2008年09月11日

カラシニコフ自伝 世界一有名な銃を創った男 著者/エレナ・ジョリー, 山本 知子

昨日の続き

【カラシニコフ】 『銃の規格統一を目指して』 1949年、これまでの私の功績に対する褒章として、スターリン賞を授与された。だが、私はそれを、なんと新聞で知った。自分のことが書かれている記事を読んだときには、気が動転した。 同じ日、デグチャレフ(山口注:ワシーリィ・アレクセイエヴィチ・デグチャレフ〓ロシア人の銃器設計者)とシモノフ(山口注:ロシアの銃器設計者。自動小銃、対戦車銃、半自動カービン銃「SKS45」などを開発した)もそれぞれの新しい銃を理由に叙勲されていた。 人々は私の若さと、何よりも軍における階級の低さに驚いたそうだ。スターリン賞は大きな名誉であるのと同時に、15万ルーブルという高額の賞金がついていた。これはまさに一財産であり、最高のモデルの車を1ダースほど買うことができる額だった。 その年、私は軍隊を除隊した。文民の生活に戻ることができて嬉しかったが、自由に使える時間は増えなかった。新しい銃が量産段階に入れば銃器設計者の仕事は終了するなどと考えるのは間違いだ。製造技術を改善するための仕事には際限がなく、工場で生産された銃の品質にも絶えず目を光らせなければならない。さらに、モデルの改良や新しい試作品についても考えなければならない。進歩を先取りするレースにおいては、つねに競争力を維持する必要があるのだ。 (中略) 発明品に対する特許もなく、銃器の販売から一銭も得ていないとはいえ、私には当時「個人的な給料」と呼ばれていた相当額の報酬が支払われていたため、私たち家族の暮らしぶりはかなり恵まれたものだった。過剰なものなどなかったが、足りないものも何一つなかった。だが、私は依然として「予備役軍曹」という階級のままだった。この階級は、ずっと後に、 「ロシアのしがない軍曹が、ワルシャワ条約機構加盟国すべての軍の装備を担当」 といった内容の記事がアメリカで出された時まで変わらなかった(ちなみに、これは西側が初めて私のことに言及した記念すべき記事である)。ところがこの記事が出た途端に、当局は、あたかも偶然を装って、私の階級を上げるべく動き始めたのである。エリツィンが政治の表舞台に登場した時、私は既に大佐に昇進していた。もっと上の階級も貰えたのだが、閣議の決定により、平時における将官への特別昇任は禁止されていたため、大佐止まりだった。それでもエリツィンは、ソ連邦の解体の後に私を特別扱いし、将軍(少将、後に中将)に任命した。 (中略) AK47の単純な構造や信頼性は、私たちの設計部が考案し、私たちの工場が生産した他のすべてのモデルに共通している。ライバルが私たちを追い抜くことができなかった理由がここにある。工場は今でも、嬉しいことに、私の様々なモデルを基にカービン銃や猟銃などを製造している。 今日、私はもう秘密の存在ではない。世界中の人々と話をし、海外から数十通もの手紙を受け取っている。工場を経営しているのはこの私だと思っている人も多い。我が国のシステムが他の国とは全く異質だということを知らないのだ。私は自分の銃の設計以外、采配を振るうような権利を持っていない。ただ、ロシア武器製造者連盟の会長だけは務めさせてもらっている。(P141〜P145)

明日へ続く

posted by 管理人 at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 人文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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