2011年06月01日

害虫の誕生〜虫からみた日本史 著者/瀬戸口 明久

あるものは黒雲の如く大群で飛び交い農作物を喰い荒らし、あるものは目に捉えるのも難しい小さな身体を利して、ひそかに人間に近づきその血を吸い、あるものは人家が提供してくれる温かさと食物を狙って住み着き、不衛生な黴菌を伝播する。私たちはそれらの小さな厄介者たちを〈害虫〉と呼ぶ。太古から人間はそれらの厄介者たちに生活を脅かされてきた。農作物を荒らされることによる飢饉、黴菌を媒介されることによる食物の劣化や病気、血を吸われることによる痛痒と不快感。しかしながら、人間はその厄介者を〈害虫〉と認識したのは、意外にも近代になってからであり、それ以前は多大な被害を受けながらも、小さな厄介者を自分たちの敵とは認識してはいなかったという。なぜなら近代科学の誕生によって虫の発生メカニズムが解明される以前においては、洋の東西にかかわらず、虫の発生は雨風同様の自然現象であり、虫の大発生による災難は、地震や台風、干魃と同じような天災、もしくは神罰であるとかんがえられていたのだ。虫たちの猛威に人智で為しうることはいくらもなく、個々のささやかな自衛を除けば、神頼みしかないと思い込んでいた。しかし近代科学の誕生により、人類は虫の正体を知り、その猛威に対抗可能となり、それまでの〈天災〉や〈神罰〉たる存在は、〈害虫〉へと変化した。かくして人類は、近代以前の諦観や神頼みを捨てて、科学技術を武器にして、〈害虫〉との本格的な戦いを始めたのだった。文明の移り変わりに伴い、人類は虫とどのように関わり、どのように考えてきたのか、〈害虫〉はいつから誕生し、人類と〈害虫〉との戦いがどのように展開されるようになったのかをテーマに日本と世界の文明を考察する一冊。


内容抜粋


【プロローグ】


『〈害虫〉とは何か』

〈害虫〉とは何だろうか。「〈害虫〉とは、人間にとって有害な虫のことに決まっているではないか」と思われる読者もいるかもしれない。確かに今日の私たちにとって〈害虫〉とは、迷惑で忌み嫌われ、通常は排除されるべき生物である。だが、歴史的に見れば、このことは決して当たり前ではない。まずは身近な〈害虫〉の代表格であるゴキブリについて考えてみよう。家の中を走り回り、黒光りするゴキブリの姿を見ると、殆どの人はぞっとして追い払おうとするだろう。けれどもゴキブリが現在のように身近な〈害虫〉となったのは、実は戦後になってから、ごく最近のことなのである。屋内に出没するゴキブリの存在自体は、既に江戸時代から知られていた。当時の人たちは、食器でも食物でも何でもかじりつくしてしまうこの虫を「御器かぶり」と呼んだ。これが「ゴキブリ」の語源となっている。だがゴキブリが出没する家は限られていたようだ。食物が豊富で冬でも暖かな家でなければ、ゴキブリは定着することができない。そのような家が増えたのは、日本では高度経済成長以降のことなのである。それまでゴキブリは、あまり重要な害虫ではなかったと言ってよい。そればかりか、かつてゴキブリは豊かさの象徴だったという説さえある。群馬県高崎地方では、チャバネゴキブリのことを「コガネムシ」と呼んでいたという。「コガネムシは金持ちだ」という野口雨情の童謡で歌われているのは、この虫のことなのだ。ゴキブリが多いと金が貯まるという話は、愛知県や岡山県にも残っている。秋田県では、ゴキブリを駆除すること自体が厳しく戒められていたという。おそらく食料が多い豊かな家にゴキブリが居着くことから生まれた風習だろう(西原伊兵衛「『アマメ』『フ』を笑う」)。このエピソードは、現在私たちが〈害虫〉と呼んで当たり前のように駆除している生き物が、かつては害虫ではなかった場合があることを示唆している。〈害虫〉の境界線は、時代によって常に揺れ動いているのである。もうひとつ、興味深いエピソードを紹介しよう。1897(明治30)年、愛知県豊橋近郊を訪れたある昆虫学者は、大量のウンカが発生しているのを観察した。そこで昆虫学者は一人の農民と出会い、次のような会話を交わす。《 昆虫学者「これは大変である、早く駆除したらよかろう」農民「いや、お陰様でようよう昨日秋葉山の御札を受けて田の中に立てましたから、まあ安心を致します」昆虫学者「ああそうか、しかしながら御札だけでは本当の駆除ができぬから、それへもっていってもうひとつ人業(ひとわざ)でやったならば必ず効があるが、やったらどうであるか」農民「……御札を立てた所はよろしいということでござりましたから、なにぶんこれでお助けをこうむるつもりだ」(名和靖『害虫駆除予防ニ関スル講和筆記』)》呆れた昆虫学者は嘆息してその場を立ち去った。ここで注目すべきは農民の愚かさではない。むしろ重要なのは二人の間で会話が全く成立していないことである。昆虫学者は、「人業(ひとわざ)」で害虫を駆除することができると考えている。それに対して農民は、そもそも人間の手を使って害虫を駆除するという発想がない。御札や神頼みで駆除するしか方法はないと思い込んでいる。この農民にとって害虫とは、人間の力を超えた存在なのである。現代の私たちは当たり前のように、害虫は殺虫剤などを使って駆除すべきであると思っている。しかし明治の人々にとって、これらの虫は人間の力では決して制御されることのない、厄介な生き物にほかならなかった。つまり害虫に対する人間の態度は、時代によって大きく変容していくものなのである。これら2つのエピソードからわかることは、〈害虫〉という存在がどの時代においても変わらない普遍的な存在ではないということである。現在私たちが自明のものと見なしている「害虫と人間の関係」は、歴史的に作り上げられてきたものなのだ。現在の私たちにとって害虫っは、「人間にとって有害な生物」であると同時に「人間の力で排除されるべき生物」である。このような現在の害虫のイメージに言及する際、本書ではカッコでくくった〈害虫〉を使い、単なる用語としての「害虫」と区別したい。では〈害虫〉はいつ、どのようにして誕生したのだろうか。本書で見ていくように、それは意外に新しいものなのである。(P7〜P10)


【虫たちをめぐる自然観】


『虫は自然にわいてくる』

かつて日本には、虫たちをめぐる大きな知識の体系があった。それは「本草学」という学問である。本草学は古代中国に由来し、生薬として生き物を利用することを目的とした東アジアの博物学である。日本には奈良時代に導入され、江戸時代に入ると独自の内容を持つようになった。近世日本の本草学に大きな影響を与えたとされる中国の本草学書に、明代末の李時珍の著した『本草綱目』全五二巻(1596年頃)がある。李時珍は1903種におよぶ自然物を、土部、金石部などの鉱物から、木部、鱗部、介部、獣部などの動植物にいたるまで、16の部に分けた。例えば鱗部には魚類やヘビ、トカゲ、イカ・タコ、さらには龍のような想像上の生物も含まれている。「蟲部」にくくられているのは、爬虫類、両生類、貝類などである。かつて「蟲」とは、昆虫だけではなく、クモ、サソリ、ミミズやヒル、さらにはカエルやカタツムリなど、小さな動物全般が含まれているのである。李時珍は、これらの「蟲」を「卵生・化生・湿生」の三種類に分類している。すなわち、卵から生ずる虫(卵生)、別の種類の生物から変化して生じる虫(化生)、湿気から生ずる虫(湿生)の三種類である。ここでクモやサソリは卵生だが、ホタルやセミ、イナゴなどは化生、カエルやカタツムリ、ナメクジなどは湿生とされた。注目すべきは李時珍が、虫の多くが卵から生まれるのではなく、湿気などから自然に湧いてくる「湿生」であると考えていたことである。江戸時代の日本の本草学は、17世紀の福岡藩の儒学者、貝原益軒によって始められた。益軒は、李時珍の『本草綱目』から日本には無いものを省き、そこに日本の動植物を付け加えて『大和本草』(1709年)を出版した。益軒にも、李時珍の「虫の自然発生説」は極めて自然に受け入れられている。益軒は1700年に著した語源辞書『日本釈名』で、「虫」の語源は「蒸し」であると述べ、虫が蒸し蒸しした状態から生じることを示唆している。国語学者ではない私には、この語源論が事実かどうかは判断できない。だが、虫が湿気によって発生するという観念が、江戸時代の日本では極めて一般的であったことがうかがえるだろう(塚本学『江戸時代人と動物』254頁)。 このような「虫の自然発生説」は、決して奇妙な迷信などではない。西洋世界においても、虫の自然発生は古くから信じられていた。それが否定されたのは、17世紀イタリアのフランチェスコ・レディによる実験が行われた後のことである。レディは密閉されたフラスコと口を開けたフラスコを用意し、それぞれに肉を入れて様子を観察した。そのうち口を開けたものだけから蠅が発生することを観察し、昆虫が密閉空間から自然に涌き出てくるわけではないことを確認したのである。また、オランダのレーエンフックをはじめとする同時代の顕微鏡学者たちも、昆虫が卵から発生する過程を観察し、詳細なスケッチを残している。その一方で、当時の顕微鏡では観察できなかった微生物や体内寄生虫の自然発生に関しては、19世紀半ばにパストゥールが有名な実験を行うまで論争が続いている。このように、発生する過程を観察することができない生き物が自然に湧いてくるとする考えは、決して奇矯なものではない。(中略)しかし、もし虫が自然に湧いてくるものならば、日照りや台風のような気象現象と、あまり違いがなくなってしまうだろう。そのため農民たちの多くは、虫害を気象災害と同じく一種の「天災」としてとらえ、人間の手によってはコントロールできないと考えていた。このように「虫の自然発生説」は、害虫の発生を「祟り」と見なす自然観とともに、近世までの宗教的な祭礼を支えていたのである。(P27〜P32)


『明治日本と〈害虫〉』

1880(明治13)年8月、北海道十勝地方の空を真っ黒い一群の雲が覆った。雲のように見えたものは、無数の小さな虫たちである。それらの虫たちは地上に降りてきて、開拓後間もない農地を襲った。当時の記録によれば、虫たちは地上に積み重なって蠢き、通り過ぎた後は、あらゆる植物が食い尽くされていたという。人々はなすすべもなく、茫然と立ち尽くすしかなかった。被害は北海道東南部全域に広がり、その後数年間にわたって毎年大発生が続くことになる。「蝗」と呼ばれたこれらの虫たちは、現在の昆虫学の知見によれば、トノサマバッタであったことがわかっている。近代日本が初めて遭遇した害虫の大発生である。尤も、こうした害虫の大発生は、開拓以前の北海道においても決して珍しいものではなかった。アイヌの古老によれば、十勝地方では同じ虫が毎年多少は発生していたという。さらに数十年前には、明治期と同じような大発生が起こり、アイヌたちは「神罰」であると畏れたとされる。前章で見たように、害虫の発生を「神罰」とみなす自然観は。アイヌに限らず近世以前の日本列島に広く見られるものであった。それどころか明治に入ってからも、多くの人々が害虫の発生は人知のおよぶところではないと考えていた。そのため害虫が発生して農作物に被害が出ても、なすすべもなく、立ち尽くす人々が少なくなかったのである。周知のように、明治政府は行政制度を整備し、学校教育を国土の隅々まで行き渡らせ、さらには殖産興業によって産業を振興して、日本を近代国家に造り変えようとした。近代化されたのは制度的な枠組みだけではない。国民の身体と世界観もまた、「近代化」の対象となった。たとえば明治初期においては、男たちが上半身裸で市中を出歩くことは普通の風景であった。だが明治政府はそのような「見苦しい」風習を取り締まり、近代的な風景を造り上げようとしている。また太陽暦と西洋の時刻制度の導入は、それまでの農作業と結びついた時間とのつきあい方を変えていった。明治政府にとっては、西洋と同様の時間こそが、近代化された時の刻み方だったのである。このような近代化のまなざしは、「人間と自然の関係」にも向けられている。明治政府にとって虫送り(山口注:夕方から夜にかけて松明を持って集まり、鐘や太鼓を打ち鳴らしながら畦道を練り歩いて害虫駆除を祈願する伝統行事。やり方は地方によって様々な違いがある)のような風習は忌むべき旧習にほかならなかった。そこで明治政府は、すでに西洋科学の一分野として確立していた「応用昆虫学」を日本に導入し、人々と害虫の関係を組み替えようとする。以下では、明治日本が近代国家として出発することによって、〈害虫〉を人間の力で排除すべき対象とみなす新しい自然観が確立していく過程を見ていこう。だがその前に、まずは西洋世界における応用昆虫学の成立について簡単に見ておきたい。(P40〜P42)


『アメリカ農学の誕生』

1874年、アメリカ中西部の大平原でロッキートビバッタという害虫が大発生した。当時ミネソタ州に住んでいた少女は、その時の様子を次のように書き残している。“ 太陽に雲がかかった。それは見たこともないような雲だった。それは粉雪のような雲だったが、もっと大きく、細長くきらきら光っていた……。その雲はバッタだったのだ。バッタの体が、太陽を覆い隠し、暗闇をもたらした。その細長く大きな翅はキラキラと光った。ブンブンとかすれる翅があたりを満たし、霰のように家の屋根にぶつかって音を立てた。ローラはバッタを振り払おうとしたが、皮膚や衣服にしがみついたバッタは離れようとしない。……メアリーは悲鳴をあげて家に逃げ込んだ。バッタは地面を覆い尽くしていたので、足の踏み場もなかった。ローラがバッタを踏みしめると、足の下でべったりとつぶれた。(Wilder,On the Banks of Plum Creek,pp.194−195)”バッタたちは、数日間、彼女の家の周りの緑を食い尽くした後、西に向かって飛び立っていったという。ローラ・インガルス・ワイルダーの有名な『大草原の小さな家』の一節である。この害虫こそが、アメリカにおける応用昆虫学の誕生をもたらした昆虫にほかならない。1876年、連邦政府はロッキートビバッタ対策のため、地質調査局の中に「昆虫学委員会」を設置した。委員長に任命されたのはチャールズ・ライリー。イギリス生まれ、アメリカに渡って農業雑誌の記者などを経て、1868年からミズーリ州専属の昆虫学者として農業害虫の研究に従事した人物である。昆虫学委員会でのライリーの研究は高く評価され、1878年には農務省の昆虫学部門を任されるようになった。昆虫学部門は1904年に昆虫局に昇格する。その後、アメリカの応用昆虫学は、この農務省昆虫局を中心に発展していくことになる。(後半略:P45・P46)


『化学殺虫剤の確立』

「応用昆虫学」の成立によって、19世紀アメリカにおける害虫防除技術は飛躍的に発展することになる。この時期の害虫防除における技術革新のうち代表的なものが、化学殺虫剤と天敵導入の2つである。虫を殺すための薬剤自体は、西洋世界においても古くから使用されていた。たとえば日本の注油駆除法(山口注:水田に油を散布して油膜を作り、箒などを使って稲穂を揺すって、害虫を油の上に払い落とす方法。油にまみれた虫は、呼吸できなくなり窒息死する)のように油を散布して殺虫したという記録は、すでに紀元前2世紀の古代ローマに起源を求めることができるという。また蚊取り線香で知られる除虫菊は、コーカサス地方で栽培され、古くから殺虫剤として使われてきた。しかし本格的に殺虫剤が使用されるようになったのは、化学工業が発達して人工化学物質の生産が始まった19世紀後半のことである。19世紀の代表的な化学殺虫剤としてまず挙げられるのがパリス・グリーンである。パリス・グリーンは、それまで鮮やかな黄緑色の染料として使用されていた。その殺虫力が判明したのは、まったくの偶然がきっかけになっている。19世紀半ばのアメリカでは、コロラドハムシという甲虫がジャガイモ農業に大きな被害を与えていた。当時のアメリカにおいては、この害虫を駆除する手だてはほとんどなく、一匹一匹手で取って煮沸したお湯の中に投げ込む方法が唯一の対策法だったという。1867年、ある農民がコロラドハムシによって駄目になってしまったジャガイモ畑に、偶然そこにあった染料をぶちまけた。すると意外なことに、パリス・グリーンに触れたコロラドハムシは次々と死んでしまったのである。こうしてパリス・グリーンは、染料から殺虫剤へと役割を変えることになった。 パリス・グリーンの毒性は、その構成成分である砒素によるものである。砒素は古代から毒薬として使用されてきた物質だった。パリス・グリーンの殺虫力の発見以降、様々な砒素化合物が殺虫剤として利用されるようになる。そのうち最もよく利用されたのが、1892年に殺虫効果が明らかになった砒酸鉛である。この殺虫剤は、当時マサチューセッツ州で大発生していたマイマイガに対して用いられた。マイマイガはヨーロッパから人の手で持ち込まれた昆虫で、樹木を食い荒らす害虫として問題になっていた。そこで新しい殺虫剤砒酸鉛を試してみたところ、パリス・グリーンより植物への害が少なく、かつ殺虫効果が長持ちしたという。そのため砒酸鉛は、DDTなどの有機合成殺虫剤が登場する20世紀半ばまで、最もよく使用される化学殺虫剤となった。(P48〜P50)


『戦争〜「敵」を科学で撃ち倒す』

(前半略)第2章第一節で見たように、化学殺虫剤が害虫防除の現場で大量に使用されるようになったのは19世紀末のアメリカである。アメリカでは同じ頃、農務省が中心になって天敵を大量に導入する大規模な害虫防除プロジェクトも始まっている。それに対して日本では、化学殺虫剤が使われるようになったのは戦後のことだというイメージが一般的だろう。実際にこれまでの歴史研究でも、日本で化学殺虫剤が普及したのは戦後になってからであると考えられてきた。だが本章では、実際には戦前期にも、化学殺虫剤がある程度は普及していたことを明らかにしたい。転換点は1920年代にある。この時期は化学殺虫剤に限らず、害虫防除技術全体が大きく変わっていった時期にあたる。その転換のきっかけとなったのは、第一次世界大戦の勃発であった。 第一次世界大戦は史上初の総力戦であり、科学戦である。この戦争では毒ガス、飛行機、戦車など近代技術を用いた兵器が次々と導入され、その開発に科学者たちが動員された。その結果、第一次世界大戦の勃発以降、科学技術と国家の関係は劇的に変わっていく。開戦後、イギリスでは科学産業研究庁(DSIR)が、アメリカでは国家研究評議会(NRC)が設立され、より効率的な科学者の動員がすすめられた。日本も例外ではない。現在でも日本の科学研究をリードする理化学研究所は、まさに第一次世界大戦の産物である。理化学研究所を設立しようとする動き自体は、すでに大戦前からあった。それが開戦によって急速に具体化し、国と産業界が一体となって設立を見ることになったのである。そもそも理化学研究所は産業基盤となる研究のために設立された機関だったが、その後は物理学や化学の基礎研究で成果をあげることになる。1918(大正7)年には、現在の科学研究費補助金の原型となる文部省科学奨励金が設けられ、大学の研究者に研究費が配分されるようになった。さらに1930年代に入ると、日本学術振興会が設立され(1932年)、分野横断的なプロジェクトに大規模な予算がつけられるようになる。このように日本において国家が科学研究を支援する体制が確立されたのは、日本が戦争に明け暮れていた20世紀前半の約30年間のことなのである。このような国家と科学研究の不可分の関係を「科学の体制化」と呼び、それが戦時体制を通して確立されたと論じたのが、科学史家の廣重徹である(廣重徹『科学の社会史』)。(後略:P136〜P138)


【毒ガスと殺虫剤】

『戦争と化学工業』

第一次世界大戦以降、日本の害虫防除技術で新たに始まったのは、天敵導入と誘蛾灯だけではない。化学殺虫剤の利用も、この時期から本格化するのである。 まず、開戦前までの日本の害虫防除における殺虫剤利用は決して一般的ではなかった。とはいえ、全く無かったというわけではない。最もよく使用されていたのは石油乳剤である。これは水田に散布して害虫を窒息死させるもので、江戸時代からの注油駆除法の延長線上にある殺虫剤と考えてよいだろう。 次によく利用されていたのは除虫菊である。除虫菊はもともとコーカサス地方の原産だが、1885(明治18)年に農学者の玉利喜造がアメリカから種子を輸入し、駒場の東京農林学校で栽培を始めた。その翌年には大日本除虫菊(金鳥)の創始者上山英一郎も、和歌山県に除虫菊を持ち込んで栽培している。大正期には日本の除虫菊生産は順調に成長し、昭和初期には世界生産の90%を占める輸出大国となる。除虫菊といえば現在では蚊取り線香のイメージが強いかもしれない(ただし現在の蚊取り線香は、除虫菊の殺虫成分ピレトリンを化学合成したものから製造されている)。けれども明治期の除虫菊は、農業用にも利用される殺虫剤だった。明治末期になると、後述する砒酸鉛や青酸ガス、二硫化炭素なども殺虫剤として利用されるようになる。だがこれらの殺虫剤は基本的に輸入品で、国内の化学工場で生産されていたわけではない。当時の人々にとって化学殺虫剤は高価な舶来品で、容易に手に入れることができるものではなかった。日本において殺虫剤産業が生まれるためには、第一次世界大戦の勃発を待たなければならなかった。そもそも化学殺虫剤だけでなく、日本の化学工業そのものが、第一次世界大戦の影響を受けて発達したものである。というのも大戦前まで世界の化学工業を牽引していたのはドイツであった。そのためドイツと戦うことになった連合国側の国々(日本も含む)は、国内の化学工業を早急に整備する必要に迫られたのである。日本では参戦直後の1914(大正3)年11月、農商務大臣が諮問機関として化学工業調査会を設置し、国内の化学工業をどのように整備すべきか調査を開始した。この調査会は、ソーダ工業、石炭タール蒸留および精製業、ならびに電気化学工業の振興の必要性を答申する。翌年1915(大正4)年6月には染料医薬品製造奨励法が公布され、染料や医薬品を製造する化学産業の育成がはかられた。さらに1918(大正7)年5月には、ドイツで特許化された空中窒素固定法を実用化するため、臨時窒素研究所が設立される。ここで注意しておかなければならないのは、第一次世界大戦が「毒ガス」という化学工業の産物で応酬し合う初めての戦争だったことである。最初に毒ガスを使ったのは、化学工業で先端を走っていたドイツとされている。1915年4月22日のことである。場所はベルギーのイープル近郊。ドイツ軍の方から流れてきた塩素ガスが、連合軍の兵士を襲ったのである。毒ガスの実戦使用は1899年のハーグ陸戦条約で禁止されており、国際法違反だった。それにもかかわらず、その後の戦闘は同盟国側と連合国側の毒ガス開発競争となる。ドイツでは後にノーベル化学賞を受賞するフリッツ・ハーバーをはじめとして、ドイツ化学界の重鎮たちも開発に参加した。連合国側の参戦国とはいえ、ヨーロッパの戦場からは遠く離れていた日本では、毒ガスの開発はゆっくりと進められた。最初に動いたのは陸軍である。1918(大正7)年、陸軍軍医学校教官の小泉親彦は、学校内に化学兵器研究室を新設する。同年5月、陸軍省は臨時毒瓦斯調査委員を設置し、小泉は委員に任命された。小泉は軍医だったので、毒ガスの人体への影響をやわらげる防毒マスクの開発を主な研究テーマとしている。ちなみな小泉は毒ガスの研究から離れた後、兵士となる国民の体力向上を目指して、厚生省の設立に尽力することになる。戦時中には厚生大臣も務めたが、敗戦直後に自殺した。第一次世界大戦が終わると、日本の毒ガス研究は1921(大正10)年に新たに設立された陸軍科学研究所でおこなわれるようになる。そこで毒ガス開発を担当する第二課化学第六研究所(1941―1942)、第六陸軍技術本部(1942―1945)と改組されながらも、敗戦まで存続した。そしてこの陸軍の毒ガス研究機関が、日本の殺虫剤産業にも大きな影響を与えたのである。(P150〜P153)


【エピローグ】

『近代国家と自然の均質化』

〈害虫〉とは何だろうか。この問いから始まった物語も、終わりに近づこうとしている。プロローグで述べたように、有害な虫をひとくくりにして総称する「害虫」という用語は、日本では近代に入ってから生まれた。そして〈害虫〉を人間の手で排除することが当たり前となったのも、明治期以降のことである。もちろん江戸時代以前にも害虫は存在したが、単に「虫」と呼ばれ、一種の天災と考える人々が多かった。それが明治以降、農業害虫の排除がすすめられ、さらに大正期には衛生害虫が排除されるようになったのである。つまり日本では、〈害虫〉は近代に誕生した存在であると言えよう。 日本において〈害虫〉が近代になって初めて成立したことは、決して偶然ではない。あらゆる近代的な国民国家は、国境線の内側から異質なものを排除し、均質で標準化された空間を造り上げることによって生じてきた。そのため明治政府は、すべての国民を対象とする全国一律の教育制度を立ち上げ、均質で合理的な国民の生産を目指したのである。このような教育制度を通じて、国民は科学に基づく〈害虫〉とのつきあい方を学んでいった。(中略)こうした新しい「害虫と人間の関係」を支えたのは、明治期以降、政府によって整備された科学研究体制であった。明治末期に整備された農学研究体制は、名和昆虫研究所(山口注:現在の岐阜県である美濃国出身の昆虫学者である名和靖によって設立された)のような民間の研究機関を取り込みながら、害虫防除技術の研究と教育を進めていった。大正期に入ると、植民地統治下の台湾で確立された医学研究体制のもとで、病気を媒介する昆虫に関する科学的な知識が蓄積されていく。そして同時代の日本の大都市では、衛生状態が改善されることによって、蠅と人間の関係が組み直されていった。さらに第一次世界大戦以降、日本の科学技術体制は、より国家の目標に合致する方向で組み換えられていく。それまで博物学や昆虫学の枠内ですすめられてきた害虫の研究も、化学工業や軍事技術、さらには産業界や医学などと結び付きながら進められるようになった。こうして戦争と同じように、効率的かつ大規模に〈害虫〉を根絶する体制が確立されたのである。かくして〈害虫〉は、国家によって確立された科学技術の知をもとに、人間の力によって排除すべき生き物となった。(P189〜P191)


『環境にとって科学技術とは何か』
では、こうして生まれた〈害虫〉を排除するための科学技術 「応用昆虫学」の確立は、日本の環境にとってどのような意味を持っていたのだろうか。それは化学殺虫剤によって、自然環境を悪化させてしまったのだろうか。それとも〈害虫〉の排除によって、食糧増産と衛生的な環境をもたらしたと評価できるのだろうか。この問いは、科学技術の発展が環境問題にとってどのような意味を持つかという、より大きな問いに繋がっている。科学技術と環境問題の関係を扱った古典的な議論としては、技術史家のリン・ホワイト・ジュニアが1967年にScience誌に発表した「現代の生態学的危機の歴史的根源」という論文がある。ホワイトによれば、現代の環境問題は科学技術による自然への恣意的な介入によって引き起こされている。そしてそもそも近代科学を生んだキリスト教文明のなかに、人間の方が自然より優位と考える「人間中心主義」があるという。1960年代には環境問題が深刻化し、西洋文明が問い直されるようになっていたため、ホワイトの議論は大きな反響を呼んだ。(中略)このような「西洋文明=近代科学=自然破壊」というテーゼの支持者の多くは、神秘的な東洋文明に期待した。(中略)本書の〈害虫〉をめぐる物語も、以上のような文明論的な環境史の流れと同じような議論と思われるかもしれない。すなわち「かつて日本人は、虫送りのような牧歌的な自然との関係を維持してきたのに対し、明治以降の西洋化によって〈害虫〉を支配するようになった」、と。確かに日本では、西洋世界に比べると「虫けら」への親近感は強かったかもしれない。虫の声を聞く文化も、「虫合戦」(山口注:虫を擬人化して、善玉・悪玉に分けて戦わせ、社会風刺する物語)のような滑稽な文学を楽しむ文化も西洋世界には無かった。また、日本では西洋と比べて、動物と人間の境界が曖昧だったことも間違いないだろう。しかし私は、江戸時代の人々が「害虫と共存」していたとは考えていない。江戸時代の人々も、現在の私たちと同じように、害虫に苦しめられ、できればいなくなって欲しいと考えていた。だからこそ彼らは、御札を立て、虫送りを行って神仏に祈ったのである。彼らは決してエコロジカルな人々ではなかった。逆に彼らが自然破壊的な自然観を持っていたとも言えない。そもそも江戸時代の人々には、「エコロジー」「自然破壊」という発想そのものが無かった。したがって、「エコロジーか自然破壊か」という二分法で歴史を描くことは、現在の目線で過去を評価し、断罪してしまうことになってしまう。(後半略:P191〜P194)


本書の内容はこの他に、江戸時代に日本に顕微鏡が渡来し、虫の正確な姿を知った当時の人々の反応が、科学的な分析よりも、その奇妙な造形への関心であったことや、明治時代に入ってからの近代化政策で、害虫を人為によって駆除しようと、民衆に奨め、指導しようとする政府や役人たちと、虫の害は天災や神罰という旧来の観念に基づき、政府や役人たちに反発・抵抗する農民たちの様子や、そんな新旧の対立を解決するために、在野の身で、昆虫の研究に人生を投じ、日本における昆虫学の発展に貢献した、名和靖氏の活動について。さらに蠅や蚊などが媒介し、流行させる伝染病に対する、日本とアメリカでの都市衛生事情の歴史や、殺虫剤の他に害虫駆除法として、熱心に研究された天敵導入法について等々、人間と自然の関わりの歴史を科学と社会の両面から考察する一冊です。〔ちくま新書〕


瀬戸口 明久
昭和50(1975)年、宮崎県生まれ。京都大学理学部(生物科学)卒業後、同大学文学部(科学哲学科学史)卒業。同大大学院文学研究科博士課程修了。現在、大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。生命科学と社会の界面に生じる諸問題について、科学技術史と環境史の両面からアプローチしている。共著に『トンボと自然観』(京都大学学術出版会、2004年)がある。
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