2008年09月10日

カラシニコフ自伝 世界一有名な銃を創った男 著者/エレナ・ジョリー, 山本 知子

昨日の続き

【エレナ】 専門家によれば、ライバルに対しAKの勝利を決定づけた独創性は、銃身の上に取り付けられたガスシリンダー内のピストンが、尾筒内でボルト(遊底)を回転させる仕組みにある。 (中略) 部品を組み合わせる方法も革新的なものだった。それぞれの部品を密接につけるのではなく、隙間をもたせ、一つひとつの部品を、いわば宙に浮いたような格好で組み立てる。その結果、砂塵や泥や水をかぶる場所でも使えるようになった。AKは兵士を裏切らなかった。いつでも、どんな状況でも、必ず作動したからだ。 1949年、スターリンは、自身の名前を冠し、当時最高の栄誉とされた賞をカラシニコフに与えた。 (中略) それでは、カラシニコフは、20世紀において、より厳密に言うならば20世紀後半に、どんな役割を果たしたのだろう?人々の解放に貢献したのか、それとも抑圧を助長したのか?天秤に載せた時により重いのは、どちらなのか? 1950年代に入ると、解放と抑圧というこの相反する動きは、キューバ革命とハンガリー動乱を天秤の両端にして釣り合いを保っていた。その後ほどなくしてベトナム戦争が始まる。アメリカの威信を著しく傷つけたこの戦争では、M16よりも性能に勝るカラシニコフのAKが、ベトコンの勝利に決定的な役割を果たした。 1968年まで、「革命」「反植民地主義」「反帝国主義」の理想が、第三世界の人々や西洋の若者たちの心を熱くした。世界各地でデモが行われ、参加者たちがチェ・ゲバラやホーチミンの写真をふりかざしていた時代だ。写真の中の英雄の手には必ずAKが握られていた。AKは解放闘争の象徴だったのだ。当時、アラファト議長はこう宣言している。 「カラシニコフ銃はどこであっても、我々闘士の誇りだ!」 インドシナ半島、エジプト、キューバ、パレスチナに続き、第三世界の多くの地域が戦場と化した。だが、その頃にはもはやソ連はAKやその模造品の流通に中心的な役割を果たすことはなく、中国がその後を引き継いだ。 旧チェコスロバキアにソ連軍が軍事介入した1968年8月の「プラハの春」から、AKの栄光に影が射し始める。 1970年代、80年代は国際的なテロの脅威が吹き荒れた時代だ。 「鉛の時代」と呼ばれたこの時期を通じ、派手な血なま臭いテロ事件が相次ぎ、世界中を震撼させた。そして、パレスチナやドイツ、日本、イタリアのテロリストたちの手には、既に馴染みとなったAKの姿があった。生みの親であるカラシニコフは、この事態を深く嘆いている。 「私は祖国を守るための銃を創った人物として人々の記憶に残りたい。テロリストのための銃ではなくて……」 だか、不幸なことに、彼の悪夢はまだ始まったばかりだった。イラン・イラク戦争、そしてレバノン、アンゴラ、エチオピア、カンボジアの内戦……。世界中ほぼいたるところで野蛮な戦争が勃発し、どの陣営の兵士たちもカラシニコフで武装して正面から敵対した。結局、AKとその派生品は、55に及ぶ正規軍と、多種多様なイデオロギーを標榜する、さらにはイデオロギーなどとはまるで無縁の様々な不特定多数の武装グループの武器となったのである。 さらに最悪の事態が待ち受けていた。アフガニスタン戦争で、AKがソビエトの兵士たちに向けられたのだ。その後の紛争によってソ連邦が、次いでロシアそのものも解体し始める。AKはつねにその傍らにあった……。チェチェンの悲劇は、この悪夢がまだ終わっていないことを連日私たちに伝えてくれる。 久しく前から、AKはその設計者の意思どころか、ロシアの指導者たちの支配すら及ばない存在となっている。カラシニ
コフは言う。 「AKは私の意思とは全く無関係に独り歩きしている」。 発明品がその発明者を越えてしまったのだ。(P16〜P21)

明日へ続く

posted by 管理人 at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 人文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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