2006年05月25日

新・格闘技バイブル 著者・松浪健四郎

K-1、PRIDE等が人気を集め、格闘技選手達がテレビのバラエティー番組等に多数、出演しています。以前は求道的、ストイックな印象があり、限られた一部のトップクラスの選手はともかく格闘技マニアや専門媒体以外には、あまり個々の選手はマスコミに注目されなかったのですが、今や格闘技選手にスポットライトが当たってくれているのは、武道・格闘技マニアの一人である私にとって嬉しい限りです。

ただし、それがショウ・ビジネスの面だけに偏った注目やブームであってほしくはないです。武道・格闘技は単なる球技や体操と違い、古代、中世の様な国家の治安機構が未成熟な時代には、各人が自分や家族の生命、財産等を守る為の実用的で、生死に関わる技術でありました。

だからこそ、他のスポーツとは比較にならない合理的、科学的な知恵と工夫と情報と執念が込められています。前著・格闘技バイブルをさらに緻密に、より専門的にして完成させた本書「新・格闘技バイブル」。格闘技は科学であり、哲学なのです。

【裸体格闘技と宗教】
“ヨーロッパのキリスト教寺院や中近東のイスラム教国のモスク(寺院)へ見学に行くと、袖なし衣服着用者は、男女に限らず見学を断られる場合が多い。ノースリーブは失礼なのである。キリスト教もイスラム教も、人前で裸体をさらす行為を認めていないからだ。儒教の教えが根付いている中国や韓国も同様で、裸体は人前でさらけ出すものではないという思想が昔から強くある。儒教には、「人は衣服なり」という考え方があり、貧弱な服装をしている者は、それだけで指導者不適格とされる。そこには「美しい肉体」の評価はなく、外見重視の姿勢がうかがえよう。それらの思考姿勢はヨーロッパにもあって、女性が素足のまま歩くことすら下品とされている。「ジェントルマン」の国々では、靴底が擦り減っているだけでも二流人物と決めつけられてしまうほどだ。古代ギリシャにおいては「調和のとれた美しい肉体」をもつことこそが「高貴な人」(アスリート)の条件であったのに、いつのまにやらハダカは覆い隠すべきものとなってしまった…。レスリングやウェートリフティングの、あの「吊りパンツ」と呼ばれる奇妙なコスチュームは、ヨーロッパ人の裸をよしとしない思想からできたともいわれている。尤も、イギリスの伝統的な格闘技であるグリマのコスチュームを簡素化させたという有力な説もあるが、いずれにしてもヨーロッパ人のデザインによるものだ。トルコ研究家の大島直政氏は「男性も人前で裸になるな、と解釈できる章句がコーランにある」といい、イスラム教国では、人前で裸体をぶつけあう競技はトルコのレスリング(カラクジャク、ヤールグレッシュ)だけだという。イランにはズルハネなる裸体で行うスポーツもあるが、いずれにしてもアラブ諸国をはじめ、裸で闘う競技はみられない(水泳を除外しての話である)。イスラム教国でのこれら裸で闘う格闘技はいうまでもなく古来からのもので、イスラム教が布教する以前から存在した競技である。このように考えとみると、裸で世界中で行われている格闘技は、プロレスとプロボクシングしかないことがわかる。このことは、プロの格闘家は格闘を見せることと、鍛えられた肉体をも見せる義務があるということであろう。筋肉の躍動美とその格闘技の実力、それが世界で認知された唯一の裸体格闘技の存在理由なのだ。ところで、ヤールグレッシュはオイル・レスリングとも呼ばれるが、大会は勝ち抜き戦と決まっている。下半身の攻撃が禁止されている関係でか、勝負がつくのに時間がかかる。スタミナのあるレスラーが有利なのだ。遊牧民族社会では、スタミナのある人間こそが英雄だったのである。スタミナのある肉体とは、いかなるカラダなのか。それを教える、見せるためのレスリングがヤールグレッシュなのだ。プロレスもプロボクシングも、肉体の教科書なのであろう。ちなみにイスラム教国では売春やストリップは厳しく禁止されている。裸に関しては必要以上にうるさいのである。また、女性が格闘技を見物することも禁止されている。”(P41〜P43)

【マッチメイクと日本人】
“昭和62年12月27日の国技館は、大荒れに荒れた。メインイベントが、長州力対アントニオ猪木との発表であったのに、当日、そのカードに変更が生じそうになったがため、満員の大観衆はブーイングの嵐を巻き起こしたのである。大観衆は、長州対猪木の一戦を観戦すべく国技館に足を運んだにも関わらず、その対決が反故にされそうな雲行きに、想像を絶する拒絶反応を起こした。その現象は、いみじくも日本人の素朴な格闘技に対する考え方を露呈していたといえよう。格闘技を商品に興業をうつ会社が、その日本人の心理を読みきっていなかったところに問題の根があったようだ。日本人は、野球のエッセンスはピッチャーとバッターの駆け引きにあると考えている。つまり、その神経戦こそが醍醐味となっていて、観客の胸を躍らせるものとなっている。そんな野球への興味は、ほとんど昔からの相撲から引き継がれてきたといえる。相撲の場合、力士達は数分間の立ち会いの儀式の間、ずっと互いにニラミ合う。両力士が、両手をついて闘争心を高めていき、その回数を重ねるにつれ、力士と観客が緊張間を高め、興奮度を増す。僅か数秒で勝負は決するにも関わらず、溜まりへ塩を取りにもどったりする儀式は、相撲の勝敗の重厚さを表現しているのである。すなわち、日本人は、勝負以前の行動から両者に注目するという繊細さをもっているわくだ。そして、観客は観客なりの予想をたてて入場する習慣を身につけている。「因縁」の対決ともなれば、その話題性だけでも日本人は飛びつく。日本人のスポーツに対する第一の興味は、その勝負よりも、組み合わせにあるという特徴をもっている。アメリカ人の野球に対する興味は、日本人のその繊細な部分にはなく、プレイヤー個人の個性とアクションにあるといわれる。それゆえか、アンパイアまでもが出演者よろしく派手なゼスチャーをする。アメリカ人には浪速節的な発想がなくて、ゲーム内容と記録こそが観衆の心を揺るがせている。勿論、組み合わせも重視されるが、リーグ戦(総当たり戦)慣れしているからか、それほど重要でないカードでも楽しく観戦する知恵を持っているともいえようか。ともあれ、スポーツ観戦の行動様式は、日本人においては組み合わせによって大きく左右されると断言してよいのである。それは日本人の神経の繊細さからくる伝統であり、格闘技ではその傾向がすこぶる高いといえる。それを無視してしまうと、前述した国技館のような暴動を引き起こす。が、結局、長州対猪木戦は実現したにもかかわらず、大荒れとなったのだ。原因は予想外の凡戦であったからではあるまいか。日本人は、組み合わせにうるさいに加え、試合内容にもうるさくなってきたことを物語っている。眼の肥えた観衆は、容易に満足しないということであろう。”(P112、P113)

この他に【「スパルタ式」の実態と教訓】【日本人格闘家の自制心】【手の文化と格闘技】【肉体美と同性愛】【沖縄が空手を産んだ背景】など。さらにサンボの王様・ビクトル古賀。ミスター・アマレス笹原正三。最後の武士・木村政彦など近代日本格闘技界の発展に尽くした人々の素顔も紹介する
名著です。(ベースボール・マガジン社)



松浪 健四郎
1946年、大阪府泉佐野市生まれ。東ミシガン大学に2年間留学後、日体大卒業。日大大学院博士課程修了(西洋体育・スポーツ史)。東海大学講師を経て、1975年より3年間、国際交流基金を受けてアフガニスタン国立カブール大学で体育学の指導と研究に従事する。学生時代はレスラーとして活躍。全日本学生、全日本社会人、全米選手権大会等で優勝。アジア大会、世界選手権大会等の日本代表選手兼コーチ。日本体育協会オリンピック・コーチ、国際アマチュアレスリング連盟アジア地区普及コーチ、専修大学教授等を歴任。著書に『アフガン褐色の日々』『シルクロードを駆ける』『おもしろスポーツ史』『身体観の研究』『格闘技バイブル』『古代文化とスポーツ文化』等多数あり。
posted by 管理人 at 07:00| 東京 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 趣味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちゎ!いつも更新おつかれです〜!
Posted by ゆな at 2006年06月06日 23:40
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