2011年09月01日

パンツの面目 ふんどしの沽券 著者/米原万里

《幼い頃に通っていたミッション系幼稚園で目にした十字架の上のキリスト像。まだキリストが何者であるかも知らぬ幼女が、そのキリスト像を見て思ったのは、裸体の男性像の腰を覆っている布は、パンツなのか、フンドシなのかという疑問だった。その疑問はその場では知ることができぬまま、親の仕事で東欧に渡り、そこで日本にいては体験できない、「パンツ」に関する衝撃的な体験をする。日本と外国との文化の違いを直に体験した少女は、長じて作家となり、パンツとフンドシ、スカートとズボンをめぐる世界史の謎に挑み出した。彼女の名は米原万里。自身の幼年期の思い出や、海外滞在で知った異文化を巧みに織り混ぜて語る下半身の服飾についての世界史です》


さて、今回紹介いたさます本は、作家の米原万里女史(故人)のエッセイ『パンツの面目 ふんどしの沽券』です。変わったタイトルですので、どういう本なのかな?と思われるることでしょう。内容は、パンツ、ふんどし等の下着や、スカート、ズボン等の下半身を被う衣類の歴史と異文化比較を自身の幼年期や父親の仕事で海外に滞在した時の体験を例を交えて書かれたものです。 そもそも著者の米原女史は、明治生まれの父親が越中ふんどしの愛用者で、その越中ふんどしを母親が手作りしていたことから、ふんどしというものに、幼時よりひとかたならぬ愛着を抱いていたそうです。そして、ミッション系の幼稚園に入園した際に、その幼稚園の礼拝堂にあった十字架の上のキリスト像に興味をひかれたそうです。そして、同じ園児で、親友の女の子であるリエコちゃんと、そのキリスト像について議論したのですが、その議論の内容は何と、「この裸のオジサン(彼女たちはまだイエス・キリストが何者か知らない)が穿いているモノはパンツなのか、フンドシなのか」だったそうです(笑)。その疑問は、その時には答えが出なかったそうですが、その時に感じた疑問から、米原女史の下着の、そして服飾に関する歴史と各民族文化への探求心は芽生えたようです。 そして米原女史は9歳から14歳までの5年間、チェコスロバキア(現在は、チェコとスロバキアの2国に別れている)プラハでソビエト連邦(現在のロシア)の外務省が管轄する学校に通い、そこで家庭科の裁縫の授業で下着のパンツを作るという、日本の学校では考えられない体験をしたそうで、それがさらに米原女史の下半身の服飾に関する歴史や異文化比較への知的好奇心を増進させたようです。そしてその知的好奇心の集大成が本書というわけです。下着やズボン、スカートを通して知る歴史と異文化比較の物語をどうぞお楽しみ下さい。



内容抜粋

『40年来の謎』

仲のいい女の子たちは、会う度に先輩面して、あんたはそろそろ女になるべき頃合いだと、急き立てる。あたしだって、すでに身も心も十分に熟れているという自覚はあった。でも何かが、すんでのところであたしを引き止めていた。ある夏の週末、モスクワ郊外の親類の別荘に泊まる予定が、つまらないことで伯母と喧嘩になり飛び出てきてしまった。親友のララのアパートに押し掛けて一晩泊めてくれと頼み込んだ。ララは呆れ返った。「一人なの? 彼は?」「自宅。両親はバカンスでクリミヤだって」「馬鹿だねえ、こんなチャンスはまたとないじゃないか!さあ、彼のところへ押し掛けるんだよ」「イヤー!!」自分でもビックリするような大声で叫んでいた。親類のところに泊まるつもりでいたあたしが穿いていたのは、《黒っぽい継ぎ接ぎだらけのみっともないパンツ》だった。「絶対イヤ! 死んだ方がマシ」「死ぬの、ちょっと待ちな」ララは立ち上がると隣室へ行った。ララは外国語大学ドイツ語科の学生で、ついこのあいだ実習で《ドイツ民主共和国》に三ヵ月ほど滞在している。そのとき支給された《僅かなお小遣いの全額を投じて、ララはレースに縁取られた明るい色の薄手のパンツを目一杯買い込んでいた》。その一枚をあたしに差し出しながらララは厳かに告げた。「これであんたは一歩も後へ引けなくなった。覚悟するのね」《繊細な美しいパンツを身につけると心を縛りつけていた諸々のものから急に自由になった。難攻不落の巨大な壁が突然消えたかのようだった》。その夜、あたしは処女膜を喪失した。《ドイツ製のパンツ》があの瞬間登場してくれなかったならば、永遠にあの壁は乗り越えられなかったのではないか、と今でも思っている。1950〜60年代のソビエトを舞台にした小説やエッセイ、回想記では、右のような記述に時々巡り会える。なお、私が右の文章を見かけたのは、2000年の暮れ、サンクトペテルブルグ市を訪れ、ペトロパブロフスクの要塞監獄跡を見学したときにそこで催されていた傑作な展覧会場でのことだった。展覧会のタイトルは、「身体の記憶〜ソビエト時代の下着」というもので、2000年11月7日(ソビエト社会主義革命83周年!!)から翌2001年2月末までサンクトペテルブルグ国立歴史博物館とドイツのゲーテ・インスティテュートの共催、下着メーカーとして有名なTriumphの後援のもとで行われ、評判を読んだ。展覧会場出口には、展示品のカタログが販売されていて、評判を呼んだ。展覧会場出口には、展示品のカタログが販売されていて、もちろん、私は飛びついた。そして、件の文章を探し当てて、思わず傍線を引きまくった(山口注:著者・米原女史が傍線を引いた箇所は、当ブログでは《》でくくってあります)。 展覧会場でも、カタログにも文章の主の名は記されておらず、展覧会の制作者であり、キューレーターでもある、エカテリーナ・デーゴチとユリヤ・デミデンゴが無名の女性たちから集めたインタビューのひとつと思われる。(中略)サタンの化身ヘビに唆されて性愛と知恵を授かった人類の祖アダムとイヴは、途端に生殖器を晒しているのがお互いひどく恥ずかしくなって隠すようになる。イチジクの葉が、「人類最初のパンツ」と呼ばれる所以。ところが、いま引用した2つのテキスト(山口注:もうひとつのテキストは略しました、内容は18歳のソビエト女性が、彼氏の部屋に入る前に、分厚い不格好な毛糸の股引きを脱ぎ、ポーランド製のナイロン生地、レース縁取りのパンツに穿き替えるというもの)によると、年頃の娘さんが大切な人に見られるのを死ぬほど恥ずかしく思っているのは、生殖器ではなくて、それを覆い隠すパンツ(の醜さ、格好の悪さ)の方みたいなのだ。ああ、しかし、そんな陳腐な真実を確認するために、傍線を引いているわけではない。実は長年の謎を解きほぐしてくれそうな気がして、つい引いてしまうのだ。10歳のときに芽生えた謎だから、もうかれこれ40年以上も抱えていることになる。謎の発端となった現象には、9歳から14歳までの五年間通った在プラハ・ソビエト学校で遭遇した。ソ連外務省が管轄する学校で、教科書もソ連製、教師もソ連人、生徒も大半はソ連人。四年生になると、女の子は家庭科を履修するのだが、その裁縫の授業で、最初に教わったのが、スカートでもエプロンでもなく、下着のパンツの作り方だった。裁縫の心得のある人にこの話をすると、十人中十人が、「冗談でしょう! 嘘に決まってる」と真面目に取り合ってくれない。「本当だってば。そんなこと嘘ついても何の得にもなりゃしない」といくら言い張っても、信じてもらえないのだ。無理もない。二次元の布で複雑に入り組んだ三次元体(しかも動くから四次元体)を包まなくてはならない。型紙作りも、そのための採寸も、やる前に気が萎えてしまうほど面倒なんである(ちなみに日本の学校で最初に習うのは、立体とは無縁の雑巾の作り方)。とにかく裁縫の達人にとってでさえパンツは難題中の難題。ましてや、初心者には無理を通り越して無謀というもの。越中フンドシを製作するのとは、わけが違う。といやに自信満々に述べるのは、明治42年生まれの父が愛用していて、時々母がまとめて製作していたのを見慣れているからだ。(中略)1960年代当時、私が住んでいたチェコスロバキアでも、計画経済のもと、始終あれこれの商品が長期間店頭から姿を消したものだが、パンツは、サイズやデザインさえうるさいことを言わないならば、基本的にはいつも店にはあった。値段も安く、従って生徒がパンツ製作法を習得する必然性、少なくとも実用的目的は思い浮かばないのだった。人体の複雑さを認識させ、立体に対する理解を深める。きっと、そういう崇高な教育的目的があるのね、と宿題のパンツ作りに付き合わされて辟易していた母は、おそらく費やした時間と労力に何とか意味を持たせたかったのだろう、そう解釈した。ところが二ヵ月後の6月、母の解釈が必ずしも当たっていないのではないか、と思わせることを目の当たりにした。夏休みの林間学校で、二年先輩のダーシャというソ連人の女の子が、雨続きで洗ったパンツがなかなか乾かず、スペアが足りなくなったと、あれよあれよという間に目の前でパンツを縫い上げたのである。母が父の越中フンドシを製作するときよりも素早い気がした。手慣れた手つきに見とれていた。「すごい!!」感動する私を、ダーシャは理解しかねるという面持ちで見やりながら、手の方は一時も休むことなく、ウェストの部分と腿まわりにゴムを通していた。おそらく、パンツ作りは、彼女にとって、ボタンを付けたり、綻びを繕うような、ひどく日常的で当たり前の営みだったのだろう、と今にして思う。ただ、林間学校に参加していた同じソ連人の女の子たちで、ダーシャのように手作りのパンツを穿いている子は、ましてや自分でパンツを縫い上げる子は、他には一人も見当たらなかった。みな、トリコット製の既製品を身に着けていた。ダーシャは例外だった。ダーシャとは学年も違ったし、親しくていたわけでもない。彼女が林間学校でたまたま私の親友と相部屋だったので、親友を訪ねたときに、彼女がパンツを縫い上げる現場に立ち会っただけである。彼女に関する記憶は、この一点に限られている。しかも、その後すっかりこのことを忘れていた。新学期が始まった9月、パンツがらみで、もうひとつ不思議なことがあった。デンマーク人のクラスメイト、フランツが衝撃的な写真を見せてくれたのだ。それは西独のグラビア誌に掲載されたもので、ネグリジェやシュミーズ姿で街中を闊歩する女たちのスナップだった。中には、レースのパンツとブラジャーを着けただけの女もいる。「東ベルリンに駐屯するソ連軍人の妻たちの呆れた行状」というキャプションの意味をフランツが教えてくれた。クラス中が色めき立って、始業のベルが鳴ったのも気づかずにワイワイ騒いでいたら担任教師が背後からやって来て雑誌を取り上げた。先生は写真を一目見るなり顔を赤らめ、消え入るような声で、「まあ、何て恥知らずなこと。悪質な反共宣伝ですね」と言った。何だか、信じがたい写真だったので、先生の説明が腑に落ちた。それでまた、このこともすっかり忘れていた。その後、日本に帰国してから、ソ連の小説雑誌を読んでいて、ダーシャのパンツ作りのことを思い出した。“久しぶりにレニングラードから帰ってきた兄さんと僕は、その日、二人きりで過ごした。ママも姉さんも朝っぱらから出払っていた。町の百貨店に《チェコスロバキア製のブラジャーやらパンツやらが入荷したとかで、町中の女たちが、いや近隣の村々の女たちまでが、百貨店の前に列をなして並んでいた。》“ (S・セミョーノフ『わがアンガラ河』/山口注:《》内は、米原女史が引用にあたり、傍線を引いた箇所)もしかしてソ連では、既製品のパンツが、恐ろしく入手しにくかったのではないかと、このとき初めて気づいたのである。だからこそ、ダーシャのように手作りパンツを身に着けている女もずいぶんいたのかもしれない、と。その後、幾つかの小説やエッセイを通して、ソ連の女たちにとってポーランド製やドイツ製やチェコスロバキア製の下着が、大変な貴重品だったらしいことも確認できた。さらには、彼女らが、東欧製パンツの、色の明るさ、生地の薄さと軽さ、それにレースの縁取りに心奪われていることにも気づかされた。ここ一番という勝負のときに、貴重品の東欧製を着用し、普段は、黒っぽい手作りか手編みのパンツを穿いていたらしいことにも。もしかして、ソ連ではレースの縁取りがついた明るい色の薄手のパンツを工業生産していなかったのかもしれない、とそのときハタと思った。流行に左右されない質実剛健なパンツこそ、社会主義に相応しいと考えられていたのではないか。第二次大戦後、東欧諸国がソ連の傘下に組み込まれた事は、政治的、社会的、イデオロギー的側面から語られることが多いが、それが経済、わけても庶民の女たちの私生活にも何と画期的な変化をもたらしたことだろう、と感慨にも耽った。ところが、事実ははるかに上手だった。「身体の記憶―ソビエト時代の下着」という展覧会で入手したカタログに記された簡略ソ連邦下着史によると、第二次大戦が終了するまで、ソ連では下着のパンツが一切工業生産されていなかった、とのことである。下着工場で女性用に生産されていたのは、ネグリジェとコルセットだけだった。薄手のシルクの明るい色をしたレースの縁取りの付いたパンツは、仕立屋が注文を受けて縫う、ということはあった。尤も、レニングラードとモスクワにしか、そういう仕立屋はいなかったし、そんな贅沢を出来る女性も幹部の妻女やトップ女優、スター・バレリーナなどに限られていた。いずれにせよ、パンツは手作りが基本だった。戦後パンツの工業生産が始まったが、到底需要を満たすものではなく、圧倒的多数の女たちのパンツは手作りであり続けた。プラハ時代の家庭科の必須科目がパンツ作りだったのも、その延長線上にあったのだ、ダーシャではなく在プラハソ連人が例外だったのだと、40年来の謎が解けて感無量な私は、次の文章に卒倒せんばかりになった。“ 戦後のドイツで、モロ下着のまま街中を大威張りで歩いたソ連人将校の妻たちは、よそ行きの装いのつもりだったのである。庶民出身の彼女たちは、綺麗なレースの縁取りが付いたシルクのパンツやブラジャーが、まさか下着だろうとは夢にも思わなかったのである。 ”フランツが見せてくれた写真の謎も、これで解けた。(P9〜P20)


『NKVDの制服からハーレム・パンツまで』

KGB(国家保安委員会、1954〜91)の前身は、NKVD(内務人民委員部、1917〜1954)といって、スターリンによる大量粛清の執行役を果たした弾圧機関(山口注:現在はFSB=ロシア連邦保安庁となっている)。「泣く子も黙る」なんて生やさしいものではない、恐怖政治の総元締みたいなものだった。そのNKVD傘下の政治警察GPU(国家政治保安部、1922年創設、翌年OGPUと改名)の制服に関する資料を読んでいて、いやに頻繁に登場する或る単語にちょっとした違和感を抱いた。“1920年9月17日、労働と防衛評議会が採択した制令によって、チェーカー(非常事態委員会=GPUの前身)スタッフ全員を赤軍の軍人に等しいステータスを有するものと定めた。しかし、GPUスタッフの制服が初めて制定されるのは、1922年から1923年にかけてのことである。(中略)GPUの司令部スタッフおよび監獄勤務スタッフの制服は、1922年8月30日付け制令第192号に基づいて定められた。前者のそれは、上着の詰め襟と《シャロワール》が濃紺、襟章が赤、濃紺地の制帽に赤いキャップバンド、襟にKGPU(K=司令部の略)のロゴ、後者のそれは、晴れ着は前者と同じ、日常着は、上着の詰め襟と《シャロワール》が黒、蓋無しポケット、襟と前合わせ部分、袖ぐりに赤い縁取り、黒地の制帽に赤い縁取りと赤いキャップバンド。1923年5月21日付け制令第207号により、GPU管轄下の北部ラーゲリ(山口注:政治犯や戦争捕虜等の収容所)に勤務するスタッフのための特別な制服が制定された。濃紺の外套、襟章と襟の縁取りは赤。濃紺の詰め襟上着と《シャロワール》、赤い縁取り付き。濃紺の制帽に赤い縁取りと赤いキャップバンド。外套の詰め襟の襟にUSLGPUのロゴ。(V・クリコフ『GPU−OGPU、1922―1934』1991年)“ もしや、と閃いて、赤軍の制服、民警の制服に関する資料を調べると、果たして、いずれも下半身はズボンではなくシャロワールを穿いていたことが判明した。(中略)なぜ違和感を抱いたかというと、コザックダンスの時にルパシカ(山口注:ロシアの民族衣装の上着)の下に着用する衣装として、学生時代に民族舞踊研究会の座長をしていた私は一晩に11着も縫ったことがあるほどに、馴染みの代物で、ひどく締まらない間抜けな形状をしているからだ。赤軍や政治警察の厳めしいイメージとどうもそぐわない。泣く子も笑い出してしまいそう。膝まで届くブーツを着用しているので、からくも威厳を保っていたのではないか。ご存じのように、コザックダンスは下半身の動きがむやみやたらに激しい踊りである。それを可能にするべく、生地をたっぷり使うのだが、作り方は、一晩に11着縫うのが可能なぐらいに極めて単純なのだ。(中略)コザックダンスだけでなく、バレエ『バフチサライの泉』に出てくる「韃靼人の踊り」の韃靼(タタール)人も、キプチャク汗国の分家クリミヤ汗国のギレイ汗も、その宮廷のハーレムの美女たちも、官宦たちも、皆シャロワールを身につけていた。(中略)もちろん、舞踊の民族衣装の原型は、元々舞踊のためのものではなく、かつて普通の日常着として身につけていたものである。そして、旧ソ連圏の人々がシャロワールを身につけていたのだろうことは、図鑑や博物館に陳列されたそれぞれの民族衣装だけでなく、絵画や小説の挿絵で確認できる。今もサマルカンドやブハラやタシケントなど中央アジア諸都市のバザールを訪れると、シャロワール姿の男女をよく見かける。いや、旧ソ連圏にとどまらない。サン=テグジュペリの『星の王子さま』に、新しく星を発見したトルコの学者が民族服で発表したら無視され、西欧式背広姿で同じ発表をしたらすんなり認められたという話が出てくるが、挿絵に描かれたその民族服も下半身はシャロワールだったし、『アラビアン・ナイト』の挿絵でも、登場人物たちは絶世の美女や美男も魔神もみなシャロワール姿なのだ。(中略)おそらく、日本の大方の辞書辞典類ではシャルワールとして紹介されているもののことと思われる。アラビア文化圏の伝統的脚衣を指すペルシャ語のシャルワールが各国語に借用された際に訛ってしまったのだろう。“シャルワール shalwar[ペルシア]北アフリカからトルコ、イラン、中央アジア、パキスタン、インド、アフガニスタンまでイスラム文化圏で男女ともに着用するズボンをいう。胴回りが2〜6mと広く、足首まで覆う長さを持つが、股下の短いのが特徴である。古代ペルシア時代からあるといわれ、預言者ムハンマドも着ていたとか、後のオスマン帝国のスルタンが女性の純潔を保つのにふさわしいとして奨めたなどの説がある。(中略)1970年代後半からパリ・モードにも取り上げられ、ハーレム・パンツなどとしてファッション化されている[松本敏子](『世界大百科事典』平凡社)“ 同事典の「ズボン」を引くと、ズボン起源の筆頭に、このシャルワールが挙げられており、右では、古代ペルシアがシャルワール発祥の地と推定しているが、ロシアの大地にこれが浸透していくのに、スキタイ族が介在していると認識しているようだ。“シャルワールまたはシャルワール(ペルシャ語のsharavaraを語源とする)東方諸民族の男女の下ばき。腰回りが非常に広く、ウェスト部と脚部の裾のところで襞を寄せて締めているものが多い。その形状は、スキタイやポロヴェツの時代からほとんど変わっていない。ロシアでは、膝のところまで届くブーツを履き、裾はブーツの中に入れる。(『民族学用語事典』1992年刊)“これは、民話や伝説ばかりでなく、ロシア各地で行われた考古学的発掘からも裏付けられている。思えば、前7世紀から前3世紀にかけてユーラシア内陸部の広大なステップ地帯を舞台に群雄割拠し、前6世紀から前4世紀にかけて世界最古の遊牧国家を築いた勇猛果敢な民族scythian(スキタイ)の活躍期と、古代ペルシャ(=アケメネス朝ペルシャ、前550年〜前330年)の存在時期はほぼ一致しているのだ。それどころか、スキタイは、マケドニアやアケメネス朝ペルシャとことあるごとに衝突していた記録が残っている。つまり直接の交流があり、しかも、スキタイは古代ペルシャ語と同じくインド・ヨーロッパ語族に属するイラン語系言語を話しているから、文化的相互浸透は、多いに考えられる。シャロワールまたはシャルワールが、その時期西アジアから中央アジアにかけての一帯で着用されていた、ということは間違いなさそうだ。前7世紀頃、スキタイまたは古代ペルシャで生まれたシャロワールが、サルマート、匈奴→モンゴル→タタール→コザックと受け継がれて、20世紀初頭、スターリンの政治警察NKVDの制服に採用されていた事実は、ソビエトという極めて理念先行型の人工的実験国家が、それでもまぎれもなくユーラシアの大地の文化伝統の中から生まれてきたことを物語っていて感慨深い。(P199〜P208)


『モンゴル少女の悔し涙』

「ここは学問の場ですよ。そんな不道徳で不謹慎なこと……」教頭先生はそこまで言って絶句した。唇が震えている。1963年のことだから、もう40年も昔の話。プラハ・ソビエト学校の職員室の前で、モンゴル人の少女ツィガンドルシュが教頭先生に叱られていた。モンゴル人の生徒はソビエト学校に七、八人は通ってきていて、揃いも揃って途方もなく勉強が出来なかったから、あれは個人差というよりも、民族的特徴なのではないか、と誰もが口にはしないが思っていた。彼らと顔かたちがそっくりな日本人が私を含めて四人通っていて、全員が学業成績だけは優秀だったので、こちらの方は民族的特徴として誰もが口に出して褒め称えてくれたのと好対照だった。ようやく立ち直った教頭先生は呟いた。「……よく恥ずかしくないこと」呆れ返っている、という様子が目つきにも声音にも滲み出ている。また宿題で素っ頓狂な間違いでもしでかしたのかしら、と私は思い、ツィガンドルシュの顔を覗くと、涙ぐんでいた。私は彼女を可哀想とは思わなかった。本当にイライラするほどいつも愚鈍なんだから、とむしろ教頭先生を思い遣ったくらいだ。「本来一歩でも校内に入ることは、厳禁なのですからね。今すぐ家に戻って、スカートに穿き替えてくること」有無を言わさぬ教頭先生のこのフレーズでようやく私はツィガンドルシュの下半身に目をやり、ズボンを穿いていることに気づき、初めて彼女に同情を覚えた。私も妹とともに転校したての頃、ズボンを穿いてきたために、まるで寝間着姿で登校したかのように罪悪視されたのを思い出した。ソビエト学校の先生方は、授業のような公的な場で女性がズボン姿でいることを、この世にあってはならない非常識であると信じていた。あまりにも疑いようもなく当然すぎることだからなのか、予め禁止事項として注意されることも、ましてや明文化されることも無かったぐらいだ。春夏秋冬の林間学校や遠足などの課外授業で女子や女教師のズボン姿を見かけることはあったし、体育の時間には女子もトレパンや短パンを穿いたのだが、いやしくも正課の授業中に女子がズボン姿でいることは、想定外の事態だった。一度だけ、例外としてズボン着用が許されたことがあるにはある。1962年の2月下旬に学校のボイラーが故障して3日間暖房がストップしたため、氷点下の気温で授業をするという非常事態になったからだ。それほどに女のズボン姿はとてつもなく異常な現象であったのだ。私には不思議でならなかったし、理不尽に思えた。授業内容や日頃の教師たちの言動には全くと言っていいほど性差別を感じさせるものは無かったし、ソ連の国是として男女平等を高らかに謳ってもいた。医者、研究者の80パーセント強が女性で、ワレンチーナ・テレシコーワが女性として初めて宇宙に飛び、「ヤー・チャイカ(私はカモメ)」と地球に送信してきた頃のことである。「カモメのワレンチーナだって、宇宙にはズボンを穿いて行ったんでしょうに、先生方はずいぶん保守的というか、古風なのね」クラスメイトの親友たちに同意を求めたところ、なんとソ連人だけでなく、イタリア人もフランス人もオーストリア人も、「えっ、日本て女の子でも学校にズボン穿いていっていいの?!」と、ひどくビックリして私を見た。あれは蛮族を見る目だった。そしてイギリス人のエリスは、忘れもしない、こう言ったのである。「パブリックスクールだってダメなのよ。姉のマーガレットはケンブリッジに通っているけれど、あそこも女学生のズボン着用は厳禁よ」こうして私は、ヨーロッパ文明圏の人々における「男はズボン、女はスカート」という固定観念の頑強さを思い知ったのだった。15世紀、フランスの救国の英雄ジャンヌ・ダルクが捕らえられ、火あぶりの刑に処せられた時、教会は彼女の罪状に、男用のズボンを着用した罪を書き加えたし、18世紀、フランス大革命の際に断頭台の露と消えたマリー・アントワネットは、革命が勃発するよりずいぶん前に命を落とす可能性があった。ズボン姿で公衆の面前に現れたため、怒り狂った群衆にすんでのところで八つ裂きにされかえったのである。そういう文脈から捉え直してみると、ジョルジュ・サンド(1804年〜1876年)の男装が社会と文化に与えたショックは、もしかして彼女の文学作品よりも強烈だったかもしれないと思えてきた。今現在ならば、公然と性転換手術を受けるような果敢な行為に映ったのではなかろうか。いや、それ以上か。ところが、男はズボン、女はスカートという棲み分けが始まるのは、各ち地域、各民族それぞれ事情も時期も異なるが、大多数の国々においては、ごく最近のことであり、少なくとも、この棲み分けに先行する実に長い長い間、男女の下半身衣は同じ形状をしていた。それは、地球上の各地域で発掘される出土品や文献からも明らかであるだけでなく、例えば、スコットランドやアイルランドやギリシャやインドネシアの男たちは、今もとくに祭りともなるとズボンではなくスカートを好んで穿く。人類の基本的衣服はスカートで、ズボンは後から発見、発明された、あるいは余所から導入されたとする考え方は欧米の衣服史において主流を占める。日本語、ロシア語、英語(筆者の語学力に限界があり、他の言語のものは読めず)の事典類を一通り眺めた限り、人類の衣服の祖型は、@紐衣型(ligature)、A腰衣型(loincloth)、B巻き衣型(drapery)、C貫頭衣型(tunic)、D前開き型、Eズボン型に分類されていて、その下半身部に注目してみると、E以外は、確かにどれも股を覆わないスカート型なんである。旧石器時代の人物像やエジプトの奴隷像、現存の未開人たちが腰に紐状のものを巻きつけていることなどから@は獣皮衣とともに人類にとって衣服の元祖とも言うべきものであり、Aはこれの変形、発展形とも言うべきもので、古代エジプトなどの地中海沿岸や熱帯地方に多い、腰から下を覆う衣服で、エプロンもこのヴァリエーション。インドネシアなどのサロン、ミャンマーのロンギ、日本の腰巻きなど皆これに分類される。Bは古代ギリシャのキトン、ローマのトガ、インドのサリーなど縫い合わせのない衣服、長方形の布を身体に垂らしたり巻いたりして襞を寄せ、布の両端を結び合わすか、帯や紐を絞めるか、留具で留める。Cは、布の中央に頭を通す穴を開け、腕を通す袖をつけた形で、弥生時代から平安時代に至るまで、圧倒的多数の日本の庶民の服装はこれ。南米のポンチョなど、今にその形を残す。古代ローマ人がトガの下に着たトゥニカ(チュニック)もこれ。現代の服はこのCが祖型。Dは東アジアに多く、日本の着物、中国の衫(さん:いわゆる中国服)、ベトナムのアオザイ、朝鮮のチョゴリなどがこれ。Eはユーラシアの遊牧民から周辺民族に浸透していった。西欧について言えば、中世半ば頃まで、男女ともにゆったりした足首丈の貫頭衣型のコットというワンピースを着用していたようである。紀元前500年頃からスキタイ族やフン族やサルマート族などとの交わりを通して、ズボン型が浸透してくるのだが、そのたびに頑強な抵抗に遭っている。現在中国服と呼ばれている胡服のような身体にピッタリした上着やズボンは、遊牧民系の王朝になるまでは中国でも長い間、蛮族の服として蔑視の対象であったし、古代ローマ帝国では、ズボンも股引も「蛮人の服」として禁止されていた。違反者は刑罰に処せられ財産を没収されたほどだ。しかし、軍人は例外だった。将軍たちは戦勝パレードに紫色のズボンを着用して臨んだと伝えられている。塚田孝雄氏によると、股引のラテン語はfeminaliaと言うが、これはfemina(女の)という語から派生した言葉で、ローマの男性にとっては「女々しさ」と多分に野蛮なものとして意識された衣類だった。これは、フン族の移動に押されてユーラシア大陸から移動してきたゲルマン人やガリア人、中東のペルシャ人の衣類と考えられていた。しかし行動に便利で馬上での移動、寒冷地への遠征には適していたので、紀元一世紀後半にもなると、皇帝でも大っぴらに着用するようになる。それでも、初代皇帝でローマの威望の象徴たるアヴグストゥスともなると、トガの下に隠さなければならなかった。(中略)西ローマ帝国崩壊後の西欧では、十字軍の遠征などを通して東の文化文明に触れ、ズボンが普及しかかるものの、しばらくするとスカート型に揺り戻している。それでも武装した際はズボン着用が当たり前となっていき、その影響をうけて15世紀には、男子服が胴衣とズボンに分かれ、女子服も胴衣とスカートに分離したのだった。(中略) スカートの英語《skirt》の語源は、古英語のシャツを意味する《scyrte》で、低地ドイツ語の婦人用ガウンを表す《schart》に由来する。フランス語ではジュープ《jupe》という。ポーランド語の《jupa》、ロシア語のスカートを意味するЮбка(ユープカ)と語源は同じで、アラビア語の木綿下着を意味する《zuppa》に遡る。これは、和装用の下着を意味する襦袢の借用元とされるポルトガル語のgibaoの語源でもある。要するに、現在スカートを意味する英語の《skirt》も、フランス語の《jupe》も、ポーランド語の《jupa》も、ロシア語の《Юбка》も、元は上半身に着用する下着を意味していて、貫頭衣のようなワンピースが上下に分かれた結果生まれたらしいことを物語っている。ユーラシアを中心に据えると、それをグルリと囲む東西南北各周辺地域において衣服の文化は驚くほどよく似た発展を遂げたともいえる。衣服の本流はワンピースから派生したスカートで、ズボンは外から、遊牧民のユーラシアからやって来ている。とここまで来て、私はあっと叫んだのだった。ユーラシアの中心にいた遊牧民にとっては、スカートではなくズボンこそが衣服の本流だったのかもしれない、と。中央アジアのウズベキスタンやトルクメニスタンを旅したときに、現地の女たちがことごとくワンピースの下にシャロワール風ズボンを穿いていたのを思い出した。中国服でも、ベトナムのアオザイでも女たちはワンピースの下にしっかりズボンを穿いている。遊牧民ではないけれど、遊牧民の支配下や影響下に長くおかれた地域だ。スカートを当然視する教頭先生に叱りつけられるモンゴルの少女ツィガンドルシュの悔しさを、今改めて思い知った。子供の頃から馬上で過ごすことの多いモンゴル人にとって、ズボンこそは男女を問わず当たり前の衣服であったのではないか、と。そして、ソビエト学校にいたモンゴル人の生徒たちが揃いも揃って勉強が出来なかったのは、決して頭脳が劣っていたためなどではなくて、あまりにも発想法や常識に隔たりがあったためかもしれないと思えてきたのだった。女のズボン姿に対するヨーロッパ人の嫌悪と不寛容は、ローマ帝国を崩壊へと促したフン族や、蒙古軍の蹂躙に怯えた遠い祖先たちの記憶のなせる業なのか、とも。(P257〜P266)


本書の内容はこの他に、裸体を人前で晒すことに対する日本と西洋での羞恥心の違いについてや、アダムとイブが羞恥心を覚えて自らの裸体に纏った人類最初の衣服であるイチジクの葉についての疑問に、幼稚園時代の米原女史と園児たちが試みた実験と、その顛末。女性が悩まされる月経と生理用品についての考察、そして古代世界においては騎馬民族を象徴するような衣服だったズボンについて、騎馬とズボンとは、どちらの発生が先であるかの考察など。特に米原女史は少女時代のソビエト学校のみならず、ロシア語通訳の仕事もしていた関係からか、旧ソビエト連邦での様々な下着や服飾その他の身体文化を例に挙げて、興味深い説や話題を紹介してくれております。ご一読いただければ幸いです。〔ちくま文庫〕


米原万里
ロシア語会議通訳、作家(1950―2006)。59〜64年、在プラハ・ソビエト学校に学ぶ。著書に『不実な美女か貞淑な醜女か』(読売文学賞)、『魔女の1ダース』(講談社エッセイ賞)『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(大宅壮一ノンフィクション賞)、『オリガ・モリゾヴナの反語法』(Bunkamuraドゥ マゴ文化賞)、『ロシアは今日も荒れ模様』、『真夜中の太陽』、『真昼の星空』、『ヒトのオスは飼わないの?』、『ガセネッタ&シモネッタ』、『旅行者の朝食』、『必笑小咄のテクニック』、『米原万里の「愛の法則」』、『発明マニア』、『他諺の空似』、『マイナス50℃の世界』、『打ちのめされるようなすごい本』、『終生ヒトのオスは飼わず』など。
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