2010年12月30日

有坂銃―日露戦争の本当の勝因 著者/兵頭 二十八

昨日の続き

しかしベルト給弾ではなかった保式(ホチキス)機関砲の発射速度は低かったから、マキシム機関砲に対抗するのも、主として我が三十一年式野山砲の後方からの支援射撃であったろう。

幸いなことに、後半の野戦におけるマキシム機関砲の数は、味方の保式に比べて劣勢であった。

さらに歩兵が間合いを詰め、距離400m以内に入る。

すると、俄然、三十年式歩兵銃と保式機関砲から発射される三十年式6・5ミリ小銃弾の低伸性がモノをいいはじめる。

恐れを知らぬロシア歩兵も、白兵距離まで近付くことをためらわずにはいられない。

ましてや地上からの高さが2m以上になるロシア軍の騎兵部隊は、歩兵よりもさらに遠巻きに、日本軍の歩兵部隊を見ているしかなかった。

あれほど恐れていたコサックに、日本軍の歩兵部隊は少しも接近を許さなかった。

逆に日本軍は、歩兵とライフルの圧力によって、じりじりとロシア野戦軍を圧迫することが可能であった。

日露戦争までは、確かに「ロスの騎兵!」「方陣作れ!」という歩兵の号令があったのである。

が、役後、この号令は消えた。

白兵戦は、野戦では例外的であった。

遼陽では、日本軍の負傷兵のうち、白兵創の割合は0・7パーセントだったという。

奉天では、その割合はもっと低かったであろう。

日露戦争は、有坂銃で勝ったのである。(P122〜P125)

明日へ続く


posted by 管理人 at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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