2010年12月25日

有坂銃―日露戦争の本当の勝因 著者/兵頭 二十八

昨日の続き

明治日本軍の思想は、村田経芳(山口注:有坂成章と同じく、明治時代の陸軍の銃器開発に貢献した技術者。

有坂の三十年式歩兵銃の前に、明治日本陸軍の主力銃だった村田銃の開発者)が《ゴルゴ13》を地でゆく特級射手だった関係と、西南戦争が日露戦争を先取りするような弾薬戦になった貴重な経験から、白兵(ブランケ・ヴァッフェン)への過信は毛頭なく、スイス軍のように全兵卒の狙撃技量でもって外患に処すことを理想としていたのである。

参考までに、後備旅団装備の村田連発銃(二十二年式)の剣付き全長は、無煙火薬第一世代の外国銃の影響で、僅か1・48mに過ぎない。

その前の十八年式村田歩兵銃(日露戦争中でも輜重兵や内地国民兵が装備)の剣付き全長は1・74mだ。

さらに村田銃ができる前の陸軍制式銃であったスナイドル銃は、剣を着けると2・3mにもなった。

歩兵が二〜三列横隊となって戦闘していたその昔、歩兵銃の着剣全長は、1・9m位ないと、敵の騎兵に対して槍襖を構成できなかったのだ。

だから、もし三十年式歩兵銃を設計する際に、ロシアの1891年式に銃剣術において対抗する意図が働いたとするならば、十八年式村田銃以前の長さの銃剣を復活させることによって、三十年式歩兵銃の着剣全長を1891年式に匹敵させることは容易にできたろう。

しかし西南戦争を体験している日本陸軍には、着剣リーチの長さで敵兵に勝とうなどという発想は無かったのである。

明日へ続く


posted by 管理人 at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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