2011年08月01日

シュガーロード〜砂糖が出島にやってきた 著者/明坂英二

《世界帝国の建設の野望に燃えて、ギリシャ北方辺境のマケドニアから、ひたすら当方に向かって征服の進軍を続けたアレクサンダー大王と、その兵士たち。シリアを、エジプトを、バビロンを、ペルシャを怒濤の勢いで征服し、遂にこの軍団の槍の穂先は、インド西部を流れる大河、インダス河の水面に煌めくまでに至った。しかし、そこまで来ていながら、この無敵軍団の雄叫びは聞かれなかった。聞かれたのは、疲労困憊の呻きと、厭戦の恨み節と、望郷の嘆きであった。アレクサンダー大王の「進め!進め!!」の声は、いつ終わるとも知れず、目前の大河の彼岸は、何が待ち構えているやも知れない未知の世界。これまで兵士たちは、大王の命令に従い、多くの民族や都市を撃ち倒し、従えてきた。しかし大王の「進め!進め!!」の言葉は止まらない。遂に兵士は大王に訴えた。「我々はいったい何処まで進めばよいのですか! 大王は我々を何処まで連れて行くおつもりなのか!!もう、たくさんです!!!」当時のギリシャ人が知る、精一杯の世界の果て、インドの地で、疲れ果てて嘆くアレクサンダー軍団の兵士たちを慰めたもの、それは「蜂が作ったのではない蜜を持つ葦」。それが西洋世界と砂糖との邂逅であった。そして、その邂逅が地球を西から東へ一周して、遂には我が日本国の出島にまで繋がる、シュガーロードの物語の始まりであった》

今回紹介いたします本は、人間と砂糖の邂逅と、それをめぐる歴史について書かれたものです。砂糖の原料たる砂糖きびは何処で生まれたのか。砂糖を初めに見つけた人間は誰なのか。 本書によれば、砂糖きびの原産地は、ニューギニアとのことです。その種を風か、鳥か、人かは分かりませんが、インドネシアの島々を飛び石で渡りながら、アジア大陸の端のマレー半島なり、インドシナ半島に到達し、あるものは華南へ、あるものはインドへと伝播したようです。 そして本書『シュガーロード』が語る砂糖と人間の歴史物語は、インドから始まります。古代インドの神話や文化、知識を記した聖典『リグ・ヴェーダ』に、〈ソーマ〉という言葉が出てきます。ソーマとは神酒のことだそうで、蜜のように甘く、神々が好んで止まない酒。それはソーマ草の茎を圧搾して作られるもので、本書の著者は、このソーマ草の正体を砂糖きびではないかと推察しています。まあ、神話はともかくとして、英語のsugar(シュガー)をはじめとする、砂糖の西洋社会での名称の語源は、インドのサンスクリット語のsarkara(サルカラ)だそうで、砂糖はインドから西洋に伝わったものであることは間違いないでしょう。本書では、その砂糖とヨーロッパ人の最初の邂逅を、アレクサンダー大王の軍団がインド西部のインダス河に到達したところから書き出しております。勇猛で覇気に溢れる大王に率いられ、アジアの地を連戦連勝で征服し続けながら、いつ終わるとも知れない進軍に疲れ果て、厭戦と望郷のつのる兵士を癒し、慰めた、インドの地に存在した「蜂が作ったものではない蜜を持つ葦」を、シュガーロードの物語の始まりとしています。そのアレクサンダーの軍勢が東に進んだ道を、およそ千年ほど後に、アラブの隊商が逆に進み、砂糖(この頃は「インドの塩」とも呼ばれていたそうです)を駱駝の背に載せ、バグダードや、エジプトのカイロ等のイスラム諸都市へ運び、さらにヨーロッパへ、そして大航海時代を経て、アメリカ大陸へ、そして日本の出島に到達するまでの地球を一周する長大な砂糖の旅路(またその逆に、インドから華南へ向かった砂糖もあるが)と、砂糖が世界各地の人々に与えてきた甘味の恩恵と、その利権から生じた悲劇。そして本書の後半では、鎖国体制下の徳川時代で唯一、海外との通交窓口であった長崎で、オランダ人と日本人との間で砂糖貿易によってなされた、様々な交流や日蘭双方の貿易事情や、日本社会に砂糖が普及し、需要が増大して経過について。砂糖を通して繰り広げられた歴史物語の数々を皆様にお贈りする一冊です。


内容抜粋


【インダス河デルタのできごと】

『アレクサンドロスの兵士たち』

バスが来て、バスが行く、神だけが残り続ける。インド、ニューデリー南方の町アリーガルのバスターミナルの近くで、一人の乞食がときおり身体を揺すりながら、ウルドゥー語のそんな意味の歌を歌っていたと、オリエント学者のアンネマリー・シンメル氏が書いている。世界史とは人の移動の歴史であるという。インドの歴史は古い。「雪の家」ヒマラヤの山々から逆三角形に突き出したインド亜大陸のこの一角を、いったいどれだけの人間たちが群れをなして来ては去って行っただろう。といって、ぼくがいま見ようとしているのは紀元前2500年にも遡るインダス文明といった途方もない過去のインドではない。その者たちが現れたのはもっと新しい。それでも紀元前ではあった。紀元前325年のたぶん7月。アレクサンドロス大王の軍勢はインダス河下流デルタ地帯に到達した。それは異様な一団だった。大王直属のマケドニア人だけではない。ギリシャ人、キプロス人、ペルシャ人をまじえて総勢12万人の騎兵、歩兵、その将兵の家族、女たち、それに商人。遠征軍の兵士たちは誰もが疲れはて、目がぎらつき、熱暑の空を仰ぐこともせず、モンスーンの雨でぬかるんだインドの大地をただ歩いていた。靴は水が沁みて重く、ベルトは腐り、出身地にちなんだ英雄の頭部を浮き彫りにした青銅の盾もとうにカビて緑色に変色していた。巨大な軍象が相手のこの土地では役立たずになったアレクサンドロス軍独特の長槍は捨てられた。赤紫の革の胸当てもいつからか脱ぎ捨てられていた。兵士たちのある者は、水嵩を増した雨期のインダスを人と馬と食糧を満載して下る無数の平底船の綱を引きながら岸の泥道を進み、ある者たちは、帆を深紅に染めた将校用の船を裸になって漕いでいた。それはバルカン半島の南、ギリシャの北辺、エーゲ海の陽光輝く故郷マケドニア王国を遠く離れること8年、1万8000キロを行軍し続けてきた軍隊だった。ヒマラヤの深い峡谷を越え、東方の未知の国で戦いに戦いを継ぎ、75万のアジア人を殺してきた軍団だった。それはまた、砂糖キビと初めて出会った西方の人間たちだった。(P9〜P11)


『砂糖きびとの出会いはどこ?』

軍勢はインダス河三角洲の都市パッタラに暫しの憩いをとった。しかし、もともとアレクサンドロス自身にここを東征の最終地とする意図は全く無かったのだ。「ゼウスよ、あなたはオリンポスの山を支配されるがいい。余はこの地上を統治する」。インダス渡河の後は、さらに東方のタール砂漠に挑み、ガンジス河を制して、世界の果てにあると聞く「東方の大洋(オケアノス)」をこの目にするのだという29歳の帝王の野心的な演説が将兵たちの強い拒否反応を呼び起こしたのは一年前のことだった。最古参の騎兵大隊長が泣きながら大王の命令を拒絶した。大隊長の諫言はすべての陣営に波のように拡がっていった。食事もとらず三日間、天幕に閉じ籠ったアレクサンドロスは結局敗北を自認せざるを得なかった。 今回の大規模なインダス河下りは大王の翻意による故郷への転進を意味するものであること、この苦しい南進が東方遠征の終わりの始まりであることは、すでに全軍の了解事項になっていた。あと一ヵ月もすれば、飢えと雨と泥と蛇に悩まされ、略奪にさえ飽き、ただ望郷の思いだけに凝り固まった大軍の西帰の旅が始まることになる。この時期、この地であったと伝えられるアレクサンドロスの兵と砂糖きびの出会いはこのパッタラ露営地周辺のどこだったのかは、どの伝記にも明らかではない。いや、実のことを言うと、マケドニアの眉目秀麗、小柄ながら勇気に満ちた王子が反ペルシャの戦いのうちに倒れた父王の後を継ぎ、遂にエジプトからインドに至る未曾有の、しかし未完の帝国を樹立するという英雄物語の数は両の指に余るが、それらの伝記や年代記のうち、原史料と呼び得るような材料に基づいて書かれたものはひとつもありはしないのだ。大王死語500年、ギリシャ出身のローマの史家が著した『東征記(アナバシス)』七巻が最も信頼できる基本的史料というのでは、砂糖きびとの遭遇の素晴らしい一瞬を正確に描き出すことなど不可能というよりないではないか。それでも、砂糖きびは、そこインダス河三角洲地帯に確かにあったのだと思う。アレクサンドロスの終生の戦友であり、インドからの帰旅では二手に別れた一方の船団を率いる重責を担った海将ネアルコスによるらしいこんな言葉が残っている。「あそこには蜜蜂の助けを借りずに密が採れる葦がある」(後半略:P11〜P13)


『砂糖きびのほんとうのふるさと』

物語はここから始まる。とはいっても、ここで、砂糖きびという植物そのものが紀元前325年に生まれたのだなどというつもりはさらさら無いし、この植物がインド原産だというつもりも、またない。まず先のことについて言うと、砂糖きびはアレクサンドロスの軍勢によって「発見」される前から、もちろん、そこインドの地に「あった」のだ。軍勢が大王の最初の企図のとおり西インドからさらに東進を続けガンジス河に到達していたとするなら、多分そこでも、兵士たちはあの「蜂が作ったのではない蜜を持つ葦」に出会い、狂喜してその茎に歯を立てたことだろう。砂糖きびは、すでにして、あった。これはアメリカ大陸がコロンブスによって「発見」されようが、されようまいが、有史以前からそこに「あった」のだということと似ていなくもない。大陸はただ大陸であって、新大陸でも新世界でも、じつは無かった。砂糖きびもまた。あとのことについて言うと、インドの地にあって西方の戦士たちの渇きを癒した砂糖きびは、そこインドを原産地とするイネ科の草本だと長い間思われてきたのだったが、近年になってそうではないことがわかっている。(中略)結論だけを先に言うと、砂糖きびの原産地はニューギニアなのだ。このあたりの事情については、やはり名著のひとつ、「照葉樹林文化」の名で知られる中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』を借りることにしよう。それによると、まず、砂糖きびにもいろいろあって、インドの在来種はバーベリーとかチュニー群といったグループに属する。一方、今日の砂糖産業を支えているのはマレーシアの先住民が栽培していた優良品種群(ノーブル・ケイン)を土台にしてオランダ人が交配して作り上げたものが基礎になっている。インドの在来種は茎が細くて収量が少ない。砂糖きびがインドに原産し、東南方に伝播してマレーシア、ポリネシア、インドネシアにまで広く栽培されていたノーブル・ケインのグループを生み出したというには、無理があるわけである。では現在の優良品種砂糖きび群の直接祖先となった野生種はどこで原産したのだろう。アメリカの植物探検隊のE・W・ブランデス博士が思いがけない品種を発見した。その場所はニューギニアで、茎が太く丈夫なその野生種の砂糖きびは、ノーブル・ケインと比べて糖分が薄いという点を除けば何ら違いのないものだった。サッカルム・ローバスタムと名付けられたそれこそが砂糖きびのルーツだった。博士たちが踏査したニューギニア南海岸で住民たちが家の周りに栽培していたのは高さ4メートルにもなる丈夫な砂糖きびで、その付近の耕地とジャングルの間のようなところで、それの野生種サッカルム・ローバスタムが自生しているのを見つけたのだった。博士はニューギニアにおいてサッカルム・ローバスタムからその栽培種サッカルム・オフィキナムルが発生したのは紀元前15000〜8000年としているが、「この数字は彼もたいした根拠を示していない。ともかく、バナナやヤムイモと並んで、(砂糖きびは)人類最古の作物の一つとみることができるであろう」というのが中尾氏のコメントである。サッカルム・ローバスタムから発生した栽培種サッカルム・オフィキナムルは、紀元前6000年、原産地ニューギニアからインドネシアの島々を飛び石づたいに辿ってマレーシアへ、そこから片やインドシナ半島を経てインドへと、ふたまたに別れて伝播したという。誰が、どのようにして、それをしたのか。風が種を運んだのか。鳥が種を運んだのか。ともあれ、インドに種を下ろした砂糖きびは、そこからまた膨大な時間のうちに土地と風土に馴れ親しんで、様々な品種変化を遂げていったに違いない。紀元前325年にマケドニアの兵士が噛んで吸った砂糖きびは、今日バーベリー、それともチュニー群と分類されている砂糖きびの祖先にあたる品種のどれかだったのだろうか。茎が細く、含糖分が低く、生産力も劣るとあって、それらの砂糖きびはいまはインドでもほとんど絶えてしまった。インダス河口デルタ地帯発のシュガーロードの始まるその以前に、あまりにも長くて遠く、現代人の我々の尺度では測り切れない種の進化のシュガーロードがあったのだった。その道の跡は既に消えて、ない。(P13〜P18)


『サンスクリット語「サルカラ」』

それにしても、何千年の尺度をもって教えられる悠久の時代に南海から届いた砂糖きびの順化と生長から砂糖作りまでの間には、どれだけの歳月が流れたことだろう。人と砂糖きびの付き合い方について言うなら、まずずっと後のマケドニアの兵士たちがしたように、インドの人たちもごく初めはにしたのは、せいぜい固い皮をナイフで削り、裸にした茎を噛みしだいて糖汁を吸うといったことだったはずだ。次には、何か道具を使って圧搾し、その搾り汁をそのままでか、水に混ぜて飲む。後に初期帝政期ローマの青年詩人ルカヌスが大作叙事詩『ファルサリア』で、ガンジス河沿岸に住む人々を「なよやかな葦の甘き汁を飲む人たち」と称えたのは、そのどちらを言ったものだったのか。食文化の進化の定理として次に考えられるのは、何か摂取しやすいような食べ物に混ぜるということだ。ヨーロッパの深い森の洞穴でヒトが好物の肉汁を効果的に口に運ぶ手だてとして用いたのは、焼け石で焼いた堅い黒パンをそれに浸すという方法だった。だいたいスープというものは、もとは肉汁に浸したパンのことをそう呼んだのだった。インド人の場合はドロドロと煮た粥に砂糖きびの汁を混ぜ込んで食べた。王族やバラモン僧は米の粥に、貧しい民は雑穀の粥に。紀元前500〜300年に骨格が出来上がったとされる大叙事詩『ラーマヤーナ』には、砂糖きびの糖汁やカルダモンでねっとりとさせた牛乳煮の米粥が、クリーシャラという名で登場する。(中略)ヒトの料理史に最初に登場した調理器具は、火で熱く焼いた石だった。焼き石は、その余熱でエジプト人が自慢のパンを焼くのに最も重宝したように、あるいはメラネシア人が穴を掘ってバナナの葉で包んだ豚肉やタロイモを蒸し焼きにするのにいつも大量を用意したように、ここインドでも「文明の利器」だったようだ。この道具を使って砂糖きびの搾り汁を濃縮する、というところまで来ると、砂糖作りは完成までもうあとほんの一歩だった。純白の、などとは決していえるようなものではなかったにせよ、砂糖きびの濃縮汁を乾かして得た砂糖、より正確には粗糖と呼ぶべきだった貴重な産物を、インド人は、サンスクリット語で、sarkara=サルカラ(サンスクリット語と並ぶ中インド語のプラークリット語では、sakkara=サッカラ)と名付けたく。語根sri(引き裂く)と、kara(形成する)から成り立つこの言葉には、砂糖作りの工程がよくまとめられている。 サンスクリット語のsarkaraはそのままラテン語に取り入れられて、saccharum(サッカルム)となり、英語のsugar(シュガー)、ドイツ語のZuker(ツッカー)、フランス語のsucre(シュクル)、スペイン語のazucar(アスカル)にその系譜を拡げている。人類の貴重な財産である砂糖がかつてインド人の発明になったということを、世界の言語が証言している。(後略:P24〜P27)


【マルコ・ポーロの砂糖見聞録】

『福建の砂糖は白かったか、茶色かったか?』

《キンサイという壮麗無比な大都会に到着する。キンサイとは訳して「天上の都市」という意味であるが、まさにそのとおりの壮麗さである。》杭州についての報告を、マルコ・ポーロはこんな言葉で始めている。1279年、南宋はモンゴルの騎馬軍団に滅ぼされたが、かつての仮の都、杭州の栄華は消えなかったらしい。網の目をなした無数の水路と1万2千の橋、「あたかも、水の上に構築されているような」市街は、故郷ヴェネツィアを思わせたのかもしれない。インドの商人が商品を保管する巨大な石造倉庫の列、白と黄色の桃、米と香料で醸造した酒、数えきれないほどの遊女、医師と占星師と十二の工匠組合、軒を並べる冷水浴場、一日に1荷223ポンド入りで43荷という市民の胡椒消費量……持ち前の数字入りの雄弁に続けて彼は、フビライ・カーンがこの市と管下諸地方から徴収する巨額の税金に話を移す。《砂糖の生産が、これまたマンジの他の八王国と同じく、この地で盛んなのである。全マンジからの砂糖生産額は、爾余の世界各地でのそれに比べて実に二倍に達するのだから、これが莫大な税収入を生み出すのである。》ここでマンジとは、大元帝国が首都を置くカタイ(江北)に対する江南をさしている。かなり古くから、揚子江流域は上流から河口までが砂糖きびの栽培地だった。北宋末から南宋初めにかけて、というから1100年代の古典的な精糖書『糖霜譜』には揚子江上流域、四川省の北緯30度を越えた辺りでの砂糖きび栽培法が詳述されている。そうであれば、1200年代の元の世紀に、杭州を含む淅江省、福州を含む福建省といった華南の肥沃な一帯が全国砂糖生産の首位を占めていたというマルコ・ポーロの報告は充分に頷ける。ポーロのマンジの旅は、淅江から、南に隣り合う福建の首府福州へと進む。《この地方での砂糖製造額の莫大なことは、ちょっと信ぜられないほどである。真珠・宝石の取引も盛んであるが、それは全くインド諸島で商版に従事している商人たちを満載した海舶がはるばるインドから数多くこの地に入港するおかげである。》その福州にあと18キロという地点だった。ウンケン、とその名を聞いた。侯官県。そこにはカーンの宮廷で使用するずば抜けて高価な砂糖をすべて納めているという製糖工場があった。『東方見聞録』はこう記す。《カーンがこの地方を支配する以前には、土地の人々はまだバビロンで行っているような調合法による砂糖精製の技術を知らなかった。彼等はそれを凝結し型に入れて固めるという製法を用いず、ただ煮詰めて粋を取るだけだったから、糊の程度の堅さをした黒い砂糖しか造れなかった。しかしカーンに征服されてから、この地にもカーン朝廷に仕えるバビロン人がやって来て、ある種の木灰を用いることによってそれを精製する方法を教えたのである。》(山口注:明坂氏は、この文中でマルコが言う「バビロン人」は、イランやエジプト等の人間で、当時の中東世界全般を「バビロン」と表現しているのではないかと推察している)まわりくどい文章だ。まわりくどい文章だが、よく注意して読むと、ポーロはここ福州近郊で、元代中国製糖の最先端を行く製造現場を目撃したのだということがわかってくる。第一のキーワードは「木灰」だ。フビライ・カーンの支配以前は、砂糖とはいっても、砂糖きびの搾汁を煮詰めて「粋」を取るだけだった、とある。つまり何度も何度も煮詰めては底に溜まったエッセンスというか、蜜と糖の混じり合ったペースト状のものを得るにとどまっていた。だからそれは「糊の程度の堅さをした黒い砂糖」でしかなかった。それがカーン以後、その煮詰める過程に「ある種の木灰」を使用するという技術革新が加わった。その木が何であったか。とにかく木灰は石灰と同じくアルカリ性だから、糖汁の酸類と化合してこれを中和する。また灰は不純物を吸着し、アクになって糖汁の表面に浮かんだり、底に沈澱する。除去しやすい。砂糖の色も、もちろん味も、ずいぶんと改善されたことだろうし、カーンの御覚えも良かったはずだ。『東方見聞録』のこの一文は、中国製糖史にたぶん初めて登場した砂糖精製工程における酸性中和剤使用の貴重な証言なのだった。(後半略:P59〜P63)


『ヴェネツィア 砂糖の共和国』

マルコ・ポーロを生み育てたヴェネツィアは、したたかな都市だった。(中略)その最初の町が、ラテン語の「高い崖」から発してリアルトと呼ばれていた潟の一角に完成したのは421年3月25日だった。とこれはずいぶんと細かく伝説に語られている。潟に築造された寒村が独立の都市国家ヴェネツィアに成長し、それどころか中世ヨーロッパの「東を向いた表玄関」に成り上がったのには、地中海域特有の海の民の進取の気質と海運の才が大きかったし、加えて地の利という好条件があった。神聖ローマ帝国との親密な関係を維持しながら、8世紀には東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルと当時イタリア東海岸の物資集積地ラヴェンナ間の郵便サービスを仲介していたし、9世紀にはイスラム世界に組み入れられていたエジプトとの直取引を始めていた。地図を見るとこれらの地域がどこもみな、アドリア海、エーゲ海、地中海といった水で繋がったひとつの世界であることがわかる。10世紀になると、最初の砂糖が、シリアとエジプトからサン・マルコの荷揚げ場に到着している。シュガーロード最新のシチリアの上質の砂糖がヴェネツィアの市場に現れはじめたのは11世紀。12世紀にはこの港からエジプトものを質でも値でも抑えたシチリア産糖が船積みされていた。もちろん手練れのヴェネツィアの水夫たちが運び入れ運び出し、機敏なヴェネツィアの商人が売り買いしたのは、砂糖だけではない。マルコ・ポーロが「私はまだ半分も話していない」と言い残して1324年に世を去った次の世紀に、共和国頭領トンマーゾ・モチェニーゴが大演説をした。《我々の国は、1000ドゥカートを通商に費やし、ガレー船、帆船などの船舶を使って、全世界と取引をしている。その結果、ヴェネツィアにもたらされる利益は200万ドゥカートであり、投資額と売上総額を考慮した利益は400万ドゥカートである。……我々はまた、8000人の水夫が乗船する300隻の大型船を所有する。毎年、1万1000人の水夫を乗せた、細身と太身を合わせて45隻のガレー船が出航する。船大工は3000人、船体溶接工も3000人…… 》いや、このきりのない引用はやめよう。要するに、この水上都市の大運河には、スラヴ世界から木材と蜂蜜と蝋と毛皮が、ビザンティン世界から葡萄酒と絹製品が、イスラム世界から砂糖と麻と綿と香水と香辛料がひっきりなしに持ち込まれては、文化に目覚めはじめたヨーロッパに高値で売り捌かれていったのだった。砂糖貿易についていえば、仕入先の主軸はすでにして東方世界から大きく移動していた。「カイロの砂糖は雪のように白く、石のように固い」と言われたものだが、その評判は地中海の島々が奪った。まず長靴の形をしたイタリア半島のつま先、シチリア島に広がった砂糖きびの大農場と製糖工場がある。前にも書いたように発祥の歴史は10世紀も遡り、11世紀から12世紀にはピークを迎えたこの島産の砂糖に続くのは、東地中海をイタリア半島に向かって飛び石のように並ぶクレタ島とキプロス島の砂糖だった。13〜14世紀ヴェネツィアの船荷リストの多くのページを占めることになったこの二つの島の砂糖をヴェネツィアは十字軍を利用してうまうまと手に入れたのだ。(後半略:P68〜P72)


『フロイスの瓶入りコンフェイト』

太平洋。万里の海にも新しい波風が湧き立っている。1520年11月28日水曜日。この日、マゼランは南米大陸南端を大西洋から太平洋へ抜け出てきた世界最初の航海者となった。 ポルトガル下級貴族の身をスペイン王カルロス1世のもとに投じたフェルナン・マガリャンエス(マゼラン)が、この国に新設されたインディアス審議院や通商院のお歴々を、新大陸からさらに西へ向かえばポルトガル人の喜望峰回りより近距離で東方の香料諸島に達するはずと説き伏せ、轟く礼砲に送られてセビリャの埠頭を離れたのは前年8月10日。そのときにはトリニダード号以下五隻だった船団は、離反する船もあって今では三隻になっている。南緯53度の僅か三時間しかない夜を重ね、イワシとメヒリョン貝とセロリの栄養に助けられて、南アメリカ大陸南端を切れ切れに縫い合わせる島々がつくる入り組んだ海峡を航行し続けてきた乗員たちだったが、この日ついに、雪の山に挟まれた岩の壁の海から広大な大洋(マーレ・オチエアノ)の真っただ中へ突入したときには、水面を飛んで跳ねる無数の飛び魚たちのレースを鑑賞する余裕を失ってはいなかった。尤も、目指すモルッカ香料諸島までには、そこから湾がひとつか、せいぜい内海があるぐらいのものという当時の世界観しかなかった彼らにとって、思いもかけずそこに存在していたのは地球上最大の海、太平洋だった。苦行と苦労の末、翌1521年4月、長途フィリピン諸島中央部のセブ島に辿り着いて西回り世界周航路の開拓という国王との約定は果たしたものの、提督マゼランが再び故国の土を踏むことはなかった。(中略)一方、ポルトガルは素早い勢いで東進を強行し続けていた。かつてガマ(山口注:ヴァスコ・ダ・ガマ、ヨーロッパからインドへの航路を開拓したポルトガルの航海者)が開いた海路に次々と派遣された艦隊は、1510年、インド西岸の港市ゴアを攻略、イスラムのモスクを焼き払う。この地に要塞を築き、インド洋海域を砲艦で制圧すると、次の狙いはマレー半島南端のマラッカだった。(中略)ポルトガルがさらに強固な東方交易の拠点と定めることになる華南の良港マカオの居住権を明国からいつ、どのようにして手に入れたかは、判然としない。だが1555年、日本へ向かう途上にあったイエズス会のインド管区長がMachuanを発信地とした手紙をゴアの同僚に宛て送っている。1562年には800人のポルトガル人が居住して、地価も上昇したという。マカオ。中国名は澳門。南湾の澳(港)を挟んで聳える二つの丘を門柱に見立てた名だった。門柱の間に南シナ海の青が広がる。その海は古来、この地域の海民たちの賑やかな交易の場だった。(中略)南シナ海に夏の季節風が吹いてくるとマカオを発する日本向けの船には、丈の長い僧衣を着た宣教師たちが乗り込んだ。16歳の時から神の下僕としてインドへの布教を願い、そのインドのゴアではフランシスコ・ザヴィエルに出会って日本行きの夢を燃やしたイエズス会士ルイス・フロイスもその一人だった。1563年(永禄六)、肥前国彼杵郡(そのぎごおり)横瀬浦に上陸してから実に30年以上を日本で過ごすことになるこの人好きのする司祭が、1569年(永禄十二)、京で二条城を造営中の織田信長の御機嫌伺いに参上の節、この天下人にガラス瓶入りのコンフェイトを贈ったというエピソードはあまりにも有名だが、地終わる所(山口注:ポルトガルのこと。ポルトガルの詩人カモンイスの「ここに地終わり、海始まる」の詩による)から波濤を越えてジパングの国に到達したシュガーロードを象徴するようなこの話は、ぼくも気に入っている。コンフェイトとはもちろん金平糖だ。16世紀の当時、日本の都にまで携えられたポルトガル製砂糖菓子コンフェイトはどのような形をしていたものか。貴族や司教たちに好まれたという貝や魚や胡桃をかたどった高級な砂糖の練り菓子だったのか、いまも古都コインブラやテルセイラ島で素朴な形を残している日本でもお馴染みの、あのキラキラと角のあるタイプだったのか。(P96〜P101)


『普段着を着たポルトガル人』

しかし、フロイスのコンフェイトは一挿話だ。いま、東半球を渡って環シナ海海域のふちにある九州西岸にまで延びてきたシュガーロードの実際の姿は、もっと民衆的な広がりを持ったものではなかったろうか。というのは、こうなのだ。食の文化というものが育つには、ひとつの条件がある。食文化とは生活の文化だ。人々の生活、民衆の日々の暮らしの中でこそ、それは根を下ろし、拡がり、進化し、ときに姿を替えては生き延びていく。でなければ、その食文化はひ弱なものに過ぎない。いつの間にか、そっと消えてしまう。日本人にとって、砂糖は16世紀に初めて目にするものでは、じつは、なかった。754年(天平勝宝六)五度の失敗を重ねた後の六度目、ついに日本へ仏法伝道の悲願を達した唐僧鑑真によってもたらされたという説がある。和上の第二次渡航の積荷目録に「石蜜」「蔗糖」の名があるのがそれだというのだが、断定しにくい。六度目に成功した渡航の際の船荷にこれらの名は無い。ただ、ほぼ同時期、聖武帝の遺品に薬種として二斤余りの「「蔗糖」が含まれていたことには文章の裏付けがある。高貴な薬であった。(正倉院『種々薬帳』)。平安時代になると唐果物だといって「沙糖」をひとから贈られたという貴族の日記がある(『後二条師通日記』)。けれど、それらは権力者の館の奥座敷や僧坊の壁をかすめた微かな痕跡にとどまった。普通の人々の暮らしの中で、砂糖がこの上もなく甘いもの、美味いものとしてその味覚を楽しまれるのは、やはり16世紀、南蛮文化時代以後ということになる。砂糖羊羮、砂糖饅頭、砂糖餅、砂糖飴、そんな名が普段に口にされるのは、室町も後期に入ってのことだった。羊羮や饅頭にわざわざ「砂糖」と冠をつけたのは、つまりはそれまで羊羮も饅頭も砂糖無しが普通だったからだ。砂糖羊羮、砂糖饅頭、そんな呼び名に舶来の砂糖へのいかにも興味と親しみが感じられないだろうか。食の文化の息遣いが聞こえてくるのは、そんなときだ。(後半略:P101・P102)


本書は砂糖をテーマとしていますが、内容は砂糖に限らず、古代インドから、シルクロードの栄華を極めた中世イスラム世界や、十字軍時代や、大航海時代のヨーロッパの文化や歴史上の様々な出来事や文化・経済事情等が紹介されております。つまりは、砂糖の雑学本というよりも、砂糖をきっかけにした世界史の書というべきでしょう。ちなみに私も甘味は大好きです。よく酒呑みは甘いものが嫌いだと言われますが、私は酒呑みであるにも関わらず、甘味にも目がありません。たとえばウィスキーを飲むときの、お気に入りのつまみはチョコレートやクッキーという人間です。しかし、現在の私が何より砂糖の恩恵を感じるものは、奄美大島産の黒糖焼酎を飲むときでしょうかね。^^ 皆様は如何でしょうか?それではまた。〔長崎新聞新書〕


明坂英二
昭和6(1931)年、神戸市生まれ。早稲田大学仏文科中退。PR誌のエディター、ライターの仕事の中で食の文化史にひかれる。著書『かすてら加寿底良』(講談社)、『卵を割らなければオムレツはできない』(青土社)、『オーヴンからの手紙』(同)、絵本『小さな卵の大きな宇宙』(福音館書店)など。日本エッセイスト・クラブ会員。
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