2006年02月25日

少林寺拳法入門 著者・宗 道臣

「力無き正義は無能なり。正義無き力は暴力なり」この言葉の意味を私達は、正しく理解できているでしょうか。そもそも現代の日本人は第二次世界大戦の敗戦による自信喪失と、憲法の第九条や人権尊重の文言を無思慮、無分別に盲信してしまい。力の行使を無条件に悪と決めつけ躾の為の体罰も暴力。正当防衛のはずの抵抗も暴行傷害。凶悪犯に対する職務執行の為の警官の発砲も権力の横暴。果ては国防の為の自衛隊までも許しがたい存在の如く主張する、自称知識人(阿呆な輩)が蔓延する情けない国家になってしまいました。

これは“正義”と“力”の正しい関係を知らないから、理解できないのです。それでこの日本から暴力が消滅したならまだしも、そのネガとして暴力や脅迫に対して国家も個人も有効な対策もなく、無法者がのさばりかえる社会に落ちぶれてしまいました。そんな社会だからこそ、日本少林寺拳法創始者・初代宗道臣師の言葉を一人でも多くの日本人に伝わることを願っています。

“私が道院をはじめて間もない昭和23年頃のことであるが、キリスト教のある牧師と話しているうちに、力と愛の問題で意見が対立したことがあった。牧師は、こう主張するのである。「あなたは力の裏付けのない愛は無力であると、力を強調されるが、それは誤りである。キリスト教では愛が全てであり、神は愛である。人生のあらゆる問題は、全て愛で解決できるものだから力で解決しようという姿勢は間違っている」そこで私は失礼とは思ったが、牧師の連れのご婦人に尋ねてみた。「もしも、あなたが誰もいないところで無法者に襲われ、暴行されそうになったらどうしますか。神様の御心だといって喜んでそれを許しますか」勿論、その婦人は顔を赤くして首を横に振った。「私ならその不心得者をさとしてやめさせるようにします」という牧師に私は言った。「無法者とは、法律や道徳を無視して悪いことをするからこそ無法者というのです。その非をさとしただけで聞き分けるはずはありません。彼等を制止できるのは法律や道徳や神の力ではないのです。仏教でいう力愛不二とは、そんなとき、相手に罪を犯させず、また自分の尊厳を傷つけることのないように、無法な行為を力に訴えてもやめさせ、改心すれば許してやる慈悲の心をいうのです。」牧師は、よくわかりましたといって握手を求めて帰っていったが、このように許すということは、許すことのできる立場と力を持った者だけにできることなのである。”(P126〜P127)

“インド独立の父、非暴力主義の聖者ガンジーは次のように言っている。「私の信念によると、もし臆病と暴力とのうち、どちらかを選ばなければならないとすれば、私はむしろ暴力をすすめるだろう。インドが意気地なしで辱めに甘んじて、その名誉ある伝統を捨てるよりも、私はインドが武器をとってでも自らの名誉を守ることを望んでいる。しかし、私は非暴力 (不服従 )は、暴力よりもはるかにすぐれており、許しは罰よりも、さらに雄々しい勇気と力がいることを知っている。しかし、許しは全てにまさるとはいえ、罰をさしひかえ、許しを与えることは、罰する力がある人だけに許されたことなのではないだろうか」と。強盗に入られて手足を縛られた男が、目の前で妻の犯されるのを見ながら、どうすることもできないときに、その強盗を許すなどと言えば、滑稽なだけである。それは許しなどではなく、あきらめの口実に過ぎないのである。正義を伴わない力は暴力に過ぎないが、力を伴わない正義は無力である。善は悪に、正義は不正に打ち勝たなければならない。しかし、正義が不正に打ち勝つためには、正義を行うものに、不正に打ち勝つだけの力の裏付けがなくてはならない。それでなくても、不正や悪は、本来、荒々しさ、ずぶとさ、狡猾さなどの力を備えているのが普通なのであるから、これに打ち勝つためには、まず、正邪を見定め、状況を把握する判断力と、力の用い方についての熟慮と、正義のためには、あえて危険を回避しない勇気などが必要である。”(P128)

“正義は理屈ではない。自分を含め、より多くの人々の幸福を破壊し、侵害しようとする不正、邪悪を退ける行動そのものである。正邪を誤り無く判別できる判断力を養うことは勿論、大切であるが、頭の中で正義を思いめぐらすだけでは正義にはならない。少なくとも「正直者がバカを見ない、平和で豊かな世の中」に一歩でも近づくためには、見て見ぬふりをすることに慣れてはならないだろう。正しいことは正しい、間違いは間違いと、そのつど、はっきり主張し、不正に対してはどのように些細なことであろうと、それをやめさせる努力を平素から心がけなければならないのである。勿論、それには力の裏付けを伴う。不正から目をそらさず、一歩も退くことのない勇気が必要である。正義を伴わない力は単なる暴力に過ぎないが、力を伴わない正義は全く無力である。私が少林寺拳法をもって宗門の主行と定めたのも、勇気の源泉となる自信を育て、正義の裏付けとなる力を身につけさせるのに最適と信じたからである。不正に対し怒ることを忘れ、勇気をもって行動することの出来ない者は、もはや人間の名に値しない。ドイツの文豪ゲーテも次のように言っている。「財貨を失ったのは、いくらか失ったことだ。気をとりなおして、新たなるものを得なければならない。名誉を失ったのは、多くを失ったことだ。名誉を獲得しなければならない。勇気を失ったのは、全てを失ったことだ。生まれなかった方がよかったろう」正義の勇者として、世の不正を見逃さず、敢然と立ち向かい、日本を平和で豊かな住みよい国にするため、力の裏付けをもった本当に行動できる人間を、少林寺拳法の修行によって造り上げようとするのが、私の念願なのである。”(P173〜P174)

本書の後半部は少林寺拳法の技法の解説が図柄入りで掲載されています。併せてご一読ください。



宗道臣
元の名は中野道臣(なかのみちおみ)1911年2月10日〜1980年5月12日。日本の武道家、思想家。1947年、香川県仲多度郡多度津町で日本の武道の一つである、少林寺拳法を創始した人物。
posted by 管理人 at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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