2009年02月27日

変見自在 スーチー女史は善人か 著者/高山 正之

昨日の続き

しかし2000万人でも15年間、休みなしで毎日3700人ずつ殺し、かつ略奪し続けなければならない。 日本軍が本当にそんな血まみれの軍隊なら、市場に新鮮な肉があればわざわざ買うか。奪えばいい。 日本兵が子供を殺したといって憲兵隊が出動して捜査するか。 この記事はクリストフ記者が朝日新聞本社ビルにオフィスを構えていた頃に書かれたものだ。 朝日に感化され、どんな嘘でもいい、日本を悪く書けばいい記事だと本気で思っていたことがよく分かる。 しかし、この記事は日本軍がいかに軍規に厳しかったかを見事なまでに証明してしまった。 中支にはもう一つ、日本軍のありのままの姿を伝える実話がある。 昭和18年6月、第37「光」師団は漢口から黄河のほとり河南省済源県に転進命令を受けた。 この地はかつて殷、周が都を置き、戦国時代には項羽や劉邦かま駆け回ったいわゆる「中原」にあたる。 同師団227部隊第7中隊約200人は黄河のほとり王爺廟付近で中国軍の大隊と遭遇する。中国側は5倍の兵員数だが、日本側は強かった。 たちまち半分をやっつけ、残りの中国軍は降伏した。 捕虜の中に7歳の男の子が紛れていた。 中国軍将校が預かっていた孤児で、名を俊明といった。 中国人将校が捕虜の身では子供の面倒もみられないということで第7中隊が代わって子供を預かることになった。 俊明はすぐに中隊のマスコットになった。 兵たちは俊明似合いそうな服や菓子を買ってきては可愛がった。 中隊が出撃するときは松山という日本名の朝鮮人家庭に預けられたが、その親子に「親なし子の捕虜の支那人」と苛められた。 いかにも朝鮮人らしい振る舞いで。 部隊は南に移動することになったが、引き取り手もなく、結局、子連れで転戦することになった。 戦いが始まると炊事班と後方で待機し、一段落すると、また合流する生活が続く。 その間に日本語の読み書きも教わった。 後に師団名の「光」を姓に日本に帰化した俊明は自伝『七歳の捕虜』の中で、別の部隊と行き会うと「その部隊にも孤児が引き取られていた」と書いている。 部隊は南支からさらにバンコクに移ったところで敗戦の知らせを受ける。 俊明はここで連合軍に戦勝国の中国に戻るか、敗戦国・日本に行くかを選ばされ、親代わりになってくれた日本軍軍医の養子になる道を選んだ。 俊明は熊本済々學高から熊本商大に進み、今は神戸で貿易商を営む。 江沢民は 「日本軍は子供を放り上げて銃剣で刺し殺した」と言い立てる。 彼も日本人の中で育っていればあんな嘘つきにならずにすんだのに。〈2005年12月1日号〉(P147〜P150)

本書はこの他にかつてペルーの大統領だった日系ペルー人アルベルト・フジモリ氏についてや、トロイの遺跡発掘で有名なハインリッヒ・シュリーマンを驚かせた幕末の武士たちの高潔さと、現代の役人との対比とか、かつて漢民族を支配していながら、現在では人口が数十万という極少数民族となり、しかも故郷の満州から西へ遥か3000キロも離れた新疆ウイグルで居住することになっている満州族や、中国軍に解放という名目で故郷を占領されたチベット族の悲劇を例に中国共産党の非漢民族統治についてや、そして本書のタイトルになっているミャンマーのアウンサン・スーチー女史について等々、そして現代の話題を解説するさいに、実に面白い様々な歴史上のエピソードを交えて語ってくれる、実に読みごたえのある一冊です。 〔新潮社〕



高山 正之
1942年生まれ。ジャーナリスト。1965年、東京都立大学卒業後、産經新聞社入社。社会部デスクを経て、テヘラン、ロサンゼルス各支局長。98年より3年間、産經新聞夕刊1面にて時事コラム「異見自在」を担当し、その辛口ぶりが評判となる。2001年から07年3月まで帝京大学教授。「週刊新潮」に連載コラム「変見自在」は熱狂的ファンも多く、名物辛口コラムとして高い人気を集めている。著者に『世界は腹黒い』(高木書房) 『歪曲報道』(PHP研究所) 『日本人が勇気と自信を持つ本』(テーミス) 『変見自在 ジョージ・ブッシュが日本を救った』(新潮社)などがある。
posted by 管理人 at 07:00| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 人文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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