2006年03月15日

秦の始皇帝99の謎 著者・渡辺龍策

偉大な政治家とは、どんな政治家を指すのでしょうか。その時代や地域、何より評価する人によって、かなり違いはあるでしょうが、私は『強力な改革者』であると思います。

まず、なぜ『改革者』かと言えば、ある時代なり地域なりで成長が止まったり、安寧秩序が乱れたり、その他、何らかの大きな社会問題が頻発している状態に置いて、旧来の方法で対処可能であれば、そもそも、大きな社会問題自体、頻発しない事が多いのです。旧来の社会体制のままでは解決しえないからこそ『改革』が必要なのです。

しかし、いつの時代、どんな社会にでも、旧来の体制なり既成の状態に利権に群がる輩はいます。であるからこそ『改革者』は同時に『嫌われ者』『憎まれっ子』でもあります。

例えば我が日本史上、最大の改革者『織田信長』は、ある人の目には日本史上最大の名君ですが、ある人の目には日本史上最大の暴君ででしょう。

さて、視点をお隣の中国はに移すとどうでしょうか?。彼の地に置ける史上最大の名君であり、また史上最大の暴君として知られる秦の“始皇帝”を取り上げてみたいと思います。

“いったいに、始皇帝について伝えられている悪評は、後世の史家や好事家によって作り上げられたものが多い。だが、これら従来の悪評は、最近では発掘された資料などから推察しても、真相とかけはなれていることが明らかになりつてある。どうしてこうまでも悪評を浴びてきたのであろうか。その第一は、秦帝国の後の漢帝国が、自国の創立を正当化するために、極端に秦帝国の失敗なり悪政を宣伝しなければならなかったからである。漢の初めの賈誼の『新書』の中の「過秦論」にしても、司馬遷の『史記』にしても、このような否定的評価にたつ漢初以降の傾向に左右されているところがかなり見受けられる。だから、そのまますべてを鵜呑みにすることは、真相を誤ることになろう。たとえば、政務熱心な始皇帝が、自ら一石(一日20斤、約30Kg)の重さの上奏の書類(竹簡)を毎日決裁しないうちは休息しなかったという逸話も、方士・盧生の言として、権勢を貪る妄執の現れの様に語られているのである。第二は、法家思想に立脚した始皇帝が、儒教を弾圧したことから、儒家から敵視されたということです。後になって、儒教の勢いが盛り返してくると、彼についての評価をますます悪くした。とくに焚書坑儒 (書物を焼いたり学者を生き埋めにしたこと) の対象となったのは儒家であった。それゆえに、我々は中国史において始皇帝への評価それ自体が、儒・法の論争であったことをみてとることができるのである。始皇帝の人物及びその業績を正しく理解するためには、以上の点を念頭におき、歴史の客観的事実に基づいて前進と後退の政治闘争史の中から汲み上げて判断すべきである。それによって彼の実像と虚像、真相と偽物が選別されるであろう。ちなみに、最近の中国では始皇帝に対する評価はすこぶる良くなっている。古い貴族制度を打破し、歴史の流れにかなった新しい制度を確立した英雄と見なされている。儒教思想は奴隷所有者階級の理論であり、法家思想は新興地主階級の理論である。だから、焚書坑儒に象徴される始皇帝の行為は、儒法闘争における法の勝利を意味する、と解釈されるようである。”(P18〜P19)

“戦国末期になると、秦国の経済力と軍事力は他の六国と比べて遙かに優れたものとなった。当時の七つの主な諸侯国のうち、函谷関 (河南省霊宝県東北) の東に位置する斉・楚・燕・韓・趙・魏の六国は、いずれも奴隷制から封建制への改革が不徹底であった。その上、政治は腐敗し、国力は弱まっていた。これにひきかえ、秦国の状況は違っていた。戦国中期、秦の孝公は法家の商鞅を起用し変法を推進した。最近、法律「秦律」の竹簡が発掘されたが、その中に商鞅が定めた秦律六篇が入っているとのことである。法家思想に立脚して中央集権的な封建制度を打ち立てた当時の事情が、今後出土竹簡の整理が進むにつれて、次第にはっきりしてくるものと思われる。六世代、百年を経て、始皇帝の即位時代になると秦の国はもはや経済、軍事は言うに及ばず政治、文化など幅広い分野で、六国を凌ぐ進歩を遂げていたのだった。(中略)始皇帝が即位したときの秦国の軍隊は、強国といわれていた楚国を凌ぎ、数においても戦闘力においても六国中これに匹敵する国は無かった。それに加えて六国の弱点を巧みに利用して、ついに六国を滅亡にいたらしめたのであった。中国統一の任務を完成するには秦国のみがもはや最適の条件下におかれていたとみてよかろう。しかも始皇帝の時代がまさにそれを完成するには絶好の条件をそなえていたのである。もう少し語らせてもらおう。この時期、従来からの奴隷制下の井田制は次第に破壊され、奴隷が農民に変わり、鉄製農具と役牛により耕作技術が広く採用され、多くの荒野と森林が農地になった。手工業や商業に対する奴隷主貴族の独占は打破されつつあった。とはいうものの、各諸侯国間の貨幣、度量衡の不統一は甚だしく、しかも各所の関所が商品の流通を極度に阻害していた。その他、間断のない諸侯国間の混戦が経済発展を阻害していたことは言うまでもない。それゆえに混戦に終止符をうち、また、奴隷主貴族勢力の復権活動を撃退し、奴隷制の残滓を除かない限り経済発展は望まれなかったのである。だからこそ、法家のうち出した統一された中央集権的封建国家の樹立ていうことが時代の要求を反映したものであり、大衆の願望に合致しためのであった。”(P38〜P40)

他に『始皇帝はなぜ刺客に狙われたのか』『始皇帝はなぜ韓非に惚れ込んだのか』『なぜ万里の長城を作ったのか』等、始皇帝の真価を認識させられる一冊。



渡辺龍策
1903年、東京生まれ。中国政治史の研究家。東京大学法学部卒。中京大学教授を務める。『馬賊』(中央公論社)『近代日中政治交渉史』『近代日中民衆交流外史』 (以上、雄山閣) 『馬賊頭目列伝』『万里の長城』『楊貴妃後伝』 (以上、秀英書房) 等、多数の作品がある。


posted by 管理人 at 07:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 世界史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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