう。本当に火事が発生したかのように発煙筒を焚き、数名のサクラが「火事だ、火事だ」と知らせるのである。そのサクラが、「皆さん、落ち着いて」と避難誘導をする。尤も、この方法はそうたびたび使うわけにもいかないし、第一、本当の家事のときに“オオカミ少年現象“が起きてしまう危険がある。防火訓練を効果的にやるのは本当に難しい。それもそのはずである。人間の基本的な行動や心理は、我々の祖先がまだ部族を単位として生活していた頃に形成されたと言われる。その頃人間は、どんな住居に暮らしていたのだろう。おそらく草葺きか何かの屋根で、中の広さは差し渡しで数メートルかそこら。学校も会社も無いから、大きな建物は存在しない。そんな住宅事情の中でなら、火事に対する心構えはどうしても必要というわけではなかった。火事に気がついたなら、とにかくパッと外へ飛び出しさえすれば助かったのである。火事は、本来それほど大きな脅威ではなかったのである。 ところが人間には、そういう部族集団で暮らしていた頃から火事とはまるで比較にならないほどの大きな脅威が存在し続けている。そしてそれに対抗するためには1日たりとて気を緩めたり、訓練を怠るわけにはいかなかった。何だろう?近隣の好戦的な部族、小国家、異教徒などである。集団内では、絶えず団結の意志を固め、士気を高め、危機感を持って武闘訓練をする必要があったのだろう。利己的遺伝子(セルフィッシュジーン)は、火事とは違い、この件については絶対に手抜かりなく我々をプログラムしてきているはずである。「神」のミームは、それを共有する者たちの団結を固めるために抜群の威力を発揮する。しかし、それだけでは士気を高めて武闘訓練を行うまでには至らない。そういうことのためには、神の場合とは全く逆に、憎しみや憤り、軽蔑や差別の対象となるようなものが必要だろう。ここではそれを、「鬼畜」のミームと呼ぶことにする。「鬼畜」のミームには、元々は近隣の部族そのものが当て嵌められることが多かっただろう。その場合、その部族の身体的特徴や言語の訛り、一風変わった習慣などが具体的な差別や軽蔑の項目となったはずである(それらの情報は実際よりかなり大袈裟に、しかも悪い方にデフォルメされていただろう)。但し、利己的遺伝子はそういう細かい情報までプログラムすることができないし、またしない方が得策と思われるので(なぜなら、「鬼畜」の対象はいつ変化するかわからない)、していない。利己的遺伝子が乗り物(ヴィークル)にプログラムしているのは、例えばこんな内容である。「物心ついたとき、周囲の大人たちが罵り、皆で寄って集って悪口を言い合っているものを覚えよ。それが鬼畜である。大人になったら鬼畜のミームを共有する者たちと共に戦うのだ!」大人になったときに現れる現実の敵は、彼らが子供時代に鬼畜であると認識したものとは違っているかもしれない。だが、それでもかまわない。とにかく鬼畜のミームを共有していることが重要なのである。彼らはそのことで士気が高まっており、知らず知らずのうちに武闘訓練を済ませてしまっているのである。人間の集団が拡大し、大きな国家が形成されるようになった今でも、似たようなことは繰り返されている。新聞、雑誌、テレビ、クチコミなどを通して鬼畜のミームの共有を感じとった人々が集結し、“擬似部族“を形成するのである。原発反対運動、暴力団追放運動、宇宙船地球号を守る運動、差別をなくす運動、フェミニズム運動、皮肉なことだが、日本の軍国主義化を阻止する運動……。様々な“部族“が、それぞれに設定した鬼畜のもとで“武闘訓練“に励んでいるのだ。ターゲットになるものは何でもいいが、乗り物が直接被害を被る可能性があるものは、どうも避けられている。なぜなら、それらはあくまで訓練だからである。またそのターゲットは、日頃から物事を深く突っ込んで考えたり、分析したりする習慣のない、ごく普通の人々から見て、「絶対に悪い!」と思えるものっあることが重要のようだ。そうであってこそ、より多くの乗り物が賛同し、より大きな規模での武闘訓練が可能になるからである。(中略)こういう運動に熱心な人々を見てつくづく感ずるのは、どの人も実に生き生きとしており、毎晩ぐっすり眠れていそうで、ごはんが美味しくて美味しくてたまらないといった様子をしていることである。それは何といっても利己的遺伝子の言いなりになっているからに他ならないからである。人から聞いた話だが、市役所か県庁かの前に何かの住民運動をしている人々が盛んにシュプレヒコールを繰り返しながら集まっていた。そこを偶然自転車で通りかかった第三者が派手に転んでしまったところ、その人は彼らに思いっきり嘲笑されたとのことである。「大丈夫ですか」と声をかけてくれたのは役所の守衛さんであった。彼らはそれほどまでに団結の喜びに舞い上がり、自分を見失っているというわけである。もちろん、“武闘訓練“ではない本物の市民運動も存在する。それとこれとを見分けるには 、参加者一人一人がどれだけ運動の内容を理解しているか、自分を見失っていないかどうか、運動のためにある程度の自己犠牲はやむを得ないと考えているか、などをチェックすればいいだろう。(後半略:P216〜P230)


本書には、まだまだ紹介したい内容が多々ありますが、あまりに長くなるので、それはまたいつかの機会として、とりあえず今回は此処まで。この他に末尾に、漫画家の柴門ふみ女史が御自身の妊娠と出産、親子の外見や嗜好や行動、自身の作品のキャラクターを例に挙げて、竹内女史の論に賛同する解説も収録されております。〔文春文庫〕

竹内 久美子
1956(昭和31)年生まれ。79年、京都大学理学部卒業後、同大学院に進み、博士課程を経て著述業に。専攻は動物行動学。 92年、『そんなバカな!』(文藝春秋)で講談社出版文化賞を受賞。他、著書に『浮気人類進化論』(昌文社)、『男と女の進化論』(新潮文庫)、『小さな悪魔の背中の窪み』(新潮社)、『パラサイト日本人論』(文藝春秋)、共著に、『ワニはいかにして愛を語り合うか』(新潮文庫)などがある。
posted by 管理人 at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 理学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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