2010年07月27日

極東の島国が守った地中海〜第一次世界大戦と日本軍 著者/兵頭二十八

昨日の続き

『命がけで連日の激務に』

それでも日本艦隊は、命がけで、与えられた兵員護衛の目的を達成したのである。

例えばこのとき命拾いした『アラゴン』は、半年後の12月30日、エジプト沖でドイツの『UC34』潜水艦に雷撃され、沈んでしまった。

乗っていた2700人のうち610人が死亡している。

しかも、護衛していた駆逐艦『アタック』は救助中を雷撃されて、真っ二つ。

僚艦の『オスマニエ』もドイツ潜水艦が撒いた機雷に触れ、轟沈。

このような危険が、地中海では普通だったのだ。

1918年5月3日、こんどは駆逐艦『樫』と『桃』が護衛して、226名のインド兵、300トンの物資、郵袋5332個などを運んでいた英国輸送船『パンクラス』(4436トン)が、ドイツの潜水艦『UC54』から雷撃された。

爆発と浸水により、乗員2名ならびに兵士27名が死亡。199名のインド兵が『樫』に助けられた。

沈没を免れた『パンクラス』は、タグボートがマルタ島まで曳航し、2隻の駆逐艦は最後までそれをガードしたのである。

『UC54』は逃走し、同年10月にトリエステ港で降伏し、廃艦処分された。 第二特務艦隊は、上記の人的損害の他、遠征中に18名もの病死者を出している。

狭くて艦内の居住性が犠牲にされていた、当時の日本の600〜700トン程度の駆逐艦が、休戦までの間、平均して毎月5〜6日しか碇泊休養しなかったという(このシフトは異常である)のだから、過労による死者が出ても不思議ではなかったろう。

給油・給炭作業が洋上でなくすべて軍港内で実施できたとはいっても、諸作業にはやはり個艦の水兵も従事するのだ。(P48・P49)

明日へ続く
posted by 管理人 at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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