2011年03月02日

ラバウル温泉遊撃隊 著者/山崎 まゆみ

昨日の続き

『祖父が語ったボルネオ』

私の戦争とのつながりは、前にも書いたが、祖父の昔話だけだ。

幼少の頃、第二次世界大戦中にボルネオにいた祖父は、戦地での暮らしを繰り返し語り聞かせてくれた。

我が家は桐箪笥の製造販売業を営んでいる。

祖父は桐箪笥職人で、正月の三が日すら仕事をするという仕事一筋の、寡黙な職人気質の人だった。

毎晩、午後6時過ぎには、住み込みの職人さんと家族全員で食卓を囲むことになっていた。

工場が終わるのが6時と決まっていたからだ。

仕事を終えると、みな、すぐに食卓についた。

そして、夕食を終える頃、祖父が赴いた戦地、ボルネオの話が始まる。

祖父は、いつも自慢そうに語った。

ボルネオの話だけは祖父を饒舌にさせたのだ。

「俺は、戦中に現地の人と仲良くした。だから、捕虜になっても“トワンヤマザキ“(山口注:「トワン」=日本語でいうなら“旦那様“の類いの現地語)といって食料を貰っていた。どんな時代でも、人を人と思わない扱いはいけない。俺は、現地の人によくしていた。だからとても懐いてくれたんだ」大正元年生まれの祖父は、召集ではなく、軍属の石油採掘機械の工務の仕事を目的とした。

もともと長岡には東山油田と呼ばれた石油の産出地があり、石油採掘の技術を持っていた。

祖父もそうした技術を持つ長岡の人たちと一緒にボルネオへ向かった。

昭和17年のことである。

祖父はボルネオ島の東海岸沿いにあるバリクパパンの近くにいた。

バリクパパンは、その西北方面にあるサンガサンガ油田から管を通して送られてくる石油を貯蔵し、精製して積み出す要地だったのだが、祖父はこのサンガサンガ油田付近にあった工場で、石油採掘機械を作っていたのだ。

明日へ続き


posted by 管理人 at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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