2006年08月06日

タクシードライバー―一匹狼の歌 著者・梁石日

◎当ブログ管理人が奨める読みどころ

【消滅した男〜高速道路の怪】
Kタクシー会社に勤める岩田(仮名)運転手は、午前四時頃に帰庫してきた。いつもなら交替時間ぎりぎりの午前七時頃に帰庫してくる岩田運転手にしては珍しく早い帰庫だった。体の調子でも悪いのかと思って、事務所の川合(仮名)が、「どうしたんだ、顔色が悪いよ」と言って日報を受け取った。実際、岩田の疲れた顔色はどす黒かった。常に三番以内の売り上げを堅持してきたこの道20年のベテラン運転手も、さすがに疲れが溜まってきたのだろうと川合は思った。ところが日報を手渡した岩田はストーブの側の椅子に腰をおろしてしきりに、「おかしい、おかしい」と独り言をつぶやいていた。夕方から降り出した雨は夜中に豪雨にあり、なおも激しく降り続けている。その雨の音に耳を傾けながら、岩田は沈黙思考をきめこんでいた。いつもと様子の違う岩谷川合が声を掛けた。「どうしたんだ、岩田。さっきから、おかしい、おかしい、と独り言をつぶやいているけど」しかし岩田はストーブの炎に視線を託して考え込んでいた。その表情には何かに脅えているようないわくいい難いものがあった。そこへ運転手の山崎(仮名)が帰庫してきた。彼は日報をカウンターに置いて、「こんなどしゃ降りじゃ、客なんかいやしねえよ」と言ってストーブの側の岩田を見た。「珍しいこともあるもんだ。こんな時間に帰庫してくるくらいだから、よほど暇なんだ。俺が客拾えねえのも無理ねえよ」彼は岩田にかこつけて、自分の帰庫を弁明していた。「そうじゃないんだ、さっきから、どうも様子が変なんだ」と川合が言った。「何が変なんだ。体の調子でも悪いのかい」「そうじゃないらしい。さっきから、おかしい、おかしい、と独り言を言っているんだよ」「日報の計算が合わないんじゃないの、そういうことって、よくあるからさ」「日報はちゃんと合ってる」「じゃ何がおかしいんだ」「俺にも分からない。岩谷に訊いてみな」そこで山崎が岩田の隣に座って顔をのぞき込んだ。「確かに顔色が悪いぜ。いつもと様子が違うよ。どうしたんだ、岩田。深刻な顔してよ。何があったんだ」山崎は沈黙思考している岩田から事情を訊き出そうと、執拗に問いただすのだった。山崎の執拗な問いに、貝のように口を閉ざしていた岩田がようやく喋りだした。岩田運転手の話によると、午前二時頃、新橋から厚木まで行ってくれという中年の男を乗せたのだそうだ。どしゃ降りで暇だった岩田は、これで今日のノルマが達成できると喜んで霞ヶ関から高速道路に入ってぶっ飛ばしたのである。客はかなり酔っていたが、タクシーに乗ると「厚木インターを出たところで起こしてくれ」と言って後部座席に体を横たえた。帰宅するまでの間、後部座席で横になる客はよくいる。岩田運転手は「わかりました」と答えて走りだした。首都高速から東名高速に入ると、雨はますます激しく降り、前方に並行して走っている二台の大型貨物車のしぶきを浴びて、まるで滝の中を疾走しているみたいだった。岩田運転手は車線変更しようとしたが、後続車との車間距離を計れなくてなかなか変更できずに、そのまま走り続けた。車両を叩く雨の音と前方の二台の大型貨物車のしぶきを浴びて、ラジオの音声が聞き取れないほどであった。岩田運転手はラジオの音声をあげた。豪雨の中を二台の大型貨物車は競うように百キロ以上のスピードで疾走している。岩田運転手はスピードを落としたかったが、周囲の車が百キロのスピードで走っているときは、それにスピードを合わせないとかえって危険なのだ。岩田運転手は前方を凝視したまま、瞬き一つできないほど緊張していた。首都高速道路には一定の間隔を置いて灯りがついているが、当時、東名高速道路には灯りがついていなかった。したがって車のライトだけが頼りだった。しかし車のライトが照らし出す範囲はしれている。「こんな豪雨の中を、百キロ以上のスピードを出しやがって。クレイジーだぜ!」岩田運転手は前方を走っている横暴な二台の大型貨物車を内心非難した。実験では、雨の中を百キロ以上のスピードで走った場合、水溜まりに入った車両は一瞬浮くことが実証されている。そのことを知っている岩田運転手は前方を走っている二台の大型貨物車の無謀な運転を腹立たしく思った。ハンドルを握っている掌にじっとり汗が滲んでいる。金縛り状態になった岩田運転手はひたすら前方を見つめて走り続けた。やがて後方から一台の乗用車が猛スピードで岩田のタクシーと二台の大型貨物車を追い越していった。それを見計らって、岩田運転手も左端へ車線変更した。そしてスピードを落としてほっと一息ついて標識を見ると、厚木インターまで二キロと出ていた。グッド・タイミングだった。岩田運転手はゆっくりとスピードを落としながら厚木インターを出て一般道路に入ると車を停めて、「お客さん、厚木インターを出ましたよ」と声を掛けた。ところが返事がなかった。後部座席で横になった酔客は眠ってしまうことがよくある。岩田運転手は再度、「お客さん、厚木インターを出ましたよ」と言って振り返ってみると、後部座席に乗っているはずの客がいないのである。岩田運転手は一瞬錯覚した。シートから床にころげ落ちたかもしれないと思って体を乗り出して床を覗いてみたが、やはりいなかった。「どうなってるんだ……俺は確かに新橋で酔っぱらいの中年男を乗せたはずだが……それとも乗せなかったのだろうか?そんなはずはない。厚木インターを出たところで起こしてくれ、と言った男の声が耳に残っている。幻覚だろうか?だが、俺はアル中でもないし、ましてやヤクなど打ったこともない」シートを触ってみると、じっとり濡れている。その冷たい感触に、岩田運転手はぞっとした。背筋に悪寒が走って恐怖を覚えた。雨の日に乗せた客がいつの間にかいなくなって、シートがじっとりと濡れていた、というあの怪談とそっくりだった。そんな馬鹿なと思いながら、現実に乗せた客がいないことに動揺した。そう言えば、低い声だけが耳の底に残っているが、顔も定かではなかったし、よろよろとした歩き方は酔っぱらっているからだと思っていたが、乗せた客の姿は影のようにぼんやりしていた。なにからなにまで、あの怪談に一致する。岩田運転手はハンドルを大きく切ってターンすると一目散に引き返した。今にも後部座席から中年男の腕がぬーと伸びてきて首を絞められそうな気がした。落ち着け、落ち着くんだ、岩田運転手は自分に言い聞かせながらアクセルを踏み込んだ。さっきは百キロ以上のスピードで走っていた二台の大型貨物車を非難していたが、岩田運転手は百二十キロの猛スピードで疾走していた。背後の暗闇から何かが追いかけてくるようだった。そしてやっとの思いで車庫にたどりついたのである。話し終えた岩田はまだ何かに脅えているらしく憔悴しきっていた。話を聞かされた山崎が笑いながら言った。「よく聞く怪談だけどよ、実際にそんなことあるわけねえよ」「それじゃあ、俺の話は嘘だというのか」「お前は錯覚してんだよ。無理してノルマをあげようとするから、今日みたいに暇な日は焦ってさ、客を乗せていないのに乗せたと思い込んで走ってしまったんだ。」「冗談じゃねえよ。だったら俺は完全に頭がいかれてることになるじゃねえか。そこまで俺はおかしくなってねえよ」「しかし客はいなかったんだろう。幽霊でも乗せたって言うのかい」「だから俺にも何がなんだか訳が分かんねえんだよ。気持ち悪くてよ、俺は頭がどうかしちまったのかな」そう言いながら岩田は頭を抱え込んでしまった。「錯覚だよ、錯覚。二、三日体を休めて疲れを取れば、錯覚だってことがわかるよ。日頃から無理をするなって言っただろう。無理をするからこういうことになるんだ」常に会社で三番以内の売り上げをしている岩田を、売り上げの低い山崎はこのときとばかりに批判した。それは事務所の川合に対する牽制もこめられていた。「だけどよ、日報の売り上げは合ってるじゃないか」と川合が言った。「それは厚木までの運賃を俺が自腹切って合わせたんだ。しょうがねえだろう」岩田がふてくされ気味に答えた。自宅に帰った岩田は疲れていたにも関わらず、眠れなかった。どう考えてもおかしいと思った。山崎は錯覚だと決めてかかるが、新橋で中年男を乗せたのは間違いないのだ。では中年男はどこへ消えてしまったのか?悶々としながらいつしか眠りに落ちた岩田は昼過ぎに目を醒ました。そして彼は食事も取らずに出かけた。S警察に出頭した岩田は昨夜の一部始終を話した。そこで警察は調査に乗り出した。そして三日後に二人の警官が会社へやってきて調査の報告をした。それによると、男の物らしい服と靴の切れ端が静岡で見つかり、沼津で一万円札の切れ端も見つかったが、人間の遺体らしき物は見つからなかったという。そして服と靴と一万円札の切れ端がはたして乗客の物かどうか特定できないと言った。そして次のような状況説明をした。おそらく酔っていた乗客は寝返りを打ったときか、なんらかの偶然で、ドアが開いて高速道路に転落したと考えられる。そこへ走ってきた大型貨物車や乗用車に轢かれたが、高速道路を百キロ近くで走っている車両は何かを轢いたかもしれないと思いながら停止することができず、次々にヒカレて遺体はペシャンコになり、道路とタイヤの猛烈な摩擦によって遺体も衣類も引き裂かれてタイヤにへばりつき、ついには影も形もなくなってしまったのだというのだ。一日に数万台の車両が猛スピードで疾走している高速道路に転落した乗客は完全に消滅してしまったのだ。警察の調査結果を聞かされた岩田運転手は、ただ呆然とした。しかし警察の推論が正しいかどうかいまだにわからない。岩田運転手は時々ふと、もしかしてあの豪雨の深夜に乗せた客は幽霊だったかもしれないと思うことがある。(P93〜P101)

※梁石日氏は小説家ですが、ここに紹介した文章はルポルタージュであり、実話を梁石日氏が脚色したものだそうです。(幻冬舎アウトロー文庫)



目次
【タクシードライバーは面白いことだけではない】
『アクロバティックな生活に薄氷を踏む』『タクシードライバーは自由だけど』『タクシードライバーは足抜きができない』『景気と流行はタクシードライバーに聞け』他
【タクシードライバーの未来を占う】
『若者に見離された業界は存亡の危機』『運転手は全方位の地理が分からないとだめ』『「出稼ぎドライバー」の日々』『タクシー業界の体質を改善するために』他
【タクシードライバーの見た東京の盛り場】
『膨張し続ける東京ゾンビ』『新宿の混沌としたエネルギー』『渋谷はファッショナブルであればよいのか』『赤坂の「キーヤン」通り』『原宿が指し示す文化のシンドローム』他
【タクシードライバーが体験したゾーッとする話】
『運命の夜・白い衣の女』『夜の囁き・殺しの序曲』『ベンツに乗る社長がドライバーに』他
【運転代行業の実態を見る】
『大都市ではあまりメリットがなかった運転代行業』『自家用車がなぜ地方で普及したのか』『なぜ警察は運転代行業を取り締まれないのか』『ハイ・タク業界にこそ運転代行業の資格がある』他
【エアポートタクシーはなぜ悪い!】
『第一印象の一翼を担っているエアポートタクシー』『常にトラブルの原因になっている待ち時間と乗車距離』『開口一番「成田空港は欠陥空港だ」』『白タクは首都の表玄関・新東京国際空港の面汚し』他
【企業城下町、サバイバルにかけるタクシー】
『乗客を選別する福岡と空車が列をなす北九州』『東京一極集中のなかで、地方都市の自立は可能か』『アウトロー産業から観光産業への脱皮』他
【女性ドライバーが行く!】
『女性ドライバー四千人』『女性ドライバー採用のわけ』他

梁 石日 1936年大阪府生まれ。著書に『夜を賭けて』『断層海流』『夏の炎』(共に幻冬舎文庫)『タクシードライバー最後の叛逆』(幻冬舎アウトロー文庫)など多数。『血と骨』』で第11回山本周五郎賞を受賞する。
posted by 管理人 at 07:00| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | ビジネス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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