2011年07月01日

【新訳】名将言行録〜大乱世を生き抜いた192人のサムライたち 著者/岡谷 繁実

ある者は、室町幕府衰退による世の乱れに乗じて、下剋上による国盗りに身を投じ、ある者は乱世を収め、天下統一を成し遂げるべく立ち上がり、ある者は、海の向こうの異郷の地にて、異なる風土や流儀の敵を相手に奮戦し、ある者は、天下分け目の決戦にて命運が尽き、ある者は乱世が終焉し、新たに訪れた泰平の世に合わせて、武断から文治へと生き様を転換した武将たち、またそうのような主に付き従い、苦楽を共にした家臣たち。戦国時代と呼ばれる苛烈にして、しかし躍動感溢れる時代を駆け抜けた数多の武人たちの言葉と生き様をリスペクトし、日本の無形の宝として広め、後世にまで伝承すべく筆を執った維新回天の功労者の一人、その名は岡谷繁実。国家や社会を生かすには、何よりも「人材」の適切な活用と切磋琢磨、そしてそういう人材が遺してくれた智恵と経験の伝承であるとして、過去の名将たちの言行を集めた岡谷繁実の『名将言行録』を現代の軍学者・兵頭二十八氏が、現代式の記述に書き改めて、平成の世に生きる日本人に贈る一冊です。


内容抜粋


【 序 】

本書は、日本の戦国武将192人のエピソードを選りすぐった『名将言行録』の抄訳です。エピソードの割愛はしてありますが、人物の割愛はせず、原著増訂版に載った192人の全員を紹介しました。原著の編者、岡谷繁実(おかのやしげざね)は、幕末の天保6年(1835)、秋元家の所領の山形で、その家臣の子として生まれています。繁実の先祖は関東土着の武士でした。が、天正18年の秀吉の小田原攻めで居所を失い、その子の岡谷信繁が、寛永年間に、総社藩1万石(いまの群馬県前橋市)を領する秋元泰朝に仕えました。寛永10年に秋元家は、甲斐の谷村藩に移封。しかし、明和2年から4年(1767)まで、藩主が徳川幕府の老中でもあったときに政争に巻き込まれ、経営上の悪条件の多かった出羽山形へ転封させられます。ようやく藩主が秋元志朝(ゆきとも、岡谷繁実の主君)の代に、政治的地位が向上し、群馬県の館林に移封(弘化2年=1845)となり、以後、明治まで転封はありません。志朝(ゆきとも)は、実父が徳山藩主(毛利氏)でしたので、徳川譜代の関東の大名家を相続していながら、長州藩などの攘夷・維新運動を支持する立場でした。その藩主の下で、繁実は弘化4年に岡谷家の家督を継ぎ、ペリーが来航した嘉永6年には使い番(課長クラス)となり、安政5年には館林藩の大目附に昇進しました。江戸勤番の傍らには、高島流の西洋砲術も学び、水戸にも遊学します。文久3年(1863)の離藩の直前には、世子・秋元礼朝(ひろとも)の侍講を勤めていて、中老格でした。安政元年(1854)6月8日、まだ繁実が19歳だった頃に、西洋人たちが浦賀を気儘に闊歩している姿に切歯慨嘆し、この『名将言行録』を書き始めたそうです。完成までには、それから16年が費やされました。江戸時代後半のインテリ武士ならば誰もが読んでいた『宋名臣言行録』は、朱子学者が君主・官僚に対して模範を教示した指針の書です。それに対して岡谷繁実の『名将言行録』は、「日本人が西洋人に勝つためにはまず、鉄砲渡来以降の本朝の動乱の経験をおさらいしたい」との思いから着手されたものと言えるでしょう。万延元年、繁実は秋元志朝から特命を受けて京に上り、攘夷派の公家・三条実愛と連絡をとります。ところが元治元年(1864)の「蛤御門の変」の結果、志朝は幕府からの譴責をかわしきれず、隠居。繁実も表向きは藩からの放逐されます。ただし志朝は藩の最高実力者であり続けました。武蔵の深谷に居宅を手当てされた繁実は、世間的な身分は浪人となって、維新運動に身を投じながら、時折、『名将言行録』の草稿に筆を加え続けたようです。明治新政府が成立しますと、維新に貢献した岡谷繁実は、晴れて帰藩を赦されましたが、すぐに致仕(離職)し、大正9年12月9日までの残った人生を、専ら歴史研究のために費やしたのでした。原著『名将言行録』の初版(「北条氏長」から「土屋直政」まで178人を収めた)は、安政元年の起草から数えて16年後の明治2年秋(旧暦8月)に脱稿され、明治4年までにフルセットが刊行されました。増訂版(「北条氏綱」から「水野忠善」までの補遺が加わり、計192人を収める)の完成は、明治28〜29年でした。波乱万丈の16年間、正式にはどこからも扶持を受けていなかった岡谷繁実が、『名将言行録』の厖大な草稿および参照資料の抜き書き(自筆コピー)などを保管できたのは、秋元志朝をはじめ、繁実のために「図書館・兼・書斎」に近い環境や資金を提供してくれたパトロンがいたからこそでした。岡谷本人の巻頭「凡例」および巻末「引用書目」によれば、参照した書籍は『北条五代記』から『駿河志料』まで、通計1251部にも及びます。岡谷繁実は、多くの志士とは異なり、古い家系を誇ることができ、家格は生まれながらの家老格でした。おかげで流浪中も高位のパトロンには事欠かなかったわけです。しかるに幕末維新時代には、若い元気な者が、世襲の「バカ家老」や「バカ殿」を顰斥するのが、大きな風潮でした。繁実は些か迷惑を感じたでしょう。岡谷は、仲間の志士たちに、「今の殿様も昔は野蛮人であり無名人であった。だが安定した名家があったればこそ、史料だって保管され、智恵が伝えられている。その蓄積の真価をリスペクトしてもいいじゃないか。組織の生存には中堅幹部が必要なんだ。古くからの家老家系だって、バカばかりじゃないんだよ」と訴えたくて、最終的にこの192人を選んだのではないでしょうか。明治維新の推進力のかなりの部分を、岡谷のような「家老階級」が提供していたのでしょう。日本には科挙こそありませんでしたけれども、実用的な機転や敢為の精神を持ち、シナ人や西洋人にも負けないだけの人材は、常にいました。その人材が国家規模の大事を仕上げられるかどうかは、部下・同僚・上官と、いかに協働できるかにかかっていたでしょう。岡谷繁実は、旧制度が消滅して行く中で、旧制度の中でも自己実現のできた体験を愛惜し、かつ誇りたかったように思えてなりません。岡谷のパブリックな提言は、原著に「題言」を寄せている田口文之が、むしろ広宣してくれているでしょう。意訳してみます。《人材こそが、国家を盛んにし、また、衰えさせもしたのである。日本の戦国時代は、雇い主が雇われ人を選んだだけではなく、雇われ人もまた雇い主を選んだ時代だった。組織と組織、また、組織の内部で、常に人材が切磋琢磨し、能否が競われたのだ。もし政府が日本全国の人材を活かせないなら、その政府は倒されるしかないのだ。それこそが、『孫子』が「暮気」と呼んだ集団的な気力の衰えを、再び「朝気」へと変ずる方途だからである。さもなくば、日本も国家として消滅するしかない。》以下に、兵頭の訳編上の方針を記します。底本には、人物往来社が昭和42年に出した7分冊版(歴史選書)の『名将言行録』を用いました。原著者の岡谷繁実自身が、「言行を知るを主とし、履歴を叙するを主とせず」と「凡例」に明記しているのに賛同し、兵頭が興味を抱いた逸話を中心に抄録しました。原著には、「これは史実ではない」と大方で認められているような話や、一人の人物としても矛盾したエピソードなどが、多々、混ぜられています。それらを必ずしも排除しませんでした。ですから、本書にいくら年月日などが書いてあっても、本書を「年表」や「人物事典」として頼りにすることはできません。ただ、192人の武将の「伝説」を味わうことで、人物のキャラクターを考えるよすがになることを本意としました。(後略:P3〜P8)


『阿部正次』

[阿部正勝の子。岩槻8万6000石。正保4年11月14日没、79歳]

慶長の征韓作戦に従軍したのが初陣であった。これは本人の強い意志により決行された。元和元年の大坂夏の陣の最終段階で、首級が東西どちらの軍兵なのか分からないほどの混戦となった。正次は、「東軍は遠路を来る間に皆、真っ黒に日焼けしているが、場内の守備兵は白い」と、見分け方を教えた。寛永3年、大坂城代に任命された。秀忠からは、「塀の裏に大筒をずらりと並べて上方の人目を驚かし、威を示せ」と訓令された。正次は、病死するまで、このポストを動かなかった。 寛永15年に島原の乱が起きたとき、九州の目代は、諸大名が勝手に討伐の派兵をしないようにと命じた。だが大坂に在って正次は、一向一揆の体験から、長期化させないことが大事であると確信し、独断で、諸大名に便宜次第の出兵を許した。正次から見て阿部忠秋は甥である。しかし忠秋が家光から抜擢されて閣老となりや、正次は、部下としての態度をとった。自身の子の重次が老中に出世したときにも、同様にした。正保4年、ついに正次は病床に伏せり、死期が迫った。家光は驚いて、重次に暇を与え、大坂へ急行させた。正次は、息子といえど上司であるとして、肩衣を掛け、たたんだ袴を膝の上に置いて病中の礼装とし、改まって平伏対面した。その夜、重次が、大坂の奉行たちに、「このまま父が城内でみまかっては、将軍の御成りもあるこの役所を汚すようで悪いから、私邸に引き退がらそうと思うがどうか」と相談すると、一同は賛成した。父の枕元にその旨を告げると、正次はこう答えた。「お前は籠城戦を何も知らないのだ。前将軍から直々にこの城を守れと仰せ付かったワシは、一息も息が有る限りは、この城を人手に渡すつもりなど無いぞ。よく聞け。大坂城をかように高く築いてあるのも、かほどに堀を広く設けてあるのも、みな戦争の備えなのであるぞ。西国の敵がこの城に目をつけ、奪わんとしたときは、徳川の武人の屍がこの塁をもっと高め、戦士の血がこの池をなおも深くする筈である。守兵が全滅を覚悟してかじりつかねば、どんな大城郭とて決して守り通せはしないのだぞ。だから、もし死を忌み事と思う了見ならば、最初から城など造らぬがよい。それがワシの存念である。さりながら、ワシは若いときより、我が智は人には及ばざるなりと思うてきた。いわんや今は老衰。間違った見込みを抱いておるかもわからぬ。だからどうか、このさい江戸城に注進し、御裁断を奏請してみて欲しい」飛脚は2日で江戸に至り、即日、家光は正次の所存を「神妙である」と感称。その飛脚が2日で大坂に戻り、正次は満足した。そのあくる日、正次は、冷たくなっていた。〔巻之60〕(P29〜P31)


『板倉勝重』

[板倉好重の子。寛永元年4月29日没、83歳]

長男ではなかったため、若くして出家して修行していた。兄の早世により、家を継ぐため還俗した。元・僧侶で文書に堪能な勝重は、検視役に遣わされることが頻繁であった。他殺体が事故死や自殺に擬装されていても、勝重はよく見破って報告した。家康は勝重の事務能力を、闘将揃いの家中に得難きものと認め、まず駿府の町奉行に抜擢。ついで、きわめて重職である京都所司代に登用した。禄高は500石から2万石へ加増された。槍先の功名手柄は一切無しで、いきなり大名にされたのである。 彦坂光政が駿府の町奉行に就任するとき、先輩の勝重に心得を聞きに来た。「賄(まいない)をいっかな受けぬ奉行との評判を立てることです。受けてしまえば欲が生じ、あきらかなる係争利権の帰属も見えなくなります。納めずに突き返しても、必ず裁決に贔屓加減の心が生じますので」慶長19年、豊臣方が徳川方との戦争を予期して、大坂、堺、津、尼ヶ崎の商船をおさえ、20万石の兵糧米を強制買い付けした。このとき関東へ輸送される直前の5万石分も出航を止められたが、勝重が大野治長に「そちらの兵糧はさぞ欠乏しているのでしょう。よろしかったら大坂港の我が方の積荷を進上しますよ」と伝えると、「城中にはもう十分な貯蔵軍糧があるので、ご無用」との返事があり、船を無事、関東へ回漕できた。同年の大坂冬の陣では、豊臣方に多くの内通者と内通嫌疑者が生じた。これらはすべて勝重の工作であった。 関ヶ原の役の直前、石田三成は京都の商人を脅し、家ごとに1個ずつ、土俵を持って来させ、伏見城の前に小山を築き、そこから見下ろすように鉄砲を撃ちかけたので、たちまち落城となった。これを聞いた家康は、「その土俵を運んだ者は残らず焼き殺してやる」と息巻いたが、勝重が、「商人は、武家から脅かされれば、従うしかないものです。むしろ、我らが上洛するとき、彼らを利用することです。たとえば防弾用の畳を集めろと言えば、商人がすぐ集めてくれますから」と宥めた。勝重の言う通り、大坂の陣の折り、家康は京都の商人たちから、莫大な軍資金を上納された。博奕を取り締まることにした勝重は、「博奕は下々の慰みになるので、禁止しない。だかもし大きく負けて生活に差し障りが出た者は、訴え出よ。勝ちたる者をして、その金を返させることとする」と高札した。ながらく京都所司代を勤めた勝重も、老齢となり、将軍秀忠から、辞任を認められた。後任は長男の重宗であった。重宗が関東から京都に到着すると、即日、勝重は事務の引き継ぎを済ませて、京都の町屋へ隠居した。勝重いわく。「親子は顔が全く同じではない。心組みも、別人なのである。秀忠公が見込んで遣わされた役人である以上、すでに一人前であり、見習い期間など無用だ。其の方、必ず飾らず、不調法をそのまま顕して勤めよ。其の方の力が不足と人々に知られれば、お上が、器量ある者に交替させるであろう。天下に及ぼす迷惑は、それで最小限で済むのである」〔巻之53〕(P53〜P55)


『高坂昌信』

[信州海津城主、7万5000石。天正6年5月11日没、52歳]

16歳で武田信玄に仕えた。25歳までは勇敢な働きを見せず、人から謗られたが、それをバネにして恪勤し、越後を押さえる海津の砦を任されるまでになった。天正2年春、武田勝頼は東美濃に進出し、織田氏の属城18を抜き、5月には遠江の高天神城を陥れて、甲府の館に凱旋した。これがその後の強気の政策に結び付き、天正3年の長篠の合戦に至った。長篠役の間、昌信は海津城(江戸時代の松代城)に残留して、上杉謙信が南下してこないよう警戒していた。そうしてこう批評した。「なぜ全部隊を一塊にしてぶつけ、前列の死人を踏み越えるようにして信長の本陣をめがけて襲わなかったのか。訓練精到な武田軍ならば、それが可能だったのに……。他の大名がやるように、小部隊で入れ替わり入れ替わりして攻撃したから、あたら敵兵の鉄砲の前に好餌を進呈してしまったのだ」国家が亡びるときについては、こう言った。「猿士(さるざむらい)が集まったら危険だ。智恵もあり、器量もあるが、心の望は、ただ、果物の実を貪ることで、それも、飽きるということを知らないから」〔巻之10〕(P114・P115)


『小早川隆景』

[毛利元就の子。筑前の名島城主。慶長2年6月12日没、65歳]

13歳から16歳まで、大内義隆の人質であった。義隆を弑した陶晴賢を討とうとするに先立ち、隆景は天文22年12月、まず朝廷から、逆賊を討てという勅定を請い受けるという気働きを示した。天正17〜18年の豊臣秀吉の小田原攻めのときには、隆景は、尾張の清洲城で留守番役を命じられていた。このとき隆景は、父の毛利元就がよく使った手を秀吉に提案した。すなわち、上方から一流の芸人たちを呼び集め、攻め手の陣地のあちこちで頻繁に演芸会を催行し、兵士たちを賑やかに騒がせ、「これから無制限に長陣を楽しんで続けるぞ」と敵に思い知らせてやり、味方のモラールを維持する一方で籠城側の抗戦意志を挫折させるという心理作戦だ。秀吉がこの企画を採用したので、北条氏は降参した。文禄の役が始まった。石田三成は朝鮮半島で軍議を開き、諸軍が漢城(山口注:現在の韓国の首都ソウル市)に進む計画案を披露した。隆景は注文をつけた。「思い定めた図が外れることのあるのが実戦というものです。貴案は、勝ち戦しか想定していないようです。負け戦をしたときの御思案が是非とも必要でしょう」聞いて三成も尤もだと思い直し、釜山から漢城まで、一定間隔で「伝えの城」を普請し、敗軍のときにはその砦から砦へ順々に退却すれば釜山まで安全に戻ってこられるようにした。シナ・朝鮮の都城は、日本の平城とは異なって、強固な城壁が広い市域を囲繞する構造なので、防備のためには、夥しい人数を張り付ける必要がある。しかるに漢城の内外にロクな糧食が見つからなかった。隆景は、明軍が押し寄せてくれば、日本軍はここを捨てて退却するしかないだろうと読んだ。ところが大名たちは、「退却は日本の恥」だとか「兵糧なくば石を食っても持ち詰めるまで」などと口ばかり威勢の良さを競う習性がついている。隆景は『兵糧が残り10日分を切るまでは、どうにもなるまい』と判断。仮病を使って軍議を欠席し続け、大名たちが真面目に青ざめる時期を待った。頃は善しと見計らって軍議に臨席した隆景は、「大将はともかく兵卒は連続5日も給養が滞れば、もう戦力としてはゼロだ。そうならぬうちに釜山まで退がることだ」と提案し、諸将も同意した。退却する前には一撃加えておく必要があるので、翌日は野戦となった。このときの部隊指揮については隆景は、「明軍に、『日本軍の一戦部隊の後ろからは、さらに大軍が続いて来ている』と思わせるようにしなければならない。それには、部隊間隔を密にして、敵が逃げても急追せずに、しずしずと押していくのが良い。そして敵が『日本軍は急追撃してこないんだな』と思って気を緩めた瞬間を見切り、猛チャージをかけることだ」と語った。隆景は、祐筆に急用の文をかかせるときには、特にゆっくりと書くようにと、命じた。文禄4年から、古巣の備後の三原城(広島県三原市)に隠居し、そこで病死した。〔巻之6〕(P119・P120)


『土井利勝』

[土井利昌の子。古河16万2000石。正保元年7月10日没、72歳]

2代将軍・秀忠は煙草が嫌いであり、城中での喫煙禁止を令したことがあった。利勝は煙草嫌いではなかったけれども、人々を、将軍の意向に服従させた。さまざまな性格の者を、怒らせずルールに沿わせるように仕向ける機知を、利勝は持っていた。 徳川家光に対しても、温柔に迂回的な諷諌をするのみで、それが好感された。徳川頼宣は、強面で人に恐れられた酒井忠世を呼ぶときにも「雅楽頭(うたのかみ)」と呼び捨てであったのに、幕臣の中で利勝に対してだけは、「大炊(おおい)殿」と、丁寧であったという。あるとき勘定方の役人が、「数千石クラスの旗本にまで江戸城下の蔵米を支給しているこれまでの制度を改めたい」と上申してきた。すなわちこの制度では、蔵の中に3〜4年も過剰の古米を抱えざるを得ず、鼠喰いや虫食いの損が生じて、いかにも無駄である。だから500石以上の旗本には、蔵米の支給ではなく、禄高に見あった土地そのものを与えるようにしたい、というのである。利勝は、その上申を斥けた。「余剰のストックがありからこそ、日本変事の折りに、江戸に入湊する輸送船が数十日も途絶えても、江戸城下の旗本の軍糧や市民の生活に急な差支えがなく、安心できるのである。先代将軍は、そんな無駄など御承知で、この制度をお定めになったのだ」家光が秀忠から将軍職を譲られるにあたり、幕府の天下への示威として加藤忠広を改易に処したのは、利勝の謀略だったともいう。この改易は事前に外に漏れ、「肥後の国を細川に下されるのだそうだ」と、江戸中で取り沙汰された。利勝いわく、「会議を主宰して下僚の討議を聞いていれば、その中には必ず、我が及ばぬ卓説がある。それを採り、潤飾して、自論にしてしまう」と。また、「一国を保つ者は、一国を城と心得よ。一郡を領する者は、一郡を城と見るべきである。菓子屋の子供が菓子をねだらぬように、諸民を富ませれば、誰も卑しい心を起こさない」と言っていたそうだ。しかし家光が、諸大名から旗本まで、願いに応じて拝借金を与えていたのは、良くないことだと思っていた。寛永の末、利勝は、徳川幕府の最初の「大老」になった。堀田正盛が老中になったとき、「目付(家中の見廻り監督)にはどんな人物をあてたらよいのでしょうか」と、利勝に相談した。利勝いわく、「喩えるなら、貴方がこれからせっかくのご馳走を食べようとしているときにわざわざ、『その汁にはさきほど蠅が入っていたのを私は見ました』などと注進する者は、家中に大害をもたらします。さりとて、砒素や、毒虫のハンミョウなどが混入されているのを知りながら、それを言わぬような者では、論外でしょうな」〔巻之62〕(P170〜P172〕


『徳川家光』

[徳川秀忠の子。慶安4年4月20日没、48歳]

父の秀忠は、寛永の初めから、林羅山を教育係にして、家光に儒学を教えさせた。徳川家はじまって以来の教養を身に付けたが、それでもまだ将軍としては学問が足りないと自覚するところがあった。算盤を習った最初の将軍でもあり、おかげで以後、高位の武家で数術の教育を導入するのは普通のことになった。家光は、馬の遠乗りと、銃猟も大好きで、しばしば手ずから刀鎗をふるって、猪や鹿に止めを刺そうと試みた。戦艦『安宅丸』の乗り初め式で、井伊直孝が、誰かと酒杯のことで口争いを始めた。家光は、やおら火縄銃を轟発、喧嘩を止めさせた。家光は朝廷から「太政大臣にしてやろう」という誘いがあったのを断った。これは豊臣政権がこの手を食い、秀吉以下の諸大名がわれもわれもと「大臣」「納言」に成り上がり、いきおい、『あと少しで天下人にも並べるんじゃないか?』と計算する野心が全国にみなぎったのを、戒めとしたのである。幕閣もその危険をよく了解し、酒井忠勝が「少将」を受けたのが筆頭で、松平信綱でも「侍従」に過ぎなかった。家光は、家康が蓄積した金銀が、夥しく蔵に死蔵されているのを見て、文字通りの宝の持ち腐れだと考え、旗本以下の家計赤字が累増している折りでもあるので、ほとんど余さぬほどに、気前よく分与・貸与してしまった。たしかに天下の景気は良くなった。島原の乱が起こったときには、家光は自ら軍勢を率いて下向するつもりになったけれども、稲葉正勝に強諌されて諦めた。だから、ついに家光は、実戦指揮の体験を持つことはできなかった。ある日、立花宗茂に、朝鮮での戦闘の回顧を話させた。「敵は、団扇で払えば一度に散乱するが、すぐまた元のように密集してくる、蠅のようなものでした。弱いのですが、退治ができませんでした」と答えるので、家光は「外敵に攻められても人民が敵愾心を捨てずにいれば、国土が保てるのだね」と総括した。九州地方と大陸の間の密貿易は、徳川幕府が成立した後もなかなか取り締まることができないでいた。家光は、それが海賊や反政府闘争、さらにはキリシタンを通ずる間接侵略の温床になることを憂慮して、足利氏以来、最も厳重な私貿易の禁止措置を達した。長崎奉行に甲斐正述を任命するとき、「もしシナや朝鮮や南蛮からの外冦があったら、辺境を寸地なりとも掠られることは許さんぞ。それは日本の恥となる」と、よくよく申し聞かせた。家光は、当時荒廃していた豊国神社(祭神は秀吉)を復興させようと考えた。しかし酒井忠世が、「秀頼を滅ぼしたのは徳川家です。どうして秀吉が我々の祭りを受けるものですか」と、押し留めた。あるとき家光が目黒(当時は草深い田野)で鷹狩りをし、小さな寺で休憩した。住持は客が家光と知らずに、保科正之(家光の異腹弟で、家光の実母が排斥し、小身)の母親がこの寺の檀家であるが、どうも貧窮していらっしゃるようだという話をした。家光はまもなく、正之を山形城主に取り立てた。家光は、切腹を申しつけられた江戸のゴロツキ・中山源左衛門が、8年前に前歯の一本を欠いて入れ歯にしていた、などという犯罪界の下情にまで、なぜか詳しく通じており、老臣を驚かせた。あるとき、堀に鴨がいるのを見た家光は、最寄りの門の番所から鉄砲を持って来させた。しかし鉄砲は錆び腐っており、射つことはできなかった。これに関して、何のお咎めもなかった。が、以後、各番所では、気をつけて鉄砲を手入れしておくようになった。家光は水泳も得意だった。しかるに徒士(かち)の水練がすこぶる未熟に思えたので、正保4年以降、大川(隅田川)で毎夏に特訓させるようになったのである。〔巻之43〕(P174〜P177)


『前田利家』

[前田利春の子。加賀・能登・越中の領主。慶長4年閏3月3日没、62歳]

尾張の武士の家に生まれ、織田信長に属した。弘治2年8月、信長が織田信行を稲生に討ったとき、右目の下を矢で射られながら、鎗でその射手を突き殺し、首を獲た。利家には兄がいたが、将器なく、かつ男子が無かったので、永禄12年、信長は、利家を前田家の惣領にし、すべての禄を受け継がせた。長篠合戦後、信長が越前を平定すると、利家は、能登を与えられ、七尾城主となった。安土時代には、すっかり髭面であった。賤ヶ岳の戦いでは、最初、柴田側についた。というのは、桶狭間合戦以前の昔、利家は信長の一人の寵童を斬殺して勘気を蒙り、限りなく浪人状態に近づいた期間があったのだが、そんな不遇時にも利家に目をかけてくれた数少ない武将の一人が柴田勝家だったのだ。しかし利家はすぐに秀吉に降伏した。その後、加賀に領地を与えられ、金沢城主となる。利家は、亡びた小田原北条家の遺児(氏政の弟の子)を捨扶持1000石で養ってもいた。これは、将来家康と対決するときのために、先主を忘れぬ気風の関東武士の間に、人気を得ておきたいとの遠謀からだった。宇喜田秀家らから野戦時の大将の心得を聞かれて、こう答えた。「大将が本陣にばかりいてはならない。それだと味方の先手が崩れたときに、逃げてきた味方に踏み殺されるような負け方を喫する。まず、自軍の先手を2段以上に配した上で、大将自身が、先手の近くまで何度も何度も馬を馳せ、先手の将兵を元気づけ、かつまた、その場でテキパキと命令を下すことである。そういうときには、決して人の助言を聞いてはいけない。自分が思ったように采配することだ」慶長の役のとき、「信長公以来、誰が10万という数の敵兵を実際に数えることがあったか?明軍の兵力について、実際に数えもしないで憶測の数字を言うべきではない」と家康をたしなめたこともある。利家の病気が重くなり、いよいよ最期が近いとき、親近者が、「戦場で数多の殺人を罪業と思えば恐ろしい。柩に納めるときには経帷子をお着せしようと思います」と告げると、利家は笑い飛ばして、「ワシは乱世に生まれたのだ。敵対する者を殺したが、それは故無く人を苦しめたのとは違う。すべて、必要があって殺したのだ。だから地獄行きの罪などワシには無いのだが、もし地獄に案内されれば、そこでもまた闘うまでよ」と、脇差を鞘ごと強く握り締めて胸に押し当て、ついに事切れた。〔巻之20〕(P262〜P264)


『毛利元就』

[毛利弘元の子。安芸の吉田城主。元亀2年6月14日没、75歳]

毛利氏は、草創期の鎌倉幕府の名参謀であった大江広元の末裔である。大永年間、元就は石見で青屋友梅の城を囲む。守兵が頑強に抵抗するので、長囲を築いて、水の手を断つ作戦に切り替えた。困った友梅は、遠目には水のように見える精米を馬に注ぎかけて、水がふんだんにあるように見せかけた。そのうちに、元就が家来を軍使として城内に入れてみたところ、友梅は、軍使の前で、馬6、7頭を引き出して、大きな盥に水を張り、馬の頭を冷やしたり、口を洗わせてみせた。また、塀の裏にはこれみよがしに米俵が積み上げてあった。この報告を聞いた元就は、「それこそ、水も米も尽きているしるしではないか!」と確信した。それから30日足らずで、友梅は降参して城を出た。元就は、臣下に大きな権力を分け与えないように自戒していた。大臣は初めは公平に仕事をするので、君主はつい、万事を彼に任せてしまう。すると国じゅうの士がその大臣に恩威を感ずるようになるので、大臣は次第に私欲をたくましうし、君主は蔑ろにされる。現に、大内義隆はそのパターンを踏んで、陶晴賢に殺されてしまったではないか。元就は弘治元年、厳島に築城し、晴賢を誘き出して破ろうと考えた。城が完成し、兵力も配し終えた後で元就は、「厳島での築城は失敗であった。もし敵に厳島を攻められたなら、毛利家はおしまいだ」と騒ぎ、敵のスパイにわざと聞かせるようにした。晴賢の家来の弘中隆包は、「本当に悔やんでいるなら公言するわけがない。これは罠です」と諌めたものの、晴賢は聞かず、9月、舟艇に軍兵を載せ、火縄銃6、7挺で厳島に攻めかかった。城兵は、土豚(土嚢)を積んで堪えた。元就は、伊予の能島・来島の海賊の応援を得て、夜間の海上機動で攻囲軍を逆に包囲するように上陸し、夜明けとともに奇襲した。肥満体の晴賢は、味方の船まで走って逃げることすらできず、自刃した。尼子氏などの目ぼしい近隣を亡ぼした後、元就は、銀山がある石見の攻略にかかった。しかし石見は小国ながら山塞が多く、国人は郷土防衛戦となれば不屈の敵愾心を示し、毛利軍が倦怠して引き退こうとすれば後ろから尾撃してくるという風で、手こずった。元就はアプローチを変えることにし、有力土豪の星合氏を姪婿にして懐柔。星合領を足掛かりに、全石見を手に入れた。元就は、元旦に浮かれ騒ぐことを好まなかった。決まって、寅の一点、すなわち一番鶏が鳴き出す黎明時から東を向き黙座し、去年一年の中国全土の豊凶を総括し、今年一年の地域別の経済政策を熟考することにしていた。あるとき酒を飲んで慨嘆した。「乱世に数ヶ国も領導して行くのは、集団指導制では到底不可能だ。そしてどうも、ワシのような指導者には、現世には真の友人が一人もできないのであろう。もし、いるとしたら、それは過去千年と、未来千年の中でしかないのであろう。現世にこのワシと同格の者が現れれば、その者とはおそらく必然的に、謀略のライバル関係に立つだろうから……」また、こうも言った。「人の心に逆らわない家臣は、同僚から推挙される。しかし、彼には悪を懲らし善を勧める力はない。主君がそのような者を昇進させたときこそ、国家の乱の第一歩だ」〔巻之4〕(P277〜P279)


本書には、当然ながら戦国時代を終焉させ、天下統一、泰平の世を築き上げた、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康も収録されておりますが、さすがに、それほどの人物ともなると割かれているページ数も多くなるので、その三人だけで、本書の紹介が一杯になってしまいますので、なるべく多くの武将を紹介するために、信長、秀吉、家康は敢えて外しました。明日をも知れない、生きるか死ぬかの世界で、名を残した男たちの言葉や生きざまは、たとえ数百年も昔のものであろうとも、私たちに何らかの有益な知識や教訓を与えてくれることでしょう。〔PHP〕


岡谷繁実(おかのや・しげざね)
天保6(1835)〜大正8(1919) 上野館林藩(現在の群馬県館林市)の藩士。通称は鈕吾。江戸で高島流砲術を学び、その後、水戸へ遊学、江戸昌平黌(昌平坂学問所、現在の湯島聖堂)に学ぶ。幕末、館林藩主秋元志朝が長州藩と血縁関係があったため、勤皇家として活動する。 安政元年(1854)から明治2年(1869)にかけて、戦国時代から江戸時代までの192に及ぶ武将たちのエピソードを記した『名将言行録』を著述  ●編訳者/兵頭二十八 昭和35(1960)年、長野県生まれ。陸上自衛隊歴2年。東京工業大学大学院博士前期課程修了(社会工学専攻)。軍学者。 著書に『「新しい戦争」を日本はどう生き抜くか』(ちくま新書)、『ニッポン核武装再論』(並木書房)、『[新訳]孫子』『日本有事』(以上、PHP研究所)、『パールハーバーの真実』(PHP文庫)、『精解 五輪書』『新しい武士道』(以上、新紀元社)、『やっぱり有り得なかった南京大虐殺』(劇画原作、マガジン・マガジン)など多数。
posted by 管理人 at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
宜しければクリックを、人気blogランキングへ
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。